右手のひらでボールを支え、左手を添えて輪郭を確かめる。膝をわずかに折り、体の深くに沈んでいた重心を引き上げる。芯が一本通るような感覚。
重力と釣り合う、わずかな瞬間。世界がほんの少し、静止する。
滑らかな放物線を描き、迷いなくリングへと向かう。その軌道だけは、いつも通りだった。何も変わらない。
ネットが揺れる。音が、胸の奥底で鳴って、すぐに消えた。
そうだ。オレは多分、この音を聞くために来ている。
冷え切った空気が、体育館の高い天井にひっそりと淀んでいた。
三井から少し離れた場所では、練習着姿の部員たちがゆるやかに動き出している。ゴール下でフォームを確かめる者がいたり、ストレッチしながらふざけ合う声が聞こえてきたりする。部活が始まるまでの、束の間のゆるみ。
三井はその流れから切り取られたように、学ランのまま立ち尽くしていた。
スリーポイントラインの上に、上履きのつま先が重なっている。わずかにきしむ床の感触。自分が今、どこにいるのかを確かめるように。
「ミッチー、また来てんのかよ」
不意にかけられた声に振り向く。桜木だった。スポーツドリンクのボトルを片手に、まっすぐこちらへ歩いてくる。
「大学決まって、そんなにヒマなんか?」
先輩を捕まえてヒマ人呼ばわりとは、あいかわらずの無礼ぶりだ。けれど、今さら目くじらを立てようとも思わない。というかそもそも、こいつに敬語を使われたことが、ない。もはや気が抜ける。
「まーなぁ……。だからって、家でごろごろしててもな」
三井はボール籠からもう一球を手に取り、再びシュート体勢を取った。リングを見上げ、呼吸を整える。
「ほーん。じゃあよ、普段なにしてんだ」
飛躍の瞬間、桜木の声が空気に割り込んだ。
――冬休み。あの日のことが、ふいに胸の奥で鳴る。
思い出すつもりなんてなかったのに、些細なきっかけひとつで記憶は立ち上がってくる。
行き場のない欲が、生活の片隅に静かに這い上がってきて、心と体の境目を曖昧にしていく。あのとき感じたものが、全部、消えずに残っているから。
ぬるく湿った指先が、皮膚の裏側にじっとり入り込み、掻き乱してくる。
それはもう、想像ではない。再現だった。
気づけば、手が動いている。
自分自身のそこに触れている事実に反応し、奥のほうが疼く。満ちていく感覚を、誰にも見られない場所でやり過ごす。
そうするしかない。そうでもしなければ、日常のなかに、立っていられなくなるから。
放たれたボールは、リングに当たって跳ねた。乾いた音が響く。
「お。心の乱れってやつじゃねぇーの」
桜木がちょっと得意げそうに言った。
「うるせぇーよ」
三井はすぐに言い返した。意識していなかったのに、内側では揺らいでしまっていた。
「あのー、すみません」
すぐそばから声がし、ふと見下ろす。そこにはいつの間にか近づいていた晴子がいた。
「ハルコさん!」
桜木は目を丸くし、すぐにぱっと顔を輝かせた。
「こんにちは、桜木くん」
晴子は髪を耳にかけながらほほ笑んだ。
「こんにちは……!」
桜木は少し声を落ち着かせて挨拶を返した。晴子は桜木にうなずいてから、視線を三井の方へ転じた。そして、一呼吸置き、軽く会釈をした。
「お疲れ様です。先輩」
「おう。お疲れ」
三井は短く返した。
「桜木くん、ちょっといいかな?」
晴子が声をかけた瞬間、桜木の背筋がびしっと伸びた。名前を呼ばれた犬のような反応だ。
「はいっ! なんですか、ハルコさん!」
語尾に力が入りすぎて、声がわずかに裏返っている。晴子はくすりと笑ってから切り出した。
「ええとね、聞きたいことがあって……」
晴子は手元の小さなメモ帳をそっとめくり、視線を落としたまま続けた。
「桜木くん、苦手な食べ物とか……、アレルギーって、ある?」
それだけの質問に、桜木は前のめりで大きく胸を叩いた。
「ありません、なんでも食えます!」
その大仰な返しに、晴子は笑ってペンを走らせた。
「ふふ、なんでも食べます。と……」
「あ、三井先輩じゃないですか」
二人のやり取りを眺めていた三井のもとに、彩子がふらりと近づいてきた。
「……先輩の分も買っときますよー」
彩子はからかうように、にやにやと頬をゆるめている。
「なにをだよ」
三井は少しぶっきらぼうに聞き返した。
「決まってるじゃないですか。来週バレンタインですよ」
「あー……」
三井はようやくそのイベントの存在を思い出した。
「『あー』って……。全然意識してない感じですか?」
「まあ……」
中学の頃は、それなりに気にしていた。下駄箱や机の中を、密かに緊張しながら覗くくらいには。まあ、ここ二年は、そんな浮ついた気分とも無縁だったわけで、つい忘れてた。今年はちょっと事情が違うっていうのに。これってもしかして、けっこうマズいんじゃねぇーの?
「みんなの分、一緒に買いに行こうって話してたんですよ。ね?」
彩子はそう言いながら、晴子の方を振り返った。が、そこには晴子どころか桜木の姿もなかった。
「あら? あの子たち、どこ行っちゃったのかしら」
彩子が首をかしげながら辺りを見回す。三井も視線を巡らせた。
「おい、キツネ! 態度が悪いぞ! ハルコさんの優しさがどうして分からん!」
桜木の怒鳴り声がして、反射的に目を向けた。案の定、流川とにらみ合っている。
「声がデケー……」
流川が両耳をふさぎながら、ぼそりと呟く。わざとらしい仕草が、火に油を注ぐ。
「テメェ!」
「い、いいの……! いいのよ、全然!」
二人を止めようとする晴子の声が聞こえた。けれど、やはり姿は見当たらない。おそらくデカい二人の影に隠れてしまっているのだろう。
「……もう。なにやってんのかしら、あいつらは」
彩子は呆れたようにため息をついた。
喧嘩というより、もはや儀式のように定着してしまった桜木と流川の応酬に、三井はすでに興味が薄れていた。視線を彩子に戻しながら、ふと思い出す。
「あ……。冗談とは思うけど、オレのは買うなよ。もうとっくに引退して……」
「ちょっとちょっと! アヤちゃんの善意を無下にする気っすか?」
三井が言いきらない内に、声が重なる。どこからともなく、宮城が会話に割り込んできた。
「お前、どうせ受け取ったら受け取ったで文句言うだろ」
「そりゃ、そうっすよ」
宮城かあっけらかんと開き直る。
「あのなぁ、そんなのどうしろってんだよ」
三井がため息混じりに言うと、彩子がくすりと笑った。
「あら。こっちにもいたのね。うるさいの」
「え……う、うるさい? オレが?」
宮城は素で驚いた顔をして、指先で自分を指しながら聞き返した。三井は堪えきれずに吹き出した。
「おい、笑うなよ!」
「いやいや、笑うだろ……」
三井は肩を揺らしてくつくつと笑い続け、つられて彩子も声を立てて笑い出した。
「ごめんなさいね。本気で思ったわけじゃないのよ」
目尻に笑いじわを寄せ、彩子は楽しそうだ。宮城は器用に片眉を上げながら、照れくさそうに首筋を掻いた。
その時、体育館の扉が開いた。白く丸いシルエットが現れる。
「みなさん、こんにちは」
先生はいつものように、部員たちに穏やかな眼差しを向けた。
その瞬間、あちこちから「チュース!」の声が一斉に上がる。
三井も一歩前に出て、真っ直ぐに先生のもとへ歩み寄った。
「チュース!」
挨拶をし、深く頭を下げる。
「おお、三井くん。こんにちは」
先生は、相変わらずのゆったりした動きでにこやかに応えた。声の調子も、以前と何も変わらない。
先生が来たということは、これから練習が始まる合図でもある。三井はちらりと時計を見たあと、静かに一歩後ろへ下がった。
「じゃあ、オレはこれで。お疲れ様です」
この高校の体育館に、自分の立つべき場所はもうない。
「おや。行ってしまうのですか」
先生が、ふと眼鏡のつるを指で押し上げた。
三井は一瞬言葉に詰まり、けれどすぐに、いつもの調子で答えた。
「練習の邪魔になっても悪いんで」
「ずいぶんと遠慮深くなりしたね。まあ、またいつでもシュート見せてください」
「はい……!」
先生の優しさに、三井はひとつうなずいた。
「……ありがとうございます」
先生に会釈をしてから、部員たちの方へ視線を転じる。
「おつかれーっす」
と、宮城が気だるげな声で言った。続けて他の部員たちも、それぞれの口調で軽く挨拶を送ってくれた。
「おう。んじゃ」
三井は片手を上げて応じた。
自分のいた場所が、ちゃんと動き続けている。そんな当たり前の光景に少しの名残惜しさを抱きながら、体育館をあとにした。