猫と怪物 4の裏 結局主の隣で眠りこけてしまって、スマホのアラームの音で目が覚めた。主の部屋に居続けとなることが決まった時に、切っておくべきだった。慌てるとうまく止められない。主がうっすら目を開けるのが視界の端に映った。
「ごめんね、起こしちゃったね。オレは仕事だから行くけど、主はまだ寝てていいよ。あとで起こしに来るね」
触ったりしたら余計起こしてしまいそうで、囁くようにそれだけ言って部屋を出た。とても眠そうな顔をしていたし、そのままもう一度寝てくれるといいな。
自分の部屋に寄って身支度を済ませてから食堂へ行くと、蜂須賀が食事を始めていた。厨に言って自分の分の朝餉を受け取り、向かいに座る。
「おはよ」
「おはよう、どうだった?」
蜂須賀はまるで悪戯が成功したような顔で笑った。
「びっくりはしたけど、思ったより大変ではなかったかな。一期一振が助けてくれたのが大きい。初めてなった時は二人きりだったの?」
味噌汁椀を手にしながら、昨日の主の姿を思い出す。あの無軌道で無頓着な主と二人きりで執務もあるとしたら、到底手が回らないだろう。
「五振りくらいいたんじゃないかな。ただ私は就任時に主からこういうことがあるとは聞いていたから、驚きは少なかったかな」
「ずっる」
もしかして先に教えてもらえないの、オレだけなの?
「とはいえ、主ご自身は記憶が欠落して、その間何をしていたかは伝聞でしかわからないので、具体的にどうなるかはなってから初めて知ったけれどね」
「え…?今の主と話したりしたこと、忘れちゃうの?」
「ああ、本来の主は、というべきか、こうなっている間のことは忘れてしまう。ただ、読んだ本の内容だけを覚えておられるそうだ」
頭を殴られたような気がした。ものすごく悲しい。昨晩の食堂で見せてくれた笑顔も、髪に触れてくれたことも、手を繋いだことも、主の中からなくなってしまうのだ。それは嫌だと強く思った。どうしたら覚えていてもらえるんだろう。
「あれってなんなの?別人格とかそういうこと?」
「俺もあれこれと調べはしたが、いわゆる多重人格ではないようだ。名前は同じ、筆致も雑にはなるがそれほど違わない、曖昧になる部分もあるが共通した記憶がある。同じ人格の別の側面…くらいの感覚かな」
完全に別の人ではないらしい。確かに、こんな主と会うのは初めてなのに、主はちゃんとオレの名前を呼んで、今はオレが近侍だって事もわかっている。部屋に新しい本がないことも把握していた。
「何日くらいこの状態なの?」
「本丸で観測されているのは今のところ三日から一週間だな」
「結構幅があるんだね。その間執務は停止?」
「この事態を想定して執務員を育てているから、本当にぎりぎりの書類に必要なご署名さえいただければ、問題はない」
聞きたいことはたくさんあるけれど、目の前のご飯も食べなくちゃだし、主が起きてきてしまうかもしれない。
なら先に聞いておくべき事だけ。話している間にほぐしていた焼き鯖はもうバラバラだ。
「なんであの状態で仕事させるの?」
「最初の頃は手が足りなくて、仕事にならないのならと部屋で好きにさせたら昼夜の別がなくなってしまい、もとに戻られた時に苦労されたからだ。それとなぜかはわからないが、今の方の主は学校と仕事には行くらしくてな。役には立たなくとも。それで徹夜しないように昼は見張れるところで起きていてもらっている」
「えっと…じゃあつまりオレが見てられて、起きていられたらどこにいてもいいってこと?」
「そうなるな。昨日は初めてのことだろうし、一番問題が起きにくそうな布陣にしたまでで」
「オレがずっと本を読んでいてあげてもいい…?」
「それは君がもたないだろう」
「まあ、例えばね」
「例えばで言うなら、もちろんかまわない。起きているならずっと自室にいさせてもいいが、ただ他の刀の手前、特に明石の手前部屋の外では仕事をしている体をさせておきたいというのは、ある。普段のように厳密に時間を区切る必要はないが、主のこの現象を知らないものがいるのと、主が仕事をサボると自分もサボるという奴がいるということだ」
朝の姿があまり人目につかないようにしたり、主か蜂須賀のどちらかあるいは両方が、本丸をまとめる当主としての審神者のイメージを気にかけている様子はあったのも、そのせいだろう。
「今の主に、こないだ主に言ったのと同じこと言ったら、どうなるの?」
その質問をすると、蜂須賀は箸を止めて微笑んだ。
「今までそれを試す余裕があったのは、俺と一期だけだ。俺はにっこり笑って流されてしまって、それ以上は追求できなかった。一期はその先を試して、これ以上はないというほど虚ろな表情をされて答えてはもらえず、微妙に避けられるようになった。不思議と正気の時の主も、他のものより一期とは距離を取るようになった。仲は悪くなってはいない。それ以上の変化はなかった。しなかった時と比べて戻られるまでの時間がはっきりと延びたとは思えない」
答えてはもらえない。でも質問することで今以上に主の具合が悪くなることはない。避けられるのはやだな。
卵かけご飯を口に入れながら、今日自分がどうするべきか考えていると、蜂須賀が全部食べ終わってまた口を開いた。
「どうするのが正しいのかは、俺にもわからないんだ。俺は今までに無理に部屋に入ろうとして、無理に食事をさせようとして、何度も失敗してきた。だからどうしてなのかわからなくても、笹貫が昨日したことには本気で感心したんだ。羨ましいとも思う。だから、俺のできなかったことは聞かずに、そのまま君にできることをどんどん試して欲しい。結果的に現在の状態が長引いても、君が避けられるようになっても、近侍としての評価は下がらないと思ってくれてかまわない」
悪戯心が少しもなかったとは言えなくとも、先入観を持って欲しくなかったのは本当のようだ。羨ましいと言うなら、オレが来る前の、蜂須賀と主の長い時間がオレにはそうだ。
「ただし、絶対に目を離さないで欲しい。部屋に残していくなら夜番なり護衛をつけてくれ。他にも聞きたいことはあるだろうけれど、それは手が空いた時にスマホに送ってくれ。今日の予定はできたかな?」
ずっと部屋で本を読んであげてもかまわないけれど、食事をちゃんとさせて夜よく眠らせるには、少しは歩かせた方がいいだろう。欲を言えば晴れているしお日様にも当てたい。読み聞かせはご褒美に使おう。
蜂須賀と今日の予定を詰め、食器を下げるついでに厨にいた歌仙に主の食事の相談をした。
部屋に入ると主はまだ布団の中で、声をかけたら眠たげに目を開いた。
「起きられる?」
ぼんやりとした顔で、小さくうなずいた。起き上がるのを手伝っても、嫌がる素振りはない。重たい綿布団をどけて、立ち上がるのも手伝って、背中を軽く押すとふらふらと歩き始めた。蛇行しそうになるのを操縦しながら、朝の身支度を済ませる。初めて会った時と同じ桔梗鼠の着物を着せかけて、もしゃもしゃになっている後頭部のやわらかい髪の毛を整える。
「午前中は執務、集中できないようなら出陣遠征のモニターを、昼休みはいつも通り、午後は内番の様子を見に行こう。できそうだったら日課もしよう。演練は主抜きね」
自主的に朝食を手に取ったので、予定を投げかけてみたが、どう見ても聞いていない。本丸内の訴えや執務は蜂須賀が全て片づけているわけだし、オレがずっといっしょにいるから聞いていなくてもいいけれど。
朝食は手に取っただけで、食べてはいない。
「主からなにかある?」
反応を見るためだけの問いかけ。けれど答えがあった。
「あっあの昨日の続きを読んでください」
「笹貫の話を聞いていましたか?」
蜂須賀がすかさず咎めるけれど、主はきょとんとしている。
「家を建てるところまでは聞いていました」
確かに昨日、主が完全に寝息になったのはそんなあたり。元々穴に住んでたけれど別の種族から家を建てる方法を教わったとか、そんな感じの。
「それは今日の予定ではありませんよ」
「寝る時にまた読んだげるから、とりあえず仕事ね」
呆れたような蜂須賀の声に続いて、気を引くようなことを言ってみる。
それでも主の目線はこちらを捕らえなかったので、もう一押し。
「主、今日の予定聞いてくれたら、朝ご飯食べてる間だけ続き読むよ。そしたら仕事行こ?」
あっ、こっち見た。
「今日は、午前中は執務室で、その後はオレといっしょにいること。できる?」
ゆっくりそう言うと、はっきりとうなずいた。それから、不思議そうに手に持った一粒も減ってない器を見る。食べたくないのかな。でも朝ご飯は大事らしいし、主は痩せすぎだからね。
「食べるの止めたら読むのも止めるからねー」
本を開いて急かすように言うと、レンゲを動かし始めた。
蜂須賀が隣にいて、少しだけ恥ずかしかったけれど、振り切って昨日の続きをゆっくり読んだ。文字と主を両方見ながら、宣言通り主の動きが止まったら読むのをやめる。そうするとまたすぐ動き始めるので、こっちも再開する。それを続けていると、主が食べ終わったのを察して蜂須賀が主の手から食器を抜き取り、部屋を下がっていった。
主はじっとこちらを見て、耳を傾けている様子なので、そのまま、序章の終わりまで読み続けた。
今日はもう時間に合わせる必要はないと、蜂須賀とふたりで決めたのだ。
そこまで読んで本を閉じると、ついさっき話を聞かなかったことなんかなかったかのように、素直に立ち上がった。オレの手の中にある本を持ち出していいかと聞くと、しばしの逡巡の後うなずいた。一期一振りも部屋にある本を見ておいて、後で図書室で読むと言っていたので、本来は主以外の持ち出しは許されないようだ。お礼を言って、ポケットにしまった。落とさないように気をつけよう。
執務室では、書類を一枚書かせてみて、やっぱり支離滅裂なのを確認してから電子署名を数枚。それからモニター。多分できないとは思うけど、この状態でやらせたことはないって言うから念のため。蜂須賀が青江に頼んでおいてくれたので、三人で画面を見る。指示を出すのは青江。主もいつもはちゃんとできるらしい。オレは初めてなので、勉強になる。真面目に聞いていたら、主の頭がかくん、と沈んだので肩を揺すって起こした。書類に戻らせても訂正する手間が生まれるし、何度か起こしながら昼近くまで皆の行軍を見守った。青江の声を聞きながら、主を視界の端に捉えたままで、スマホをいじる。なかなか忙しい。
「煙草のところでもビシってさせておいたほうがいいか
詐病の可能性はないのか
本人はなにがきっかけでそうなってるかわかってるのか
本来の主はどう思っているのか
元に戻った後今の状態でしたことを話してもいいのか」
今思いつくのはこのくらいかな。疑問符のつけ方がわからないな。ひとまずそれを送信しておいて、主が限界だろうから、いつもよりかなり早く執務室を出た。執務員の前で本を読ませていいかわからなかったし、ご飯ができるまで食堂にいよう。
主は手を引くとおとなしくついてきたので、厨で猫の餌を受け取っていつもの場所へ。オレがすぐ近くにいるのに、猫は逃げなかった。それよりいつかのように主の足下を二匹でぐるぐると囲んでいる。主は驚いたように足を止め、猫を見てやさしく微笑んだ。昨日、オレにそうしたみたいに。忘れてしまう、と言った蜂須賀の声を思い出す。主が持った器が傾くのが見えて、つないでいた手を放してそれをまっすぐに直した。猫は甘えるような声で鳴いている。
と、主が突然しゃがんで、そこに器を置いてしまった。猫たちもいつもと違うと思ったのか、口をつけずに声を上げて主を見ている。主は猫に向かってにこりと微笑んで首を傾げた。そうすると猫たちも諦めたのか、ひとつの皿に二匹で顔を突っ込んだ。もしかしたらこういうこと、初めてじゃないのかもしれない。隣にオレの持っていた皿を置いてやると、分かれてそれぞれに食べ始めた。食べながら、主を伺っているのがわかる。猫たちが急にまとわりつくようになったのは、もしかしたら猫たちも主を心配しているからなのかもしれないと思った。
食べ終わった猫たちを、主が膝に乗せて撫で回している。完全に地面に正座していて、立ち上がったら着物の膝下は土埃で真っ白だろう。それでも咎める気にはならなかった。
いつもより長く猫をかまっていた主が、猫に別れを告げると、立ち上がって口を開いた。
「ごはんの前に、部屋に一度寄りたいのですが」
ちょうど良かった、オレもその砂利とかがついた着物を着替えさせたかったんだ。
「服、汚れちゃってるから着替えさせてくれるならいいよ」
「わかりました」
軽く払って白い土汚れを落としてから、支度部屋へ。脱がせた着物を衣桁にかけて、新しく出した紫鼠の着物を着せかける。着替えたものは誰かが片づけてくれている。自分は請け負ったことがないがそういう係があるのか、蜂須賀がやっているのか。
「できたよ」
そう言うと、主はかすかに微笑ったような無表情で、こちらに片手を差し出した。一瞬虚を突かれたが、その手を握るとぽやんとした顔のまんま主は歩き始めた。
忘れちゃうくせに。と思った。忘れちゃうくせに、オレの仕草を覚えたりするんだ。
主の用事は、部屋の前に置いてあった。万屋通販の段ボール。オレも当番になって、みんなの部屋に配ったことある。大体午前中にまとめて届くから、仕分けして食堂に運び込む。近い部屋の奴は部屋の前に置いたり、通りがかったやつにそのまま渡したりする。
かりかりとガムテープをひっかいて剥がすと、主は見るからにうきうきした様子で箱を開けた。中から一冊の本を取り出して、懐の本と入れ替える。昨日読んでいた本は飽きたのか、ここに置いていくらしい。
「新しい本?」
「はい」
問いかけるとちゃんと返事をしてくれるし、蜂須賀が言うような頑迷な印象は受けない。
「何の本なの?」
「これは、駅が殖える本らしいです」
駅が増える…新しい駅ができて町が活性化するとかなのかな。
「よかったね」
「はい」
うれしそうなのでそう言うと、主はかわいらしく笑った。
お昼ご飯はちゃんと食堂で、小さい三色の混ぜご飯のおにぎりがたくさんと、つくねと蓮根の照り焼き、小松菜のおひたし、ミニトマト。主はさっさと席について本を広げたので、ふたり分の膳を持ってきて隣に座る。オレのは同じメニューで一個の大きさと量が違う。あーん、と言うと目線は本のままでぱかりと口を開けた。
やっぱりちゃんと学習している。
最初は緑の混ぜご飯。箸でつまんで口に入れると、のんびりと咀嚼を始める。主は飲みこむまで時間がかかるので、この間に自分の食事を進める。緑は菜っ葉、赤は梅、黄色は炒り卵だった。元の主は野菜が嫌いだったぽいので、慎重にミニトマトを差し出したが、主は本から目を離さず、おとなしく食べていた。ちゃんと味はしているのだろうか。
順調に食べ進めたが、おにぎりは全部は食べなかった。急に口を開けなくなってしまったので、目の前で手をひらひらさせると、こちらを向いた。
「おなかがいっぱいのような気がします」
「そうなんだ、じゃあオレが残り食べてる間、ここで本読んでてくれる?」
そう訊ねると、ひとつうなずいて本に視線を戻した。ゆったり話すのはどちらの主も同じで、耳に心地いい。
膳を下げに行く前に、待っていてくれるように頼むとひとつうなずいたので、全面的に信用したわけではないが席を立った。振り返り振り返り厨へ行き、膳と引き替えに遠征用の肩掛け鞄と二人分の上着を受け取った。スマホが振動したのを感じて取り出すと、蜂須賀から返信。
「・四阿は休憩する場所なので、そこでは好きにして問題ない。寒いので長居はしないように。風呂のことからもわかるように、主は体温の推移を感じる器官がどうかしている。
・最初はそういうことも疑ったが、後で正気に戻った時の主の落胆は7年見て嘘には思えない。
・本人はわかっていないし、言ったこともない。新刊の時は少し気づいてるかもかな?きっかけになったと思われる話を蒸し返すとまたなってしまうかもしれないから、言うつもりもない。
・主は困っている。かなりお若い頃からの患いで、現世での生活には今以上に様々な支障が出たらしい。
・記憶のない間に仕事がどんどん入れ替わってしまうから、当然何を進めて何が来たかなど、仕事の引き継ぎはする。本丸や刀剣たちに何かあっても同様だ。主ご自身のお怪我や不調のある場合はそれもお話する。ご気分を損ねた話や立ち居振る舞いについては落胆されるだろうから言ったことはない。」
返信は後で。主は席から動かず、ちゃんと約束を守ってくれた。声をかけても反応がなかったので、肩に手を乗せて軽く揺すると、驚いたようにこちらを見た。
「煙草吸いに行くでしょ?行こ?」
上着を着せながら視線を合わせてそう言うと、主は目を大きく開いたままでうなずく。きれいな瞳が光を受けて色を変えた。片手を出すと、あわてたように本を懐にしまい、細い指先でオレの手を取った。
手を繋いで冬枯れの細道を歩いて行く。
「あのね、昨日本読んでる時に煙草吸ったら危なかったの覚えてる?」
昨日のように歩きながら本を取り出したりせず、ぼんやりとした顔でおとなしくついてくる。オレの質問には小首を傾げたので、聞いてはいるようだ。
「そういうことがあったんだ。だから、今日は煙草を吸っている間は話をしない?それで、吸い終わったら駅の本を読んでもいいし、昨夜の本をオレが読んでもいいよ」
そこまで言うと、急に意志を持ったかのようにはっきりとこちらを見た。
「読んでくれるんですか?」
「うん、いいよ。でも外だから、少しだけね。眠くなっちゃったらそこで終わりね」
「寝ません。わかりました」
急に歩くのが速くなって、さっきまで後ろにいたはずの主がすぐ前をずんずん進みながらオレの手を引く。そもそも本を読むのは、ただ気を引ければいいなという思いつきだったけれど、主の反応は予想を上回っている。主にとっては、大事なことだったのだろうか。顔のことを言うのはダメで、本を読むのはいい。主の大事の基準は難しい。全部忘れてしまっても、オレの読んだ本が主の中に残ったらいいな。
そしてこれから聞くことは残りませんように。
煙草を一本受け取ると、主が火を点けてくれる。これは、普段の主と同じ仕草だ。オレのを点けてから、自分のを点ける。
何から聞こうかな。
今のところ質問を無視されたり拒否されたりしたことはないので、何でも答えてくれそうだけど、蜂須賀の話では今までは話してくれなかったみたいだし。一番短くて残りは一日。こっちの主に会わない人は会わないみたいだし、オレもこの一回だけかもしれないし。本当の主が聞きたくないようなこと。
煙草を吸っている時間なんて短いものだ。
「ここの本丸名とIDは?」
これは確認。主はすんなり答えてくれた。仕事はメチャメチャだけど、記憶に共通してる部分があるっていうのは本当なんだな。
「現世と連絡取り合ったりしてる?」
すると主はにこっとかわいらしく微笑んで、何も答えなかった。なるほど、蜂須賀はこれに阻まれたのか。この分だと、何回同じ質問してもこのままなんだな、きっと。そして一期一振はここからさらに踏み込んで…。一期一振なら買収とかは試してそうだしな。オレの強みは、多分だけど主がちょっとかわいいと思ってくれてるところ?しかたないなって顔で、許してくれる。主ってそういう印象。
まっすぐ見ていた主の目を、ひとつ瞬きしてちょっと上目遣いで見直す。微妙に膝を曲げて少しでも自分を小さく見せる。イメージするのはこないだの村雲江。ちょっと目が潤んだりしたら最高なんだけど、そう都合よく涙は出なかった。
それでも主の何かには呼びかけることができたようで、主は少し困った顔をした。
「どうしてそんなことを?」
「主を連れ戻しに来るやつがいたら面倒だなって」
これは本音。だってせっかくできた帰る場所をなくしたくないからね。
主は眉を寄せたままため息をついた。その顔は、普段の主のようだった。瞳はいつもより昏く映る。ひとつ、深いため息をついてから、口を開いた。
「現世側から私に接触することはできません。今の私の連絡先はすべてここに来てから取得したものだからです。あるとすれば政府を通してですが、誰もそんな情熱はないでしょう。いいですか、内緒ですよ?」
「誰にも内緒?」
そういうと主は黙ってしまったが、何か考えている様子なので待ってみた。主の煙草から灰が落ちる。
「蜂須賀には言ってもいいですが、あとは内緒です」
「どうして?」
「できるだけ私がダメな人間だってことは隠しておきたいからです」
「なんで?」
「ここを首になったらいくところがないからです」
ふと主が驚いた顔で手を振って、フィルターだけになった煙草が地面に落ちた。話をしている間は吸っていなかったから、いつの間にかフィルターの際まで焼けたのだろう。
「やけどした?だいじょうぶ?」
「ちょっとびっくりしただけで、もう痛くはないです」
フィルターを拾って、もみ消してから灰皿に捨てる。見せて、と言うと主は素直に手を差し出したが、特に赤くなっている場所はなかったので安心して手を放した。
「笹貫がへんなことを聞くから、全然吸えませんでした…」
拗ねた口調は、先ほどまでのいつもの主の姿とは馴染まない。それでも不満だとしても、一人で本を読み出してしまわずに自分から話してくれるのがうれしい。
「じゃあ、さっきのは数えないで、次が本当の一本。蜂須賀に何か言われたら、オレがいっぱい吸ったって言いな」
「もう一本吸ったらまた答えたくないことを聞くでしょう?」
「もう聞かない。答えられることだけ」
今はね、という本音を飲み込んで答えると、頑固な子供のようにぐっと引き結んでいた口元がふっと緩んだ。
「答えられること、例えば?」
「本を読むのは楽しい?とか?」
それならいいと言うようにうなずいて、主は二本目の煙草に火をつけた。それからオレにも箱を差し出すので、遠慮なくもう一本もらった。
静かに吸いこんで、細く煙を吐き出す。
「なんでしたっけ…」
ぼんやりとした瞳はそれでも美しく、光を弾いた。
「本を読んでるとき、楽しい?」
もう一度訊ねると、腑に落ちたようにひとつうなずいて、微笑んだ。よほどさっきの質問が嫌だったのだろう。
「楽しいです。自分を忘れて、耽溺できます」
自分を、か。それはむしろ恐ろしいことのように感じるのは、オレにその経験がないからというだけなのだろうか。一応、主は楽しいと思っているならよかった。
「オレにオススメの本とかある?」
もう一回重たい質問をするチャンスを狙って、安全そうなのを、軽く。
「本を勧めることはありません」
全然軽くなかった。すごい速さで拒否された。
「え?なんで?」
「勧められたという事実がもうその本に影響を与えてしまうからです。それに、私にもよくない影響が及ぶこともあるので」
主の答えって背景がわからないとなんにもわかんないこと多い。とにかく何か信条があって勧めるのが嫌で、勧めたことでなんか嫌なことがあったんだな。
「じゃあオレが勝手に読んだ本の感想を主に話すのはいい?」
「それはかまいません。むしろ、好ましいです」
おっ好感触。
「さっき置いてきた本のこと、望まない冒険って言ってたの覚えている?」
「言ったのは覚えていませんが、確かにあの本は望まない冒険の話です」
覚えてないんだな。何を覚えてて何を覚えてないのかの判断が難しい。
「主はここでの冒険を、望んだの?」
「望みました。ここでだめならもう他に行くところはないのだと思ってここに来ました」
「どうして?」
「私が空虚な人間だからです。橋の下に潜む怪物なのです」
答えないかと思っていたけど、なんだか抽象的で重たい答えだった。最初の質問といい、蜂須賀の話とは違って、よく答えてくれている。現世との連絡を完全に絶っているなら、主の地雷は家族だけではないかもしれない。友人も、恋人も。もし全員死んでいるのなら、連絡先を変える必要はないのだから、生きている人間との縁を全て切ったということなのだろう。今の答えといい、オレが考えていたよりも主の心は昏く沈んだもののように思えた。望んでここにいてくれてうれしいはずなのに、あまり喜べなかった。
ふたりとも2本目を吸い終わって、主は期待してこちらを見ている。
「ちょっと待ってね」
長椅子に腰掛けて、肩掛け鞄から水筒を出す。蓋がコップになるやつ。傾けると紅茶が出てきた。湯気が出ていたので先に一口飲んだが、ちゃんとぬるめに作ってくれていた。
「はい、こぼさないようにね」
蓋を差し出すと、それを両手で受け取って、主は一口飲んだ。持たせているときっとこぼしてしまうだろうから、返してもらって残りはオレがまた飲む。風が冷たいので、自分の上着も主の肩にかけてから、本を取り出して開いた。
読み上げながら主の顔を伺うと、主は幼子のような面差しで身を乗り出して聞き入ってくれていた。すごくかわいい。その顔は、全然空虚には見えなかった。片手で頬に触れると逃げなかった。読み続けているからだろう。白い頬は冷たくて、あまり長くここにはいさせられないな、と思った。
きりのいいところで本を閉じると、主はしょぼんとしてしまった。最初無表情なのかと思ったけれど、こっちの主のほうが表情は豊かみたい。
「寒いからね、これ飲んで、少し歩こう」
紅茶を差し出すと、おとなしく受け取って全部飲んだ。
立ち上がって手を差し出すと、細い手がちょこんと乗る。指がすごく長いな。その冷えた指先を握りこんで、歩き出す。
主は行き先を聞かなかった。ただついてくる。朝そう言ったからだろうか。こっちの主がなんなのか、誰もわからない。仕事ができなくて子供っぽくてかわいい主。かわいいと思うほど、元の主に会いたい。優しくて、冷たくて、偏屈で、きれいな主。見た目通り儚くて、脆くて、オレがつついたらどこかへ行ってしまった。今度はもっと慎重に扱うから、早く帰ってきて欲しい。こっちの主は本さえ掲げればなんでも答えてくれそうだけど、本当は貴方の口から聞きたい。ちょっと嫌味なため息をついて、しかたないなって顔をして。
午後のやわらかい日の当たる庭を歩いて、厩が見えたところで止まる。不思議そうに主はオレを見た。
「主がぽやんとしてるの、知らない子が見たら心配するから、ここから見よ?」
いつもの状態ではないと言うことを本人が理解しているのかはわからないが、そう言うと主はうなずいて、ただ小屋と言うには大きいその厩舎を見つめていた。
日向ではあったけれど、体が冷える前に畑まで移動。厩と同じで、働いている男士が主に判別できるかできないかのところからしばし見守った。今日の畑当番は祢々切丸と秋田。秋田がこちらを見て跳びはねながら手を振って、主はちゃんと小さくだけれど振り返していた。刀剣男士の視力なら、きっとちゃんと見えただろう。
「掃除組と手合わせ組は今日はサボろうか。日課できそう?それともおやつ食べる?」
男士たちが行き交う室内をうろうろさせるのは、利点が少ない。畑を見下ろす小道を歩きながら、主はちゃんと聞いていて軽く首を傾げた。
「おやつ?」
「主一回にたくさん食べるのちょっと苦手でしょ?痩せてるし、間にもう一回食べてもいいかなと思って、燭台切に頼んだんだ」
食べる?と訊くと小さくうなずいた。
気が乗らないかな、と見つめていると、小さな声で問いかけられた。
「おやつって…こどもじゃなくてもたべていいんですか…?」
気になるところそこなんだ。あと自分のこと大人だと認識してるんだ。
「いいんだよ。蜂須賀もいいよって言ってたよ」
ちゃんと朝相談してある。抜かりはない。
「蜂須賀が…」
そう言って、主はもう一度うなずいた。蜂須賀の名前への信頼感はやはり強いようだ。
「どこで食べる?寒いから、食堂か、主の部屋か、支度部屋はどう?」
「仕事なのに、部屋に戻っていいんですか?」
「オレといっしょならいいよ。オレがいない時は、蜂須賀といっしょにいてね」
何が定着するかはわからないので、念の為に言ってみる。次になる時も覚えているとは限らないけれど。
もう一度うなずいたので、とりあえずはそれで良しとする。足を踏み出したら、繋いでいた手をくんと引かれた。
「本を読んでくれますか…?」
天然ものの上目遣い。貴重だから目に焼き付けておこう。
「いいよ、でもオレが食べてる時にいっこだけ質問に答えてくれる?」
そう投げかけてみると、薄い瞼を伏せて考える様子を見せたが、本を読んでもらえる魅力には勝てなかったのかはっきりとうなずいた。場所のことは何も答えなかったけれど、板の間の主の部屋の方がこぼしても問題なさそうだったのでそちらに向かうことにする。主も無言でついてきたので、異論はないのだろう。
本の山に囲まれて鞄からバスケットを取り出す。中には小ぶりなスコーンと、クリームとジャムの瓶、スプーンが二本。布巾が二枚。クリームの瓶がジャムの二倍の大きさだ。
蓋を開けてみせると主の目はまん丸になった。視線はスコーンに釘づけだ。さすが燭台切。本当にこれが好物らしい。
正座の膝に布巾をかけてひとつ渡すと、両手でうやうやしく受け取った主は、クリームを山盛り取って、明らかに一口分より多い量を薄黄色の菓子になすりつけた。昨日は甘いものが好きそうだったのに、今日はジャムには見向きもしなかった。これが、ふつうの食べ方なのか主独特の作法なのかがわからない。人格の問題かどうかもわからない。
とにかく主はそのクリームに、なんの遠慮もなく大きな口を開けてかぶりついた。端正な口の周りに容赦なくクリームがつく。本の催促がないのをいいことに、オレは手元のスマホで急いで食べ方を検索した。どうやら正式な食べ方というわけではないらしい。同じ食べ方をするべきか迷っていたので、調べてよかった。
一口目にあんなにクリームをつけたのに、二口目の前にまたクリームをごってり盛っている。クリームの瓶が大きい理由がよくわかった。でもすっごくにこにこしてる。おいしいんだ、おいしいんだね。オレは気持ちを落ち着けて、本を開いた。
結局主はその食べ方でスコーンを二個食べた。クリームは八割方減った。
「お腹いっぱいになった?」
確認すると、足を崩してとろんとした目でうなずく。膝に置いた布巾も、着物の胸元も、床の上も菓子くずでいっぱいだった。呆れながらもくつろいだところを見せてくれて、少しうれしかった。布巾でくずを払って集め、もう一枚入っていた多分オレ用の布巾で口の周りを拭く。主は目をきゅっと閉じたけれど、よけずに我慢していた。
投げ出された真っ白な脚が少しはだけた裾の中に見える。そういえば、こちらの主も基本的には行儀がいい。背筋は伸びているし、座り方が崩れているのを見るのは初めてだ。それだけ躾の厳しい家だったのだろう。家のことを聞こうか。でも連絡が断絶しているのなら、絶対に嫌な顔をする質問だろう。さっきあんなにうれしそうにおやつを食べるところを見た後では気が引ける。
スコーンを横半分に割って、白いクリームと真っ赤なジャムを乗せて口に運ぶ。これは、ぼろぼろとこぼさないで食べるのは無理そうだ。ニ口で上半分を食べ終えて、主に話しかけた。
「ね、触られるの嫌いなんでしょ?」
ぽやんとした瞳がこちらを向いて、ひとつうなずいた。
「触られるとどうなっちゃうの?」
すると、考えるように小首を傾げてから、小さく唇が開いた。それを見つめたまま下半分を食べる。
経験則で言うと考えてる時は答えてくれるけれど、どうかな。なにを思い出したのか、主はひとつ身震いをしてから予想通り答えてくれた。
「ぞわぞわします。しめってたり、なまあたたかかったりして、気持ち悪いです」
「どうしてオレは触ってよくて、部屋にも入れてもいいって思ったの?」
「笹貫は猫だからです」
斜め上の答えだった。オレは猫ではないけど、こっちの主にはそう見えているのだろうか。もうひとつのスコーンに赤と白を塗りたくる。
「質問いっこじゃなかった…」
うつむいた主が悲しげに呟くのが聞こえる。これは想定内。
「ごめんね。じゃあこの後の日課はやめにして、猫の時間まで本読もうか。それで許してくれる?」
なんでも好きなもの買ってあげる、とか言えたらいいのだけれど、この主は明日もいるかどうかわからないから。次に会った時も覚えていてくれるかわからないから。今できることだけで埋め合わせる。
主がうなずいたので、オレは急いで口に焼き菓子を詰め込んだ。
それから時間になるまで、オレは本を読み続けた。本の中では無事誕生日会が開催された。
猫のところに行く前に、一言断ってから蜂須賀にメッセージを送る。
「質問の答えありがとう
散歩おやつ済
寝てない
オレからの質問にはいくつか答えてくれた
これから猫風呂夕餉」
上着を着せて、猫の食事を受け取り、庭へ出る。主は機嫌よく見えた。にっこり笑って、ちやんと定位置に皿を置いた。石の上に退避して、本を読まずに猫を見ている。懐にちゃんと本は持っているはずなのに。猫たちが邪魔をするから諦めたのだろうか。風が吹いて、髪が乱れるのを細い指先が押さえる。その仕草にふと、腹の底の情欲が疼いた。あんな幼気な様に何もできるわけがない。そう思っても、指先の感触を知っているのはこちらの主だけだった。
主と猫はひとしきり戯れて、別れた。
風呂も夕餉も何事もなかった。風呂周りっていうか、身の周りのことは自分でやらないで全部こちらに任せてくれる今のほうが楽な可能性がある。
夕餉は一口コロッケ。椎茸とエビのしんじょ。マヨネーズのついたブロッコリー。小さな混ぜご飯のおにぎり。
「この状態のときご飯部屋でとるとどうなるの」
膳を待っている間に、思いついたことを蜂須賀に送る。
「お陰様で執務は滞りなく。
普段食事は部屋で一人で取られるが、この状態のときは食べない、食べるのを忘れる、食べようと思って崩したが食べなかった、食べようと思って崩したのだろうが食べたのかどうだか判然としない、という食器を朝回収することになる」
なるほど、みんなが食堂で食べていると言って大騒ぎするわけだ。
自分のコロッケを先に食べて中が熱すぎないのを確認してから、主の口に入れる。主は本を取り出したけれど、卓の上に置いて手には取らなかった。こちらを見て、一生懸命に口を動かしている。
「これ、すき?」
飲み込んだタイミングで聞いてみる。
「中に入っているお肉がすきじゃないです」
「じゃあこっちのほうがすき?」
主が身を固くしたのがわかったが、別の質問を咄嗟にしてしんじょの器を手前に引くと、微笑んでうなずいた。
「えびはすきです」
「じゃあ一個交換ね」
主の器からコロッケをひとつ自分の口に放り込み、薄桃色のしんじょを自分の椀から主の口へ。
「嫌いな食べ物は胡瓜と他には?」
「くさいのと苦いのも苦手です。生のお野菜は味がついてないときらいです。お肉はここに来て好きな時もあることがわかりました。でも、ほかにも食べてみたら好きじゃない食べ物もあります」
この一連の問答で気づいた。主自身のことに興味がない、という縛りがこちらの主にはないのだ。興味の有無よりも、ただ質問に答えることに注力しているせいだろうか。
「季節はいつが好き?」
「ふゆです」
「どうして?」
「空気が張り詰めていてきれいだからです。雪も好きです」
「じゃあ、いま好きな季節だね。雪降らせたりできないの?」
「できます。でも農作物に影響があるといけないと思ってがまんしています」
「じゃあ今度、蜂須賀にどうやったらできるか聞いてみるね」
そう提案すると、ぱっと花が咲くような可憐な顔をした。
おにぎりだけまた少し残したけれど、おやつを食べたことを考えたら上出来。小ぶりのみかんをむいて、一房ずつ口に入れていく。中の皮は外さなくても食べるみたい。
こちらを見て小首をかしげながら咀嚼しているところを見ていると、ショックを受けるかもしれない質問なんてできないなと思った。オレと楽しく、ご飯食べてくれるだけでうれしいから。
「好きな食べ物は?」
「歌仙の作ってくれる、中が半熟の卵焼きです。甘くないのが好きです。今日のえびのふわふわもすきです。光忠の作ってくれる白いお魚の焼いたのも好きです。今日食べたスコーンにつけるクリームも好きです。小豆の作るお菓子にはいつも驚きます」
うんうん、と話を聞いて、もうひとつ尋ねる。
「現世では何が好きだった?」
ぐ、と息を呑むような仕草をして止まった。視線が揺らいで、しばらくそうしたあと、ようやく口を開いた。
「いかと里芋の煮たのです。あとはお味噌汁にご飯を入れて煮たやつです。このふたつは作れます。それとお店のBLTのサンドイッチ」
「BLTって、ベーコンと野菜でしょ?それは平気だったの?」
「知らないで頼んだのですが、おいしかったのでそればかり食べていました」
話しているうちに少し顔のこわばりがとけてほっとした。
食べ物のことだから、だいじょうぶだったのかな。現世のことを聞かれるのはこっちの主も好きじゃないことは確かなんだな。残りのみかんを食べさせて、食器を下げついでに主の食の好みについて燭台切に告げ口する。もちろん口止めもした。一期の言う根回しってやつだね。
「そんなことまで聞けるんだ!助かるよ。主は残してもおいしかったけど、具合が悪くておなかがいっぱいで、だけであんまりほんとのこと言ってくれないから。大抵のものはがまんして食べてくれちゃうし、食事をいっしょにしてくれることが貴重だからね」
「今日のクリームって何だったの?」
「あれは牛乳から作る濃いクリームかな。クロテッドクリームっていう名前。一度黙って出したらすごい量つけて、なくなったら食べるのやめちゃったから気に入ったんだなって思ってたんだ。今日は市販のやつだったけど、瓶の残り見た感じ大丈夫だったみたいだね。全員分用意しておくのがちょっと大変だから、たまに、主だけのおやつならできるよ」
「またお願いすること、あると思うからよろしく。今日、急に言ったのに聞いてくれてすごく助かった。ありがと」
「どういたしまして、厨は君と持ちつ持たれつ、うまくやっていけそうだよ」
燭台切が爽やかに微笑うのに手を振って、主のところに戻った。主は本を読んでオレをちゃんと待っていてくれた。
「お待たせ、着替えて部屋戻ろうか」
こくりと頷いて、本に何かを挟んで懐にしまう。
「駅の本、おもしろい?」
「はい」
「今どんなところ?」
それを聞くと主は首を傾げたが、オレが「そこだけ聞いてもわからないから大丈夫だよ」と保証するとすんなり答えてくれた。
「今は無銭飲食で捕まりました」
え…ほのぼの町興し実録とかじゃないの…?
つないだ手をゆらゆらさせながら歩く。
「さっき本に挟んでたの、栞?」
「いいえ、新刊案内です。新刊にはだいたいついてます」
「でも昨日はなんか紐?挟んでたよね?」
「栞紐はだいすきです。でもあれがついている文庫は限られます。この本はソフトカバーですが、ついていませんね」
本の話をする主は楽しそうだ。これは、元の主の時にも聞いてみよう。
夜着に着替えさせて、部屋に戻る。夜番は村雲で、もやっといやな気持ちになったが、今日の村雲は笑顔で主の言葉を聞いて、了解しました、とだけ言った。主も他の夜番に言うことと違うことは言わず、それだけで部屋に入ってしまった。あいつにも何か条件があって、その時だけのことだということなのだろう。それで満足なんだろうか。オレは、いつか来る本当につらいときまで、がまんできるだろうか。
部屋ではすぐに主は布団に入って、わくわくしてこちらを見るので、眠りにつくまで本を読み続けた。
「主は眠った
煙草二本つけたけど一本はオレのせいでほとんど吸ってないから咎めないで
夕飯はほぼ完食
ご機嫌は良好
詳しくは明朝」
主が言ったことを、スマホに書いて後に残すのは違う気がしたので、そう結んだ。
昨晩の通りなら一晩中起きないだろうけど、一回だけでは参考にならないし、この部屋で寝られる特権に甘んじることにした。眠りに落ちるまで、少しでも先を読んでおく。先に一度読んでおいた方が、声に出して読む時に楽なような気がするからだ。主人公かと思っていた人が消えて、話はその養子の青年に移っていた。