百瀬兄弟軽やかなノック音が三つ。自室の扉を叩く音に、部屋の中の翔太郎は姿勢を正した。
「兄さま、僕です。悠太郎です」
声変わりを経て、少し父に似た響きを持つようになったが、その声は明るかった。
腰を上げ、弟の訪問を迎え入れた。弟の悠太郎は、何かワクワクした面持ちで部屋に入った。
「どうしたの?」
「兄さま、数学で分からない問題があって、教えて欲しいんです!」
翔太郎の心臓がドキリと鳴った。その問題が分からなかったらどうしよう。
弟は自分と違って超進学校の優等生だ。この前持ってきた問題も、高校生の先取りをするような内容で、翔太郎の頭を悩ませるレベルの問題だった。
無邪気に兄を慕い、勉強を教わりに来る弟の訪問が、毎回嬉しくも怖かった。
「…見せてご覧」
弟に対する自分の優位性は、もはや年齢でしかない。翔太郎はそう感じていた。
進学先も、習い事も、弟は自分よりも優れたレベルにいる。そんな弟が昔から自分を慕ってくれるのは、翔太郎にとっては"誇り"であると同時に、"命綱"だった。
祈るような気持ちで弟が指差す問題を見る。やはり高校生レベルの問題だ。とても5つ下に課されているレベルとは思えない。眉を寄せて頭を働かせる。
「これ、右辺を因数分解しなきゃいけないのは解るんですが、どのようにしたらいいかが分からなくて…」
翔太郎は、その問題の答えは解っていた。しかし、それはあくまで公式を丸暗記しているからで、そこに至る経緯を理解している訳ではない。つまり、説明できなかった。こういう時は決まって、愛用している参考書に助けてもらう。参考書にある図を、解説を借りて、何とか噛み砕いて言語化する。その行為も、弟に対してズルをしているみたいで、翔太郎の心を沈ませる。
「なるほど、x-1で纏めるとスッキリしますね。流石です!兄さま」
弟は、自分が全てを持って説明したことを一瞬で理解する。頭の回転が速い、数学のセンスがある、…出来が違う。翔太郎は突きつけられる弟との差にため息をついた。
「そういえば兄さま、聞きましたよ!映画の主役に選ばれたんでしょう?」
「…よく知ってるね」
まだ父にも話していないのに、と翔太郎は思った。
学園祭を盛り上げるために大役を仰せつかったと誇りたい気持ちと、「受験生の身分でありながら暇が有り余ってて結構なことだ」と嫌味を言われそうで怖い気持ちがあり、言えずにいたのだ。
「是非僕にも見せてくださいね。兄さまの映画!」
屈託のない笑顔。本当に自分のことを慕ってると分かる。…映画出演を打診してきた後輩のことを思い出した。
学校でも家でも、取り繕った顔で得た信頼にずっと怯えている。いつか、本当の自分が壊してしまうのではないかと。
「…うん。演技は、きっと少し上手いと思うから」
そうなんですか?と首を傾げる弟に、翔太郎は曖昧に微笑んだ。