おしがまラスト なんとか体育館裏で教師としての矜持と引き換えに尊厳を保った眞鍋は、ヨロヨロと体育の授業を終えた。
(……なんとか、乗り切った……もう、二度と味わいたくない……)
膀胱は空っぽ、心はズタボロ。それでも、難は去ってはくれない。
「はい。先生のぶん!」
「あっ、ああ、ありがとな」
ありがたい(今日に限っては迷惑)な事に、この学校ではスポーツドリンクが支給されている。
生徒たちがおいしそうにスポーツドリンクを飲む中、眞鍋の手元にも冷えたスポーツドリンクが配られる。
逃げ場はない。教師として、ここで「水分はいりません」などと言えば、むしろ怪しまれる。
(飲みたくない……でも、教師として子どもに見せるわけには……! )
仕方なく口をつける。冷たい液体が喉を通るたびに、さっきまでの地獄の記憶がよみがえる。
「せーんせ」
振り返れば、そこには運動着姿の晨くん先生。汗一つかかずに、悪魔の笑みを浮かべていた。
「さっきの分、もうだいぶ補給できたね? ふふっ、どうなっちゃうかな? 先生の膀胱」
「黙れッ……ッ!!」
ドリンクのペットボトルを強く握りしめながら、眞鍋はわずかに震えた。
──が、地獄はそれだけでは終わらない。
午前の授業が終わり、ついに迎えた給食の時間。
「はい、眞鍋先生のぶんの牛乳!」
「今日はなんだか、一段と冷えているなぁ……ハハっ……」
コロン、と配膳された瓶入りの牛乳。無慈悲にもキンキンに冷えてやがる。
晨はというと、向かいの席でコッソリとウインク。
「眞鍋せんせ、給食は全部残さず食べましょうが校則だよね?」
「ああ、そうだな……」
その通りだった。生徒の前で「牛乳はちょっと……」なんて言おうものなら、職務放棄の烙印を押されかねない。
(くそっ……飲んだら絶対また……! )
嫌な予感しかしない中、しぶしぶ牛乳を飲み干す。
白く冷たい液体が、静かに、でも確実に補給されていく。
晨はまるで答え合わせでもするかのように、指を折って数える。
「スポーツドリンクが五〇〇ml。牛乳で二〇〇ml……合計七〇〇ml! せんせの膀胱って、たしか……どのくらい入るんだっけ?」
「お前はもう黙っててくれ!」
「やだよ。じゃあ、午後の授業も元気いっぱいがんばってね!」
教室の隅で、地上最悪の笑顔を浮かべる悪魔――晨。
そして、わずか一時間前にすべてを放出したはずの眞鍋の膀胱には、すでに再び静かな圧が生まれつつあった……。
(……午後の授業、二時間……っ)
午後の家庭科の授業。
今日は待ちに待った『お茶を淹れて飲んでみよう!』の日だった。
「へぇ~、このお茶。みんなが摘んだお茶なんだね。お茶摘みは楽しかったかな?」
校外学習の茶摘み体験の思い出を笑顔で説明する生徒達と、興味深そうに話を聞く晨の隣で、眞鍋の笑顔はひきつっていた。
(なんでよりにもよってこんなタイミングで)
午前中、命からがら耐え抜いたあの地獄。すっかり空になったはずの膀胱は、水分補給と牛乳によって早くも再充填されつつある。
なのに、今度はさらに──
「先生! お茶が入りました!」
「私たちのも飲んでー!」
生徒たちが無邪気に淹れたてのお茶を続々と差し出してくる。
緑色の美しい液体が、無情にも湯呑みにたっぷりと満たされていた。
(くっ……なんという無慈悲……! )
「あれれ~? 眞鍋せんせ、飲まないの?」
晨が悪魔的な笑みを浮かべ、耳元で囁く。
「せっかくみんなが摘んでくれて、心を込めて淹れてくれた大切なお茶なのに……飲まないと、生徒が悲しんじゃうよ?」
「ぐっ……!」
その言葉は卑怯だった。眞鍋には『教師として』という絶対的な縛りがある。
「ああ、いや。いい香りだなぁ……って思ってただけだ」
震える手で湯呑みを受け取る眞鍋。
一口ずつ、恐る恐る口に含むと――。
「眞鍋先生! 私たちのお茶も飲んで!」
「うちのグループのも~!」
眞鍋の目の前に、次々と新たな湯呑みが並べられる。
(量が……量が多すぎる……! )
そう思っている間にも、次々と口の中へ流れ込んでいく熱いお茶。
身体はすぐに水分を吸収し、そして排泄すべく臓器がフル稼働する。
「眞鍋先生、人気者だね~」
晨が隣で楽しそうに微笑む。
「でもせんせ、ちょっと顔色悪くない? お茶、もうやめとく?」
「いやぁ、ハハハッ、まだ大丈夫だぞ」
震える声で答える眞鍋に、晨は楽しそうに囁いた。
「そうだよねぇ。先生はみんなに優しいから、ぜったい飲んじゃうよねぇ……ふふふ……」
そしてまた一口。もう一口……。
湯呑みは増え続け、眞鍋はもう数えるのをやめていた。
午後の地獄はまだ序章に過ぎない……!
(落ち着け……まだ手はある。落ち着け……! )
湯呑みを手にしたまま震える手で、必死に自身に言い聞かせる。
(確か……炭水化物を取れば、尿意を少し抑えられるって聞いたことがある……! )
わずかな希望を抱きつつ、生徒たちが用意した『お茶のお供』に目を向けた。そこにはカステラ、大福、そしてお煎餅が、まるで眞鍋を救うための救世主のように並んでいる。
「眞鍋先生、お菓子も食べてー!」
生徒の無邪気な声が響く。
あ、ああ……もちろんだ! ありがとう!」
眞鍋は震える指で大福を掴み、口に放り込んだ。
(頼む……炭水化物よ……俺を救ってくれ……! )
必死に大福を噛み締める。もちもちした食感と甘さが口内に広がるが、尿意に効果があるのかどうかは正直疑わしい。
「眞鍋先生、大福好きなんだ~?」
晨が楽しげに眞鍋の隣に寄り添い、じっと見つめてくる。
「それ、食べると尿意が落ち着くって、ネットで見たの?」
「……なぜ知ってる……ッ!」
「ふふ、ボクも人間界の知識はバッチリ勉強してるからね。でもさ、先生――」
晨がにこっと微笑む。
「大福くらいで抑えられるほど、先生の膀胱、甘くないと思うよ?」
「……お前……っ!」
挑発する晨を無視して、今度はカステラに手を伸ばす。
口いっぱいに頬張り、モグモグと必死に噛む姿は、まるで冬眠前のリスのようだ。
(落ち着け……炭水化物を信じろ……っ! )
「眞鍋先生、いっぱい食べるね~。……もしかして、トイレ我慢しすぎて、やけ食い?」
「うるさいっ!!」
だが――炭水化物を摂れば摂るほど、喉が乾くという新たな問題も発生していた。
「先生、おかわりのお茶どうぞー!」
「ありがとう」
生徒から差し出されたお茶を条件反射で口に含んだ瞬間、眞鍋はハッとした。
(……これじゃあ喉が渇いて余計に水分が欲しくなるんじゃないか!? )
晨が無邪気に、しかし容赦なく囁く。
「午後の授業、まだまだあるけど大丈夫かなぁ?」
眞鍋はうっすらと涙目になりつつあった。
炭水化物の救世主説は、この場においてはなんの役にも立たなそうだ。
放課後まであと一限。
眞鍋は今、理科室で恐怖の授業を迎えていた。
『人のからだのつくりとはたらき』というテーマで、今日はよりにもよって『消化器官と排泄』について学ぶ日だった。
「……で、このようにして人間の体は水分を吸収し、余った水分を尿として排出するわけだな」
冷や汗混じりに解説を終えた眞鍋。膀胱は、炭水化物の効果が切れ、再び限界が近づいていた。
すると、悪魔のようなタイミングで晨くん先生の手が挙がった。
「はい、晨くん先生。何かな?」
「眞鍋せんせー! 膀胱って、どれくらいおしっこが溜まるの?」
(この悪魔……完全に僕を追い込む気だ……! )
生徒たちは無邪気に晨を見ている。眞鍋は震えを隠し、黒板を指差した。
「えーと……だいたい五〇〇mlが限界らしいな……」
晨の瞳がキラリと光る。
「へぇ~、五〇〇ml! じゃあ、これくらいだね?」
晨はおもむろに、実験用の透明な五〇〇mlのメスシリンダーを持ち上げ、生徒たちに見せつける。
「ペットボトル一本分と同じだね」
(……意識させるなぁぁぁぁ!! )
眞鍋は内心で絶叫した。視覚的に限界容量を見せつけられ、膀胱はまるでその刺激に反応するように悲鳴をあげ始める。
「眞鍋せんせ~! ちなみに人が尿意を感じ始めるのって、何mlからなの?」
(くそ……! わざとだろ……っ! )
「そ、それは……だいたい一五〇mlから……だな……」
晨はさらに小さいシリンダーを持ち上げて、わざとらしく見比べた。
「じゃあ、一五〇mlから五〇〇mlまでの間で、せんせはいまどの辺かなぁ?」
「……先生は、きちんとおしっこしたから大丈夫だぞ~……」
眞鍋は無意識に腿をぎゅっと締め、表情が完全に引きつった。
それを見た晨が嬉しそうに微笑む。
「ふふっ、先生、お顔赤いけど大丈夫?」
(後で覚えてろよ、この悪魔めっ!! )
その瞬間、チャイムが鳴った。やっと放課後。眞鍋は授業終了の安堵と、限界寸前の膀胱を抱えて、理科室から逃げるように職員室へ向かった。
だが晨はその背中に、はっきりと告げる。
「眞鍋さん。今日もよく頑張ったね。でも――ボクが魔法を解かない限り、眞鍋さんは毎日こんな感じだよ?」
眞鍋は絶望と共に、理科室の扉を閉めた。
後ろから晨の楽しげな声が追いかけてくる。
「眞鍋さん。そろそろ観念してボクとツガイになってくれてもいいと思うんだけどなぁ。その気になったらいつでも言ってね?」
放課後。それは安息の時間ではなかった。
掃除の時間が訪れ、教室の床拭きを担当することになった眞鍋は、限界を超えた尿意を抱えながらも、生徒の前で平静を装っていた。
「先生ー! 雑巾、ここに置いておくねー!」
生徒たちが次々とバケツに雑巾を浸し始める。
ビチャビチャッ!
その音が耳に届いた瞬間、眞鍋の背筋がビクッと震えた。
まるで漏らしてしまったかのような水音に眞鍋の背筋に冷たい汗が伝う。
(……やめろ……その音を出すな……! )
しかし、生徒たちは無邪気だ。
むしろ楽しく雑巾を絞り、キャッキャと水遊びをする子すらいる。
「先生ー! こんなに水出るよー! ビチャビチャー!」
「こらっ! はしゃぐな!」
強く叱りたいのに、尿意が邪魔をして威厳がまるで出ない。
(くっ……完全に漏らしたときの音だろ、それはぁ……! )
限界ギリギリの膀胱に、容赦なく水音が襲いかかる。
「眞鍋せーんせ」
背後から、晨の甘い声がする。
「ねぇ、雑巾絞るの手伝ってあげようか?」
「……結構だ……!」
「そう? でも、先生のズボン、なんかもう濡れてない?」
晨の視線が悪戯っぽく眞鍋の下半身を見つめる。
もちろん濡れてはいないが、そう言われると途端に不安になる。
「ほら、ギューッてして、ビチャビチャって雑巾絞ってる音、これ、おしっこの音に似てるよね?」
「黙れ、悪魔ぁぁぁぁ……!」
晨は雑巾をわざと眞鍋の耳元で、これでもかと絞り上げる。
「ギュウウウウッ……ビチャビチャビチャ……ふふ……おもらししちゃったみたいだね♡」
眞鍋は思わず膝を曲げ、歯を食いしばった。
(まずい……これはまずい……!! )
そこに、生徒がさらに無邪気な追い討ちをかける。
「眞鍋先生~! 雑巾が固くて絞れなの。先生が絞って~!」
(勘弁してくれぇぇぇ……ッ!! )
「ハハハ……突き指してるんだから、無茶するなよ~」
眞鍋は震える手で雑巾を受け取り、必死で絞りはじめた。
いうまでもなく、雑巾絞りは下腹部に負担がかかる。
「眞鍋先生、ボクのも絞って~!」
「晨くん先生は自分でしなさい」
「意地悪~!」
晨は意地悪された仕返しだと言わんばかりにわざとらしく水音を立てて雑巾を絞った。
ビチャビチャビチャァァァ……!
(やめろぉぉぉぉ……ッ!! )
眞鍋は泣きそうになりながらも、必死で耐え続けた。
「せんせーさよーならー!」
「みんな。気をつけて帰るんだぞ」
教室の窓から見送る生徒たちの背中が、夕焼けに照らされて遠ざかっていく。
眞鍋は黒板の前で、全身の力を抜いて肩を落とした。
(終わった……地獄の一日が……終わった……)
だが、すぐには帰れない。
教師にとって放課後とは、雑務と残務処理の時間の始まりでしかなかった。
プリントの印刷、提出物の確認、明日の授業の準備……。山積みの仕事が待っている。
──そして。
「眞鍋せんせ~、今日も残業になっちゃうね」
まるで当然のように背後から現れた晨くん先生が、にこっと微笑む。
「でも安心して。ボクも一緒に残って、お手伝いするよ」
「……もう、嫌な予感しかしない……」
「その前に、おしっこ問題を解決しないとね」
晨は突然、ぴたりと眞鍋の正面に立った。そして、人差し指を立てて、選択を迫った。
「尿瓶にする? おもらしする? それとも、ツ・ガ・イ♡」
教室に静寂が訪れる。
晨がにこにこと眞鍋を見つめ、ゆっくりと選択を迫る。
「ねえ、眞鍋さん。どれを選ぶ?」
眞鍋は下唇を噛み締め、必死に頭を回転させていた。
(いま魔法を解いてもらわなければ……教師生命が終わる……)
(だが、本当にツガイになんかなったら……それこそ人生が終わる……! )
迷い、悩み、そして――ついに決意した。
(よし。『フリ』だけだ。あとで上手く逃げればいい……)
眞鍋は意を決し、晨の目を見て静かに言った。
「……わかった。お前のツガイになる」
「ほんとに!?」
晨の目がパッと輝き、羽が興奮してパタパタ動いた。
「あ、ああ。ほんとにだ。ただし、魔法を解除してからだぞ?」
晨は満面の笑みで大きく頷く。
「もちろんだよ! 約束する!」
晨が指を鳴らすと、眞鍋の下腹部に宿っていた圧迫感が嘘のように消えた。
「……!? なんだ急に……!?」
「サービスで眞鍋さんのおしっこをトイレにワープさせておいたよ」
「そ、そうか。便利な魔法だな……」
何はともかく、やっと解放された。
思わず脱力して椅子に座り込む眞鍋。
だが、喜びも束の間。
晨はふふっと微笑みながら眞鍋に近づき、甘い声で囁いた。
「じゃあ、ツガイになった記念に、契約のキスしよっか?」
「はっ……!?」
「ツガイって、契約のキスを交わすんだよ? 眞鍋さん。忘れてた? ボクの言い忘れだっけ?」
眞鍋は真っ赤になって立ち上がった。
「そ、そんなこと、聞いてないぞ!!」
晨はいたずらっぽく微笑み、眞鍋を壁際に追い詰める。
「そうだっけ? まあいいや。それより、眞鍋さん。もしかして……『フリ』だけで逃げるつもりだったりするのかなぁ?」
(やはり、バレていたか……)
「でも、魔法はもう解いちゃったし。眞鍋さんがボクから逃げてもいいけど、そしたらボク、地の果てまで探し出して、次はもっと恥ずかしい魔法かけちゃうよ?」
晨の瞳は楽しげに輝き、眞鍋は完全に追い詰められた。
「どうする? ツガイになるフリだけのつもりだったとしても……一回くらい、契約のキス、してみない?」
「お前……っ、この……悪魔め……!」
「うん、だから悪魔だよ? だから、あまりボクを怒らせない方がいいよ」
晨はにこっと笑い、眞鍋の顎を軽く持ち上げる。
「じゃ、いただきます」
「ま、待て――!」
職員室の時計が静かに時を刻む中、眞鍋の叫びは晨の柔らかな唇に塞がれて消えた。