猫と怪物 10の裏 ずっと泥の中でもがいているような気分だった。
絶えず怪異が耳元で囁き、体の中を何かが蠢いているようだ。
アレを食べたせいだと思うのに、もっと喰らわないとだめだと衝動がこみあげる。
昼間は姿が見えないのに不快な声だけが耳の中をこだまして、苛立ちを抑えきれない。
食事はする気になれない、眠るとオレが主の体を貫く夢を見て目が覚める。
持ち上げた手が、自分なのかあやかしなのかわからない。
それでも、主を食われたくなかったら喰らい続けるしかない。
オレの頭を埋め尽くす醜い声を裂くように、ずっと聞きたかった声がした。
「なにをしているのですか?」
なにを?オレは今なにを?
このあやかしどもが、
「こいつら主のことたべたいんだって」
あれ?オレいましゃべれてる?なんか、からだがへん……
「オレもたべたいから、どっちがつよいかおしえてるんだ」
自分の声が、まるで獣のうなり声のように聞こえる。そもそも主の声が聞こえたのは本当のこと?主が、近くにいるの?こっちにきちゃだめだ。よるはあぶない。オレも、だいじょうぶじゃないみたいだから……
「こら、拾ったものを食べてはいけません。見るからに不衛生ですよ」
おこられた?
でもすぐに、頭を撫でられた。ゆっくり、ゆっくり。細く長い指が、髪をかき混ぜる。
手が汚れちゃうよ。主は服が汚れても全然気にしないのに、手はかさかさになるまで洗うんだから。
「あなたが離れていくと思ったのは、こんな風にではありません。悪いものを退けようとしてくれたんですね、あなたはやさしい、いいこですね」
そうだ、オレはちゃんといいこにしてた。それなのに、なんでいなくなっちゃうの?
オレが、欲深くてわるいこだから?
「オレのこと、捨てたくなった?でもオレ、捨てられても戻ってこられるんだ。オレのこと、怖くなった?」
きっといまは醜く歪んでいるであろう顔を、声のするほうにむける。主はそこに、本当にいた。怒りと欲望で染まっていた視界が、いつのまにか少し晴れている。
主はオレのだいすきな、しょうがないな、という顔でほほえんでいた。
「なりません。あなたは最初から帰ってくる話ばかりでしたから。こちらに捨てる気がなくて、あなたに帰ってくる気があるなら、それは迷子です。迷子の心配があるなら、後で対策をしましょうね」
そう言うと、主は地面に膝をついてオレの体をあちこち調べた。ああ、また、着物が汚れている。
後ろに控えていた、殺気を隠そうともしない蜂須賀に話しかけて、白く、細長い手をオレに差しのべる。
「触っていいの?」
躊躇われて、尋ねると、はっきりした答えが返ってきた。
「傷ついている生き物には手を差し伸べるべきです」
主の中では当たり前のことのように言うけれど、オレには主のルールはよくわからない。
そっと重ねると引かれて、そのままそれに合わせてついていく。主の手は汚れているようには見えなくて、本当によかった。不快な声は小さくなったけれど、それでもまだ耳の中で嘲笑い続けている。頭も体も、重たくて、ぼんやりする。
手入れ部屋に入るなり、布団に寝かされた。みんなで難しい顔で、話し合っている。話の内容は聞こえていたが、あまり頭に入ってこなかった。苛立ちや憎しみに駆られそうになるのを、じっと我慢していた。主の前で、これ以上無様を晒したくない一心で。
「あなたの意見を聞かないで決めてごめんなさい。でも、これから手入れを行います。今、体におかしいところはありますか?」
主がオレの方に向き直って訊いた。
「だるくて……自分の体じゃないみたい……」
「眠っていていいですよ。お腹が空いたら言ってください」
「迷惑かけたかったわけじゃないのに……」
思わず泣き言が漏れて、恥ずかしくて顔を隠した。
「かけていいんですよ、私はあなた方のものなんですから」
やさしい声でそう言って、主は手入れを始めた。変な主。オレたちがあなたのものなのに。
手入れをする主の手つきはやさしくて、前と全然変わってなくて、かっこ悪いところを見せてしまったのに、大事に思ってくれていることが伝わってきて、オレは安心してひさしぶりにちゃんとした眠りに落ちた。
話し声で目を覚ますと、蜂須賀が来ていた。
護衛が、何交代した後なのか、青江になっていて、それにも気づかないくらい自分がよく眠ったのだとわかった。主は何時間そうしていたのか、集中しきってオレだけを見て手を動かしている。蜂須賀が肩に手を置くと、驚いたように視線を上げた。
ひとしきりオレについて話した後で、蜂須賀がオレのそばにも膳を持ってきた。まだ夢も見なかった眠りの余韻に浸っていたかったけれど、しぶしぶ起き上がる。
ただ、問題は。
「お腹空いてない……」
あいつらを食べるようになってから、どんどんお腹が空かなくなっていったんだよね。なんていうんだろう、ご飯を見ても胸が躍らないっていうか、美味しそうに見えないというか。それでも、食べなきゃいけないだろうな。あやかしと渾然一体になった状態で切り捨てられないで、手入れまでしてくれているということは、主には刀解するつもりはないのだろう。だったら、だいじょうぶだってこと、少しずつでも見せていかなくちゃ。
オレが膳を前に決意を固めていると、主がにじにじとこちらに寄ってきた。
「あーん」
そう言って自分も口を大きく開けて、芋をオレの口元に差し出す。微妙に揺れていて、オレが受け止めなかったら数秒後に地に落ちる運命の薄茶色の芋。オレは慌ててそれを口に入れた。もうその瞬間は美味しくなさそうとかお腹がいっぱいとか頭になかった。あまりにも危なっかしくて、見ていられなかった。
オレが芋を食べると、主はうれしそうににこっと笑ったので、味は全然しなかったし食感は砂みたいだったけれど、安心させたくて、噛んで飲みこんだ。主は身を乗り出して、オレを見守っている。それがかわいかったし、うれしかったので、そのまま差し出されるままに味のしない食事をした。主といっしょのご飯は久しぶりで、以前の記憶を思い浮かべると、その時々に感じた味がするような気がした。全部食べると、やさしく頭を撫でてくれた。約束、覚えててくれたんだな。
風呂でもそうだけど、主はオレがいても躊躇なく服を脱いだり着替えたりする。それは蜂須賀がいても青江がいても同じようだ。痩せた白い肢体が、とてもおいしそうに見えた。本人はオレのそんな邪な視線には頓着せず、夜着をまとって蜂須賀がオレの隣に敷いた布団に無防備に横になった。
「変な感じですね」
そう言ってこどもっぽく笑う顔はとてもかわいくて、ぼんやりと眺めていたら、なにか納得したようにひとつうなずいて、枕元に置かれていた本を手に取った。もっとかまってほしくて、読んでくれるように駄々をこねたら、案外あっさり読んでくれることになった。主の声は、そんなに低くはないけれど、透き通って、落ち着いていて、すごく好きだなと思った。
長距離飛行機乗りはオレの知らない土地を飛び回って、オレはいつしかまた眠りへと落ちていった。
それから起きるたびに護衛が代わっていて、主がご飯を食べさせてくれて、手入れしてもらって、本を読んでもらって、ひたすら眠った。ご飯は回数を増すごとに、少しずつ味や食感がわかるようになっていった。
「ね、迷子の対策って、なにするの?」
ある日手入れが始まったばかりのタイミングで訊いてみた。
「スマホの位置情報を共有することと、GPSタグをあちこちにつけることでしょうか。よそで発見された時のために、笹貫が抵抗がなければマイクロチップを埋めるという方法もあります」
思ったより具体的に考えてくれていた。埋める?畑に?
「GPSタグは実物を見たことがないので、どこにどのくらいつけるかは大きさ次第ですね。これが一段落したら、もっとよく調べておきますね」
「うん、たのしみ」
オレも自分でちゃんと調べたほうがよさそうだな。待って、共有っていうことは、オレにも主の位置がわかるってこと?主は真剣に考えてくれているのに、オレはウキウキしてきてしまって、顔に出さないようにするのに苦労した。
「ん、もういいような気がします」
何回目かの手入れ中に主がそう言うと、膝丸がすぐにおそらく蜂須賀に連絡し、髭切は楽しそうにオレの本体に近づいてきた。
主が髭切に意見を求めていると、蜂須賀と石切丸が入ってきて、いっしょにオレを眺めている。
「祈祷の時のように、一時的なもので戻ってしまう可能性はありますが、ひとまずはきれいです」
石切丸がそう言ったことで、解散と言うことになった。オレは少し寂しく感じたけれど、立ち上がった主はふらついていて、休ませてあげたいと思ったのでわがままは言わないでいた。しばらくは週一で手入れをしたいと主が言ってくれたから、会えなくなるわけじゃないということがオレを理性的にしてくれた。
主の細い指先が、オレのたぶん汚れているだろう髪をやさしく梳く。
「ちゃんとご飯をたべるんですよ」
名残惜しそうな顔でそう言うから、オレもおとなしくうなずいた。
蜂須賀といっしょに主が出て行ってから、石切丸がオレのこれからの過ごし方を説明してくれた。
当面は青江部屋で生活すること、にっかり青江か数珠丸のどちらかと必ず行動を共にすること、二振りの都合がつかない時は別の破魔の力のある刀と行動を共にすること。出陣遠征演練はなし。内番のみ、体調と要相談。
そういうわけで、石切丸に連れられて青江部屋に行く途中、お願いして図書室に寄ってもらって、主が読んでくれた飛行機乗りの本を借りた。二冊あったけれど、主が持っていたのと同じ、飛行機の絵が描かれたほうを引き出す。自分がひどいドジを踏んだことはもうちゃんとわかっていて、体も自分のものとして感じられる。それでもどこか不安で、少しでも主と繋がっていると思いたかった。
部屋に行くと布団が三つ敷かれていて、数珠丸はもう眠っていた。
「僕は昼に寝ておいたから、眠れないならお相手するよ。あ、話し相手とかだよ」
手入れ部屋でたくさん寝たし、まだ主がいないと眠れないような気がしたから、ありがたく青江とどうもない話をしてその晩は過ごした。青江はオレがおかしくなっていたことには少しも触れなくて、それがありがたかった。