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    ふじたに

    @oniku_maturi

    笹さに♂

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    ふじたに

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    猫と怪物 2の表 笹さに♂

    猫と怪物 2の表 笹貫が近侍の二日目。笹貫と蜂須賀が起こしに来てくれた。ノックでは起きられなくて、二人が部屋に入ってきて布団をはがされた。
    「夜ふかしされたんですか?」
    「してませんよ」
     実際に昨日は早く寝ようとしたのだが、風呂場でのことを何度も思い出してしまって、眠れなかっただけなのだ。お試し近侍の間は、なるべく新しい長編は読まないようにしているし、新刊確認も控えめにしている。
     笹貫に付き添われて洗顔、歯磨き。支度部屋で着替え。着替えは自分ですると言ったのに、手伝われた。笹貫の指が肌をかすめると、ドキリとする。
     急かして支度を終え、部屋に戻ると蜂須賀が食事を運んでおいてくれた。一人で部屋に入り、布団があった場所で食事を取る。布団の上で取るときもあるけれど、今日は蜂須賀が畳んだのだろう。夕餉はだいたい布団の上で取る。蜂須賀はそれを快くは思っていないが、長年の失敗や妥協を経て何も言わなくなった。私の部屋は8畳ほどの洋間で、この部屋だけ襖ではなく外開きのドアがついている。これは越してきたときにこの部屋だけ改装してもらったからだ。窓はなく、ドア以外の壁面は本棚にしてある。工事人と蜂須賀の懇願で、換気口とエアコンはつけた。買ってすぐにいじったのは自分の部屋と、各部屋の畳替えとエアコンの設置だった。襖と障子は蜂須賀と私でちまちまと貼っていった。そうなるだろうな、と思ってはいたが、本は本棚には入り切らなくて床に積まれている。いずれ飽和する前に、万屋が古本買取のサービスを行っているか調べなければ、と思ってからもう何年も経つ。ドアから布団に続く細い通路を設けてあり、布団の横には蜂須賀が跪坐できる分だけのスペースがある。
     今日はでもそのスペースに蜂須賀は収まらなかった。笹貫の分までは空けていないからだ。扉のところに、笹貫が前になってひざまずいている。朝の報告は早速笹貫が行うようだ。
     出陣と遠征のメンバー構成、出立先、予定帰還時刻。締切が早い書類について。他の今朝追加された書類。次の会議の予定。今日の演練のメンバー、内番の振り分け。こたつを増やしてほしいという訴えについて。
     手にメモを持っているが、ほとんど視線を落とさない。
     主からはなにか?と聞かれ、粥を飲み込みながら首を振る。
    「午前中に書類をできるだけ片づけて、それから午後のことは決めます。演練の同行については、決まるまではなしのつもりでいてください。エアコンを導入しているので、こたつが欲しい部屋は各自出し合うなどして自費で賄ってください。好みや収容人数なども違うでしょうし、余程の理由がない限りは経費では購入しません」
     そこまで言ってから、笹貫を見る。彼は一人部屋だ。
    「笹貫も、こたつ、欲しいですか?」
    「え、オレは、寒かったら布団入ってるし、近侍の間は寝に戻るだけだし、いつまで近侍かわからないけど」
    「途中問題がなければ、三ヶ月を予定しています」
     蜂須賀が笹貫の後ろから、予定期間を教えてくれた。一月くらいのことが多いので、これは長めだ。蜂須賀にはなにか考えがあるのだろう。
    「じゃあ、近侍が終わったらもう春だから、今年はいらない」
    「わかりました。一人部屋の間に欲しくなったら改めて申請してください」
    「贔屓はダメですよ」
    「一人部屋の方に対する助成です」
     蜂須賀は基本三人部屋だ。これは別に差別ではないはず。
     あとは見守られながらがんばって粥を食べ終えた。朝は苦手で、ぼんやりして何をするのも億劫だ。食べ物を飲みこむのも疲れる。皿に顔をつけて寝てしまって以来、蜂須賀は朝餉を食堂で取らせないし、最後まで見張っているようになった。全部食べ終えて、手を合わせてごちそうさまをすると、盆は蜂須賀が下げに行った。少しだけ食休みを取ってから、執務室へ向かう。
     執務室で確認すると、書類が大量に増えていて、提出期限順に並べ直した。猫と煙草には行けそうだ。猫は何日も放っておくと、離れなくなってしまう。
     笹貫にも空いている席を与え、できそうな書類を振り分ける。へし切長谷部、にっかり青江、山姥切長義、日光一文字が最近の執務員だ。練度を上げることに力を入れたい、違うことをしたいなどの理由で休みが出ると、執務研修を終えている他の男士と交代させる。みんな面倒見のいい子なので心配はしていなかったが、笹貫の方も積極的に質問しているようだ。
     それからは書類に集中して、気がついたら蜂須賀に声をかけられていた。
    「主が続けられるのでしたら、猫の食事は厨番に任せますが」
    「いいえ、大丈夫です、出られます。猫のところに行って、食事をしたあと四阿に行ってくるので、お昼を少し長く取ります。その代わり戻ったらずっと書類を片づけます。演練は男士の方だけで行ってもらってください。今日は量が増えてしまったので、皆さんも根を詰め過ぎず、適度に休んでください」
     そこまで言ってから立ち上がると、笹貫も立ち上がったので、いっしょに執務室を出た。今日は笹貫が自分の分と私の分と、上着を持ってきていて、ありがたくそれを着た。
     今日の猫はしきりにお腹を見せてくるので、お腹のふわふわの毛を堪能した。片方が起き上がると、片方が転がる。交互に撫で続けて、そろそろ時間かな、と思ったときに立ち上がると、脚に身体を擦りつけてくる。構いすぎると猫もそれを覚えてしまうし、猫と遊んでいるだけで日が暮れてしまうので、もう一度屈んで両方の頭を撫でたら、その場を後にした。
     昼食を食べて四阿へ向かう。今日は遊ぶ時間はないので、笹貫も素直に連れて行く。
    「猫の扱いうまいよね。猫飼ってたの?」
     他の子には効くのに、相変わらず笹貫には、今は話しかけないでほしいオーラが効かない。
    「生き物の世話をするのはあの子たちが初めてです。飼っている人も身近にいなかったので、うまいかどうかはわからないですね」
     猫の見分けがつくかどうか、夜食を作りに行ったことがあるか、板間に布団では身体が痛くないか。他愛もない質問に答えながら、細い林道を前後して歩く。下ろしている手に手が触れて驚かされたが、笹貫を見るとごめんね、と言われて、他意はないようだった。私とは逆に、彼は対人距離が狭いように感じる。気をつけようと思った。
    「吸いますか?」
     そう言って煙草の箱を差し出すと、笹貫は1本抜き取った。今日は彼に先に火を点けて、それから自分のものにも点ける。
     深く吸って、吐き出すと、笹貫がこちらを見ていた。どうしたのか問うつもりで首を傾げると、笹貫が口を開いた。
    「主の顔、きれいだよね」
    「あなた方のような美男子に言われると面映ゆいですね」
    「その瞳の色って、何色っていうの?」
    「これは、多分、榛色です」
    「そっか、オレ、その色好き」
     隠れていた劣等感や過去の様々な出来事が頭ををもたげる。煙草を吸っている最中でよかった。煙を吸い込んで、吐き出すことに集中する。
    「そうですか」
     なんでもないことのように言えただろうか。
     この子も私から離れていくんだな、という確信で、とても寂しかった。
     帰りの道で、猫が横手からぱっと飛び出してきて私の前に座り、何事か挨拶をした。この子は小さい方。後ろからゆったりと大きい方も出てきた。しゃがみこんで首周りを撫でると、顔を擦りつけてきてかわいい。笹貫は静かに距離を取っていた。
     この子達も、この本丸で出会ってから七年。この子達がいなくなった後、ここに訪れるような豪胆な猫がいるだろうか。
     猫は人間より先に死ぬし、彼は多分離れていく。猫は先に死ぬから、もう愛でないなんてならない。なら、彼がいつか離れていくとしても、心を傾けてはいけないことにはならない。そういう風に考えると、少し心が楽になった。
     午後は集中して書類を片づけたので、揺れた心ももとの位置に戻ったようだった。
     蜂須賀に促されて風呂のために立ち上がる。みんなはもう少しやっていくようだ。私も後で戻ってきてやろう。みんなを混乱させるから、風呂は定時に行かないといけない。
     笹貫を連れて、まずは猫のご飯を持っていく。先ほどの小道でのように、笹貫にはお構いなしで足下に駆けてきて、身体を擦りつけてくる。今日の仕事が忙しいことに、気づいているのだろうか。ふととてもかわいらしく思って、笑ってしまった。歩けないよ、というと猫たちは少し距離を空けて、先導するようにいつもご飯を置くところへと歩いて行く。皿を置いて離れようとすると、猫が何度も振り返るので、猫のすぐ後ろまで戻ってしゃがみこんだ。私がそこから動かないのを見ると満足したのか、猫は勢いよく食事を始めた。食べ終わった猫たちはすぐにこちらに寄ってきて前足をかけてくるので、その場に膝をついて両方を満遍なく撫でた。また明日ね、と言いながら少し強く頭を撫でると、聞き分けたのか猫はもう行くという素振りをしたので、それを見送ってから私たちも風呂へ向かった。
     頭を二回洗うとすっきりする。残りの仕事の事を考えながら体を洗っていると、笹貫が隣の洗台から身を寄せて話しかけてきた。
    「あのね、主さっきからずっと同じとこ洗ってるよ」
     言われてみると泡まみれの左腕が真っ赤になっている。笹貫にひとつうなずいて、他の場所を洗う。その後も何回か笹貫に声をかけられた。
    「多分全部洗ってたと思うから、もう流そう?」
     そう言われて、自分でもなんだかよくわからないけれど、言われるがままに身体の泡を流した。
     湯船に入って目を閉じると気持ちよくなって、睡魔が襲ってくる。頭がかくんと前に倒れたのを、他人事のように感じていたら、身体が持ち上がる感覚があって、お湯から引き上げられた。
    「眠くなっちゃうなら、お風呂はおしまい」
     気がついたら笹貫に抱き上げられていた。身体が強張るのがわかる。
    「暴れちゃだめ、落としたりしたらオレ自折ものよ、ホント」
     それは困ると思って、強張っているなりに動きを自制する。
    「ぐにゃって寄りかかってくれたほうが、持つ方も楽なんだよ?」
     そう言われても、これ以上どうしようもない。素肌が触れ合っているのを、強烈に意識してしまう。こういうことは初めてというわけではないのに、なぜだろう。顔が熱くなる。
     昨日と同じ長椅子の上に下ろされた。笹貫は少しの間離れ、タオルと服を持ってきた。歩くと、笹貫の身体を伝った水がぱたぱた落ちる音がする。
    「拭くよ」
     そんな簡単な断りだけで、彼は私の身体を拭き始めた。私は驚きと眠気と先ほどの羞恥とで拒絶が遅れてしまい、結局彼のなすがままでいた。
    「立って」
     その言葉で正気に返ると、笹貫はタオルを置いて私の襦袢を広げていた。自分でする、と言おうと口を開けたが、笹貫の方が早かった。
    「ここまできたら、いっしょでしょ?」
     なんとはなしに押し負けて、私は口を噤んで立ち上がった。笹貫といると、なんだか調子が狂う。自分が思ったように事を運べていないように感じる。でも、仕事はちゃんと自分で決めたとおりに進んでいるし、立てた予定通りに動いている。
    「次はご飯?それとも仕事に戻る?」
     私が仕事に戻ると気づいているなんて、聡い子だな、と思った。
    「食事の後、仕事に戻ります。そうしたら時間外なので、護衛は夜の子と交代して、笹貫はもう休んでいいですよ」
    「ご飯、忙しいからいっしょに食べるのダメ?」
     軽く首を傾げる様がかわいい。昨日期待を持たせるような言い方をしたのはこちらなので、断るのはかわいそうだ。
    「いいですよ、仕事が残っていても食事はしますし、仕事に戻るなら強いて部屋で取る理由もありません」
     笹貫は「うれし」と言ってはにかむように笑った。その顔を見た瞬間、先ほど猫を見て感じたようなかわいらしさを感じて、なにかわからない衝動をこらえた。
     今日の夕餉はカツサンドだった。昨日は部屋に持っていく時そのままの構成だったが、今日は生ハムサラダと水菓子が乗っていて、箸とフォークがついている。燭台切光忠の、食堂で食べるならビタミンを取れ、という圧力がかかったようだ。
     笹貫の方はとんかつ定食のようだ。小鉢が2つついていて、冷や奴ときんぴら。私のほうはきっとサンドにしてしまったために洋風になったのだろう。
    「さっきの交代してって言うの、オレも仕事つきあうよ。明日になってる書類見たりしてるから」
     笹貫の噛むときにちゃんと口を閉じて、飲みこんでから話すところは好感を持てる。箸使いなどももっと豪快かと勝手に想像していたが、きちんと礼儀を教わった動きだった。
    「これから、交代させてあげたくともできないことはたくさんあると思うので、休めるときは休んだ方がいいですよ」
    「今日はあんまり疲れてないし、仕事があるなら最後までいっしょにいたい」
     離れていくことを想った日に、最後までいっしょなんて言われるのはとんだ皮肉だ。だが、仕事に熱意があるものを無碍にはできない。
    「ありがとうございます。そう言ってくれるのでしたら、お願いします。食事の後に、今日の夜の護衛にその旨を伝えに行きますので」
     それから少しの間、二人とも食事に集中したが、私が生ハムだけ食べ尽くしてしまったサラダを持て余していると、笹貫がまた話しかけてきた。とんかつはもうなくなっていて、漬物で残りの白米を食べているようだ。
    「主が興味ないかもしれないこと聞いてもいい?」
     笹貫に知りたいことがあるのはしかたない。渋い気持ちでひとつうなずいて見せる。
    「この本丸はできて何年?」
    「七年目です」
    「その前は主はなにしてたの?」
    「大学生でした」
    「じゃあ主って今何歳なの?」
    「今年29歳になります」
    「日本人?」
    「父が日本人、母が仏人です」
     これ以上はいやだな、と思ったところで、笹貫はすっと身を引いた。
    「生ハムだけもっともらってくるね、なかったら残りはオレが食べるよ」
     そう言うと、笹貫は厨に消えていった。
     私は彼の質問にうなずかなければよかったと思っていた。ここにいて、現世に戻らずにいると、誰にも聞かれない考えなくていいこと。そういうことに笹貫は踏み込んでくる。今更ながら、本丸でもきちんと面布をつけているべきだった。あれは食事喫煙風呂読書と何かと邪魔なので、かなり早い段階でここではつけるのをやめてしまっていた。
     自分が答えた内容が笹貫にとってはただの興味本位であり、なんら意味を持つ情報でないことはわかっている。それでも口にすると思い出したくないことが喚起されてしまう。
     笹貫が戻ってきて、サラダの横に生ハムの乗った皿を置いた。
    「燭台切が、これを全部食べたら血圧が上がるから、残ったらその辺でお酒飲んでる人にあげてって」
     きっと塩分を余分に取らせるか野菜をもっと食べさせるかの懊悩が、光忠の中であったのだろう。
    「主が聞かれたくないこと、聞いてごめんね」
     笹貫がすっと身体を折って、耳元でそう言った。そして私が身を引く前に、自分の席に戻った。
     顔に出ていただろうか。先に好きではないと断ったとはいえ、彼にしてみれば無邪気な質問なのだから、強い嫌悪を表してしまったのなら、申し訳ないことをした。けれど今更こちらから謝ることもできず、生ハムのお礼だけ言って、残ったサラダを食べた。
     生ハムの残りのうち、1枚は笹貫の胃に収まり、あとは他の卓で酒を飲んでいた日本号と次郎太刀に渡した。
     厨に挨拶をして自室の前まで行くと、村雲江が待機していた。こちらと目を合わせず、元気がない様子だ。
    「お待たせしました。お手、しますか?」
     目を伏せたままでうなずく村雲に片手を差し出して、お手、というと白い手をこちらのそれに重ねてきた。
    「よくできましたね、まさに値千金の働きです」
     そう言って薄桃色の髪をそっと撫でてやる。すると村雲は嬉しそうに笑って、こちらと目を合わせた。
    「今日はまだ仕事が残っているので、どこかで休んでいてください。終わったら端末で連絡しますね」
    「じゃあ、雨さんと部屋にいるよ」
    「そうですか、それなら部屋まで呼びに行きますね」
     村雲と別れて、執務室に戻る。
    「触ってた」
     途中の廊下で笹貫が呟くように言った。
    「近侍には隠せないので見せましたが、他言無用でお願いします。あの子と何人かだけは、時々ああして撫でることがあります」
    「オレも撫でてほしい」
    「村雲はああして元気がないときだけです。他の子とは二人きりになることが少ないので、本当に時々です」
    「オレも今元気ないし、今二人きりだよ」
     ため息をついて、立ち止まって笹貫の顔を見上げると、しゅんとした様子がかわいらしい。
    「もしかしてオレ、今減点されてる…?」
    「あまり言い募ると、そうですね」
    「オレが…本当に元気なかったら撫でてくれる…?」
    「わかりました」
     約束をして、歩みを再開する。
    「昨日の五月雨とか今日の村雲とかも近侍になれるの?」
    「あの二人はなりません。夜番だけです」
    「そういうこともあるんだ」
    「もちろん夜番になるに当たって研修はしていますが、最終的に双方の考えを合わせて今の結論に落ち着いています」
    「じゃあもしかして、近侍ができる奴ってかなり少ない?」
    「そうですね、蜂須賀と二人もしくは三人体勢でならそれなりにいますが、単独近侍が務まる子は少ないですね」
    「そうなんだ。じゃあオレそれを目指すね」
     一日目を終えて、切り上げではなく延長の予定を立てているということは、蜂須賀の中では笹貫は有望株なのだろう。私としても、いずれ蜂須賀が修行に出るために、その後の練度上げのために、近侍候補が増えてくれるとうれしい。
     それに、近侍と蜂須賀本人の担当している仕事とを兼業させると蜂須賀の負担が大きすぎるので、恒常的に蜂須賀以外の近侍をつけたいとも常々思っている。
    「あなたは賢いし、性格も良く、よく働くので、きっと向いていますよ」
     笹貫が近侍になることを、無邪気に嬉しいと思う自分と、これ以上気持ちを乱されたくないと思う自分がいる。無難な方だけを答えておいた。自分でも自分のことがよくわからないのだ。
     執務室に入ると、まだみんな残っていた。
    「皆さん、遅くまでありがとうございます。お先に休憩をいただきましたが、皆さんも休憩されてください。明日もできますから、今日はそのまま上がっても問題ありません」
     そこまで言うと、青江と日光は立ち上がったが、長義と長谷部はそのままだった。
    「きりのいいところまでやってからにします」
    「主が残られるのでしたら、お供いたします」
    「ならちょうどいい、厨に申し伝えることがあるので笹貫も連れて行く。戻るまで長谷部が護衛を兼ねてほしい。長義は終わったら上がるよう」
    「お願いします」
     私が頭を下げると、長谷部はお任せ下さい、と言って胸を叩いた。
     それからはまた静かな執務室だった。キーボードを叩く音と、クリック音だけが響く。これなら、増えた分の書類は今日中に片づきそうだ。明日はまた日課ができるだろう。
     長義はきりがついたのだろう、お先に失礼します、と言って出て行った。
     ほどなくして蜂須賀と笹貫は戻ってきて、執務に加わる。予定外の分は消化できて、明日の分にも手をつけていると、蜂須賀から上がるように言われた。
    「そろそろ部屋にお戻りください」
     私の部屋にはしっかりとした結界が張ってあるが、私の霊力があまり多い方ではないのでそれ以外の場所は、万屋で売っている使いきりの札で済ませている。そのため深夜になっても私が部屋の外をうろうろしていると、あやかしの動きが活発になるのだ。
    「わかりました。笹貫、蜂須賀にもう少しいてもらうので、村雲を呼んできてもらってもいいですか?」
    「俺が行って参ります。笹貫、ここを頼むぞ。長谷部は俺といっしょに上がれ」
     蜂須賀の申し出に私はうなずいて、蜂須賀と長谷部におつかれさまでした、と挨拶した。
     読書でも新刊検索でも仕事でも、集中した後の脱力感は気持ちいい。息を止めて水に飛び込み、限界まで我慢して顔を出したときの開放感に似ている。
     私がただ呼吸を楽しんでいると、笹貫が横に立った。近すぎない距離。
    「あのね、オレのこと嫌いになっちゃった?」
    「なっていませんよ、どうしましたか?」
     なにか蜂須賀に怒られたのだろうか?
    「主がされたくない質問したり、したくないことしつこくしたりしたから…」
     うつむいたまま、ちらりと上目でこちらを伺う様子がかわいい。
    「今日して、今日のうちに良くなかったと気づいたのでしたら、それでいいです。できれば今日気づいたことは、もうしてほしくはないです。過失は仕方ないと思いますが」
     猫なのだから、噛む時もあれば爪を立てる時もあるのだ。うなだれた頭を撫でたいようにも思ったが、今がその時ではないだろうと、やめた。
    「もう近侍でいられない…?」
    「今の話を蜂須賀にしたんですか?」
    「した」
    「それで蜂須賀が今日で終わりだと言っていないのなら、継続です」
    「主はイヤじゃない?」
    「私から何か言う前に謝ってくれて、蜂須賀にも正直に申告しているのなら、問題ありません」
     蜂須賀の言うとおり、私はこの子を小さな失敗を咎めて遠ざけてしまいたくない程度には、気に入っているのだ。
    「よかった」
     顔を上げた笹貫はかわいらしい顔で笑った。
     そして蜂須賀と村雲が戻ってきて、この話はおしまいになった。
     村雲に改めてお願いします、と声をかけて、支度部屋で夜着に着替えてから部屋に戻った。
     布団に身体を投げ出して、読み途中だった短編集を取り上げる。子供の頃から読んでいる短編集は、何度読んでも面白いが、もう新鮮さと没入感には欠ける。ぼんやりと文字を目で追っていると、胸の内に過去の冷たさや過ちが湧き上がってきて、たまらなくなった。起き上がって個人用の端末をつけ、見慣れた万屋書店のホームページを開く。現実の本屋を覗いている時のように、表紙と題名、あらすじを見て適当にカゴに入れ、決済した。それで少し安心して、以前間違えて買った原書を辞書片手に読み始めれば、外国語のとっつきにくさはあれども時間を忘れることができた。
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    ふじたに

    PROGRESS猫と怪物 8の表 笹さに♂
    猫と怪物 8の表 笹貫に直に会って触れてみた効果はすごくて、読書も仕事も捗った。会わないと決めたのは自分だし、もう怪我なんてしてほしくないから、またしばらくは会えないほうがいい。そう頭では理解しているのに、彼がすぐそばにいた日のことを何度も思い返してしまう。
     研修のものがいないときは、基本的に蜂須賀が近侍を兼ねている。とはいえ蜂須賀は忙しいので、簡易版と言うべきだろうか。起こしてもらって、朝の支度はひとりでして、戻ると食事があるのでそれを食べ、器を厨に返してから執務室へ行く。猫のところはいっしょに行ってくれて、昼食は自室で取り、東屋へは執務室の誰かがついてきてくれる。蜂須賀に余裕があるときは内番を見に行ったり、私の仕事に余裕があるときは誰かを護衛に立てて演練へ。いっしょに猫に行って風呂に入ったら、部屋に食事を運んでくれて終わり。簡略化しても蜂須賀は残業をしている気配なので、私としてはもっとひとりでもいいと思っているのだが、本丸初期の本当に手が足りていないときに、私が不意に湧いたあやかしと遭遇してしまって以来、蜂須賀は常についていられる近侍に向いているものを見つけるのに熱心だ。
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