猫と怪物 9の裏 そんなオレに、ある寝ずの番の夜更けに、話しかけるものがあった。
「あるじのこと、もっとしりたい?」
それは黒く凝ったあやかしだった。
あやかしに答えてはいけないとオレに教えてくれたのは誰だっただろう。
オレは激昂してそれに答えてしまった。
「お前が主の何を知ると言うんだ!」
同時に斬りかかったが、影はふたつに割れて両側から囁いた。
──しってるよ、ずぅっとここにいたもの
──あいつは、ひとりでひとをねたんで、うらやましがって、ほしがるばかりのばけものだ
──からっぽで、どこにもいけない
それは、主の言葉。
「ね、橋の下の怪物ってなに?」
オレがそう聞いたのは正気でないほうの主。嫌な質問ではなかったようで、すぐに立ち上がって奥の本棚から持ってきてくれたのは、蜂須賀が見せてくれたのと同じ絵本だった。内容も別に変わらず、トロルについて詳しく書かれてはいない。
「こいつはどんなやつなの?」
「ひとりで、人を妬んで、羨ましがって、欲しがっているばかりの怪物です。でもそこから離れられないんです。空っぽで、誰かが来るのをただ待っているだけ」
無表情で、特に感情もなく主はそう言った。
「どうしてお前らが知っている……」
──しってるよぅ
──なんでもなーんでも
その言葉に腹が立って、力任せに何度も斬りつける。その度に分かれたあやかしが囁きを増す。
──だれにもきょうみをもたれない
──からっぽなんだ
──おれたちがみたしてやる
──なかにはいって
──おまえもそうしたいんだろぅ?
それを聞いた瞬間、怒りで視界が赤く爆ぜたように感じた。そして次の瞬間間合いに入ったものに刃を振り抜いた。あやかしを切り裂くと思ったそれは、高い金属音を立てた後鮮やかに流された。
「不穏な気配を辿ってみれば、貴方ですか。そんなにあやしの気を放っていると、誰かに斬られてしまいますよ」
心底馬鹿馬鹿しいとでもいいたげなため息をつく宗三の姿。
「どこからきた?」
「鍛錬場の方からです。貴方は、どうして僕にかかってきたのですか?」
「オレは……あやかしだと思って」
鍛錬場はここから一町ほど離れている。不穏な気配がオレから出たものならば、彼はいつこちらに向かってきた?オレは意識を失っていた?どこで時間がずれたんだろう。気がつけば周りにあやかしの気配はない。
「貴方は自分のことをどう思いますか?報告が必要ですか?」
落ち着きを取り戻すと、途端に恥ずかしくなった。
「いや……あやかしに話しかけられて冷静を欠いただけなんだ……もう、だいじょうぶ」
「弱っているところや隙をついて話しかけてきますからね。よっぽど言われたくないことを言われたんですね」
「うん……」
すっかり落ち込んで返事をすると、宗三はまたため息をついた。
「残りもできますか?」
「できる」
「同士討ちは勘弁してくださいね」
そう言って宗三が立ち去った後も、しばらくは近くに影はなく静かだったが、移動を続けているとざらつくような声が再びあちこちから上がった。耳を貸さないように強く意志を保っていたが、オレの中には拭いきれない、本当でも嘘でも主の秘密を聞きたい、という気持ちが巣食っていた。
集合して、皆で食堂へ行く。オレは自分の中の昏いものを隠して、皆の前ではことさら何もなかったように明るく振る舞った。
皮膚から、粘膜から、奴らの凝った残滓が入りこんだように思えて、早く洗い流したかった。
表面上何事もなく生活するのは簡単だった。出陣して、内番して、みんなと笑って話して、たまに遠征に行く。寝ずの晩は一月に一度回ってくるかどうか。けれど、そうしてうまくやっている間もずっと、あいつらの声が聞こえているような気がしていた。
濁った声に、主の自分は空虚だと言った声が重なる。他人事のように怪物の説明をする淡々とした声も。
オレもそうしたいのだろう、と言う声が幾度もこだまする。
オレも主の中に入りたいのだろう、と。けれどあんな奴らと同じなわけがない。
胸糞が悪い。そのことを考えると、すぐに怒りに流されそうになる。オレはこんな奴だったっけ。
目を閉じると耳元で声がしたような気がして眠れない。
障子の向こうからは新しい声が聞こえている。
縁側に面した部屋をもらった時、夜は必ず閉じろと言われていた障子。それぞれの四隅に小さめの符が貼られている。わずかに開くと、ざわめきが耳に飛び込んできた。
──うまそう、うまそう
──すかすかのなかみをくらって
──がわはくぐつにしよう
その声にまた怒りがこみ上げる。柄に手をかけた瞬間、物陰からなにか飛び出した。
猫だった。小さい方、と主が呼んでいた方。
白黒の塊はあやかしに飛びかかると、鋭い牙で喰らいついた。軽やかに着地した地面で、がつがつとそれを食む。飛び出してきたあたりを見れば、ハチワレがきれいな方も、黒い影を前足で押さえて喰らっている。小さな口ですっかり食べてしまうと、そのあやかしは分たれず消えた。
そうか、食べてしまえばいいのか。
猫たちがまたどこかへ行ってしまうのを視界の端にとらえたまま、近くを飛んだ影を人ならざる手で掴み、口に運んだ。
とても食べ物の味ではなかった。強い吐き気がこみ上げたが、ぐっと堪えて飲みこむ。腹の中でどうなっているのかはわからないが、捕まえた手の中にも、噛み砕いた口の中にも昏い姿はなくなっていた。
なんだ、こんなことだったのか。
唇が弧を描くのがわかった。それで、オレは、日が差して穢れた影が薄くなって消えるまで、それを食べ続けた。
あのひとは、こいつらのものなんかじゃない、オレのものだ。