猫と怪物 8の表 笹貫に直に会って触れてみた効果はすごくて、読書も仕事も捗った。会わないと決めたのは自分だし、もう怪我なんてしてほしくないから、またしばらくは会えないほうがいい。そう頭では理解しているのに、彼がすぐそばにいた日のことを何度も思い返してしまう。
研修のものがいないときは、基本的に蜂須賀が近侍を兼ねている。とはいえ蜂須賀は忙しいので、簡易版と言うべきだろうか。起こしてもらって、朝の支度はひとりでして、戻ると食事があるのでそれを食べ、器を厨に返してから執務室へ行く。猫のところはいっしょに行ってくれて、昼食は自室で取り、東屋へは執務室の誰かがついてきてくれる。蜂須賀に余裕があるときは内番を見に行ったり、私の仕事に余裕があるときは誰かを護衛に立てて演練へ。いっしょに猫に行って風呂に入ったら、部屋に食事を運んでくれて終わり。簡略化しても蜂須賀は残業をしている気配なので、私としてはもっとひとりでもいいと思っているのだが、本丸初期の本当に手が足りていないときに、私が不意に湧いたあやかしと遭遇してしまって以来、蜂須賀は常についていられる近侍に向いているものを見つけるのに熱心だ。
ある日の仕事量は膨大で、一期一振が臨時の近侍に駆り出されてきた。途中で向いていないとやめてしまったり、蜂須賀のお眼鏡に叶わないものが多い中で、最後まで研修を勤め認められた数少ない刀剣だ。一期がカバーに入ることは今までにもあったので、私はそれを受けた。それと同時に、彼にはなにか企みがあるのだろうな、とも思った。
午前中は大人しくしていた。いっしょに猫にご飯を持っていって、笹貫と違って避けられないので、いっしょに大分夏毛になってきた猫を撫でた。
「私とは食事をしてくれないんですか?」
悪戯っぽい顔でそう言われたが、これが本題ではないだろうと軽く断ると、案の定深追いはしてこなかった。
食器を持って厨に行くと、一期は食堂で待っていた。彼を伴って四阿へ行き、煙草を取り出してお互い吸い始めたところで、にやにやした顔でこちらを見たので、そうだろうなとは思った。彼はからかったり、ちょっかいを出したり、悪戯をしないと気が済まないのだ。
「約束ですよ、どんなものなのか教えてください」
煙を吐き出すと同時に彼がなんのことを言っているのかには気がついたが、一本吸い終えるまで黙っていた。一期も邪魔はせず、ゆったりと自分の煙草を味わっていた。
彼と交わした約束はそう多くない。
珍しい銘柄の煙草を買ったら、互いに一本お裾分けすること。
業務外の世話をかけた時のお礼は少し高価な煙草を贈ること。
お互いにその日吸った本数をそれぞれ蜂須賀と弟たちに言わないこと。
本のネタバレはしないこと。映画やドラマはその限りではないこと。
そんなものだ。
手つかずの約束はひとつだけ。
彼が近侍研修中だった時、読んでいた本の続きをどうしても読みたくて彼に懇願したのだ。
「それでは、私は突然ヘビースモーカーになって、あと三本煙草を吸います。その間だけならいいですよ。引き換えに、後で私の質問に答えてくださいね」
そう言って風に水色の髪を揺らし、スマホを見ながら普段よりゆっくり三本吸って、吸い終わった後も少し待っていてくれた。その気遣いがとてもうれしかった。
「その本、どんなお話ですか?」
一期といるとよくされる質問。
「宇宙と、歴史と、恋の話でしょうか」
「恋とは、どんなものですか?」
それは、私が焦がれて焦がれて結局手に入れられなかったものだ。
「物語にはよく出てくるでしょう?」
「はい、ですが実感としてはよくわかりません」
「私も、したことがないのでわからないんです」
この時はもう恋のことを諦めきっていたので、彼には恩義もあるし正直に答えた。
「じゃあ、したら教えてください」
それを聞いて私は笑った。そんなことは起こり得ないと思ったから。
「先にしたほうが相手に教えるというのでどうでしょう」
だからこんなことを言ってそのときは会話を終わらせた。それを今持ち出すと言うことは、一期は私が恋をしていると言っているのだ。
「私はしていません。笹貫が私に恋をしているかもしれないだけです」
二本目の煙草に火をつけながら、私は抵抗を試みた。
「そうですか?」
「そうです」
一期一振とはよく近侍になる関係上、他のものたちよりも親しいと言えるだろう。だらしないところも散々見られているし、気安い話もする。蜂須賀調べではそういうことを彼が吹聴したことはないらしいので、そういう心配はしていない。ただ、私にもこれがそうかどうかわからないのだ。
自分ではそうなる前に対処した、と思っている。
一期がこうも自信満々に楽しそうに聞くということは、そうなのだろうか。
それは困る。この仕事に就いた時は、彼らを平等に、なるべく幸せで元気にこの戦争が終わるまで生かすことだと思っていた。それはそんなに長いことではないと思っていた。それが七年過ごして、まだ戦況に終わりは見えない。平等にと言っても蜂須賀には頼りきりだし、厨のふた振りにはわがままを言い通しだし、一期とは密かに友人なのかな、と思っている。だとしても恋は良くないだろう。それは贔屓が過ぎる。
ああ、でも、恋はするものではなく落ちるものだと言ったのは何の本だっただろうか。
このままの関係を維持していれば、私が恋に落ちているだけならば許されるのだろうか。
これはやはり、恋なのだろうか。
「それで、今、どんな感じですか?」
「ちょっとふわふわします」
何がとは言っていない。このくらいなら許されるだろう。
一期もそれで満足したのか、それ以上は追求してこなかった。
午後は執務室に戻り、最近見た映画について聞きながら、猫に食事を持っていって風呂に入り、夕飯はいっしょに取らなかった。