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    ふじたに

    @oniku_maturi

    笹さに♂

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    ふじたに

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    猫と怪物 5の表 笹さに♂

    猫と怪物 5の表 物音がしたような気がして目を覚ますと、部屋の空気が不思議と温かく感じられた。
     胸に広がる寂寥感と、乾いた空虚、そして知らない本の記憶。それには覚えがある気がして、読書灯をつけると案の定だった。
     古い短編集を読んでいたはずなのに、枕元には見たことのない本が置かれている。また自分は記憶のないまま歩き回っていたのだ。ただ不思議なのは、枕を挟んで両側に本があること、そして読みかけの本の記憶は四つあることだ。普段並行して本を読むことはない。
     蜂須賀に聞いてみないといけない。いや、今の近侍は、記憶がない間に交代していなければ笹貫のはずだ。
     彼の美しくも寂しげな瞳に、仕事もできない、社会性もない自分はどう映っただろう。
     がっかりして辞したのでなければ、強い嫌悪を示すなどして蜂須賀が外したのでなければ、ほどなくして会えるだろう。もう長い不調でもあり、本丸に来てからは蜂須賀がフォローしてくれて、業務には支障は出ないことの方が多い。近侍研修でたまたま行きあったものがいても、少しの気恥ずかしさとともにひとつ謝って、それで終わりだ。なのに笹貫のことが気になる。どんな反応をするだろう、どう思っただろう。呆れてしまっただろうか。
     向かって左には古い本。反対には新しい本。近くを見回すと、近くの山の上に読みかけの原書。もう一冊はどこだろう。古い本を手に取って見ると、栞になるものがなにも挟まっていなかった。どこまで読んだかはわかっている。それでも、開いてみたが漠然とした違和感があって、閉じてしまった。この本を今読むべきではない気がする。こんなことは初めてだ。新しい本には新刊案内が挟まっていて、内容も記憶と相違なかった。原書も同じ。察するに原書は新刊が来るまでのつなぎだろう。それはままあることだ。では、古い本はなんなのだろう。ここに見当たらない、もう一冊の本もだ。
     しばし部屋の中を歩き回って探したが、見つけることはできなかった。目も覚めてしまったし、身支度をしてしまうことにした。
     ドアの横には村雨江がいた。今日は元気そうだ。彼とは反対側に開けっぱなしの段ボールが置かれていて、目当ての本はその中にあった。他には読んだことのない本が二冊入っている。
    「目が覚めてしまったので、身支度につきあってくれますか?」
    「いいよ、お小遣いくれる?」
    「帰りに厨に寄って、お菓子を持ってきましょう」
    「やったー」
     廊下は薄暗く、時間のせいと言うよりも今日は曇りのようだった。
     厠へ行き、洗顔歯磨き、支度部屋で着替えて、軽く髪を手で梳く。
     食堂には男士たちの姿がちらほら見え、その中には蜂須賀と笹貫の姿もあった。
    「おはようございます、目が覚めてしまったので、支度を済ませて来ました。朝食はいつもの時間でかまいません」
     近づいて挨拶をすると、ふたりとも挨拶を返しながらも驚いた顔をしていた。私が時間より早く目覚めることは一年に一度あるかないかなので、むべなるかな。そのまま村雲と厨へ入り、やはり驚いた顔をする厨番たちに同じ話をしながら菓子を手に入れた。
     すぐに食べるかと聞くと、雨さんと食べたい、と言うので、袋に入ったものを二人分渡すと喜んでくれた。
    「蜂須賀と笹貫が来るまで、もう少しお願いします」
     そう言って、部屋の前にあった段ボールとともに中に入った。布団を畳んで、空いたスペースで段ボールと向き合う。
     読んだ記憶があるのは、昔から持っている一冊。中を確認すると、栞紐が途中に挟まっていた。止まっている箇所は、主人公が自分の部屋で食事を作るシーン。ここに何かあったのだろうか。それとも、この本もつなぎで、ただ新刊が届いたからやめたのだろうか。枕元にあった古い本もそうだが、つなぎの本が複数冊に渡るのは初めてだ。
     もうひとりの私は、私のカードで勝手に買い物をする。けれども本以外を買ったことはないし、選ぶ本もセンスが悪くはないので、そのままにしている。途中まで読んだ記憶のある駅の本も前から気になっていたものだし、残りの二冊も面白そうだった。
     記憶を失うきっかけがなんなのかは、判然としない。新刊が届いた際になることも多いのだが、それだけでは説明がつかない時もある。今回もそうだ。記憶をなくしてから出たばかりというわけでもない本を注文し、既読の本で時間稼ぎをしておいて、新刊が届いたら最初だけ読んで私に戻った。いつもはもっと読んでから戻るのだが。
     記憶を失うのは、小学校高学年からだった。気がつくと、日付が飛んでいる。身に覚えのない怪我をしていたり、本が入れ替わっていたりする。読んだ本の記憶だけがある。いつどうしてなるのかは、私にはわからない。なぜか学校とアルバイトに行き、図書館の本を返却して新しい本を借りている。単位を落とさなくて、無断欠勤にならなくて、それは助かるけれど、ノートにはぐちゃぐちゃの落書きがしてあるだけだし、アルバイトは仕事の邪魔だと早退させられていたりする。学校は駆け回ってノートを見せてもらえたが、アルバイトはそれが理由で三軒ほどクビになった。
     病院には家の方針で行けず、ただ漫然といつなるかわからない恐怖に怯えていた。政府から審神者に勧誘されるまで、なんとかして在宅の仕事に就こうと必死にあがいていた。そうでなければ先は見えていたからだ。
     蜂須賀には必要なことだからと打ち明けたが、その時もどう思われるか不安だった。政府に報告されて、職を失うことも想像した。けれどそうはならず、蜂須賀は冷静に受け止めて細かい聞き取りを行い、奇行に対応して仕事も私も支えてくれている。そのお陰で、近年は鬱陶しい嫌だなと思いながらも、あまり怯えずに起こることは起こるのだと泰然と構えていられるようになった。
     それなのに、笹貫がどう思っているかが気になる。近侍になってくれたばかりなのに、きっと迷惑をかけただろう。いつもと違うことが起こっているのも気になる。いつも以上に奇矯な行動を取ったのだろうか。
     なんにせよ、今まで親しげにふるまってくれていたのに、落胆させてしまっただろう。
     この人格交代後、おかしいものを見る目で私を避けるようになった人間は少なくはなく、慣れてしまっている。起こってしまったことは取り返せないのだから、いつも通り謝って、あとは元通りだ。理性はそう言うのに、気持ちがついていかない。
     うじうじと悩んでいると、ドアをノックする音が響いた。
     返事をすると、膳を持った笹貫が入ってきた。後ろに蜂須賀もついている。時間よりだいぶ早い。
    「さっきも言ったけど、おはよ。具合悪い?よく寝られなかった?オレが起こしちゃった?」
     私の前に膳を据えながら矢継ぎ早の質問をする笹貫に、内心驚いた。けれども、想像していたような距離を感じることはなくて、安堵した。
    「具合は悪くありません。とてもよく眠れたようで、すっきりしています。笹貫が様子を見に来たんですか?それは気づきませんでした。私が起きてしまったことで、ふたりの朝の仕事を邪魔してしまったのですか?」
    「必要なことはちゃんと話したから、だいじょうぶ」
     朝餉は焼魚の乗ったお茶漬け。私の作るお茶漬けは冷や飯に白湯をかけてたくあんで食べるという簡素なものだが、歌仙のお茶漬けは焼いた魚に出汁をかけて食べるもので、とてもおいしい。
    「そうですか、それならよかったです。今回は何日でした?」
    「今回は二日です。最短記録更新ですよ」
     私がその質問をするとわかっていたのだろう、蜂須賀がすぐに答えてくれた。短かったなら、少し安心だ。それでも彼らには長い二日間だっただろう。膳を脇にどけて、ふたりに頭を下げる。
    「ご迷惑をおかけしました。特に笹貫は何の情報もない中で、大変だったでしょう。ありがとうございました」
    「頭上げて、主。蜂須賀と一期が手伝ってくれたから、オレが大変なことなかったよ。ご飯食べよ?」
     笹貫の言葉で頭を上げると、彼はやさしく微笑んでいた。
    「俺の方も、必要な署名はいただけましたし、笹貫がうまくやってくれたので、仕事に支障はありませんでした」
     蜂須賀も穏やかに言葉を添えてくれる。ふたりとも怒っているようではないし、疲れている風でもない。本当に大きな問題はなかったようだ。
     膳を戻して、ご飯に出汁をかける。食べ始めると蜂須賀が記憶がない間に来た書類、処理した書類について話してくれる。それが終わったら、笹貫が今日の連絡事項等を。記憶が戻った日の予定はだいたい同じだ。
     記憶のない間に処理した書類の確認と、記憶が戻ってから私が判断するように残しておいた書類の確認。そして通常業務。
     それらを午前中で終わらせ、終わらなくても午後は内番の見回りと演練の付き添い。これは私の普段と違う様子を見た男士たちを心配させないための顔出し、と蜂須賀が決めたことだ。
    「笹貫は、二日間疲れたでしょう、今日はお休みにしてもいいですよ」
     魚をほぐしながら声をかけたが、笹貫は笑顔で首を横に振った。
    「疲れてない。今日もいっしょにいていい?」
    「笹貫がそれでいいと言うなら、こちらこそよろしくお願いします」
     かわいく首を傾げる様に、私は微笑んでうなずいた。
     それから蜂須賀に、疑問を投げかける。
    「今回は何か、いつもと違うことはありませんでしたか?」
    「笹貫がおりましたので、いつもとはいろいろと違いましたが…」
    「読みかけの本がたくさんあって、どうしてそうなったのかわからないのです」
    「一冊は、辞書をお使いでしたので、私が持ち出しをお止めしました。特に屈託などなく、小さいサイズの本に持ち替えておいででしたよ」
    「もう一冊は途中まで読んで新しい本と取り替えてて、さらに一冊はオレが読み聞かせ?朗読?したんだ」
     咄嗟に意味をつかみかねたが、わかった途端に湧き上がった羨ましいという気持ちを抑えるのに大変苦労した。子供の頃、ベッドタイムストーリーに憧れて、けれど自分には望めないもので、図書館に通うようになった小学生時には小さい子向けの読み聞かせによく参加したものだった。
    「どうしてそんなことになったのですか?」
    「主が本読んで徹夜しちゃったから、暗くしてオレが読んだら寝るかなって」
    「寝ましたか?」
    「寝てたよ」
     そんなことになったら、興奮して眠れなさそうだと思うのだが、寝たのか。あの本は冒険が始まるまではしごく穏やかなので、眠るのには向いていたのかもしれない。
     刀剣男士はみなそうだが、笹貫も例にもれずいい声をしているので、さぞや聞き応えがあっただろう。
    「主にも読もうか?」
     その申し出は、いまだ羨望の収まらない心を強く揺らしたが、自分の歳を考えてぐっとこらえた。
    「子供ではないので、やめておきます」
    「そう?じゃあどうしても寝られない時は呼んでね」
     未練を断ち切るためにも、目の前の食事に集中する。
     なにか、話題を変えなくては…。
    「この二日間、蜂須賀がほめるなんて、素晴らしい働きぶりだったのだと思います。お休みはいらなくても、なにかご褒美をあげなくてはいけませんね」
     蜂須賀の視線が鋭くなった。話の舵取りを間違えたかもしれない。けれど、笹貫は近侍になりたてでトラブルにあったにもかかわらず、辞めていないしめげていない。蜂須賀も、いつもだったらもっとやつれ果てているのに、今回は元気だ。なら、蜂須賀の言うとおり笹貫がよほどうまく立ち回ったのだろう。功績をたたえて褒美をあげるのは、贔屓ではないと思うのだが…。
     もちろん、蜂須賀にもいつもどおり何か用意するつもりだが、蜂須賀が欲しいものは大概が高価なので、万屋で菓子かちょっといい酒を買って済ませている。これは歌仙と燭台切も同じである。三人に渡すお年玉はみんなよりもほんのちょっと多いので、許して欲しい。一期にはちょっと高い煙草を買えばいいので楽だ。
     最初の頃、蜂須賀に着物を選んでもらったら、驚くような値段の反物を提示されたので、猫が爪を立てても気にならないものにしてくれと懇願した。その時の蜂須賀のがっかりした顔が忘れられない。
     笹貫の服装は、蜂須賀の内番着のように畑に送り出すのを躊躇うようなものではない。洗えそうに見える。だからそんなに身構えなくともだいじょうぶだろう。
    「えっ!いいの?!オレね、主にオレの煙草選んで欲しい!」
     なんともかわいらしいおねだりだ。私はうなずき、蜂須賀の視線もやわらいだ。
    「いいですよ、じゃあ今度のお休みに、大きい煙草屋のある商店街に行きましょう」
     そう返事すると、笹貫は満面の笑みで喜んでくれた。
     食べ終わった膳を持って蜂須賀が下がった後、笹貫と商店街に行く話を詰めた。笹貫は私が直感的に選んだものでいい、と言ったが、それはちょっとこわいのでいくつか試してみよう。全部はとても試せないので、まずは本丸の喫煙者たちの煙草を試して、傾向を掴んでから行こう、ということで話はまとまった。
     それはそれとして直感的に選んだやつも知りたい、と言うので考えておくことにする。
     執務室に移ってこの二日間の書類をざっと見たが、私がいるときとほとんど遜色ない程度に処理されている。これは私の世話に蜂須賀が駆り出されなかったという証拠だろう。
     午前中にほとんどの書類を確認し、署名も済ませた。急ぎのものはさほどなく、明日以降でも問題ないものをいくつか残して、猫のところに向かう。
     猫は特に変わったところはなく、相変わらず笹貫を警戒しているのか遠巻きだ。皿を置いて笹貫が離れると、待ちわびたと言うように駆けてきた。食欲も旺盛。ハチワレが先に食べ終わって、こちらに歩いてきたので膝に上げて撫でまわす。猫たちはほとんど野良なのに懐っこくて、こうして触れあうことを嫌がらない。小さい方もこちらに来たので、交代させてこちらも撫でる。
     ふわふわと体温を堪能して放してやると、仲良く並んで藪の中へ駆け去った。
     昼食はラーメン。これは食堂にして当たりだった。ラーメンは大人気のメニューだが、体に良くないので三ヶ月に一度しか出ない珍しいメニューだ。汁物はこぼしてしまう可能性があるので、自室で取る時は出てこない。厨の担当の者によって味が違うので、同じラーメンを食べるのに年単位で時間がかかる、とても貴重なものだ。ひとり一杯だけで、足りないものには炒飯がつくが、あいにくいつもラーメンでお腹いっぱいになってしまうので炒飯を食べたことはない。
     笹貫は炒飯大盛りだった。自分と比べた体の大きさや厚みを考えれば、納得である。
     そしてそれを、私よりもずっと速く食べる。れんげを口に運ぶ様子から、思ったよりも口が大きいんだな、なんて思った。
    「これって何味?」
    「豊前がとんこつって言っていましたよ」
    「そうなんだ。オレ、これ好き。主は何味が好き?」
    「私は今のところ醤油が好きですが、まだ食べたことのない味がありそうです」
     そんな当たり障りのない会話をして、先に食べ終わった笹貫に見守られながら最後までがんばって食べると、盆は笹貫が下げてくれた。連れだって四阿へ行き、煙草に火を点ける。
    「大きい煙草屋さんがあるのって、何番街?」
    「三番街です。行ったことはありますか?」
    「ない。来たばっかりの時に国広たちが五番街に連れてってくれた」
    「ああ、服を買いに行ったのですね」
     万屋商店街は、番号ごとに特色が違う。三番街は嗜好品が多くあって、私がもっとも使うところだ。五番街は服屋が多く建ち並び、来たばかりの男士たちが身の回りの衣料品を買いに案内される。下着や上着は各々が着る服にも左右されるので、支度金を渡して自分で買いに行かせるのだ。
     吸い殻を捨て、今日は菓子はなしで内番を見て回る。演練に出る時間が遅れてしまうので、長話はせず困ったことがないかだけ聞いて、早足で移動する。
     手合わせと通りすがりに掃除の様子を見たら、面布をつけて転移門の前へ。
    「すみません、お待たせしました」
     着いてみると、すでに全員揃っていた。五虎退が大きな虎といっしょに駆け寄ってきて、少し手前で止まった。虎だけが尾を揺らしながら更に進み出て、挨拶をするように私の脚に頭をこすりつける。虎は私が自身のことを好いていていることをよくわかっているのだ。
    「僕も今来たところです。あるじさまがいっしょに行ってくださるの、久しぶりでうれしいです」
     清楚な花のような笑顔で五虎退が首を傾げると、ふわふわとした白い前髪が揺れる。白い虎は耳の付け根をかいてやると喉を鳴らした。
    「私が行くと言ったので急に入ってくれたんですね、ありがとうございます。今日はよろしくお願いします」
     最後は全員に向かって言うと、みな力強い返事をくれた。
     転移してみると、演練場は賑わっていた。
     空きブースまで歩いていき、私と笹貫はそこで待機する。ブースには大きいモニターがあって、仕合の様子を見ることができるのだ。私が来ない時は持って臨んでいるのだろうが、私がいる時はみんな財布やスマホなどの貴重品類を私に預けていく。預けた方が落とす心配などをしなくていい、とある日陸奥がやり始めて、それ以来習慣になっている。
     送り出してからモニターをセットすると、すぐにうちの子たちの姿が映った。
     律儀に後ろに立っていた笹貫に、隣を勧めるとおとなしく座った。
    「ここから見るの初めて」
    「そうですね、近侍か護衛でないとここからは見られませんね」
    「近侍と護衛って違うの?」
    「蜂須賀が近侍を兼ねている時は、連れ出すと仕事が滞るので、演練のために別の方に護衛をお願いします」
     説明すると、納得したように緑の一房が揺れた。
     今日の面子は平均練度高め。のんびり練度を上げている大典太と豊前用だろう。大典太は蔵からあまり出てこないし、豊前は趣味で忙しいらしい。それを支えるのはソハヤ、正国、太郎だ。この三人は練度も高く、任せて安心できる。もっとも今日いちばん練度が高いのは五虎退だ。彼は特別任務を託されたイレギュラーなので、これはしかたない。安心感が増して良いと思おう。
     演練は好きだ。うちの子たちが格好良くて、うちの子も相手の子も怪我をしない。どういうシステムなのかわからないが、仕合でした怪我は終わると同時になかったことになる。最初はそれが信じられなくてはらはらしたものだが、今では楽しむ余裕がある。出陣や遠征には実際の危険があるので見ているこちらも真剣だが、演練はそういうわけなので、声に出しはしないが内心声援を送っている。学生の頃あった、体育祭の気分だ。当時は何の感慨も抱けなかったが、今なら腕を振り上げて、声を枯らして仲間を応援する気持ちがわかる。あの頃は自分がその群れに所属していると思えなかったけれど、本丸でいっしょに暮らし、ともに歩んできた男士たちのことは間違いなく同腹と呼べる。
     きっと、本丸対抗の体育祭があったら拳を握り、開会から閉会まで応援を絶やさないだろう。勝敗に関わらず、最後には泣くかもしれない。そんな姿は見られたくないので、なくてよかったと思う。
     仕合は二勝三敗だった。二敗はスピード勝負になってしまい、一敗は練度とは関係なく向こうが巧者だった。この一敗が、正国の不機嫌の原因だろう。けれど強い相手に当たったら燃えるのが正国なので、心配はしていない。
    「じゃあ、みんなの都合が良ければ、お茶を飲んで帰りましょうか」
     私がそう提案すると、むくれていても一人で帰ると言わずにちゃんとついてくるので、正国はだいじょうぶ。後の心配などなく思い切り戦って、楽しくて、得るものがあれば演練はそれでいい。
     全員特に予定などないようなので、連れだって隣の万屋モールに入った。
     万屋商店街が日用品をなんでも揃えているなら、万屋モールは贅沢品を揃えている。とても大きい建物で、審神者や男士が迷子になると放送がかかるのだ。幸い今のところ彼らの手を煩わせたことはない。
     特に希望がなければ、大抵二階にある広い珈琲店へ入る。
     五虎退が真価を発揮するのはここなのだ。この珈琲屋は注文が複雑で、希望によっては更に複雑になるらしい。しかも常になにがしかの季節限定商品があり、みんな名前が長い。私を含め本丸の三分の二はここでうまく注文できない。フラペチーノという特殊メニューを希望する子が多いので、演練に付き添った時はここでお茶をするようにしている。だから、私がいることが決まると必ず一人は注文できる子を入れるという不文律なのだ。今日は五虎退がそれにあたる。
    「あるじさま、期間限定のフラペチーノはバターキャラメルです」
    「じゃあ、私にはそれをお願いします」
     甘いものは好きだし、名前を聞いてもどんな味なのかまったくわからないので、いつも期間限定のものを頼んでいる。
    「はい、小さいのですよね」
    「はい、夕飯が入らなくなりそうなので。みなさんはだいじょうぶそうなら大きいのを頼んでください」
     五虎退が他に同じ注文のものを募ると、ソハヤと大典太が名乗りを上げた。二人とも大きいサイズで。
    「オレは甘くないやつ」
     そう言ったのは正国。
    「オレは出てくんのが早いならなんでもいい」
     これは豊前。
    「じゃあお二人はホットコーヒーでいいですか?」
     二人とも頷いて、決まり。
    「私は珈琲牛乳の甘くないのがいいです」
     太郎がそう言うと、ふわふわかふわふわじゃないか選べると言う五虎退。太郎はふわふわを選択。
    「笹貫さんはどうしますか?」
     皆慣れたもので何も見ずに五虎退に任せていたが、笹貫だけは店員に渡されたメニューを難しい顔で見つめている。
    「どう…?どうだろう…?」
     そう答えてから、また悩ましげに視線を落とす。そういう顔も色気があっていいな。
    「笹貫さん、甘いものは好きですか?冷たいのと温かいのどちらが飲みたいですか?」
    「え…甘いものは好き…ここは温かいから冷たいもの…?」
     幾度となく皆の注文をまとめてきた五虎退は、笹貫の胡乱な返答を聞いても困らなかった。店員もかくやという落ち着きで、何もわからない笹貫の希望を聞き出していく。絞り込めたら今度は該当する飲み物を指さしてひとつひとつ丁寧に説明した。
    「うん…わからなくなってきた…」
    「じゃああるじさまと同じにしますか?」
    「うん…そうする…」
     笹貫が考えることを諦めると、五虎退が笑顔でひとつに絞った。食べ物を見てきた正国とソハヤ、大典太が各々サンドイッチを持ってきて、それらとともに五虎退にスマホを預けてカウンターに送り出した。
     空いている席を見つけて座ると、三池二振は五虎退を手伝うために受け取りカウンターへ向かう。
     全員の注文はトレイ四枚を満杯にした。ソハヤが二枚、大典太が二枚持って、五虎退は虎用の水を持ってきた。
     五虎退がそれぞれの注文通りの品を渡して、皆でいただきますをする。
     笹貫はなんだか半信半疑という顔で、自分のフラペチーノを眺めている。するとあっという間にサンドイッチを食べ終わった正国が、笹貫に声をかけた。
    「おい、それすげー甘いぞ。甘くない食いもん見に行くからいっしょに来い」
     そう言うと私のほうを向いたので、財布から適当に札を机に置く。正国はスマホで支払うのは好きではないのだ。それを掴んだ正国が歩き出すと、笹貫は不信そうにその後ろ姿を見てから、立ち上がって素直についていった。正国が食べ物をおかわりするのはいつものことだが、誰かに声をかけるのは珍しい。念のために三池にも目をやったが、どちらも首を横に振った。
     詳しくはわからないがとにかく甘く冷たいそれを一所懸命に吸い込んでいると、二人が皿を持って帰ってきた。正国はそうだろうと思った通り二皿で、それを器用に片手で持ってきた。空いた方の手で釣り銭を机に静かに置く。彼にはそういう繊細さがある。
     笹貫はサンドイッチをひとくち食べたら弾みがついたようで、フラペチーノも飲み始めた。
    「しょっぱいあまいするのおいしい…!」
    「よかったですね」
     顔をのぞき込んで言うと、無邪気な笑顔が見られた。
     皆が飲み終わって一休みしたので、買い物をしたい子もいないようだし、全員で転移門をくぐった。
     ゆっくりしてきてしまったため、猫の時間を過ぎていたので、皆に断って笹貫といそいで厨へ向かう。
     近づくと迎えるように猫が歩いてきたが、笹貫がいるのがわかるといつもの遠巻きな定位置に戻っていった。
     宵闇が迫っているので、早めに切り上げないといけない。
     それでも猫が食べるのは急かせないし、いつもの岩に腰掛けて食べるのをゆっくりながめた。
     今日は小柄のほうが先に食べ終わって、駆け寄ってくる。立ち止まって、笹貫の方を見たが、距離があるのに安心したのかよじ登ろうとしたので膝に引き上げた。軽く撫でていると、ハチワレも食べ終わって上ってきたので、交代して撫でる。猫には時間がわかるのか、どちらもあまりしつこくしなかった。ハチワレが自主的に膝から降りると、小さいのが一声鳴いて、並んで藪の闇に消えていった。
     猫の皿を持って厨へ向かう途中、笹貫がこちらを見ているのに気づいた。
    「どうしましたか?」
    「うん、えっと、主はご飯どこで食べるのかなって」
     笹貫には珍しく、歯切れの悪い返事。さっき珈琲店で見た姿と重なって、可笑しくなった。
    「笹貫が近侍の間は、食堂で食べる約束でしょう?」
     私がそう答えると、笹貫は一瞬目を丸くしてから、うれしそうに笑った。記憶を失くしている間に、忘れていないか心配だったのだろうか。
     急ぎ足で風呂を済ませて、食堂へ。
     夕飯は魚の照り焼きに、私の好きないかと里芋の煮物がついていた。味噌汁は玉葱、小鉢にかぼちゃと人参を蒸したものが入っている。厨はすっかり私が食堂で夕食を取るのに対応してきたようだ。今日は人参さえうまく飲みこんでしまえば問題ない。改めて食堂で食べるようになると、野菜を取らせようとする厨番たちの強い意志を感じる。
     嫌いな食べ物のことは置いておいて、好きなものから食べる。おなかがいっぱいになると、おいしいと感じられなくなるからだ。おいしくないものは、どのタイミングで食べてもおいしくないので、最後に考える。
     煮物は、遠い記憶のそれとは違って、品の良い味がした。祖母が作るものは味が薄く、自分が作るものは甘すぎたりしょっぱすぎたりして、いかはもっと固かったし里芋もこんなに滑らかじゃなかった。これだけ鍋一杯食べたい。
     大事に食べていたが、メインのおかずではないし、すぐに食べ終わってしまった。未練を感じて空になった器を見ていると、向かいに座っていた笹貫が煮物の入った器を差し出してきた。
    「食べる?」
    「でも、おいしかったので、笹貫も食べた方がいいですよ」
    「じゃあ、もう少し大きい器におかわりもらってくるね。残ったらオレが食べるから」
     止める間もなく笹貫は足早に厨へ行ってしまい、どうしていたらいいのか少し迷ったが、好きな食べ物がもっと来るのならおとなしく待っていることにした。
    「燭台切が、他のものも一口ずつは食べてって。あと蒸し野菜は嫌だったらこれかけてって」
     煮物の入った鉢と、マヨネーズの入った小皿を私の盆の横に置いて、笹貫が伝言を口にする。
    「追加の分先に食べたら、おなかいっぱいになっちゃうと思うから、他のやつ先に食べよ?」
     無表情には定評があると思っていたのに、光忠にも笹貫にもいろいろと見透かされていて気恥ずかしい。それでもどちらの言うことももっともなので、一口ずつ箸をつける。マヨネーズのお陰で人参も難なく食べられた。言われたとおりにしたので、いそいそと鉢から移した煮物を食べる。
     向かいでほとんど食べ終わった笹貫が、小さく笑った。
    「ほんとにそれ好きなんだね」
    「はい、とてもおいしいです。笹貫も食べましたか?」
    「たべたよ、おいしいね」
     私がおいしいと思ったものを、笹貫もおいしいと言ってくれてうれしかった。
     私が残したものは、笹貫が全部食べてくれた。おかげで罪悪感なくごちそうさまができた。
     寝支度をして、夜番に声をかけ、笹貫とはドアの前で別れる。
     新しく届いた本を残して、他の本はそれぞれの場所にしまっていく。笹貫が読んでくれたという本を手に取って、少し悩んだ。思った以上に読んでもらうことに未練があった。結局その白い本は、本棚には戻さず手前の山の上にそっと置いた。
     男士たちの前では押し殺していた、また記憶を失ったという落胆が疲労とともに襲いかかって、重い体を布団に横たえた。かわいがっている子に醜態を見せたのだと思い返して消えてしまいたいと思ったが、そういう時には眠りは訪れないものだった。

     








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    Replies from the creator

    ふじたに

    PROGRESS猫と怪物 8の表 笹さに♂
    猫と怪物 8の表 笹貫に直に会って触れてみた効果はすごくて、読書も仕事も捗った。会わないと決めたのは自分だし、もう怪我なんてしてほしくないから、またしばらくは会えないほうがいい。そう頭では理解しているのに、彼がすぐそばにいた日のことを何度も思い返してしまう。
     研修のものがいないときは、基本的に蜂須賀が近侍を兼ねている。とはいえ蜂須賀は忙しいので、簡易版と言うべきだろうか。起こしてもらって、朝の支度はひとりでして、戻ると食事があるのでそれを食べ、器を厨に返してから執務室へ行く。猫のところはいっしょに行ってくれて、昼食は自室で取り、東屋へは執務室の誰かがついてきてくれる。蜂須賀に余裕があるときは内番を見に行ったり、私の仕事に余裕があるときは誰かを護衛に立てて演練へ。いっしょに猫に行って風呂に入ったら、部屋に食事を運んでくれて終わり。簡略化しても蜂須賀は残業をしている気配なので、私としてはもっとひとりでもいいと思っているのだが、本丸初期の本当に手が足りていないときに、私が不意に湧いたあやかしと遭遇してしまって以来、蜂須賀は常についていられる近侍に向いているものを見つけるのに熱心だ。
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