猫と怪物 10の表 笹貫の様子がおかしい、と最初に言ったのは宗三左文字だった。寝ずの番の時に少し様子がおかしかった、と。ただ、宗三はこうも言った。
「僕も来たての時に物の怪どもに不快なことを言われて、カッとなったことがあります。なので、即おかしいとは思いません。討ちもらしたとか怪我をしたとかでもありません。だから記録には残しませんでしたが、彼は昨日今日寝ずの番に参加したわけでもないので、念の為お伝えしておきます」
蜂須賀とふたりで残業をしていた執務室に、わざわざ足を運んで報告してくれた。
次に来たのは和泉守兼定。
「久しぶりに手合わせしたら、剣が荒んでやがる。主がなんかおしおきしてるんだったら、そろそろ許してやってくれ」
これは蜂須賀が聞いて、私に教えてくれた。
それから山姥切国広。四阿の近くの茂みから出てきて、しょんぼりした様子で言った。
「最近夜食を食いにこなくて、差し入れを持って行っても腹がいっぱいだと言うんだ」
見かけたら聞いてみると約束すると、小さく頷いてまた茂みに消えて行った。
決定打をもたらしたのは石切丸だ。
「掃除の時に近くで会ったら、彼はなんだか澱んでいた。あやかしものによく似た気配もする」
試しに祓ってもいいかと聞かれたので、蜂須賀の立ち合いの元手入れ部屋でひっそり執り行った。表面上きれいになったので一瞬解決したかのように見えたが、石切丸はまだ残っていると渋い顔をしていたということだった。
直接見に行こうと思ったのだが、蜂須賀が安全を確認してからにして欲しいと言うので、一期一振に一週間ほど様子を見てもらった。
面白そうな顔で引き受けた一期は、期間いっぱい隠密に努めてくれた。
「荒んでいるっていう言い方が、私もしっくりきますね。あと、じっと見つめていると影が揺れていました。前は宵っぱりなほうだったのが、最近は風呂の後は誰も見かけていないそうです。暗い時間に見かけると、ふらついていたり、話している途中で押し黙ったりする、という話もありました」
「つまり、夜中に部屋に行けばいいんですね」
一期の報告に頷いた私を、蜂須賀が焦ったように止めた。
「ご自分で行かれるおつもりですか?私と石切丸、念のために山伏に同行を頼みますので、主は自室の結界の中にいらしてください」
私が見に行くことを前提として一期に調査を頼んだはずなのに。
「確かに私には自衛の術がありません。必然皆さんに護衛をお願いすることになります。それでも、あなた方を顕現したものとして、審神者として私が行かなくてはならないと思うのです。何ができるかはわかりませんが、彼に何か異例のことが起きているのならば、私はそれを見届けます」
講習会などでいくばくかの護身の術は習ったことはあるが、霊力がさほど多くない私の生兵法では一瞬足を止められるかどうかだ。それも、もし当たれば、という頼りないもの。蜂須賀の用心はもっともだと思う。
それがわかっていても、そうせねば、という気持ちに突き動かされて蜂須賀を一生懸命説得すると、彼はため息とともに折れてくれた。
「せめて一日待ってください。万屋で持てるだけの護符を用意しますので」
翌日の昼、石切丸が符を買ってきてくれて、禊をし、祈祷をし、また禊をして、石切丸に皮膚に直接と、着物の上からも何枚か護符を貼ってもらって、やっと蜂須賀から許可が下りた。
「いいですか、ほんの少しでも危ないと感じたらあなたは廊下に逃げて、できればそのまま自室まで行ってください。私たちには御守りがあることを忘れないでください」
蜂須賀が噛んで含めるように、いざという時の話をする。私を守るためにたくさんのことを考えてくれているのに、私はと言えば、それほどの緊急事態なら笹貫がどうなってしまうのかで頭がいっぱいだった。私が彼を遠ざけたから?
山伏が襖を開けると、部屋には誰もいなかった。縁側に続く障子が開かれ、月明かりが畳を照らしていた。がさり、がさりと植物の擦れる音と、獣のような咀嚼音が、夜の中に聞こえる。
蜂須賀の手が私を制止したが、それを避けて部屋に入った。真っ直ぐ庭に向かって進み、縁側で屈むと暗闇に少し先の茂みが揺れるのが見えた。また止められる前に、躊躇いなく庭のしっとりと濡れた土に爪先を下ろす。足袋ごしに夜の温度を感じた。後ろから咎めるような小さな声が聞こえたが、振り返らなかった。
「なにをしているのですか?」
茂みの中にうずくまる真っ黒な影に、ひそめた声で話しかける。瞳の色は見間違いようのない碧。
「こいつら主のことたべたいんだって」
記憶にある彼の声とは少し違う、歪んだ音。双眸は月光を吸い込んでわずかにこちらを向いた。
「オレもたべたいから、どっちがつよいかおしえてるんだ」
全身が黒い靄のようなもので覆われていて、笹貫が今どんな顔をしているかわからない。
「こら、拾ったものを食べてはいけません。見るからに不衛生ですよ」
もう一歩、近づいて、頭を撫でる。手入れ部屋でしたいたずらとは違う、できるだけやさしく、諭すように撫でる。ずっと触りたいと思っていたけれど、思っていた感触ではなかった。靄は不快な抵抗感があり、それを突き破るようにして手探りで髪に触れたが、ぬめりと濡れて、ごわついていた。靄の上から全身を見回したが、血の色は見えない。怪我をしていないといいのだが。
「あなたが離れていくと思ったのは、こんな風にではありません。悪いものを退けようとしてくれたんですね、あなたはやさしい、いいこですね」
泥濘をかき混ぜるようにねばつく腕を、ゆっくりゆっくり動かし続ける。
いつの間にか後ろから石切丸の朗々とした祈祷の声が聞こえていて、笹貫にまとわりついていた靄がところどころ薄くなり足掻くように蠢いている。
「オレのこと、捨てたくなった?」
やっと見えた顔は、嘲笑うようでも、泣いているようでもあった。
「でもオレ、捨てられても戻ってこられるんだ。オレのこと、怖くなった?」
「なりません。あなたは最初から帰ってくる話ばかりでしたから」
ひび割れていた声も、少しずつ戻っている。先ほどまでの姿が永続的なものになってしまっていなかったことに、深く安堵した。
「こちらに捨てる気がなくて、あなたに帰ってくる気があるなら、それは迷子です。迷子の心配があるなら、後で対策をしましょうね」
祈祷が終わるとともに、辺りを這いずっていた影も、笹貫を隠していた靄も全て消えた。一時的なものかもしれないが、彼の姿を全て見ることができてよかった。
「怪我はないようですが、手入れをしましょう。祈祷でもいいのかもしれませんが、それでもいいような気がします。うまく説明できないのですが、そうするべきのように思うのです」
おいで、と言って手を差し出すと、地面に座り込んでいた笹貫は素直に手を重ねた。初めて触れた手のひらは、知っているもののように感じた。
「触っていいの?」
私より低い声が、小さくそう言った。
「傷ついている生き物には手を差し伸べるべきです」
「主のルールはよくわかんない」
「よく言われます」
そのまま笹貫は目を合わせず、手を引くとおとなしくついてきた。後ろから来る三振りが、いつでも応戦できるように身構えてくれているのが振り返った時に見えて、ここまで口を挟まないでくれたこと、今も何も言わず守ってくれることに感謝した。
手入れ部屋に入ると、すかさず蜂須賀が敷いてくれた布団に笹貫を寝かせる。目視できる限りにはあやかしの影はなかったが、目を伏せて気怠そうにしていた。横たえる際に抜いた本体を、鞘から引き出して掛ける。
「私には、刀身が黒ずんで見えます」
「嫌なものは感じますが、私には見た目ではわかりません」
「私もだね。不浄の気が出てはいるけれど、見た目はわからないな」
「拙僧も気配のみですな」
私の目にはあきらかに色が変わって見えたが、皆には見えないと言う。
「なんとなくなのですが、手入れをして刀身をきれいにすればいいと思うのです」
どう言って信じてもらおうか、言葉を選んでいると、蜂須賀がこちらに向き直った。
「まず、貴方の方法が正しくても間違っていても、現時点では彼とふたりだけになることは容認できません。護衛を必ず置いてください。次に、手入れをするとして、札を使わないとしたら何時間かかると思われますか?」
「初めてのことです、札は使わず慎重に行きたいです。予想では、20時間を超えると考えています。もし私の考えが合っているとしても、根治まで一度では終わらないのではないかと思っています」
「それでしたら、貴方の部屋に護衛と笹貫を入れるか、この部屋から一歩も出ないか選んでください」
蜂須賀の言いたいことはわかる。あやかしの心配をするなら私の部屋しかこの本丸には強い結界がない。けれども私の部屋には基本的には朝の近侍の報告以外は入れていない。この部屋で行うなら、回数制限のあるさほど強くない符を重ねて貼るか、私の部屋に何かあった時用の強力な符を使ってしまう他ない。それだと広範囲は守れないから、この部屋、と決めてしまうしかない。新しい結界を張るのは時間がかかる。
「この部屋にしてください。使用した分の符は私が補填します。私の部屋では何かあっても大立ち回りはできません」
「わかりました。護衛の言うことを絶対に聞くこと、二十四時間を過ぎたらどうなっていても手を止めて食事と休息を取ることをお約束ください」
「約束します。何が効果があるのかを確認するために、私が音を上げるまで祈祷は控えてください」
最初の護衛に決まった石切丸が了承したのを確認して、笹貫に向き直る。
「あなたの意見を聞かないで決めてごめんなさい。でも、これから手入れを行います。今、体におかしいところはありますか?」
枕に頭を乗せ、眠っているように見えた目がうっすら開く。
「だるくて……自分の体じゃないみたい……」
「眠っていていいですよ。お腹が空いたら言ってください」
「迷惑かけたかったわけじゃないのに……」
溢れるようにそう言って、腕で私の大好きな碧を隠してしまった。
「かけていいんですよ、私はあなた方のものなんですから」
手入れを始めるといくらもしない内に寝息が聞こえてきた。それで少しほっとして、その後は集中することができた。傷がついているわけではなかったが、手入れには手応えのようなものを感じた。刀身を黒く染めていたものが、少しずつ薄れていく。
「失礼します」
蜂須賀がそう言って肩に触れたことで、初めて彼の存在に気づいた。護衛が青江に代わっている。
「お約束の二十四時間が経過しました。お食事を取りながら経過について聞かせてください。その後は短くとも睡眠を取ってください」
手の中の鋼にはまだ染みのような影が取り憑いて蠢いている。ここで手を止めたくはなかったが、約束してしまったのだからしかたない。
膳の中身は私の好きな味噌味の雑炊と、里芋の煮物。歌仙が気を遣ってくれたのだろう。
「いかがですか?」
「私の目には薄くなっているように見えるので、方法は間違っていないようです。護衛の方達の意見はどうですか?」
「石切丸はわからなかったと言っていましたが、交代した山伏は部屋を出る前に見た時よりも良くなっているように思うそうです。青江はどう思う?」
「最初の状態を見てないから、増減はよくわからないけど、のたうってるって感じだよ。あまり強くはない。僕もいるし、符も貼ってあるしで逃げたくても逃げられないってところかな」
「なんらかの打撃は与えられているということか。そういうことでしたら、お続けください。ただし、お食事の後は睡眠の約束ですので、その後また二十四時間と時間を切らせていただきます。霊力切れになったら、時間に関わらずそこでやめてください」
私がしっかりと頷くと、蜂須賀はもうひとつ持ってきていた膳を笹貫の横に据えた。てっきり眠っているものだと思っていたが、蜂須賀が近づくと億劫そうに起き上がった。
「お腹空いてない……」
ポツリとそう言って、膳を睨みつけている。にじり寄って、彼の箸で里芋をひとつ摘んで口元に持っていくと、しかたなそうに口を開いた。ちゃんと咀嚼しているか覗きこむようにしていたら、蜂須賀が私の膳も持ってきてくれた。
「ご自分の食事もなさってください」
それで、笹貫が一口食べたら自分も一口食べる、というルーチンを続けた。笹貫は何回か食べさせると、自分から顔を寄せて口を開くようになった。鳥の雛のようで愛らしい。
全て食べさせて、頭を撫で、もう一度横にならせる。夜着に着替えて、その間に蜂須賀が敷いてくれた布団に私も横になると、同じ位置に顔があった。
「変な感じですね」
気怠そうではあるが、顔色は思ったほど酷くないし、声も元気はないが、ちゃんと彼の声だ。安心したし、うれしかった。
ひとしきり顔を眺めてから、蜂須賀がご飯と一緒に持ってきてくれた本を開いた。
「それはなんの本なの?」
「これは、飛行機乗りの話です」
「オレが声に出して読んだら不適切な部分がある?」
「これはありませんね」
「じゃあ、主がオレに読んでよ。それなら、子供っぽくないでしょ?」
なるほどたしかに。
「初めてなので下手ですよ」
「いいよ」
彼に乞われるがままに、たどたどしく文字を声に変えていった。彼に聞こえるくらいの声、でも彼が眠くなるくらい静かな声で。
眠ったのを見届けて、私も横になった。思った以上に疲れていたのか、睡魔はすぐにやってきた。
蜂須賀に起こされると、自室ではなかった。すぐに眠る前までの出来事を思い出して、蜂須賀が差し出したおしぼりで顔や体を軽く拭く。着替えて、食事。笹貫も顔を拭いたのか少しすっきりした顔で、にこりと笑ってこちらを見ている。
「今日は自分で食べられますか?」
「ううん、まだできない」
「しかたないですね」
今度の食事は、中華卵粥に柴漬け。無邪気に開いた口に、匙を運ぶ。笹貫は食べるのが速いと思っていたが、まだ具合が良くないからか私が食べるのに合わせているのか、ゆっくりと咀嚼して、飲みこんだ。それを見ながら、自分の粥も食べた。
食べ終わったら好きな姿勢でいるように言って、手入れに戻った。
「怒ってる……?」
「怒っていませんよ。あなたが無事に戻ってこられそうで、本当に安心しました」
まだ何か聞きたそうだったが、口をつぐんでまたいつしか眠ってしまった。
それから何回休憩したかは覚えていないが、やっと元の輝きを取り戻したように見えて、手を止めた。
すぐに検分のために石切丸が呼ばれ、祈祷のようにもとに戻ってしまう可能性はあるが、ひとまずきれいになっているとのお墨付きをもらって、自室に下がることにした。
最後にもう一度艷やかな黒髪を指で梳く。何日もお風呂に入っていないから、少しべたついていて、でもちゃんと髪の毛の感触だった。
「ちゃんとご飯を食べるんですよ」
笹貫は少しやつれた、けれど顔色はかなり良くなったきれいな顔を、少しだけ微笑ませてうなずいた。