猫と怪物 1の表 最近顕現した笹貫という刀が、どうも気になる。光を吸い込むような寂しげな瞳のせいだろうか、それとも初対面で捨てられることに言及していたからだろうか。
気になると思っていると、よく目につく。青い上着が鮮やかだからかもしれない。
彼を心配してしまうのは、彼には同じ刀派であったり、同じ持ち主であったなどの縁故のものがいないというのもある。新参刀は普段、縁故のものに委ね、慣れるまで話しかけることはない。けれども彼はそういうわけにはいかなかった。この本丸のごく初期の頃は、縁故など関係なくいるものが来たものをもてなしたが、今は大概がグループ行動をしている上に、彼は薩摩刀である。彼自身に遺恨がなくとも、相手の方が快く思わない可能性も十分に考えられた。歴史を調べ直し、蜂須賀虎徹と頭を捻った結果、山姥切国広に案内と最初の世話を頼んだ。それも心配の元だった。彼ならば歴史的に見ても問題がなさそうだったし、本人にも大丈夫だと言われた。しかし頼んでおいてこんなことを言うのははばかられるが、山姥切国広は弁の立つ方ではない。ちゃんと世話ができているのか、されるほうもうまくやっていけそうか、普段に似合わずはらはらと遠目に様子を伺ってしまう。
自分には珍しく、なにくれと声をかけもした。調子はどうか、元気か、慣れたか、わからないことはないか。そのせいか、彼は寄ってくるようになった。彼は毛艶のいい猫のようだった。ふと近寄ってきて、二言三言交わすとまたどこかへ行ってしまう。時々、尻尾をこすりつけるように、こちらの腕や肩に触れる。日頃男士たちが距離を詰めそうになるときは一歩下がるようにしているのだが、彼は動きがとても静かで素早く、気がつくと触れられて、そう思ったときには離れている。
私が庭で本物の猫を抱いているときは、ことさら静かに近寄ってきて、少し離れたところからこちらを眺めている。そういうときは話はしない。ただ眺めて、やがて満足するのかまた静かに去っていく。
私は彼のその、猫のような気質をかわいらしいと感じていた。
本丸に慣れてもらうための期間も終わり、出陣に遠征にと駆り出される。上がってくる報告を読む限りでは、問題なくやれているようだ。戦闘になると若干かかり気味とのことだったが、それを念頭に入れて部隊を作り、抑えられる、あるいはそれを踏まえて指揮できる隊長をつけよう。
そうなると彼との接触はだいぶ減った。
危険の少ない場所に、高練度の男士をつけて行かせているのだから、手入れもない。彼が示現流を使うとしたら圧勝か重傷かだろうと身構えていたのだが、心配はなさそうだった。
「お気に入りがいなくて、寂しいですか?」
近侍の蜂須賀虎徹がからかうように言う。蜂須賀は初期刀だけあって、私との距離の取り方がうまい。この本丸で私をからかうのなど、この刀とあと数本くらいしかいない。
「お気に入り…というのかはわかりませんが、気になる子ですよね」
「あなたが気になるというだけで、珍しいことです。もう少し練度が上がったらあなたのそばにつく仕事を任せましょうか」
気が早いのでは、と思ったが、この刀はときに私より私のことを知っていたりする。
「蜂須賀が向いている、と思うなら聞いてみてください。無理強いはしないでくださいね」
私の返事に、蜂須賀は一礼で答えた。
あの子が自分のそばにいるようになったら嬉しいだろうな、という気持ちが湧いたが、あくまで心配だからだと自分を抑えた。
冬が深まる頃、笹貫は近侍になった。側仕えになると出陣回数が減ることが多いため、渋るのではないかと思っていたのだが、蜂須賀が言うには快諾だったらしい。話が上がってすぐに本人に可能性について話し、本人もそのつもりで急いで練度を上げてくれたそうだ。
側仕えをするものは、蜂須賀の直属の部下になるに等しい。蜂須賀こそが初期刀にして最初の近侍であり、この本丸の体制を作ったからだ。
朝餉の後、蜂須賀とやってきた笹貫に「よろしくお願いします」と頭を下げると、彼もよろしくお願いします、と返してくれた。蜂須賀は先に執務室におります、と言ってその場を下がった。これから笹貫が無事近侍に慣れることができれば、少しの間蜂須賀の仕事が減る。それがわかっているので、微笑んで彼を見送った。
「主は、今日はなにするの?」
出陣や遠征の予定はすでに上げており、蜂須賀が皆には知らせてくれたはずだ。出陣は今日は新しいところではないので、執務員が見てくれるだろう。演練は今日は予定していない。
「今日は、午前中は執務室に、猫にご飯をあげてから昼餉、午後は内番の様子を見に行って鍛刀、刀装を作ってから、執務室に戻ります。手入れが必要な事態が発生した場合、何をしていても手入れに行きます。他にあなたが行きたいところがあるなら、そこにも行きましょう」
「猫のご飯が先なの?」
「私は空腹は気にならない質ですが、猫はそうはいかないでしょう。笹貫がお腹が空いていたら、先に食べていてかまいません」
「主は、もっと食べてもいいんじゃない?」
「必要な分は食べていますよ」
それで会話が途切れ、蜂須賀の後を追って執務室に向かう。
この本丸ができたばかりの頃、執務室には私と蜂須賀だけだった。出陣もさせなくてはいけないのに、社会人経験のない私と二人、ここで必死に書類を片付けていた。男士たちが増えるにつれ、蜂須賀は私の能力を上げることより、仕事を分散させる方に力を注ぎ始めた。それがそもそも側仕えの始まりだ。私は仕事をし続けることは苦にならないよ、と伝えたけれど、現世には過労死という病があるそうですので、と意にも介してもらえなかった。私は書類の作成よりも、確認が仕事になった。
執務員は交代できるように多めに育成されている。近侍も執務員も、夜の護衛も、向いてないと感じたらやめてもらっている。蜂須賀が築いたこのシステムで、この本丸は回っている。
机に備えつけられた端末で書類に目を通す私を、笹貫は後ろに立って眺めていた。
「笹貫、私の画面には見せてはいけない書類が映ることがあるので、他の書類を見たり、みんなに質問したりしてきてください。ここにいる間は、ここから動かないからだいじょうぶですよ」
そう伝えると、笹貫はふらふらとあたりを回遊し始めた。書類を手にとって見たり、他の男士の画面を見たり。ちゃんと断ってやっているし、自分から質問をしたりしていて、コミュニケーション能力には問題なさそうだ。執務の方も、書類を読むのに抵抗があるなどの拒否反応は出なかった。1日目の滑り出しとしては、まずまずだろう。
蜂須賀のお時間です、という言葉に席を立つ。今日は笹貫を見ていて気もそぞろだったが、普段は集中すると周りが見えない方なので、蜂須賀の時報は重宝している。
笹貫に、「猫ですよ」と声をかけると、すぐにそばまで戻ってきた。やはり笹貫も猫好きなようだ。
厨に行って、猫のご飯をもらう。猫は2匹なので1個は笹貫に持たせる。
いつもの縁側に行くと、猫は遠巻きに待っていた。笹貫を促して、二人で縁の下に皿を置く。
置いたあと、笹貫は静かに少しずつ下がって、いつも眺めていた位置で止まった。
私も数歩下がって、いつも猫を抱く石の上に腰かけると、猫はじりじりと出てきて、やがてこちらが動かないと悟ったのか、走って食事に向かっていった。
猫は二匹とも白黒猫で、大きい方はハチワレがきれい、小さい方は不思議だがなんとも目を引く模様をしている。着任当初、白い着物で二匹を抱くと黒い毛が、黒い着物で抱くと白い毛がついたのが目立つので、自分の着物は全部灰色に統一した。蜂須賀は洒落者なので呆れていたが、私は心置きなく猫を抱けるようになって満足だった。
この石の上に座ると、近くにいるときはご飯でなくても寄ってくる。そういう習慣が私と猫たちの間にはできていた。
猫が食事を終えて足元に群がってくる。ニ匹の背をまんべんなく撫でたあと、登ろうとしてきた方を膝に乗せる。今日はハチワレだ。やわらかな冬毛に指が埋まる。思うさま撫でながら、横目でもう一匹を見やる。私の足下から、笹貫をじっと見ているようだ。朝は私が寝坊することが多いので、厨の誰かがやってくれているようだが、昼と夜は私がご飯を持ってくる。いやでも笹貫もそれにつきあうことになるので、近侍の間に猫からも認知されると、もう少しそばに来られるようになるだろうか。
「あの猫、名前はなんて言うの?」
食堂で向かい合って昼餉を食べながら、笹貫がそう聞いた。
「名前はつけていません。猫は猫です。ふたりとも賢いですから、おいで、というとちゃんと来ますよ」
「首についてるのはなに?」
「あれはお守りをたたんだものです。笹貫も持たされているでしょう?猫にも効力があるかはわかりませんが、いざというときに一度だけでも助命できたらと思ったものですから…」
「本丸の中には入れないの?」
「中はほとんどが畳に障子襖の建物ですから、荒らして叱られるのは猫も本意ではないでしょう」
うどんが伸びてしまいますよ、と指摘すると、食べるほうに意識が向いたので、私もまた食べ始める。
午後は笹貫に言ったとおり、内番の様子を見に行く。厨で笹貫に、鍵のかかった棚から菓子を持たせる。執務が忙しいときは省略してしまうのだが、今日は行ってもだいじょうぶそうだった。
厩から回ってみると、今日の当番は厚藤四郎と薬研藤四郎のようだった。厩の中に入ると、薬研藤四郎が馬に顔を舐められている。
「主!今日はおやつあり?」
ぱっと馬房に藁を入れていた厚藤四郎がこちらを見て、快活に聞いてきた。
「ありますよ。寒くなったので、チョコレートにしました」
笹貫から渡してもらおうと振り返ると、笹貫は入口に佇んでいて、入ってきていなかった。
「どうしましたか?馬は苦手でしたか?」
「オレが苦手なんじゃなくて…オレが近寄ると馬が逃げちゃうんだ。追いかけ回したりしないって言ってるのに…」
確かに笹貫は馬当番を免除されていたが、そんな理由だとは思わなかった。
この本丸では、誰でも二つまで仕事を免除される決まりがある。三つ以上は余程の事情がない限り許していない。
では、と中の二人に手招きして、笹貫のいるところに寄った。
「お菓子を、手が汚れているのでポケットに入れてあげてください。もし触れるのが嫌だったら、入口に置きましょう。薬研は手拭きもいりますか?」
「いや、いい。こいつは臭い上にべたべたするんだ。どうせこの後また舐められるんだし、後で全部洗うよ」
薬研藤四郎とそんなやり取りをしている間に、笹貫は厚藤四郎のポケットにチョコレートをぎゅうぎゅうに詰めていた。薬研藤四郎が腰を突き出すと、そちらにも詰め込む。
「おっ、大将、今日は豪気だな」
「笹貫の近侍1日目なので、賄賂ですよ」
笑い合ってから、変わりはないか、困っていることはないか聞いて、その場を離れた。
畑に行くと骨喰藤四郎と鯰尾藤四郎、そして非番の桑名江がいて、同じように菓子を渡し、いくつか質問をして問題がないことを確認し、別れる。
鍛錬場へ向かう途中で笹貫が口を開いた。
「薬研は馬当番免除しないの?」
「薬研が舐められている間にいろんなことがスムーズに片づく、という意見があったことと、薬研自身が馬が嫌いなわけではない、ということが馬当番を継続している理由だそうです」
「主は馬好き?」
「好きですが、大きすぎて私から近寄ることはありません」
「なんで主がお菓子渡さないの?」
「ふふ、私はそれは向いていないので」
「猫は好き?」
「猫は好きです」
「オレが内番のとき主来なかったし、お菓子ももらってない」
「これは毎日ではないんです。他の事で時間が潰れてしまうことも多いので。今日は笹貫のお披露目の意味合いが強いです」
答えられる質問の中に、答えたくない質問が混ざっている。意図的なものだろうか。そもそも近侍には、あまり話しかけられないようにしてきたつもりなのだけれども、笹貫はそれを気にした様子もない。審神者生活も長くなり、上司面も板についたものだと自負していたのに、自信が揺らぐ。
「お菓子は残った分は笹貫のものにしていいですよ」
笹貫が一歩近寄ったので、一歩離れる。
「オレのこと、警戒してる?」
「していません。対人距離が人より広いんです」
「対人距離…」
「あなた方も不必要に近づかれると、驚いたり警戒したりするでしょう?私の場合、それが人より広いんです」
「やだってこと?」
「はい。山姥切国広から、そういうことは聞いていませんか?」
「近づきすぎるなとは言われたかな」
「なら、そういうことです」
「猫は膝に乗せるのに」
「猫は人ではありません」
着きましたよ、と言うと笹貫は口を噤んだ。
確かに私の対人距離感覚は新しく来たものを戸惑わせるようだが、皆、本丸に慣れるための1ヶ月の間に身内のものから聞かされ、なんとなく了解していく。笹貫はそれがなかったままに近侍になったのだから、私が説明するしかない。
残りはあげるよ、と言ったのだから、配る分は節約するかと思ったが、結局鍛錬場にいた当番以外の男士にも渡して、袋は空になってしまった。鍛刀に向かう途中で、寄り道して厨へ入る。私専用の鍵つきの棚から、先ほどと同じチョコレートとクッキー、煎餅を取り出して、笹貫に見せた。
「チョコレートは嫌いでしたか?この二つだったらどちらが好きですか?」
「多分、どれも好き」
「なら、どうして全部あげてしまったんですか?」
「主が賄賂って言ったから、ケチらないほうがいいと思って」
「冗談のつもりでしたが、確かに今日会った方たちには笹貫は気前がいいと、印象づけられましたね」
その考え方は嫌いではない。笹貫にほど近い調理台にチョコレートをいくつかと、おまけに煎餅をひとつ置いて、他のものは元の棚に戻す。
「触らないのは、オレが付喪神だから、じゃない?」
「はい。人の形をしたものには極力触りません」
「猫はあんなに…」
「猫は人ではありません」
菓子をしまうように促して、鍛刀へ向かう。
「手入れするってことは、本体には触れる?」
後をついてきた笹貫がまた聞く。
「人の形ではないですからね」
「なにがちがうの?」
「自分でも詳しくは知りません。ですが、刀は静かで冷たいですよね」
「人間が嫌いなの?」
「興味を持ちたくありません」
「この会話も嫌い」
「自分のことを話すのは好きではありません。ですが、あなたは知らないので仕方ないでしょう」
軽いため息とともに、鍛刀部屋の襖を開ける。日課をこなして部屋を出ると、笹貫は少し疲れた風だった。
「私は、少し外に出てきますので、休憩していていいですよ。そうですね、三十分ほどでどうでしょう?」
「え、オレが護衛なんじゃないの?」
「庭の少し奥に行くだけですから、だいじょうぶですよ。笹貫も、疲れたでしょう?」
「そりゃ、なにが出るかはオレにかかってるみたいに言われて、緊張はしたけど、置いてかないでよ。蜂須賀だったら置いてかないでしょ?」
「蜂須賀は慣れていますから。じゃあいっしょに行って、行った先で休憩しましょう」
「待って、主の上着取りにいこ?昼も思ったけど、主はその格好じゃ寒いでしょ」
「ありがとうございます。気が利きますね」
おそらく今取りに行くと、蜂須賀の中で昼来なかったことで三点減点、今取りに来たことで一点加点というところだろうか。初日に気づいたのでもう少し加点してくれるかもしれない。私が頼りないので、蜂須賀は過保護なのだ。
執務室に入ると、蜂須賀がちろりとこちらに目線をくれたが、笹貫と一緒だし本は読まないと踏んだのだろう、小言は言われなかった。
落ち葉が積もった小道をさくさくと歩く。笹貫も黙ってついてくる。体が揺れて、時折距離が近くなったが、静かなせいだろうか、あまり気にならなかった。しばらく歩くと、木立の中に小さな四阿がある。
「あまり近づくと匂うかもしれません。私はこの屋根の下から動かないので、好きにしていていいですよ」
「主の匂いは煙草の匂いだったんだ」
笹貫がふんふん、と鼻を鳴らす。そのまま私に少し、近づいて匂いを嗅いだが、すぐに離れていったので咎めなかった。
「オレも吸ってみたい」
「いいですよ」
腰掛けの下を開けると収納になっていて、そこから防水の袋をひとつ、取り出した。その中に、煙草とライターが入っている。紙巻きなので、簡単に分け与えることができる。
笹貫に一本渡して、火を点けようとしたが、どうしていいかわからないようだったので、私が先に一本咥えて火を点ける。吸い込んで、煙を肺から吐き出す。それを見て合点がいったようで、笹貫も口に咥えたので、改めて火を点けた。
軽く咳き込んだものの、上手に吸えたようだった。
「好きじゃなかったら、無理せず捨てなさい」
二口目を吐き出して、笹貫に言う。笹貫はゆっくり煙を出して遊んだ後、こちらを向いた。
「オレこれ嫌いじゃない。みんなに教えてるの?」
「近侍をした子で、吸いたがった子だけです。教えると蜂須賀には怒られますよ。本丸でも吹聴しないでください」
「主といっしょの時しか吸えないの?」
「ここに煙草を置いている子が何人かいるようですが、自室で吸っている方もいるみたいですよ。まあ、たくさん吸う方にはここでは遠いけれども、自室だと匂いがキツいと苦情が入ったりもするようです」
「さっきオレのこと置いていこうとしたみたいに、一人でここに来るの?」
「一人で来られるときはそうですね、でも昼間だけです。夜は本丸から出ないように言われていますので」
煙草が短くなって、指がかすかに熱い。
「夜はあやかしが出るって、知ってるの?」
「はい。そもそもあやかし付きで安かったからここを買ったんです」
笹貫の呆れた顔を見ながら、煙を吐く。名残惜しい気持ちで、ほとんどフィルターだけになった煙草を中央の灰皿でもみ消した。
「一本だけ?」
「たくさん吸うと、怒られるんです。匂いでバレてしまうんですよね」
笹貫も満足したのか吸い殻を捨てたので、同じ匂いをまとって帰途についた。暗くなり始めた木立の中を、落ち葉を踏む二人分の足音だけが響く。
執務室で再び書類を確認している間、笹貫は蜂須賀虎徹に今日あったことを報告していた。私も新しい近侍について、報告書を出さないといけない。質問攻めにあったことや、距離を取ることについて知らなかったことについては、書こうか悩んだが、誰にも聞けないでいただけなのだろうそのせいで、彼が叱られるのは忍びなかったので、結局良かった部分だけを書いた。
蜂須賀が時間を知らせてくれて、席を立つ。この時間で、余程のことがなければ執務室は終業となるため、他のものも席を立った。
「笹貫は、この後の説明は聞きましたか?」
「うん」
「お腹が空いたら、先にご飯を食べに行ってもいいですよ」
蜂須賀が私を睨んだ。
「お腹は、だいじょうぶ。主とご飯食べられる?」
「そうですね、待ってくれるのでしたら、今日はいっしょに食べましょうか」
蜂須賀の視線が痛い。甘やかしていると言いたいのだろう。確かに、他の子にはしてこなかった扱いだ。笹貫は甘えるのが上手、と心の中でメモした。
昼と同じように猫に食事を与えにいき、昼間より少し短い時間猫と戯れて、浴場へ行く。食堂に皆が集まる時間に風呂を済ませる習慣だ。みんなもそれを心得ていて、私が入る時間には浴場に来ない。笹貫は着痩せするようで、服を脱ぐと分厚い身体をしていた。仕草や身のこなしに色気があり、男士たちの裸を見慣れているはずの私でもハッとするものがあった。
頭と体をなるべく丁寧に洗って、湯に入る。笹貫もついてきた。白く湯に浮かび上がるような蜂須賀の肌と違って、足下の闇に溶けていくような、大倶利伽羅ほどではないが少し浅黒い肌の色をしている。
触れてみたいような気がしたが、自分の心に浮かんだ欲望はなかったことにした。たとえほんの少しでも、そういうことは柄ではない。セクハラで訴えられるのもよろしくない。
笹貫は私の顔をちらちらと伺っている。大方蜂須賀から風呂で寝かせないように、のぼせさせないようにと言い含められているのだろう。風呂は好きなのだが、どうもそのあたりの調節器官が鈍いようで、いつ出るのが適切なのかわからない。風呂で眠ってそのまま気を失って死ぬなら、苦しくなさそうで悪くないと思うのだが、蜂須賀はそうは思わないらしい。本丸がお化け屋敷なのは引き払って、うちの子はみんな行儀がよくまめに働くので、引き取り手は現れると思う。そう言った時蜂須賀は、あなたには生きたいと思う目標がないのですか、と悲しそうに聞いたが、その時はまだ練度半ばだった蜂須賀が練度満了になることと、海外のファンタジーの続きが出るのを待っていること、と答えたら少し安心してくれた。今では蜂須賀はすでに練度満了しているので、次は修行に出して、また満了することを目標としている。蜂須賀は私を置いていくのが心配だから修行はみんなが終わってからでいい、なんて言う。ファンタジーの続きはその後二巻ほど出たが、まだ完結していない。なので一応、風呂で死なないように、とは思っている。
「顔赤いよ?出た方がいいんじゃないの?」
笹貫の言うとおりかもしれない。ひとつうなずいて立ち上がったが、ふらついて、大きくよろけてしまった。手首を強い力に掴まれたと思ったら、私は笹貫の腕の中にいた。自分の鼓動を強く感じたが、予期したような不快感はなかった。
「ふらふらしてる。抱っこしてこうか?」
頭を横に振って、目の前のしなやかな筋肉を押し返すのには抵抗を感じ、ただ一歩下がると逞しい腕は私を解放した。手探りで浴槽の縁を探し、腰掛ける。
「水持ってくるから、そこに座ってて」
笹貫が慌てて浴室から出ていく音がする。
お湯にのぼせたのか、意図しない接触にのぼせたのか、自分でも判断がつかない。前者は近侍を入れ替えると一度はあることなのでともかく、後者は今更そんな気持ちになっても困る。
笹貫はすぐに戻ってきた。手渡されたプラスチックのコップを傾けると、喉を冷たい水が滑っていく。もっと持ってこようか、と聞かれたが、断ってもう一度立ち上がった。さっきよりはマシになったが、頭がぼんやりして身体がふらつく。脱衣所にたどり着いて、現世で独り暮らししていた頃のように、床に死んだように横たわりたかったが、蜂須賀がこわいのでがんばって籐製の長椅子まで行って、横になった。空気がひんやりしているので、それだけで少し頭が軽くなった気がする。笹貫が長椅子の横に積んであった雑誌で顔をあおいでくれる。
「もっと早く言わなくて、ごめんね」
「笹貫のせいじゃありません。すぐに落ち着くので、これは報告しなくていいですよ」
「するよ、これで後で具合悪くなったりしたら大変だし」
「そうですか…まあ、全ての近侍が体験していることですので、一回目で減点ということはないでしょう…」
ゆっくり起き上がって、息を整える。笹貫がもう一度水を持ってきてくれたので、それを飲んだ。
「ね、オレが拭いちゃだめ?冬だし、濡れたままだと風邪ひくんでしょ?」
断ろうとしたが、腕が重くて持ち上げるのも億劫だったので、渋々うなずいた。笹貫の言うことが正しい。先ほど掴まれたときの力とは違い、思ったより優しく、丁寧な手つきだった。結局着物も着せられて、髪が濡れたままだからと急かされて浴場を離れた。
自室の向かいにある支度部屋で、髪を乾かされる。これはあまりにも手際が悪いからと蜂須賀にも毎日されているので、若干抵抗は薄くなっていた。若干は。
「適当でいいですよ。ちょっと風を当てとけば、そのうち乾くでしょう」
「ダメだよ、湯冷めするし、変な寝癖がついちゃうよ」
新人なので丸めこめるかと思ったのだが、できなかった。ブラシを使って、丁寧に髪を整えられる。こんなに手強いのは一期一振以来かもしれない。彼のときは湯に沈んでしまい、問答無用で抱き上げられ、問答無用で全身を拭かれ、この部屋までまた抱き上げられて運ばれた。鳥肌が立って距離を取りながら文句を言ったら「緊急事態ですので」とかえって怒られたのだ。以来一期一振と会うときはいきなり抱き上げられないように用心しているが、仲はいたって良好だ。彼は私が煙草を教えた近侍の一人になる。
「主の髪って、細くてさらさらしてるね」
「そうですか」
「もしかして興味ない?」
「はい」
「興味あることなに?」
「今日だと、そうですね、笹貫が猫にあまり近づかないのは、馬と同じ理由ですか」
「そうだよ。オレひとりの時だと、もうちょっと距離があっても逃げられちゃう。主がいるから、あそこまで近づけるんだよ」
「得心がいきました」
ブラシが離れたと思うと指で髪を梳かれて、背筋がゾワッとした。ただ、それは思ったより不快ではなかった。今日一日は少し不思議だ。七年間ずっとそうしてきていたはずなのに、知らぬ間に、時間とともに自分が変わったのだろうか。
食堂へ移動し、厨に今日はここで食べます、と伝える。少し戸惑った様子だったので、部屋で食べる形で構いません、と言うと、ハンバーガーが出てきた。お店のように紙で包まれている。笹貫は煮込みハンバーグにご飯、味噌汁、小鉢の乗ったトレイを受け取った。厨番に感謝を伝えて、空いている席に座る。
「主、違うのなんだね」
「普段は部屋でいただいているので、手で食べられるものか、スプーン一本で済む形にしてくださるんですよね」
「それって、明日はいっしょにごはん食べられないってこと?」
甘え上手の上に、寂しがりだ。
「明日のことは、今はわかりかねます。手が空いていないかもしれないので」
「忙しいの?」
「そういう時もあります」
笹貫はほうれん草のおひたしを一口食べて、飲みこんでから続きを話した。
「じゃあ、明日また聞くね」
食器を片して、私が部屋に入ると、彼の近侍一日目は終了だ。夜の護衛をしてくれる五月雨江に挨拶をして、自室に下がる。ドアを開けたとき、笹貫が中を覗きこむようにしたが、そのまま閉めた。