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    ふじたに

    @oniku_maturi

    笹さに♂

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    ふじたに

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    猫と怪物 4の表 笹さに♂

    猫と怪物 4の表 耳慣れないアラームの音で目を開けると、笹貫がすぐ横にいた。
    「ごめんね、起こしちゃったね。オレは仕事だから行くけど、主はまだ寝てていいよ。あとで起こしに来るね」
     寝起きでもかっこいいんだな、なんて益体もないことを思っている間に、笹貫は部屋を出て行ったので、目を閉じるとまたすぐに眠りはやってきた。

     笹貫の声に目を開けると、起きられるかどうか聞かれた。思ったより眠くはない。すごくよく寝た。
     廊下を歩く間、笹貫はなぜか私の肩に手を乗せていたけれど、歩く邪魔にはならなかったのでそのままにしていた。洗顔歯磨きして着替え。笹貫がすぐに用意して、立っていたら着替えさせてくれた。寝癖を直してもらって部屋に戻る。
     いつもの場所に食事が置かれている。見た目からして中華粥。器を持って食べ始めると、笹貫がなにか話している。
     昨日はなにを読んだんだっけ。いつも当たり前に覚えているそれが、なぜだか曖昧だ。布団があった場所には本が三冊置いてあって、それを見てやっと思い出した。昨夜せっかく笹貫が本を読んでくれたのに、いくらも聞かないうちに寝てしまったのだ。とても残念なことをした。お願いしたら続きを読んでくれるだろうか。
    「主からなにかある?」
    「あっあの昨日の続きを読んでください」
    「笹貫の話を聞いていましたか?」
     笹貫の質問に急いで答えると、蜂須賀が咎めるような声を出した。なにかまずかっただろうか。
    「家を建てるところまでは聞いていました」
    「それは今日の予定ではありませんよ」
    「寝る時にまた読んだげるから、とりあえず仕事ね」
     寝る時にならないと読んでくれないようだ。だったらどうしよう、昨日読んでいた続きを読むか、読んでもらっていた続きを読むか。
    「主、今日の予定聞いてくれたら、朝ご飯食べてる間だけ続き読むよ。そしたら仕事行こ?」
     仕事。仕事は行かないと。それに仕事をしたら今読んでくれるらしい。
     それから笹貫は今日の予定をゆっくり教えてくれた。手に持っていた器はいつの間にかぬるくなっている。ずっと食べていたような気がしていたが、中身はあまり減っていなかった。
    「食べるの止めたら読むのも止めるからねー」
     笹貫のその声にはっと顔を上げると、笹貫が本を開いてこちらを見ていた。あわてて匙を口に運ぶと、昨晩と同じ、低く艶のある声で昨日の続きを読み始めた。目は本を見ているのに、聞くのに夢中になって手がおろそかになるとぴたりと止められてしまうので、一生懸命手と口を動かした。
     食べ終わった後も、少しの間笹貫は本を読んでいてくれた。序章を全部読むと、静かに文庫本を閉じた。
     笹貫に手を引かれるままに立ち上がり、置かれていた本を手に取ってその後をついていく。読んでもらっていた本はちょうど本編に入るところ。読んでもらえるなら、自分で読んでしまって台無しにしたくない。昨日自分で読んでいた方の本を持って行くことにした。
     笹貫が、読んでくれていた本を持って行ってもいいかと聞いてきて、少し悩んだ。誰かに本を貸すと、破損したり返ってこなかったりするからあまり好きではない。けれど持っていたらどこかで読んでくれるかもしれない。そう思ったので、ひとつうなずいた。
     執務室では何通かの書類に署名した後、笹貫と青江とともに出陣と遠征部隊のモニターをした。途中で眠くなって笹貫に起こされた。指示は全部青江が出してくれて、笹貫はそれを真面目に聞いていた。
     蜂須賀がなにも言っていないのに、笹貫に手を引かれて立ち上がった。この後の予定は笹貫についていくことだから、それでいいのだろう。
     猫の器を持っていくと、猫は足下で遊び始めた。ぐるぐると回って、バターになってしまいそうだった。布越しに脚に触れる感触が愛おしい。そこではたと思い出した。
     本の中ではこれから男女が睦み合うのだ。ごく短い描写だったが、それを笹貫の前で読むことに抵抗があって、そこで止まってしまっているのだった。それにともなって昨日笹貫を見て何かを感じたはずだったが、それはよく思い出せなかった。猫の器を置いて、どうしようと考える。
     そうしている間に猫は食事を終えて足下にすがってきていた。両方が乗りたがったので、順番に持ち上げる。頬をすり寄せてくる仕草がかわいらしい。ふと猫に、私は昨日本を読み聞かせてもらったんですよ、と言いたくなったが、猫は本に興味を持ったことがないのでやめた。
     ふわふわを撫でながら考えているうちに、今日来るはずの新しい本のことを思い出した。
     今持て余している本は何度となく読んだものなのだから、途中でやめることにためらいはない。
    「ごはんの前に、部屋に一度寄りたいのですが」
    「服、汚れちゃってるから着替えさせてくれるならいいよ」
    「わかりました」
     笹貫が手を引いて、立ち上がるのを助けてくれた。大きな手が、膝下の汚れを払ってくれる。
     自室の前には、思った通り段ボール箱が置いてあった。開けると三冊入っている。一冊出して、胸元に入っていた方を箱に入れる。ソフトカバーだったけれど、笹貫は胸元をあまりきつく着付けないでくれるのでなんとか懐に収まった。
    「新しい本?」
    「はい」
    「何の本なの?」
     私もあらすじを見ただけだが、どんどん増殖していく駅の本だ。
    「これは、駅が殖える本らしいです」
     そう答えると、笹貫はふわりと微笑んだ。
    「よかったね」
    「はい」
     新しい本はいつもうれしい。
     新しい本を手にしたらたいてい昼は自室に戻るけれど、笹貫はごはんはいっしょにと言ったので、笹貫についていくことが仕事だしおとなしく食堂に行った。笹貫となら食堂でも本が読めるので気にならない。
     最初のページを開くと設定が書いてあって、思った以上に本格的なSFの香りに心をそちらへと調律する。笹貫に声をかけられるたびに口を開くと、なにがしかの食べ物が入ってくるので、それを咀嚼しながら物語世界へ入っていった。
     不意におなかがいっぱいになったので、それを告げると待つように言われたので、また本に戻る。
     懸念したような濡れ場もなく、本は面白かった。時折笹貫が読んでくれたファンタジー世界に気持ちが戻りそうになるのをこらえながら、少しずつ読み進める。
     急に揺れたので振り返ると、斜め後ろに笹貫が立っていた。
     行くのかと思い、立ち上がると上着を着せてくれた。
    「煙草吸いに行くでしょ?行こ?」
     いつものように手を差し出されたので、本を急いでしまって、その手を取る。
    「あのね、昨日本読んでる時に煙草吸ったら危なかったの覚えてる?」
     凜とした冬の空気の中で笹貫がそう言った。覚えていない。ぼんやりと記憶を漁っていると笹貫がまた口を開いた。
    「そういうことがあったんだ。だから、今日は煙草を吸っている間は話をしない?それで、吸い終わったら駅の本を読んでもいいし、昨夜の本をオレが読んでもいいよ」
     昨日の本!朝も読んでくれたから今日の本?
    「読んでくれるんですか?」
    「うん、いいよ。でも外だから、少しだけね。眠くなっちゃったらそこで終わりね」
    「寝ません。わかりました」
     寝たくない。昨日だって寝たくなかった。自分だけのために読んでもらえる本は格別だった。
     寝室に誰かがいて、低く心地よい声でゆっくりと読み紡がれる大好きな本。読んでくれる相手がいないとできないことだったから、今まで考えたことすらなかった。夢が叶ったような気持ちさえした。
     笹貫を急きたてて四阿へと歩いた。
     煙を一息吐くと、笹貫はこちらを見た。
    「ここの本丸名とIDは?」
     なんだ、笹貫はそんなことが知りたかったのか。ゆっくりと答えると、ゆるく波打つ黒髪が満足したように上下した。白いフィルターを唇に挟むと、再び笹貫の声がした。
    「現世と連絡取り合ったりしてる?」
     それについては考えたくない。だから口を開かなかった。煙草を下ろしてただ笹貫の顔を見る。きれいな顔だった。雄々しいと言うには流麗で、女性的というには鋭角の、美しいつくりをしている。それをぼんやりと眺めていると、くっきりした睫毛に縁取られた目が一度ぱちりと瞬いて、とてもかわいらしい表情をした。それで見つめられると、なんだか自分がこのかわいらしい生き物にとてもかわいそうなことをしているような気持ちになってきた。
     この子はとてもとてもやさしくしてくれるし、ひとつくらいお願いを聞いてもいいのではないだろうか。
     でもどうしてそんなことを知りたがるの?
    「どうしてそんなことを?」
     疑問は思わず口をついて出た。
    「主を連れ戻しに来るやつがいたら面倒だなって」
     それですとんと腑に落ちた。この子は捨てられることにこだわっていた。いつか私が彼を捨てないか心配なのだろうか。
     それは安心させてあげたい。けれど過去のことに言及したくない。私の中で天秤が幾度か揺れたが、かわいいこの子を疑心暗鬼のままに放り出せはしなかった。重いため息が漏れた。
    「現世側から私に接触することはできません。今の私の連絡先はすべてここに来てから取得したものだからです。あるとすれば政府を通してですが、誰もそんな情熱はないでしょう。いいですか、内緒ですよ?」
    「誰にも内緒?」
     こんなことを話しても今更なのは蜂須賀。一期一振は本人に言ったことはないが、蜂須賀から何か聞いているかもしれない。燭台切と歌仙も何か知っている可能性はある。小狐丸、蜻蛉切、長谷部は詮索する質ではないから除外。それ以外に近侍を勤めたもので深入りしていそうなものは思い当たらない。
     厨番の二振りは軽々しく何かを口外するとは思えないが、直接何かを聞かれたこともないので、言う必要があるとは思えない。問題は一期一振だが、彼は詮索も好きだし、何をしでかすかわからないところがある。蜂須賀も私が話した何もかもを断りなしに伝えないだろう。
    「蜂須賀には言ってもいいですが、あとは内緒です」
    「どうして?」
    「できるだけ私がダメな人間だってことは隠しておきたいからです」
     いつ査定が入って私の人間性や社会性を問われるかわからない。人は人のそういうところを評価する。
     蜂須賀には苦労をさせてきたので、その分信頼があるが、私以外の人間を知らない無邪気な刀達は何を報告してしまうかわからない。
    「なんで?」
     まさに目の前で無垢な刀が疑問をぶつけてくる。この子も、だいぶ詮索好きだな。
    「ここを首になったらいくところがないからです」
     言い聞かせるようにそう言い終えた時、指先に鋭い痛みが走って思わず手を振った。持っていることを忘れていた煙草が落ちていった。
    「やけどした?だいじょうぶ?」
    「ちょっとびっくりしただけで、もう痛くはないです」
     笹貫が吸い殻を拾って捨てた後、指先を見てくれたが特に異変はなかった。
     痛みがなくなると、捨てられてしまった煙草のことを思う。もう吸うところは残っていなかったが、最初の一口しか吸えなかったのだ。しかも少しも楽しくない話のせいで。
    「笹貫がへんなことを聞くから、全然吸えませんでした…」
    「じゃあ、さっきのは数えないで、次が本当の一本。蜂須賀に何か言われたら、オレがいっぱい吸ったって言いな」
    「もう一本吸ったらまた答えたくないことを聞くでしょう?」
    「もう聞かない。答えられることだけ」
    「答えられること、例えば?」
    「本を読むのは楽しい?とか?」
     それならいい。
     二回目の一口目をゆっくりと堪能すると、何の話をしていたのか忘れてしまった。
    「なんでしたっけ…」
    「本を読んでるとき、楽しい?」
     ああそうだ。
    「楽しいです。自分を忘れて、耽溺できます」
     これは何の屈託もなく答えられる。
    「オレにオススメの本とかある?」
    「本を勧めることはありません」
    「え?なんで?」
    「勧められたという事実がもうその本に影響を与えてしまうからです。それに、私にもよくない影響が及ぶこともあるので」
     勧めた本の好きじゃないところを長々と並べ立てられたり、勧められた本が自分に向いていなかった時の気まずいやりとりや、本を勧めない理由を挙げたらきりがない。本を勧められてもいいのは、見ず知らずの人間だけだ。
    「じゃあオレが勝手に読んだ本の感想を主に話すのはいい?」
    「それはかまいません。むしろ、好ましいです」
     笹貫とするそれは、きっととても楽しいやり取りだろう。蜂須賀は忙しいのだろうごくたまに、一期は趣味人で海外ドラマや映画の感想も教えてくれる。
    「さっき置いてきた本のこと、望まない冒険って言ってたの覚えている?」
    「言ったのは覚えていませんが、確かにあの本は望まない冒険の話です」
    「主はここでの冒険を、望んだの?」
    「望みました。ここでだめならもう他に行くところはないのだと思ってここに来ました」
    「どうして?」
    「私が空虚な人間だからです。橋の下に潜む怪物なのです」
     本の話か、私の話か、よくわからなくなってしまったが、はっきりと答えがわかっていることなので何の気なしに答えた。そして今度こそ最後の一口をゆっくりと味わい、自分の手で吸い殻を捨てた。笹貫も揃えたように短くなった煙草をもみ消したので、私はこの後に待ち受けるお楽しみで心が弾んだ。
     それから木製の長椅子に並んで腰掛けて、お茶を飲んだ後は約束通りに笹貫は白い文庫本を開いて読んでくれた。
     朝よりもずっと短い時間で笹貫がそれをやめてしまった時は、落胆した。
    「寒いからね、これ飲んで、少し歩こう」
     差し出された紅茶はさっきよりも温かく感じられ、喉を通すと先ほどまでの笹貫の温かな声が流れ込んでくるかのようだった。
     笹貫についていくと、厩が下方に見える丘の上だった。
    「主がぽやんとしてるの、知らない子が見たら心配するから、ここから見よ?」
     ぽやんがなんなのかはわからなかったが、今日の仕事は笹貫についていくことなので、否やはない。
     しばしそこにふたりで佇んでいたが、日の当たる丘は暖かかった。
     そして畑が見える小道へ。ぴょんぴょんと跳びはねる小さな影があったので、手を振った。
    「掃除組と手合わせ組は今日はサボろうか。日課できそう?それともおやつ食べる?」
    「おやつ?」
     おやつ、食べたことない。いや、放課後の教室で級友が差し出してきたお菓子は、おやつに入るだろうか。それでもおやつとちゃんと銘打ってあるものは、食べたことがない。
    「主一回にたくさん食べるのちょっと苦手でしょ?痩せてるし、間にもう一回食べてもいいかなと思って、燭台切に頼んだんだ。食べる?」
     思わずうなずいてしまったが、本当にいいのだろうか。
    「おやつって…こどもじゃなくてもたべていいんですか…?」
    「いいんだよ。蜂須賀もいいよって言ってたよ」
     笹貫はすぐにやさしい笑顔で答えてくれた。
    「蜂須賀が…」
     蜂須賀が怒らないのなら、この本丸に他に怒るような人はいない。
    「どこで食べる?寒いから、食堂か、主の部屋か、支度部屋はどう?」
    「仕事なのに、部屋に戻っていいんですか?」
    「オレといっしょならいいよ。オレがいない時は、蜂須賀といっしょにいてね」
     笹貫といっしょならいい。笹貫がいない時は蜂須賀といる。
     その指示はとても簡潔でわかりやすかったので首肯した。
     部屋に戻るということは。
    「本を読んでくれますか…?」
    「いいよ、でもオレが食べてる時にいっこだけ質問に答えてくれる?」
     質問。質問はきらい。いやなきもちになるから。でも、おやつ食べる?っていう質問はきらいじゃなかった。本の質問もきらいじゃない。笹貫がなにを聞きたいかだけど。でも本は読んで欲しい。
     考えてもなにを聞かれるかわからなかったし、本を読んで欲しかったので、結局もう一度うなずいた。
     部屋の真ん中で向かい合って座ると、笹貫がいつの間にか持っていた鞄からバスケットを出した。さっきの紅茶も同じところから出てきた。なんでも出てくる。
     バスケットの中にはスコーン。一度だけ、朝寝坊した日に小豆が出してくれたことがある。白いクリームがおいしくて、あっという間に全部食べてしまったのだ。今日のクリームの瓶はあの時よりも大きくて、胸が弾んだ。
     なんだっけ、確か小豆は割るとか言っていたけれど、あまりよく覚えていない。クリームをたっぷり取って薄黄色の生地に乗せると、とってもすてきな匂いがした。
     久しぶりのクリームはおいしくて、あっという間に二個食べ終わってしまった。おなかもいっぱいで、気持ちよかったので脚を崩して投げ出す。笹貫がいることはちらっと頭をよぎったが、笹貫は怒ったことがないし、ここは自分の部屋なんだし、自分の部屋では少しくらいお行儀が悪くてもいいはず。
     笹貫が近寄ってきたので、やっぱり咎められるのかなと内心身構えたが、彼は菓子くずを手早く集めて私の口元を拭いた。びっくりして目を閉じてしまったけれど、すぐに拭き終わったのか体が離れる気配で目を開いた。笹貫は本当に私をまるで小さな子供のように扱う。でもそれは、いやな気持ちではなかった。初めてのことばかりで、すこしとまどうだけ。目が合うと笹貫は、きれいな顔で微笑った。
     おなかがいっぱいで、きもちよくて、すこしねむい。
     笹貫の動きを見ていると、スコーンがきれいに上下に割れた。そうか、小豆が言っていたのはそういうことだったんだ。自分の分はもう食べてしまったので、試してみることができなくて残念だ。
     そんなに大きな口だと思っていなかったのに、笹貫はぱくりぱくりと二口で上半分を食べてしまった。
     それに驚いていると、青いきれいな瞳がこちらを捉えて、今はやはりそんなに大きくは見えない口が開いた。
    「ね、触られるの嫌いなんでしょ?」
     さわられるのはきらいだ。
    「触られるとどうなっちゃうの?」
     脳裏に過去触られた時のことを思い浮かべると、鳥肌が立って身震いした。
    「ぞわぞわします。しめってたり、なまあたたかかったりして、気持ち悪いです」
    「どうしてオレは触ってよくて、部屋にも入れてもいいって思ったの?」
    「笹貫は猫だからです」
     簡単なことだ。猫は好きだ。
     そんなことより。
    「質問いっこじゃなかった…」
     笹貫に嘘をつかれたような気がして、悲しくなった。
    「ごめんね。じゃあこの後の日課はやめにして、猫の時間まで本読もうか。それで許してくれる?」
     申し訳なさそうに私をのぞきこむ笹貫の顔がかわいかったし、本をよんでくれるなら、許してもいい。
     笹貫は残りのスコーンをすごい速さで食べて、今度は言葉を違えずに本を読んでくれた。
     物語は着々と進んでいく。この本の行き先を、何度も読んで知っているけれど、彼が読んでくれるとまるで真新しい物語のようだった。
     猫と遊んで、お風呂に入って、食堂へ。頭の中はまだ笹貫の声でいっぱいで、違う本を読む気にはなれなかった。
     夕飯の献立はきらい、すき、きらい、ふつう。幼い頃は嫌いな食べ物があることを、おくびにも出すことは許されなかったが、一人暮らしの間に残すことには抵抗がありながらも、嫌いなことを表に出す癖がついてしまって、よくないと思いながら直せないでいる。自室で食べることのほうが多いので、なおさらだ。食堂ではしないように気をつけているつもりだけれど、気がつくとやってしまっていることが多い。
     だからコロッケを極力無表情で飲みこんだ時に、笹貫に好きかどうか聞かれて、つい正直に答えてしまった。答えてから、殴られると感じて身を固くしたが、笹貫は少しも気にした風でなく次の質問をした。
    「じゃあこっちのほうがすき?」 
     桃色の海老のすり身が入った器を示されて、私は反射で答えた。殴られも叱られもしなかった安堵とともに。
    「えびはすきです」
    「じゃあ一個交換ね」
     その上、嫌いなものと好きなものを交換してくれた。なんてやさしい子なんだろう。
     海老と卵は料理のろくにできない私の一人暮らしを、たくさん支えてくれた。もちろん今でも大好きだ。海老のすり身を出してくれるのはいつも歌仙だけれど、私の茹でてマヨネーズをつけただけの海老とは全然違う。ふわふわで、なめらかで、繊細な味がする。自分では絶対につくれそうもないこの料理が好きだと、歌仙に伝えたことがあっただろうか。
     笹貫は、結局コロッケを全部食べて、海老は全部私にくれた。
     飲みこむたびに他愛のない質問をされたが、気にならないくらいうれしかった。
     ブロッコリーはがまんして食べた。
     雪が好きだと言うと、笹貫は蜂須賀に降らせられないか聞いてみると言ってくれた。
     みかんを食べている時に、急に現世のことを聞かれた。
     急に胸の内に冷たいものがせりあがったように感じたが、質問の内容自体は他愛のないものだった。
     彼は私の好き嫌いを咎めなかったし、助けてくれた。このくらい答えてもいいはずだ。
     自分で作っても好きだと思える料理を。それからたまの外食を。
     本を買うことを考慮すると生活費はけっして潤沢とは言えなかったので、一人で行くのは本当にたまにだった。高校の近くにあったサンドイッチ店で、級友に誘われて行って、言われるがままに頼んだのが最初だったのだ。祖母の食卓にはサンドイッチは上がらなかった。給食でパサパサのハムサンドを食べたのが唯一のサンドイッチだったので、初めて食べた時は感動した。その時私にかわいいと言った女の子が初めてつきあった人になり、初めて私を捨てた人になった。
     胸の内に吹き荒れる様々な記憶とは別に、笹貫との会話は進む。
     笹貫が聞いているのは純粋に食べ物の話であって、それ以外の記憶を切り離して答えていくと、胸の中の冷たさは少しおさまった。それでも本を読んでもらった後の浮き立った気持ちは消えてしまい、笹貫が食器を下げに行っている間は本を開かずにいられなかった。
     戻ってきた笹貫は、新たな質問をしてきたが、本のことだったのでなんなく答えられた。
     部屋まで入ってきたので、期待をこめて見つめると、また本を読んでくれた。もっと、もっと聞きたいと思うのに、低く心地よい声はしだいに遠くなっていった。

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    ふじたに

    PROGRESS猫と怪物 8の表 笹さに♂
    猫と怪物 8の表 笹貫に直に会って触れてみた効果はすごくて、読書も仕事も捗った。会わないと決めたのは自分だし、もう怪我なんてしてほしくないから、またしばらくは会えないほうがいい。そう頭では理解しているのに、彼がすぐそばにいた日のことを何度も思い返してしまう。
     研修のものがいないときは、基本的に蜂須賀が近侍を兼ねている。とはいえ蜂須賀は忙しいので、簡易版と言うべきだろうか。起こしてもらって、朝の支度はひとりでして、戻ると食事があるのでそれを食べ、器を厨に返してから執務室へ行く。猫のところはいっしょに行ってくれて、昼食は自室で取り、東屋へは執務室の誰かがついてきてくれる。蜂須賀に余裕があるときは内番を見に行ったり、私の仕事に余裕があるときは誰かを護衛に立てて演練へ。いっしょに猫に行って風呂に入ったら、部屋に食事を運んでくれて終わり。簡略化しても蜂須賀は残業をしている気配なので、私としてはもっとひとりでもいいと思っているのだが、本丸初期の本当に手が足りていないときに、私が不意に湧いたあやかしと遭遇してしまって以来、蜂須賀は常についていられる近侍に向いているものを見つけるのに熱心だ。
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