猫と怪物 6の表 そんな風にトラブルから始まった笹貫の近侍研修だったが、穏やかに日は過ぎた。
週末には約束していた煙草を買いに出かけた。何種類か買ってみたが、笹貫は私が直感で買った一箱を選んだ。
大抵の日は書類に追われていたが、内番とのんびりする日や、演練に同行する機会も何度かあった。笹貫はもうカフェのメニューを見ても悩まず、最近は上から順に試しているらしい。鍛刀と刀装は、あまり向いていないことがわかった。会議や講習会にも同行してもらった。帰りにみんなには内緒でお茶を飲んで帰った。笹貫が雪が積もるところを見たい、雪が好きだ、とまるきり夏男の格好でいうので、年単位で気候をもう少し寒冷地に変更することにした。誰にも言ったことはないが私も雪は好きだし、短刀たちも喜ぶだろう。
約束通り毎日昼食と夕食を食堂で取り、ついうっかり夜更かしをした翌日は無理矢理起こされたりした。
記憶喪失はあれきり起こっていない。笹貫との時間を大事にしたいと思った私の気持ちを汲んでくれたのかもしれない。風邪は二度引いた。笹貫がつききりで世話をしてくれた。
そんな日々の中、どんどん穏やかでなくなっていくのは私の心だった。
触れられることや、笑顔、時折ひそめる低い声が、最初は持たなかった意味を持ち始めたのだ。振り返ってみれば、初めから予感はあったかもしれない。けれど、こんな風になるなんて、知らなかった。
近侍研修も終わりに近づいたある暖かい日、会議の帰りに立ち寄った喫茶店で、笹貫がいたずらっぽい顔をして不意に言った。
「俺が主に恋してるって言ったら、どうする?」
つまりそれは別れの始まりだ。私は動揺してこぼしてしまわないように、カップをソーサーに戻した。
「それは、うらやましいですね」
ちゃんと冷静な声を出せただろうか。
「なーんて、冗談」
怒るべきだったのかもしれない。けれど私の胸の中を滑り落ちたのは安堵だった。
「冗談なのですか。それは残念ですね」
「主が恋をしたのはどんな人だった?」
最近は鳴りをひそめていた詮索癖。
「私は誰にも恋はできませんでした」
「……冗談って言ったの、残念なの?」
「はい、恋はとても素晴らしいものらしいので」
笹貫に言ったことはすべて本当だ。どれほどの物語に恋の素晴らしさが描かれているだろうか。けれど無理をして探し求めても、私の元には現れなかった。今しているこれが恋ならば、これが私の初恋だ。
彼がもう一度私の容姿を褒めて、そして去ってしまったら、自分がどうなるのか考えるのがこわい。
そうなるくらいなら、最初と同じ、少しお気に入りの私の大事な刀の一振りでいて欲しかった。どこにも行かないで。
近侍研修が終わり、執務研修に入ると、会うのは日中執務室でだけ。それが終わったら夜番で、夜自室に帰るときに一言二言交わすだけ。
「蜂須賀、お願いがあります。研修が終わったら、笹貫となるべく会わないようにしたいんです。生活時間も全部変えます」
「あんなに気に入っていたじゃないですか」
「だからこそです。笹貫には、言わないでください」
「…わかりました。ですが、あくまでできる限りですよ。新体制が整うまでは新しい近侍は入れられませんね…」
「無理を言ってごめんなさい」
そうやって私は、笹貫のことをモニター越しか、書類で名前を見かけるだけの生活に戻った。
最近はなぜだか記憶を失う頻度が高い。