Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    merry_popopo

    @merry_popopo

    お題箱でいただいたものや未完成の作品を載せます

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 7

    merry_popopo

    ☆quiet follow

    去った栄光の日に戻りたくなったrnが逆行して全てをやり直す話
    isrnだけどisgが出てくる前に力尽きた…
    sernっぽいけどただのブラコンです
    モブ大量発生・捏造だらけ

    藍色の怪物破壊者と再構築者ならば後者の方が怪物(エゴイスト)として相応しかったのだろうと痛む足を庇い呆然とフィールドを見つめながら試合終了の音を耳に受けていた
    さながらアポカリプティックサウンドのようだ
    終末の日。世界の終わり。
    とうとうこの日が来てしまったと3-2と無慈悲に表示されたスコアボードに目を向ける

    潔世一に全力を出して負けた。喰われ尽くしたのだ。
    終わりというのはこんなに呆気ないものなのか
    立つことができず退場すらさせてもらえない舞台の上
    端役(敗者)と成り果てた自分に自嘲気味に問いかける
    『満足か?』
    こんな終わりで一体何に満足すればいいのだろうか
    その答えを持ち合わせていない愚かな自分はただ歓声を浴びながら仲間たちと勝利の美酒を味わう主人公(勝者)を遠巻きに見つめ続ける事しかできなかった。



    潔世一と恋人関係になったのはU-20戦の後くらいからで、何が彼の琴線に触れたのかは知らないが顔を合わせるたびに熱烈に愛の言葉を囁かれ、口説かれ、告白され、そんなこんなが続いて結局最後は自分が折れる形で承諾する事となった。
    存外自分は押しに弱いのだとこの時初めて自覚した頭は未知の経験に戸惑いつつもゆっくり咀嚼するように潔を受け入れていった
    最初こそオンオフの切り替えができず2人でいる時ですらピリピリとした空気を出していたが潔の手によりゆっくりと絆されていくうちに少しずつだが穏やかに会話ができるようになりサッカーをしても以前より苦しくないと思えるまでに精神面が安定した。

    肉体関係へと発展するようになってからは最初こそ揉めたもののお互いを求め合う行為はまるで熱病にでも罹ったかのようになり自分が自分でなくなっていく感覚に怯えて泣いたりもした
    その度にお前は俺のものだ。俺のことだけ考えていろ。と言わんばかりに奥を突かれて訳がわからなくなり余計に泣いてしまい自分を責め立てる目の前の男に縋り付くより他考えられなくなるほどにめちゃくちゃにされ、
    背中に回した手の爪を立てささやかな抵抗をすれば潔はより一層喜んだ
    最後はキャパオーバーを起こし、ただひたすらしがみついて子どもみたいに泣くことしかできなくなってしまい翌朝はもうシーツに沈んだ体を起こすことができなかった。
    それも回数を重ねればそれなりに自分を保つことができるようになってきたが結局最後はやっぱりめちゃくちゃにされて泣かされる
    潔は泣いてる俺を見ると「可愛い、凛……好きだ……好きだよ……」と興奮したようにさらにアレの質量が増し動きが激しくなる
    だが慣れとは恐ろしいものでそれが心地よいと感じるようになってしまっているのだから自分も大概おかしな人間だと思う。

    この頃にはもう潔に心を許してしまっていたのだが彼はそれだけでは足りないとついぞ潔の協力のもと兄との和解にまで成功したのだ
    その際何故か潔の方が「よかったなぁ……よかったなぁ……!」と号泣していて兄と2人で呆れてしまった
    会話の流れで兄と潔が口論……というより一方的な暴力沙汰になった事もあったというのに何故か最後はこうしてにこやかに終わらせてくれたから後から思い返して変だなと思っても終わりよければ全てよし。と大人になった事もあり流さざるを得なくなったのは流石だとしか言いようがない。

    こうして公私共にパートナーとなった自分達は試合では苛烈に互いを喰い合い、私生活では穏やかに平和に過ごすという俄には信じがたいような生活をしながら共に人生を歩んでいた
    住む国が違うので超遠距離恋愛ということが時にはぶつかり合う原因となりお互い忙しい身であったからそれこそもう別れる寸前まですれ違う事も一度はあったほどだ
    でもすれ違うその度に向こうから謝られて最後はお互い笑って許し合えるようにお膳立てしてくれていたと知った時自分がどれだけ子どもだったかと恥ずかしくなった
    それでも素直になれない自分をこんなに大事に支えてくれて寄り添いあえる人間がこんなに近くにいる。それだけで幸せだったしこの先何も怖いことなどないと思っていた。

    しかしプロとして活躍するようになって数年
    その日は突然訪れた。

    それは潔の試合を目で追っていた時の事だ
    時折彼は自分の予測不可能の動きをする事は長年の付き合いでよく知っていた
    とは言えじっくり見ていればどういう思考でそうなったのかはわかる。今までならば。

    ……だがその日は自分の付け入る隙が殆どないほどのプレイングを見せた。
    潔の思考は知らぬ間に更なる成長を遂げていたのだ
    対戦相手の中には糸師冴の……兄の姿があった
    兄に勝るとも劣らない勢いでプレイする姿はいつかの自分が求めた夢。あの頃に追いかけた理想の姿に重なり耐えきれずその場を立ち去ってしまうほど酷く動揺し、蹲る。
    自分が足掻きもがいても追いつけなかった場所に潔がいる。兄がいる。
    置いていかれる、いやもう置いていかれたのだ。
    震えが止まらない体を抱え必死に今後のことを考えた
    一刻も早く自分もあの場所へ行かなければと先ほどまで極寒の地にいるのではと思うほど震えていた体を叩き起こしトレーニングに励んだ
    それでどうなる訳もなく疲れが回れば再び置いて行かれたのだと死に近い恐怖がやってきて焦った心と体は拒否反応を起こし過呼吸になり、しまいにはトイレで嘔吐してそのまま倒れてしまうほどに追い詰められていた

    サッカーができないお前に利用価値はない

    兄の言葉だ
    和解したとてその言葉は胸に刺さったまま抜けずふとした時にじくじくとした痛みを運ぶ
    せっかく昔みたくとは言わずとも当たり障りのない関係に落ち着いたのだ
    世間話もできる。尋ねれば疑問に答えてくれて相談にも乗ってくれる。ここまでくるのにどれだけかかったか
    次捨てられたら、
    今度は助けてくれる人間はいない
    アイツが、潔が助けてくれたから今こうしていられる
    優しく笑いかけて世話を焼き言葉足らずでどうしようもない自分と兄の関係を回復させてくれた潔

    もしもの話だが。兄がしたように今俺には利用価値があるから優しくしているだけで。それがなくなったら、あの雪の日の様に手ひどく捨てられたら、

    「……あぁあっ……!」

    最悪を想像してベッドの上で1人子どもの様に泣きじゃくる
    与えられた幸せを取り上げられるのではという恐怖に支配され眠れない。こんなことは初めてだ。
    潔と付き合う様になってから最初はむず痒かった愛の言葉を今では苦しくなるほど求めている
    どうしてもサッカーをしていない自分を愛してくれる潔の姿が想像できないのだ
    彼はサッカーがないと生きていけないのではと思うほどサッカーを愛している
    俺はその過程で出会った人間で、きっと利用価値があるから興味を惹かれたのだ
    利用価値がないと誰も俺を見ない
    兄がいなくなった後チームメイトに散々陰口を叩かれた
    わざと俺にわかるように言われたこともあった
    潔だってきっとそうだ。あの優しい顔が試合中の相手を射殺さんばかりの表情に変わり「お前は目障りで面倒臭いやつだった」と言うんだ。そんなふうに考えてしまう

    きっと潔はサッカーをやめても愛してくれると思うこともある。何度もしつこいくらいに愛の言葉を囁かれたのだから
    それでもサッカーをしていない自分を愛してくれる潔を思い浮かべろと言われれば不可能で
    他の人間を選ぶ潔の姿や俺の前から立ち去る姿しか思い浮かべることができない
    考えられないのだ。自分が無償で愛される姿を。

    恐怖心に拍車をかける様に夢にまで出てくる様になったあの日の試合、兄と潔が自分を置いて行く姿
    目が覚めて普通に過ごしていても頭の中はいずれ訪れるであろう別れの日の想像をしてしまいそれがどんどんリアルなものになっていき徐々に日常を蝕んでいく
    ほとんど毎日していた潔との通話もできなくなった
    お互いのチーム同士の試合が決まったからだ
    最悪のタイミングだと自分の豪運が尽きたことを悟った
    それでもどうにか時間を作って潔の方から通話を持ちかけてきてくれた。ほんの少しの時間だったけれどそれでもその尊い時間でどれほど心が安らいだことか。
    通話が終わればまたどうしようもない焦燥と恐怖に襲われるとわかっているのにやめられない。

    コンディションがガタガタになっている俺に周囲が呆れた様に休めと諭すが休んでいると嫌な想像に支配されてしまう
    壊す側の自分が壊される日がくるのでは、とオーバーワーク寸前まで練習を重ねていたらとうとう試合に出さないと言われてしまい強制的に休むこととなり部屋に篭り睡眠薬を飲み無理やり眠りについた
    薬による強制的な眠りは夢を見せる事はなく深い深い闇に沈めてくれる
    じっとしていると最悪な未来の想像が頭の中を蝕む。だがこのまま試合に出れなかったら困る。次の試合、BM戦。潔との対決が待っているのだから。

    試合1週間前から通話禁止。そう言い渡したのは自分からだった
    通話の時間がなくなり誤魔化しようがなくなり辛い時間が伸びる
    オンオフの切り替えが未だうまくできない自分には1人の時間がどうしても必要で潔がいるとどうしても甘えが出てしまう。もしこれが原因で自分が弱くなったのだとしたらお手上げだ。潔がいなくなったら俺はきっともう無理だと思わず弱音。本当に弱くなってしまったのだと自嘲気味に笑うも掠れた声しか出なかった

    その日から更に想像はどんどん現実味を帯びていき潔の名前を聞くだけでびくりと体が反応してしまうほどには過敏になっていた
    これが恐怖心であると悟った時の絶望感は凄まじかった
    潔自身に対して怖いなどと思う日がくるなんて。
    せっかくの強制休暇の甲斐も虚しく体調は悪化するばかりだった。
    極め付けはツキンツキンと痛む足首
    しっかりマッサージしたはずなのにとテーピングをし直す
    こんな調子では潔になんと思われるか
    試合に影響が出たらどうしよう
    怖い。離れたくない。負けたくない。
    まだ終わりたくない。このままでいたい。

    その願いも虚しく自分は潔に全力を出して負けた
    捨てられたくないと全力で挑んだのに、完膚なきまでに負けたのだ
    自分の思いはこの程度だったのかと心臓がなくなったみたいに身体が冷えていく
    これが夢ならと無くした心臓を取り戻さなければいけないというのにこの一瞬の想像の中ですら足まで無くなったみたいに動けない
    座り込んで動けないでいるとチームメイトにいくぞと言われようやく現実に戻ってくる
    脚に力を入れると全体に痛みが走り一拍置いてから立とうとして、転倒。今度は右足首に明確な激痛が走り思わず呻いた
    慌てて目の前の男が俺の元へやってきて大丈夫か? とスパイクを脱がされる

    「痛ッ……!」
    「おいおい、捻挫……か? にしては腫れてるな。立てないだろ。担架用意させる」
    「……ぅゔ……い、らねぇ……」
    「悪化するぞ」

    大人しく運ばれとけと宥められ本当に惨めで辛かった
    もしこんな姿を潔に見られていたらどうしよう
    負けた上に怪我するなんて情けない
    担架に乗せられ運ばれていく最中「凛……!?」と俺を呼ぶ声が聞こえた気がしたのを無視。やっぱり見られてた
    先ほどより痛む足首にどうしようもない不安と焦燥感が増していく。捻挫にしては痛すぎる、まさか折れてるのではないだろうか……

    嫌な予感というのはよく当たるものだ。予想的中。
    疲労骨折だと医者に言われ右足首にを固定された俺は2ヶ月の休養を言い渡された
    軽い痛みだったのでテーピングだけして放っておいたがまさか折れていたとは思わなかった
    つい先ほど潔に負けたというのにこの仕打ち
    練習なんてもってのほか。日常的な動きまで制限されてしまい大きなため息をついて絶望にのまれそうになるのを必死で耐える
    監督の指示のもと自宅療養をする事となりさてどうしようかと思っていたところにどこから聞きつけたのか一人暮らしでは不便だろう。実家で面倒を見てやると両親に言われありがたくそれを受けることとなった。

    今はただただ潔が怖い
    ここにいたくない。できるだけ遠くへ行きたい
    潔から何度かメッセージが送られてきていたが怖くて開けないでいたが家を空けるのに際してようやく決心を固め毎日しつこいくらいにかけられてくる電話に応答ボタンを押す

    「……もしもし」
    『あ!! 凛! お前大丈夫か!? なんで電話出ないんだよ! 俺すっげー心配してたんだぜ?』
    「……。うるせぇな……声でけえよ」
    『あ、ごめん……でもよかった、電話出てくれて』
    「……っ」

    いつもの調子で話しかけてくる潔に思わず少し泣きそうになった
    まだ普通でいられる? このままでいられる? そう聞きたくなるが確信的な事を聞くには勇気が足りない

    『怪我はどう? 動けるのか?』
    「……しばらく実家に帰る」
    『ん、そっか……。なぁ、別に俺ん家来てもいいんだぞ?』
    「お前の家? なんで」
    『なんでって……心配だし』
    「心配……?」
    『そ。折れてたんだろ? 無茶しすぎだって』
    「……」
    『せっかく勝ったと思ったのにさ、』

    ドクンと心臓が跳ねる
    違う。違うんだ潔
    お前は勝っていた
    怪我のせいで負けたんじゃない
    全力だったんだ

    「……なぁ、もし……俺が万全だったら、全力で戦っててお前が勝ってたら、お前はその後どうしてた?」
    『? なんだその質問』
    「いいから……」
    『んーその後って言ったって……まあどうせお前の事だからさらに強くなって戻ってくるだろ? そん時に喰われないようさらに俺も強くなる。かな』

    あぁ、凄いな。お前
    やっぱり潔は天性のエゴイストなのだ
    相手に見切りをつけるでもなく高みを目指し続ける驕らないその姿勢、気取らず驕らずただ全力で相手を食うその姿はまさに怪物
    俺はもうすでに自分の限界を悟ってしまったというのに

    「……ふ、そうか……」
    『え? なんで笑う? 俺なんか変なこと言った?』
    「別に……」
    『なんだよー』

    偽りの優しい薄氷のような時間
    きっと俺がもう限界なのに気づいてないんだ
    だからこんな風に優しく話しかけてくれてるんだ
    ごめん、ごめん潔。
    騙してごめんなさい

    『で? どうする? 俺の家来る?』
    「行かね。もう親に言ってあるしチケットも取った」
    『えー……そっか』
    「………ありがとう」
    『え!!?』
    「……2度もいわすな」
    『ちょ、ちょっと待って! お願いもう1回だけ!』
    「調子こくな」

    俺のことまだ見捨てないでくれて嬉しい
    もう少しだけこのままでいられるのならそうしてほしい
    未練たらしい俺に少しだけ猶予を与えてくれてありがとう

    「……じゃあな」
    『おう、またな』

    本当は行きたかった。言いたいことがたくさんあった
    潔のところへ行って洗いざらい全て話してしまいたかった
    怪我を理由に甘えたかったし泣いてしまいたかった
    もうこれ以上サッカーを続けてもお前のいる場所にいけないかもしれないと弱音を吐いて、捨てないでと縋りつく俺をいつもみたいに大丈夫だよって受け入れてくれると……
    そんなバカな話があってたまるか。
    迷惑にも程がある。きっと俺は捨てられる。
    今まで散々迷惑をかけて捨てられなかったのは利用価値があったからなのだと、面と向かってそう言われてしまったらどうしよう
    サッカーができないお前にもう用はないのだと
    捨てられる。捨てられる。と繰り返し頭の中で声が響く
    コミュニケーションがうまく取れない俺が唯一繋がっていると感じられたサッカーは今や自分のせいでその繋がりすら断ち切られてしまった

    わからない
    潔のことがもうわからない
    この先もまだ俺に優しくしてくれる? 好きだと言ってくれる? 愛してると言ってくれる?
    サッカー無しでどうやって潔と一緒にいればいい?
    自分は何をすればいい? 何をしていれば見てもらえる?
    わからない。俺にはもう何もわからない。

    思えばいつも自分のことばかりで潔の事を知ろうとした事があっただろうか
    雪の日になるとどうしても過去のことを思い出して酷い時には過呼吸を起こしてしまう程に追い詰められていた時期もあった
    潔はそんな俺にずっと付き添って夜毎泣いたり喚いたり理不尽にキレ散らかしても目障りで面倒臭いと捨てることなく寄り添って抱きしめてくれた
    その優しさに甘えたツケが回ってきたのだろうか
    一方的に押し付けて潔のことをちゃんと見なかった。
    兄ちゃんの時もそうだった 俺は間違えたんだ
    身を切るような選択をした兄がいの一番に俺にそれを伝えに来てくれたのに俺はそれを何も考えずに否定して傷つけた
    人に甘えて相手がどう思うかなんて考えたことがない
    こんなんだから大切な人を傷つけるし最後は捨てられるんだ
    面倒臭い人間なのだとバレないようにすることもできない
    唯一できたサッカーも、もうできない。


    ぼんやりと暗鬱な灰の雲に覆われた空の下
    白い息が出るほど冷たい空気が流れる砂浜で1人。日本にある実家へと帰った俺は毎日のように海を眺めていた。
    境目がわからないほど白んだ海は海鳴りがまるで怪物が叫んでいるかのように轟き、波は大きく手招きしているように何度も何度も繰り返し俺を誘う
    日本に帰ってきてから何度かこの光景を見ているが波打際に立ってはすんでのところでハッとして引き返すというのを繰り返していた
    自分は死にたいのだろうか
    怪我が治ったら復帰する予定ではある。だが治ったところで限界値を超えることのできない俺はいずれ潔との関係を断ち切らねばならなくなるだろう。
    生きていけないほど辛いけど……死にたいとは少し違う
    死ぬのは俺だって怖い。本当は1人になるのが怖い。
    松葉杖を片手に足を庇いながらゆっくり砂浜を引き返す
    連日海に向かう俺を母が心配そうに見ていたからそろそろやめたほうがいいのかもしれないがここにくると落ち着くのだ。

    「寒……」

    ビュウッと冷たい潮風が吹きつけて少しよろける
    片足がこうだと不便だなとガチガチに固定された足を睨む
    肺が痛くなるほど空気が冷たくなり灰の雲は暗く藍色を混ぜた黒い雲が混じり黄昏は落日へと向かう
    早く帰らねば。そう思いながら一歩、一歩と進んでいく
    足を取られながらもゆっくりと。

    ふと足が止まる
    自分はこの先こうやって足を取られながら歩いていけるのだろうか
    死ぬのは怖いが、生きるのはそれ以上に大変だ
    兄に捨てられた時は怒りを原動力に奮起できた
    今はどうだろうか
    この身にあるのは絶望しかない、怒りが湧いてこないのだ
    これが本当の敗北というやつだろう。

    潔と過ごす時間は本当に楽しかった
    柄にもないし口には出さなかったがなんだかんだで面倒見のいい彼は自分のわがままに応えてくれてそれを楽しそうに「仕方ないな」なんて兄貴ヅラしていたっけ
    兄ちゃんとは全然違うのに幼い頃の思い出と被って見えて2人で歩いている時に駄菓子屋を見かけて思わずアイスを強請ってしまった事もあった
    当たり前のようにアイスを2つ購入し袋を剥いて渡してくれた時にはいよいよ可笑しくて少しだけ笑うと驚いて目を丸くして理由をしつこく聞いてきたのを「溶けるぞ」って返して、あぁ幸せだったな……と今更戻れぬ日々の幸福を噛み締める
    2人で並んでアイスを食べながら歩き「海があるところに住むのってなんかいいよな。昔憧れてたんだ」「俺の住んでるとこ海ないし」なんて言うもんだから堤防に連れて行き2人並んで座るとキラキラと光が反射して輝く海を眺めた
    綺麗だな。って楽しそうに笑う潔の日に照らされた笑顔が眩しかった
    兄ちゃんとの思い出の場所に他人……いや、恋人を連れてくるなんて。と少し複雑な気持ちのまま潔の横顔を見ると目があって、唇が重ねられた
    永遠に感じられるほど尊く密な数秒。触れるだけの優しいキス
    甘味料の味が残る唇に熱が加わりぺろりと舐められたのがわかった。「甘いな」なんて言って笑う潔を軽く小突いていきなりするなと周りを見る
    誰もいないのを確認して一息つくと手が重ねられた
    俺はひどく臆病だからその手を離そうと引っ込めかけるも捕らえられ強く握られる「少しだけだから」と耳を赤くしてる潔を見て自分と同じなのだと安心してしまいそこからはもう拒む事ができなかった
    結局帰るまでずっと握られていた手はひどく熱くて同一になったかのように錯覚させられた。

    もう、あの手を握ることもないのだろうと体温を失い雪のように冷たい手を擦り合わせながら思い巡らせ振り向いて海を見る
    あの日の海はひどく穏やかで瑠璃色を混ぜた水面へと太陽が反射し金色にも白にも見える光を放っていた
    柔らかく全てを飲み込む淡く鮮烈な光

    海の向こう側。
    あの日見た光明が見える。黒い雲の隙間から光がさしている。
    夜の帳が下りる時間帯だというのにそこだけがあの甘く微睡んだ時間を切り取って貼り付けたみたいにそこにある
    あの場所に行きたい、と思った。
    松葉杖をその場に落とし波打ち際へと急ぐ
    足の痛みを無視してまだこんな風に走れたのかと思えるほど軽やかに光へ向かって走った
    波打ち際から海に切り替わる場所、足を取られて転倒しかけるのを必死で堪えて前へ進む
    固定していた足首に巻かれた包帯はあっという間に水を吸い右足の自由が効かなくなりいよいよ前へ転倒し喘ぐように顔を上げとにかくあの輝く場所へと無様に這うようにしてもがき続けた

    戻りたい
    まだ2人で戦い合いながらも日常を謳歌していたあの頃に戻りたい
    あの幸せな時間にいたい
    どうして自分は潔や兄のいる場所に辿り着けないのだろう
    才能や努力だけではない決定的な何かが足りない気がする

        「欠陥品」

    今になってようやくその言葉がピタリとハマる
    兄はもう知っていたんだ
    俺が何をしても無駄な欠陥品だっていうことを

    潔にも1回だけ言ったことがあった
    兄と和解しようと場を設けた時に拗れてしまい兄が一旦離席してしまった際にうまく話せなかった事にヤケになってぽろりとこぼした「どうせ俺みたいな欠陥品にはもう無理なんだ」という言葉に過剰反応し初めて頬を叩かれた
    そんなに強い力じゃなかったけど乾いた音がやけに響いたのを覚えている
    驚いて潔を見ると「自分のことそんな風に言うな」と怒っていた
    優しい潔は決して俺に怒ったりしない
    そんな潔が俺を叩いた
    初めてだった。叩かれたのも自分を落とすような言葉を吐いてはいけないと怒られたのも。

    目が合った途端涙が勝手に溢れてきて潔は驚いた顔をしていた
    俺も自分でびっくりして顔を覆って見られないように下を向いたら「凛……!?」って名前を呼ばれて嗚咽が漏れ恥ずかしくて立っていられなくなり膝をついた
    慌てた様子の潔がこちらに手を伸ばした瞬間いつのまにか戻ってきた兄が潔を殴りつけてそこからはもう誰と誰の喧嘩を止めようとしてるのかわからなくなるほどめちゃくちゃになってしまった。鼻血を垂らし顔を腫れた顔で「さっきは叩いたりしてごめんな」なんて言われてしまえば許さざるを得ないし潔の顔にえらい傷を作った張本人と俺がなぁなぁに収まったのを見てよかったななんて笑いかけてきたのは本当にお人よしすぎて凄いなと思った。


    こんな時に思い出すなんて。まるで走馬灯じゃないか。
    場違いなまでの過去の記憶に口角が上がる
    氷のように冷え切った水温があっという間に体温を奪い先程まで手招きしていたように見えた波は容赦なく自分の体を突き飛ばしては引き込み体の自由を奪う
    何度も海水を飲み込んでは呼吸ができず咽せながら必死にもがいてあの光へと手を伸ばすとその手を飲み込むように波が体を覆いあっという間に波間へと引き摺り込まれて石ころみたいに海底へと堕ちていく
    上も下もわからぬ水中は真冬の海にしてはなんだかやけに温かくて心地がいい
    さっきまで触れたところが凍ったみたいに硬直するほど冷たかったのに、体を引きちぎらんとばかりに四方から襲いくる波がそこにいたはずなのに
    今は嘘みたいに穏やかで温かい
    全身を覆うその水の心地よさに思わず母の胎の中にいた頃を連想させて(生まれ変わったら、)と捻れた思考の中で1つの決意をする

    次に目を開くと白い柔い暖かな光に包まれていた
    自分は死んだのか?
    ここが天国ってやつだろうか
    どこも痛くない 寒くもない 辛くない
    心も体も解放感に満ちている
    宙に浮いてるような、空気になったかのような
    死はこんなに穏やかで平穏で心地よく凪いだものだったのかと胸中あの白い光が灯るのがわかった

    こんなに近くに……

    瞬く光が柔く自分を包む。安堵感に満たされた微笑を浮かべる。

    (生まれ変わったら、もうサッカーはやらない)

    そう思いながらゆっくりと目を閉じた。


    温かくて心地がいい
    まだあの空間にいるのだろうか

    「ーー……」
    「…!…ーー。」


    何か聞こえる…?

    「……ほら、あなたの弟よ。大きくなったらいっぱい遊んであげてね」
    「…」

    え…?誰…?

    「め、あいた」
    「あら!起きたのね。ほらごあいさつしましょうね」

    ぼやけた視界の中見覚えのある赤い色が目に映る

    「…ふぇ」
    「はじめまして、凛ですって。ふふ…ほら、おにいちゃんも」
    「…」
    「あらあら恥ずかしいの?」

    り、りん?おにいちゃん?
    不穏な単語がたくさん聞こえる
    目の前に集中して赤い髪の子どもの目を見る
    ターコイズブルーの見慣れた瞳
    え…まさか…

    「りん。にいちゃんだぞ」
    「まぁ冴ったら…うふふ」

    嘘だろ…こんなことがあっていいのか…?
    驚愕で目が見開かれる
    自分では確認できないからわからないが相当ぱっちり開いてたと思う

    「りんがおれをみてる」
    「そうね、お兄ちゃんのこともう気に入ったのかしら」

    じっくりと家の様子を見る
    正直あまりよく見えないし置いてあるものが少し違うが概ね今と変わらない
    やっぱりここは……
    ツンツンと頬に何かが触れる

    「こっちみろ」
    「コラ!冴!つついたらダメよ!」

    ああやっぱり…
    生後1週間にして人生への絶望感が全身を襲う。
    俺はどうやらまた"糸師凛"として生まれ変わってしまったらしい…………。

    「ふにゃぁ…っ!ふぎゃぁっ!」
    「あ」
    「ほら〜泣いちゃったじゃない」


    何も赤ん坊からやり直させることないんじゃないかと思いながら空腹と本能には勝てず若干の気まずさを覚えながら母の乳を啜る
    できれば哺乳瓶でと声に出せればいいのだができるだけ母乳で育てたいという俺にとってはありがた迷惑な母の願望により拒否するのも悪いなと仕方なく乳にありつく始末

    「けぷっ」
    「上手にゲップできまちたね〜いいこいいこ」

    ゲップして褒められるなどこの頃までだろう。今なら泣こうがゲロを吐こうがクソを漏らそうが何をしても可愛いいい子と褒めちぎられるのだからいいご身分だ
    後々兄を下そうがサッカーのプロになろうが褒められることなど無くなるのに。

    「りんはいつおおきくなるの」
    「そうねぇ、冴が1人でトイレ行けるようになる頃には仲良く遊べるかもね」
    「…」

    ずんずんと兄がどこかへ行きしばらくすると戻ってきて「といれいった。もうあそべる?」と俺と母の顔を見ていう
    せっかちねぇと笑う母と俺の顔を真剣に見る兄
    当たり前だけど生まれたばかりの頃なんか全く覚えてない
    こんな感じだったのかと他人事のように考えてしまう
    …今思うと最期の瞬間、あれはもしかして他人から見たら紛れもなく自殺に見えたんじゃないか?と今更ながら思う
    俺はそんなつもりじゃなかったんだと今言っても遅いがこんなふうに育ててもらっておいてあの最期はちょっと、どうかと思う。と反省

    「りんつまんない」
    「まだ生まれたばかりで何もできないから仕方ないじゃない」

    初日に頬を突き回したせいで過度な接触を禁止された兄はムスッとしながら母に抱かれている俺を見ている
    見つめ返すと負けじとじぃっとこちらを見てくるから嫌ってはいないようだ
    兄ちゃんは小さい頃から兄ちゃんだったんだなぁと思うとおかしくて思わず笑ってしまった

    「! わらった!」
    「あらほんとだ!可愛い〜」

    目をキラキラさせて俺を見つめる兄に今度は申し訳なさが募る。また欠陥品の弟でごめんなさい。
    兄ちゃんに相応しい弟じゃなくてごめんなさい。
    今度は何もせず大人しく過ごすからどうか、どうか捨てないでほしい

    「りん。はやくおっきくなれよ」

    そう言いながら俺の頭を優しく撫でる兄ちゃんの手つきはとても優しかった。

    赤ん坊の頃は本当に天国と地獄の行ったり来たりという感じだった
    とにかく甘やかされてベタベタに褒められる。何をしても可愛い可愛いと褒めそやかされて名前が凛ではなく可愛いではないかと錯覚するほどだった
    だが何もできないこの体でできることなどたかが知れておりとにかく退屈。暇すぎる
    母乳を飲んで寝る。起きて母乳を飲む。これの繰り返し
    幸い赤子というのはとにかく寝て育つものらしく眠気だけはいつでも襲ってくるので身を任せてすやすやと眠りにつくことができた

    「りんおきてる」
    「あら!?起きてたの!?」
    「全然泣かないから気づかなかったなぁ」

    腹が減って目が覚めて親が気づくまで待っていると兄ちゃんと目があった
    全然泣かない俺を心配してこうやってたまにベビーベッドを覗き込んでいるらしい
    たまに何か話しかけてきては「へんじしろ」と言っている。無理だろ。
    それでも…まだたったの2歳だというのにすでに兄の顔をしている兄ちゃんはやっぱり世界一かっこいいと今でも素直にそう思う。

    だけど…

    「ふぎゃぁあぁんっ!ぁあぁあんっ!」
    「こら。おとなしくしろ」
    「おむつ気持ち悪いねーすぐ取り替えるからね〜」

    なんでか知らないが兄ちゃんは俺のおむつを替えようと毎回毎回手伝いにやってくる
    大したことはできないながらも替え用のおむつを持ってじっと見つめてくるのは本当にやめてほしい

    「んにゃぁっ!!んぎゃぁあっ!!!」
    「あらあらおっきい声、もう終わるからね〜」
    「りん、うるさい」

    頼むからあっち行ってくれと大声で泣いても全然ききやしない。このクソお兄め…!!!
    睨みつけてやっても顔を顰める程度にしかなっていないのかご機嫌斜めでちゅね〜とあやされて終わった。
    この羞恥プレイがあと何年も続くのかと思うと気が遠くなる
    ふぇふぇと泣く俺を見つめる兄が何を考えているのか知らないがどことなく満足気に見える
    弟を泣かせてそんなに楽しいか。

    とにかく寝る子は育つという言葉があるように食べて寝てを繰り返していくうちに時は流れてようやくおむつ卒業の歳。ここにくるまで長かった。
    見た目があれな離乳食を食べたり注射を何本も打たれたり吐き戻したゲロを拭かれたり兄に突かれて泣かされたりと散々なことはたくさんあったがおむつだけはもう本当に嫌すぎたから多分今までで1番努力したかもしれない
    ただ喃語を話せるようになった頃兄が必死に「にいちゃん。りん、にいちゃんっていえ」と毎日話しかけてきていたのが微笑ましくて兄ちゃんって意外とそういうとここだわるんだなと回らない舌で「にーちゃ」と呼んでやればキラキラした目で「にーちゃんっていった!」とはしゃいでいた
    これが「クソ兄貴」「愚弟」と呼び合うようになるのだから年月というものは本当に残酷である。

    言葉を話せるようになり意思の疎通ができるようになったころ。兄ちゃんは公園でサッカーを毎日のようにしていて俺は母に連れられてブランコをしたり滑り台で遊んでみたりと時間を潰していた
    サッカーはなるべく見ないようにして興味ないふうを装った

    「凛も大きくなったらお兄ちゃんみたいにサッカーやる?」
    「…やんない。こわい」
    「あらあら…」

    母が思う怖いと、俺が言う怖いは違うのだが別に通じなくていい。というか通じたらそれこそ怖い。
    与えられたおもちゃで遊んでみたり他の子どもと遊ぶのもあまり面白くなくてずっとベンチに座って空をみていたら兄ちゃんに変なのと言われてしまった
    仕方ないだろう。実際中身は19歳の大人なのだから…

    「凛は何をして遊ぶのが好き?お外は嫌いかな?」
    「…うーん」

    サッカーしかしてこなかったから何で遊ぶと言われても困ってしまう
    確かこの頃はヒーローと怪獣のおもちゃを戦わせていたっけ。正直言って今の自分には何も面白くない
    ホラー映画やホラーゲームやをねだろうにもこの歳でホラーに目覚めてるなんてそれこそホラーだろうし…

    「……おえかきする」
    「そっか、じゃあ明日からスケッチブック持ってきましょうね」
    「うん」

    絵を描こう。と思ったのはなんとなくだった
    別に特段好きってわけじゃないけど唯一自分の中でサッカー以外で得意かも。と思えるのが美術だった
    学校でもそこそこいい評価をもらえていたし今から始めればそれなりにサマにはなるかもしれない
    何かに熱中してる様子を見せればきっとサッカーに誘われることもないだろう
    俺はもうサッカーはやらないと決めたのだから

    ふとベンチの下に生えてる双葉を見て潔の事を思いだす
    生まれ直してから今まで幾度となく彼のことを思い浮かべた
    きっとこの世に生を受けているであろう彼は確か4歳からサッカーを始めたと言っていた
    今頃サッカーしてんのかな。幼い頃はどんなサッカーをしていたのだろうか。この頃からあの他を圧倒するエゴはあったのだろうか
    どんな人生を歩んでいるのだろうか
    もう会うことは無いんだろうな。
    俺のいない人生を、この先の未来を彼は歩んでいくのだろうな

    「……っ」
    「凛?どうした?なんで泣いてるんだ」

    いつの間にか戻ってきていた兄ちゃんが俺の顔を覗き込んでいた
    どっか痛いのか?と聞く兄になんでもないと答え涙を拭う
    胸が痛い。潔の未来に自分がいないのだと改めて思うと半身を裂かれたような激しい痛みにまた涙が溢れる
    困惑した母に抱かれ静かに泣く俺を兄ちゃんがそっと頭を撫でながら何をいうでもなくサッカーもせずにただそばに居てくれた
    いつのまにか泣き疲れて眠っていた俺は目を覚ましたあと兄ちゃんに抱きついて「ありがとう」と言った。子どもだからできることだ。兄ちゃんは照れくさそうにしながら昼間と同じように俺の頭を宝物を触るみたいにそっと撫でた。

    次の日からクレヨンとスケッチブックが与えられ母の横で大人しく絵を描くことになった
    さて何を描こうかなと思った時になんとなく、最期に見たあの暖かな光を思い出した
    あれを描こう。俺の大切な思い出と重なるあの輝き
    俺を母なる海へと誘い出したあの眩く輝いた鮮烈な黄道光に似た光の道を
    黄色 橙色 藍色、は無いから青と黒。
    はっきり覚えてるその光景をすいすいと描いていくと横にいた母が俺の絵を見ながら最初はぐりぐりと色を塗ってるだけだと思っていたのだろう。上手ねぇなんて言っていたのが途中からおや?と思ったのか黙って見始めた

    「凛、これなぁに?」
    「…さいごにみたの」
    「…」

    うーんと母は何かを考えるようにしてからこの絵お父さんにも見せていい?と聞いてきた
    そんなニコニコされたら断れないし別に許可なんかいらないのに

    「うん」
    「何描いてたんだ」

    戻ってきた兄はぐいっとスケッチブックを引っ張っると少し見た後「上手だな」と頭をワシワシと撫でる
    多分反射的に褒めてるだけで理解はしていなさそうだ
    なんだこの絵と思ったに違いない

    「次は兄ちゃんをかけ」
    「うん」

    ぐりぐりとそれっぽくクレヨンで兄ちゃんを描いていく
    内緒だが、一度だけこっそりと潔の顔を描いたことがある
    試合中の顔と普段の顔の差があまりにも凄くてどっちも好きだなと思いながらなんとなく試合の風景を映像越しに見ながらメモ帳にスケッチしてあとで恥ずかしくなって破り取って捨てたっけ
    あの海の深くなり始める場所のような青い瞳
    ここから先は危険地帯だと知らせる合図が幾度となく欲望の色が混ざり俺を喰らう怪物の目に変わるのを見てきた
    あの色を再現するにはこの12色の画材では到底足りないだろう

    「できた」
    「すごいぞ凛」

    絵なんかろくに見ないで頭を撫でる兄に不満気にちゃんとみてとスケッチブックを突き出すとじっと数秒見た後「またかけ」とワシワシ頭を撫でてきた
    くしゃくしゃになった髪を撫で付けながら母が「凛に描いてもらえるのが嬉しいのね〜」と微笑ましげに頬を緩めてから絵を見つめていた
    そういうものだろうか。兄が喜ぶならいくらでも描こう。
    欠陥品の俺でも兄を喜ばせることができるならサッカー以外はなんでもやる
    もう失望されたく無い。最初はよくてもいずれ見限られる日が来ることを知っているのだ。
    俺が疲労骨折をしたと知った時兄は「自業自得だな」と言い放った
    そうだね。と今なら言えるけど当時は潔に捨てられるんだと悲観していたからそこに追い打ちをかけられたのがつらくて思わず「欠陥品だから」とわざと自嘲気味に返してやると兄に睨まれた
    自分で言ったくせに俺が自分のことを欠陥品と言うと不機嫌になるのだから本当に偏物な人だと思う。

    「ほら見てお父さん、これ凛が描いたのよ」
    「へぇ!凄いなぁこれは何を描いたんだ?」
    「さいごにみたの。って言ってたのよ」

    もしかしたらお腹の中にいた時のことを覚えてるのかしら!なんて母が話している
    生まれた瞬間の景色なんて覚えてないがソレに近いものに見えたのかもしれない
    本当は死ぬ瞬間に見たものなのだが…まあいい。

    「凛は将来絵描きになるのかな?」
    「えかき?」
    「そう、絵を描くお仕事だよ」

    それも悪く無いかもしれない
    サッカーをしない人生なんて考えたこと無かったから将来何をしたいなんて思い浮かばなかった
    今決めてしまうにはあまりにも早い気がするが1歳からサッカーをしてプロに上り詰めるような人間を兄として持っているのだからその弟として今から将来を見据えてその道に進むのもありかもしれない

    「うん。えかきになる」
    「ははは!そうかそうか」

    親の言うことをそのまま言ってるだけの子どもに見えるのだろう。父は豪快に笑ってから頬擦りをする
    幼く柔い肌にはこの髭は本当に痛いというのに面白がってスリスリと擦り付けてくるのだ

    「いたいよぅ」
    「父さん凛がかわいそうだろ」

    兄が抱かれてる俺を父から解放するべく足を引っ張ってくる
    それもそれで痛いのだが兄なりに必死に俺を助けようとしているところが可愛いのでされるがままに受け入れた
    引っ張られたせいで靴下が片方脱げて兄が尻餅をついたところでようやく解放されて父は兄にも同じように頬擦りをしている

    「いででっやめろ」
    「2人とも本当に可愛いなぁ」
    「可愛いとか言うな」

    もう自我がしっかりしてきて可愛いと言われるのを嫌う兄に何度も可愛い可愛いと言う父の顔は幸せそのものと言った様子で兄も本気で嫌がってるわけではなさそうだった
    それはそれとして可愛いはないだろ。とプリプリ怒っている姿はまさしく可愛いと言う言葉がお似合いだった

    「にいちゃ、かわいい」
    「凛の方が可愛い」

    ふにふにと頬を揉んでやわらかいと笑う兄にニコリと笑い返す。自然と笑えるようになったのはこの健やかに健全で平和な時間がお前はこっち側の人間だろうと教えてくれたからだ。
    勝負の世界で生きるには欠陥品の自分には覚悟や努力が足りなかったのだろう
    自分なりに頑張ったつもりだったのだが成果が伴わなければ意味がない
    19にして自身の天井を悟りオーバーワークの末怪我をして自死を選ぶ。これが俺の、脇役(サブキャラ)の人生だ

    次の日から俺は絵を描く事に没頭することにした
    とにかく目に映る物全てを描き続ける
    兄がサッカーをしてる間公園の中のいろんな所に座って描き続けた
    最初は物珍しげに見られていたが数日もすればその目もなくなり置物みたいに扱われるようになっていった
    ボールが飛んでこない位置に居座っていたので兄が不満気にどこに行ってたんだとスケッチブックを引ったくられてびっくりしてわぁっと泣くと慌てて返してくれた
    体が小さいせいなのか兄に乱暴にされたせいかたまにこうして泣いてしまうのが恥ずかしい

    スケッチブックにかかっていた麦わら帽子の影がなくなり、小さな手で握りしめたクレヨンが持ちやすくなるくらい小さく削れてきた頃兄は公園ではなく本格的なジュニアチームでの練習に行くようになった
    保護者の同伴は必要ないとの事で家で母と2人、家でもひたすら絵を描いた。家の中のありとあらゆる場所
    窓から見える景色、ひっくり返って描いたり立って描いてみたり庭に出て家自体を描いてみたりとにかく色々やった
    母も描いたし父も描いた
    その絵は両親の寝室に飾られているらしい
    飾られるとわかっていたらもっと練習してから描いたのにと駄々をこねるとこれがいいのとそっと却下されてしまった

    風景をあらかた書き終えたら今度はおもちゃや絵本を模写してみた
    12色のクレヨンが誕生日に買ってもらった40本のクレヨンに変わりスケッチブックが10冊を超え始めた頃に兄との2人部屋を与えられ左側には兄のサッカー用具、右側には俺のスケッチブックが置かれるようになった

    サッカーボールには1度も自分から触ることはなかった
    兄に転がされてきたボールを「取れ」と言われても母にしがみついて拒否した
    そんな俺を見て「何がそんなに怖いんだ」と呆れていた兄の不満そうな顔
    ごめんね兄ちゃん。それに触れるには時間がほしいんだ
    今享受しているこの甘い時間が溶けて無くなってしまいそうで、ただボールを返すことすらできない俺をどうか許してほしい。
    しかし兄にはそんな思いは通じなかったようで部屋にいる時にトンと何かが背中に当たる感触がして振り向くとボールがあった

    「凛、とって」
    『凄いぞ凛 俺とサッカーしろ』
    「……!!!」

    驚いた両親が部屋に飛び込んで来るくらいの大声で泣き叫んだ
    何があったのかと説明を求める両親の声が聞こえていないかのように呆然と俺を見つめていた
    喉が張り裂けんばかりに泣いて叫んで体を抱えて小さく丸まり震える俺は知らぬ間に病院に連れて行かれ診察で異常なしとの診断を受ける頃にはすっかり落ち着いて、兄も「ボールを取ってって言っただけ…」と説明できるようになっていた。まだ青い顔をしてる兄に「ごめんなさい…」と謝ると「俺もごめん…」と言われた
    謝らせてしまった。自分が悪いのに。
    その日以降兄は俺にボールを触らせることはなかった
    トラウマを作ってしまったのではと心配したが兄自身はサッカーを今まで通り普通にやっていたのでいらぬ心配だったと胸を撫で下ろした

    月日は流れて兄は小学校に行くようになり2年という歳月の壁を感じるようになってきていた
    早く兄ちゃんと一緒に学校に行きたい。とわがままを言ってみたりもした
    中身19の自分が言うのも変な話だが実際学校には行きたかった
    家にいるのは退屈で刺激がないのだ
    学校と言うほど楽しい場所ではないと思うが兄といる時間が増えるならその方がいい
    生まれ直してもブラコン気質は変わらないのだな、と自らをブラコンと認めざるを得ないほど兄への信仰にも似た敬愛の念は息を潜めることはなく…なんなら前よりひどくなっている気すらする。

    そんな俺を見かねた母が絵画教室に通わせてくれるようになったのは嬉しい誤算だった
    口数が少なく内に篭り人見知り気味の俺を最初は不安そうに見ていた母も臆する様子ひとつ見せず先生に挨拶をし出された条件を難なくこなす俺を驚いたように見ていた

    「凛は意外と肝が据わってるのねぇ」
    「うん」

    意味が分かってないのに頷いてると思って笑ってる母に「またいける?」と聞くと週に2回行けることが判明した
    思ってたより少ないなと思ったがまあそんなもんかと納得して「ありがとう」と言うと頭を撫でられ少しだけ遠回りして帰ろうかと海に連れて行かれた

    自分が終わった場所はあの日のように灰の雲に重くて澱んだ空気の流れる白んだ海ではなく霞のような雲のかかった温和な空気の流れる眠たくなるような春の海
    平和で柔和。心地がいい。

    「今度はお父さんとお兄ちゃんとみんなで来ようね」
    「うん」

    濡れちゃうからと靴と靴下を脱がされ裾を捲られる。少しだけねと遊ぶ事を許可され浅瀬に立ち海を見つめる
    あの日の光はもう何処にもなくやはりあれは幻だったのだろうかと思う

    「かに」
    「カニさんいるね〜」

    波に揉まれて流されていく小さなカニ
    自分もあの日こんな感じに波に飲まれてあっという間にいなくなったのだろうか
    想像すると寒気がする。ここにいる穏やかに笑う母は、俺の絵を見るたびに上達が早いと豪快に笑う父は、学校に行く前に今生の別かのように抱きつく俺に呆れたように笑いかける兄は、どう思っただろうか
    潔は……潔は何か思ってくれたのだろうか。
    馬鹿な事をしたと思う。幻の光を求めて極寒の海の中へ飛び込むなど自殺と変わらないじゃないか

    「寒くなってきたね、足洗って帰ろうね」
    「…」
    「凛?…あらら、どうした?」
    「ぇ、ぅ…う〜っ…」

    突然泣き出した俺をあやすように撫でる母は「カニさんいなくなっちゃったから?」と見当違いな事を言いながら俺を抱き上げよしよしと背中を摩り続けた
    誰にも伝わらないごめんなさいを繰り返して母の腕に抱かれながらいつの間にか眠りに落ちた俺が目を覚ますといつの日かベビーベッドを覗き込んでいた頃と同じ顔をして兄が俺を見ていた

    「にいちゃ…?」
    「凛、起きたか」
    「うん…おかえりなさい」
    「なんで泣いた」

    単刀直入。
    無駄を嫌う兄らしい言葉に一瞬たじろぐももう慣れた
    昔はこの言葉のひとつひとつに嫌味を感じて腹を立てた事もあったがただの言葉足らずだとわかればそれなりに対処できると言う物だ

    「…かにがいなくなったから」

    我ながら馬鹿な事を言ってると思う
    恥ずかしくて顔から火が出そうだ
    ただ本当の理由なんか言えるわけがない
    自殺したのを悔いて泣いているなんて知られたくないし言ったら今度は精神病院に連れて行かれてしまうだろう

    「カニぃ?」
    「うん、おかあさんとうみにいった」
    「知ってる。聞いた」
    「そしたらかにが、みずにながされていなくなった」
    「あぁ」

    それで納得したのかクツクツと小さく笑う兄はようやく安心した顔に戻り「いいか?」と話し始める

    「カニの家は海の中にあるんだ」
    「うん」
    「だから水に流されたんじゃなくて家に帰ったんだ」
    「…そ、っかぁ」

    へえ。兄ちゃんって結構可愛いこと言うんだな
    どう考えても波に飲まれて流されていっただけなのだが…。
    ダメだ、面白すぎる。あの糸師冴が事もあろうにこんな可愛い事を言うだなんて
    笑ったらダメだと思えば思うほど耐えきれなくて兄の腹へ抱きついて笑ってるのを悟られないようにする
    兄ちゃんは優しいけどすごく負けず嫌いで俺に笑われたと分かればきっとそっぽむいて今日は1日口聞いてくれなくなる

    「今度は兄ちゃんと海に行こうな」
    「うん」
    「今日絵の教室行ったんだろ。楽しかったか?」
    「うん」

    夕飯できてるから食べようと手を引かれ兄の後をついて歩く
    波に攫われ海に帰ったカニは無事に家に着いただろうか
    海に還りこの家に辿り着いた俺は果たしてこの先どう生きていくのだろうか
    愛が無くなるのが怖くて怯えていた俺が家族以外の誰かを愛する日はくるのだろうか
    兄の手を握り返すと「今日はカレーだ」とすでにいい匂いがするキッチンへと向かう

    この時間がなるべく長く続けばいいと、そう思いながら両親の待つ場所へと進む
    2人の小さな足音を聞きつけ迎えてくれた父の腕に抱かれて気恥ずかしそうに降ろせと暴れる兄と共に食卓へとついた。
    兄と自分は今まで子ども用の甘口カレーを用意されていたのがいつのまにか小学生になったからだろうか。親と同じ色のカレーになっていた

    「おれのだけちがう」
    「兄ちゃんはもう大きいから父さんと母さんと同じやつだ。凛も早く大きくなれ」
    「うん」

    どうせ親に甘口のルーにしてもらってるくせに偉そうだな
    そう思いながら横目で兄を見ているとやっぱりちょっと辛そうにしていた
    でも絶対に言わないんだろうな。この人は。
    負けず嫌いでカッコよくて優しい兄ちゃん

    この人と一緒にずっとこうしていたかったなぁ
    そう思いながら子ども用の甘いカレーを口に運ぶ
    皆お揃いになるまであと2年。


    待ちに待った絵画教室の日
    たくさんの子どもと大きな机の上各々絵を描いたり色を塗ったり粘土をこねたりと自由に過ごしていた
    新顔を歓迎するようにど真ん中に席が据えられていてなんだか気恥ずかしいが周りの様子がよく見えて場の雰囲気が穏やかであることがわかるいい席だ
    ここにいる間は画材を貸してもらえるらしく今世で初めて絵の具を使い絵を描く事となり少しテンションが上がる
    クレヨンとは違ってなかなか難しいがいずれゆく道はこの無限に色が作り出せる絵の具を使った絵描きになれれば、とぼんやり思っていたのでいい機会だ

    さて何を描こうかなと思った時ふと潔のことが頭に浮かぶ
    怪物(エゴイスト)潔世一
    絵の具処女は彼にくれてやろう
    そう思いながら青い絵の具へと手を伸ばした

    「せんせ。これじゃない青がいい」
    「そっか、じゃあどんな青がいいかな?」
    「もっと…ふかいいろ」
    「深い色かぁ」

    そうだねえと用意されたのは青い絵の具と黒い絵の具
    見ててごらんと白いパレットに出されたその色は少しずつ混ざり合って深く濃い青へと変わっていく

    「すごい」
    「こうやって色を混ぜてみてごらん?じゃあやってみようか」

    やってみると思ったより難しい
    自分の手が小さくて思うように絵の具が扱えないのが悔しい
    先生と言われるその人は俺が四苦八苦してるのを楽しそうに見ている
    ようやく出来上がった色は俺が想像しているような色ではなかった
    彼の目はもっと澄んでいる青だ
    これではただの暗い青

    「…」
    「凛くん、いっぱい練習していっぱいいろんな色を作ってみようね。そうしたら自分の思う色が作れる日が必ず来るから」
    「うん」
    「それに今作った色を紙に塗ってごらん?」
    「……あれ、ちょっとちがう」
    「力の入れ方や角度、水の量でも色が変わるんだよ。……ちょっと難しかったかな?」
    「わかった」

    水で筆を洗いよく水をタオルに染み込ませてからもう一度。
    彼の濃くて澄んだ青い色を再現するのだと意気込むが紙にのる色はただの青

    「またかわった」
    「うんうん。凛くんは飲み込みが早いね」

    それからは夢中で色作りに励み俺の中の潔世一をスケッチブックに描き続けた
    青い瞳が俺だけが知る色に変わる時
    柔和に緩んでいた瞳が欲望の炎を灯し俺を喰らおうと激しく燃え盛る瞬間をこの小さな紙の上に落とし込みたいと必死になった

    出来上がったものに満足はできなかったがこれが今の自分の実力なのだと納得することができた
    青い瞳の俺だけの怪物
    いつか満足のいく仕上がりになる日はくるのだろうか
    母に連れられ帰る道すがら「今日は何を描いてたの?」と聞かれて口篭ってしまう
    いつもは何かを真似たり風景を描いたりしてたから心象風景のようなものを描くのは初めてだった

    「…かいぶつ」
    「怪物?そう…」

    凛って怖いの好きだっけ?と不思議そうにしている母に曖昧に笑い返した


    晴れて小学生になった頃。過去と同じように俺は兄がサッカーをしているところについていくようになった
    最初は心配していた兄も転がってきたボールを平気な顔して持つ俺を見て困惑していた

    「凛!大丈夫か!?」
    「ん?どうしたの?」
    「お前、ボール…」
    「これ?はい」

    ボールを手渡された兄は狐につままれたような顔をしていたがしばらくするとまあいいかと言った様子でサッカーをしに戻って行った
    本当は平気じゃない。けど分かっていればどうってことない。手が震えてるのも少しすれば治る
    わざわざついてこなければいいと思われるかもしれないがやっぱり自分は兄ちゃんが大好きで帰りに自分のお小遣いからアイスやチョコを買い与えてくれる時間が特別視されてると実感させられてたまらない気持ちになれた
    帰り道。自分が持つと言っても筋トレだと言って俺の手から画材を奪って手に持つと空いた手をポッケに入れる
    転んだ時に危ないよと再三注意しても聞かない兄の袖を掴んで歩く

    「凛、アイス食べるか?」
    「うん」

    ソーダ味の棒アイスを食べながら並んで歩く
    以前の人生では和解したとはいえこの道を同じように歩きながらアイスを食べたことはなかった
    もういい大人だから、と言われればまあそうなのだが
    世界一なったらまたアイスを一緒に買いに来ると店のおばちゃんに伝えた事もあった
    ついぞその言葉が果たされる日は来たのか来てないのか今の俺にはわからないが"共に"と言う点に関しては永遠にその機会は失われてしまったのだ。俺のせいで。

    「おいしい」
    「ん、」
    「みて。にいちゃん、あたった」
    「…フン」

    こんなんで運を使うやつは世界一にはなれねーと不貞腐れる兄にそうだね。と返してアイスを食べ続ける
    くだらない運を使い続けたから本当に大事な時には悪い方へ行ってしまったのだろう
    それか潔と会えたことで全て使い果たしてしまったのかもしれない
    今回は会わないようにしていれば運を使い果たして海に沈む事もないだろう

    「俺は世界一のストライカーになる」
    「それ以外は価値なしだ」

    この言葉が撤回されるまで負けず嫌いの兄に何があったのか等と聞けるはずもなく…
    和解した後珍しく酔った兄がこぼした「あんときは…悪かった」との言葉をくれた
    俺が先に傷つけたにも関わらず兄の方から謝罪させてしまったのだ
    こっちこそごめんと慌てて告げるも届いたのか届いてないのかわからない言葉は宙に消えてこの話はここで終わりだと目に見えない線を引かれたように思えた

    それから数日。俺はいつものようにスケッチブック片手に兄がサッカーをしている様子を横目で見ていた
    その時聞き覚えのあるあの言葉が耳に飛び込んできて心臓の鼓動が早まる

    「逆サイ逆サイ!」
    「糸師冴マークしろ!」

    2人にマークされている兄が華麗なドリブルで抜けだしゴール前の味方にパスを出した
    あぁ、よく覚えている
    今日だったのか…

    「ゴール前!飛び込め!」
    「届かね…」「無理っすコーチ…!」

    ボールが落ちる寸でのところで俺が飛び込み直撃蹴弾(ダイレクトシュート)を決めたあの日は。

    『凄いぞ凛』『俺とサッカーしろ』
    『お前なら俺の次に凄くなれる』

    ごめんなさい兄ちゃん
    俺は応えられない
    今だって体が震えてるんだよ
    思い出しただけでとてつもない恐怖が襲ってきてボールにすら触れないんだ
    この先の未来に希望がないんだよ
    ドンとボールが地に落ち跳ねて転がる音が聞こえる

    「あー…」「ドンマイドンマーイ」

    ああ…兄ちゃん…
    こんな奴らとサッカーやってて、辛いよね
    でも俺もこいつらと変わらない群集(モブ)なんだよ
    練習相手になれない。利用価値もない。欠陥品
    兄ちゃんは1人でも強くなれるから。大丈夫なんだよ
    それはきっと潔もそうで。あいつも俺がいなくても強くなれるんだ。

    バサッ…

    「…っ!!」
    「……凛?」
    「ゔぅ…っ!、ゔぅ…」
    「凛!?どうした!大丈夫か!?」

    スケッチブックを地面に落とし蹲り胸を押さえて倒れた俺を見て周りの大人たちにわかるようフェンス越しに必死に大声で声をかける
    落とした際に開かれたページにはいつの日か描いた満足のいかない怪物の姿
    涙の膜が張って何も見えない
    結局あれから2年の月日が経ったが未だ満足のいく色はできず潔を、怪物を描くことはあれ以降1度も無かった

    「ごめ、ん…なさ、…にい、ちゃ…」
    「凛!聞こえるか?もうすぐ救急車来るから!」
    「ごめ……ん、…い…さぎ……」
    「……え?」

    ごめん。俺が弱いから。
    俺のいない世界で生きる潔を、ほんの少し考えただけでこんな…
    迷惑かけてごめんなさい、サッカーできなくてごめん
    弱い。利用価値のないゴミ。欠陥品。

    なのにまだ潔の事を愛してる
    愛しててごめん、ごめんなさい。


    意識が覚醒して目を開く
    眼球に入る光が刺すように痛みゆっくりと瞼を開き周りを見る

    「ぅーん……」
    「! 凛!目が覚めた?」
    「…?おかあさん?」
    「あぁよかった…!」

    ナースコースが押されてしばらくすると看護師と医者がやってきて2〜3質問されて目や口の中を見た後聴診器を当てられ問題ないですね。でも一応今日はこのまま入院しましょうと言われ話が進められそうになった。嫌だと駄々を捏ねたが無駄だった。

    「凛。わがまま言うな」

    兄ちゃんにそう言われてしまっては俺はもう何も言えなくなってしまう
    大人しく布団に入るよう言われ手続きをしてくると母がいなくなった後兄が俺に縋り付くように顔を埋めた

    「…死んじゃったのかと思った」
    「いきてるよ」
    「急に倒れるから…おまえ、…っ…」
    「…もう大丈夫だよ」
    「……ぐす…」
    「にいちゃん、ごめんなさい」
    「…っく…なにがっ…」
    「めーわくかけちゃった」
    「迷惑、じゃない…」

    けど、心配した。と顔をあげないまま涙声で話す兄の頭を撫でる
    しばらくされるがままにされていた兄は突然ガバッと起き上がるとまたいつものスンッとした顔になる
    目が赤いからバレてるのに俺の前だと強がるのは今も昔も変わらないんだな。なんて見ていると「何見てんだ」と凄まれた
    恥ずかしいからって何も威嚇することないだろと思いつい出来心で目をぎゅっと閉じて「おなかいたい…」といえば慌てて病室を飛び出して行ってしまった
    ナースコースというものがあるのに…
    それに冗談だったのにと思っていると涙目で母と医者を連れた兄が戻ってきたのでまずいことになったと今度はこちらの顔が青ざめる事となった

    嘘は突き通せ。トイレに行きたい。と冷や汗をかきながら告げれば医者は納得したように俺を抱えてトイレに連れて言ってくれた。歩けるよと言ってもすぐだからね。とそのままトイレへ直行
    でたらなおった。と言えば豪快に笑って間に合ってよかったねなんてご褒美シールまでくれた
    子どもが好きなのだろうか。いい先生だな。
    スリッパがないからとまた抱っこされて病室に戻ると兄が鬼のような形相になっていたので怖くて思わず医者にしがみつくといつの日かのように足を引っ張られた

    「コラ!冴!やめなさい」
    「凛!降りてこい!」
    「やぁーっ!」

    兄ちゃん怖い!と叫べばそのままフリーズしてしまったのでその隙に俺はベッドに戻され固まったままの兄は母に連れられ出て行ったまま結局その日は帰ってこなかった。…というか帰ったのだろう。
    急な事なので1人で病院に泊まる事となり心配する母に「大丈夫だよ」と何度も何度も言って聞かせた
    本当の6歳ならいきなり病院に泊まるよう言われたら寂しい怖いと泣くのかもしれないが実際中身は19歳。怖いどころかたまには1人もいいななんて呑気に構えていた

    「………」

    あれ、思ったより怖いかも?と思い始めたのはまだ日付けも変わらぬ就寝時間からたった1時間ほど後のことだった
    いつもはピッタリ横に兄がいたからそっちが日常になってしまっていたのだろう
    1人になるのがこんなに心細いなんて思いもしなかった
    真っ暗で視界もよくない部屋の中同室の人間はおらず2人部屋だというのに人がいないのでやけに広く感じてしまう
    慣れてたはずの孤独に怯えるのはもう何度目の事だろうか
    怯えというのは厄介なもので思考を停止させるだけではなく甘えた行為をしそうになってしまう悪魔のような感情の1つだと思う。
    甘えは許されない。そう思い潔によって与えられた甘い時間を手放したのは自分だった
    他人と関わるとプレーに支障が出ると言い試合前は必ず潔断ちをした。甘えたくなるなどとは口が裂けても言えなかったが彼には丸わかりらしくニヤニヤと笑いながら承諾されて悔しかったのを覚えている。

    昔、潔世一という男が自分の前に現れてからしばらくした頃。やけに絡んでくるなとは思っていた
    最強を喰らいその力を我が物にする
    最初はヌル雑魚だと思っていたのに徐々に力をつけ最後は目で追うのがやっとだった
    再構築し進化するのだ。彼は。
    ソレが豹変したようにも見えるし悪魔にでもなったかのように見える時すらある
    それでも私生活ではずっと優しかった
    フィールドではあんなに口が悪いのに不思議なもんだと。もしかして別人なのかなと疑ったこともあった
    兄曰くお前も大差ないとの事だったが全然違う。
    潔は人が変わるのだ
    それが徐々にハマっていく大きな要因となったのは本人には告げていないしそんなことを言ってしまえば調子に乗らせると思っていたから告げる気もなかった
    素直でなければ可愛げもない自分のどこに惹かれたのか俺には何一つわからなかったけど体を重ねた時の興奮と愛情が混じり合った瞳からあらゆる感情が渦巻いていることを証明していたのを今でも鮮明に思い出せる

    『凛…好きだ、好きだよ…』

    「…………ぁ、」

    まだ未熟な体だというのに本当に自分は浅ましい
    下半身に覚えのある違和感が。
    精通を迎えていないこの体であれば下着を汚し恥ずかしい目に遭うのは避けられるだろうがそういう問題ではない。
    思い出して反応させてしまうとは。
    我ながらどうかしているといつのまにか吹き飛んだ恐怖心など忘れて恥でどうにかなってしまいそうな心臓を抑えるべくできるだけ何も考えないようにして眠りについた


    朝目が覚めて下半身が治っていることに胸を撫で下ろしてから体温を測り少し体を診てもらい問題ないとお墨付きをもらえて昼間には退院することができた

    家に帰り昼食をとってすぐスケッチブックを開く
    黄、赤、緑、紫、青
    思いつく限りの色を重ねあの色を作ろうとするが無理だった
    いい加減クレヨンでは限界だ
    だが家の中で絵の具を広げるには今の体力では少々面倒でもう少し体力つけないとなぁと小さな手を見つめる
    描くことに集中しすぎてオーバーヒートを起こして絵の具の海の中へ突っ伏して眠る事が数回。片付けまで辿り着かない事が多く家の中ではクレヨンか色鉛筆にしなさいと怒られてからはそれに従い絵の具は教室に通う日のみのとっておきとなっていた

    「今日は絵画教室お休みしましょうね」
    「やだ。いきたい」
    「だめよ。今日はお家で大人しくしてること」
    「やだぁ」
    「お兄ちゃんが帰ってきても同じこと言える?」
    「ゔー…」

    それはずるいだろ…
    仕方ないと諦めてスケッチブックに絵を描き始めた俺を母がニコリと笑って今日はお母さんが片付けてあげるから絵の具使っていいよと許可してくれた

    「ほんと?」
    「うん。でも今日だけよ?」
    「ありがとう」

    優しい。今日くらい自分で片付けられる様に頑張ろう
    普通逆だけど甘やかされると頑張ろうって気になるのはやっぱり俺が甘やかしを受け入れるのを未だに少し怖いと思ってしまうからなのかもしれない
    ペタペタと色を混ぜる
    あの青はどうしたら出せるのかといろんな色を試してみた
    補色のオレンジ 類似色の紫 緑を入れたり水を足したり試行錯誤して作っては塗る 塗っては作るを繰り返す
    おかげで青の消費量は凄まじくすぐに無くなってしまうから青の絵の具だけは大量に購入してくれている
    ペタペタ ペタペタ
    しんと静まり返った室内に雨音が聞こえ始める
    母さんが慌てて洗濯物を取り込みに外に出た
    俺は無心で作り続ける
    ペタペタ ペタペタ
    この色じゃない こんなに浅い色じゃない
    この色でもない ここまで深い色じゃない
    ペタペタ ペタ ポタ
    突然パレットに真紅の色が落ちた
    無意識的にその色を混ぜ合わせる
    ああ これだ。これが一番近い気がした
    筆を紙に、色をのせる
    俺の愛した怪物がいる
    早く。早く完成させたい
    夢中で描き続けていると頭がくらくらしてきた
    怪物がこちらに話しかけてくる
    『凛』『愛してるよ』

    俺も。俺も愛してる。潔。潔…潔!

    「凛!!!」

    突然肩を掴まれて現実に引き戻される
    見るといつの間にか帰ってきていたのか少し濡れてる兄がいた

    「にいちゃん…?おかえり…どうし「鼻血!」

    鼻血…?
    気づけば服や手に血が大量についていた
    多分顔もすごいことになっているだろう
    兄が力が抜けたみたいに膝から崩れ落ちる

    「にいちゃんっ!だいじょうぶ?」
    「お前が大丈夫かよ…」

    震える手でどうにかティッシュを掴んで俺の顔を拭う兄ちゃんは信じられないものを見るかのような目をしていた
    雨でサッカーができなくて濡れながら帰ってきたのであろう
    冷たい手には水滴がついていて体も冷えている

    「にいちゃんかぜひいちゃうよ。おふろはいろ?」
    「…そうだな」

    戻ってきた母が悲鳴をあげて俺に駆け寄る
    どこも痛くないしもう止まったから平気だと告げると着替えさせられてベッドに入れられてしまった
    兄と風呂に入りたいと言う俺の言葉は却下されて安静にしてなさいと怒られる
    昨日は倒れて今日は多量出血。当然といえば当然かもしれない
    それに頭もクラクラしてきた

    結局あの絵は完成しなかった
    あと少しで潔に会えると思ったのに
    現実では会えないけど絵の中で再現するくらいは許してほしい
    血を混ぜて完成するなどどこのオカルトだと言いたくなるがあの色は完璧に近かった。が、完璧ではない
    これ以上何を捧げればいいのかわからないがもう今回のようなバカな事はできない
    血を混ぜるなどバレたらとんでもないことになる
    最悪もう絵を描くのをやめろと言われるかもしれない
    元々兄を喜ばせるために始めたのだが…またしても自分の欠陥品っぷりを発揮してしまうのだな。と猛省

    「凛、大丈夫か?」

    風呂から上がった兄が部屋にきて俺の顔を見る
    ベビーベッドを覗いてた兄の顔になっている

    「だいじょおぶ」
    「ほんとか?お前怖かったぞ。血出てるのにずっと絵描いてて」
    「ごめんなさい」

    気づかなかったと言えば鈍臭いなと呆れられた
    どこでそんな言葉覚えてきたのか知らないが鈍臭いとは失礼な
    学校に行くようになってからちょっと口が悪くなってきた気がする
    しばらくすると兄が母に呼ばれて出て行き入れ替わるように父が部屋へ入ってきた

    「凛、具合はどうだ?」
    「おとうさん…もうだいじょうぶだよ」

    最近仕事が忙しいのかあまり顔を見ていなかった父が昨日倒れたと聞きつけ今日は早く帰ってきたらしい。またベッドに逆戻りしてる俺を心配そうに見にきてくれた
    父はどれだけ忙しくても家庭を顧みない人では無かった
    自分も兄もプロ入りしてからは年単位で家に帰らなかったっけ。忙しいというのもあるが俺に関しては半分意地も入っていたかもしれない。
    兄がそうしていたから自分も、と結局兄に習う弟のまま海外でオフシーズンを過ごすことも多かった
    もっと帰れば良かったなんて今更思ってももう遅い

    「だっこして」
    「ああいいよ」

    父のたくましい腕に抱かれていたのはいくつまでだっけ
    兄に子どもっぽいと思われたくなくて本当はしたかったことをたくさん我慢したんだ
    サンタからのプレゼントも先に行く兄と離れることの寂しさも全部全部
    強がり続けて甘え方を忘れた自分には勇気のいる行動だったが父は快くそっと俺を抱き上げご飯たべれるか?と優しい笑顔で聞いてくれた

    「ごめんなさい。おとうさんおしごといそがしいのに」
    「ええ!?凛〜!いつのまにそんなこと言うようになったんだ!?」

    寂しいこと言うなと頭をぐりぐり撫でられて髪がくちゃくちゃになる
    ずっと伝えられなかったごめんなさいをこんなずるい形で告げるなんて。卑怯者。

    「お父さんは凛も冴もお母さんも1番大事だから仕事後回しでいいんだよ」

    優しい嘘だ
    建築士の父がインタビューに答えてるところを前回の人生で見た事がある
    言葉の端々から父のプロフェッショナル性が伺えた
    とても仕事を後回しに。なんて言葉が出る人ではないことくらいわかっている
    兄もそんな父に憧れたのだろうか
    父もそんな兄に理解を示したのだろうか
    俺は欠陥品だからその域まで行く事ができなかった

    サッカーもできない。兄との関係も人の手を借りないと修復できない。何もかも中途半端でひとつもうまくできない自分が嫌いだ


    学校に行けるようになったある日
    体育でとうとうサッカーの授業を受けることとなった
    わかっていれば大丈夫。兄が見ていないのもわかってる。
    それでも手が震える
    もし兄があの教室の窓から俺のことを見ていたら、
    『ぬるいんだよ』
    たかが6〜7歳の子どものお団子サッカー
    されど兄を見てきた自分がそこに混ざっている姿をみて兄はどう思うだろうか
    サッカーはしてないから関係ない。と言う気持ちとぬるいサッカーをしている自分を見ないでほしい。という気持ちが混ざり合って気持ちが悪い

    「凛くん、体育はお休みする?」
    「…ううん」

    ここで逃げたらこの先もずっと。
    ただでさえ今までずっと中途半端なんだ
    逃げられない、逃げる姿も見られたくない
    視線を感じる
    ありえない。兄はあの教室の中にいる
    それなのにどうして…!

    ありもしない視線を感じるなどどうかしてると思いつつも授業は無慈悲に始まる
    ただの球蹴りごっこだ
    蹴られて返して、返されたのを蹴って。簡単な作業
    手始めにボールに慣れましょうだなんて失笑。
    扱いに慣れていない子ども達にはこれでいいのかもしれないが俺にとっては退屈で、それでいて気を揉む作業だった

    授業も終わりかけようやく解放されると思ったときのこと「あぶない!」と大きな甲高い声
    見上げるとボールがこっちに向かって飛んできてるではないか
    やはり普段からサッカーで遊んでいる子達にとってこの作業は退屈だったのだろう。それかボールを前にして憧れの選手のように高らかに蹴ってみたかったのだろう。ともあれ誰かが思い切り蹴り上げたボールが宙を舞っていた
    軌道を見ながら目の前に落ちてきたボールを反射的にトラップする。胸で受け足首へと緩やかに流して足元へ落とす。なんてことない頭でわかっていれば体力がなくてもできる俺にとっては簡単な作業だ

    「すごい凛くん!」「かっこいい!」

    やってしまった。
    気づけば周りの人間が俺を囲んでいた
    たくさん視線が俺に集まる
    「やっぱりお兄ちゃんみたいにできるの?」「サッカーやればいいのに」「すごいね!」「俺にもおしえて!」

    できない。やらない。すごくない。おしえられない。
    やめて。やめてくれ。
    もう辞めたんだ

    「…て…」
    「え?」
    「やめて!!!!」

    もう誰も俺に期待しないでくれ
    欠陥品なんだ。何もできないんだ。
    ごめんなさい、ちゃんとできなくて
    捨てられるのが怖い
    期待を裏切るのが怖い
    『お前の事だからさらに強くなって戻ってくるだろ?』
    無理だ。できない。
    『さらに俺も強くなる。かな』
    お前みたいにはできない

    ぐらりと視界が暗転し地面に倒れ伏す
    「きゃぁ!」「凛くん!!」
    人の声が遠くに聞こえる
    もう嫌だ いつまでこんなことを繰り返すんだ
    せっかく全部捨てたのに 全部戻ってくる
    誰か助けて 潔 潔…!

    切り捨てるべき相手に助けを求める凛の矛盾した心に気づく者などいるはずもなく憐れにも泣いて縋る相手を間違えていることに気づかずただただイタズラに己の心を痛めつける

    そのまま凛は気を失い目が覚めた時には保健室のベッドの上にいた
    養護教諭の指示のもと親が迎えに来るまでベッドの上で大人しく待つこととなった凛は大変な騒ぎを起こしてしまったと泣きたい気持ちになっていた
    兄に知られたらどうしようと保身に走る自分が醜く思えて顔を青くした母の顔を見た途端涙が溢れた
    母に抱きついてごめんなさいと泣いて謝った。
    連日救急車で運ばれたり多量の鼻血を流したり学校で倒れたりと心労をかけすぎてしまって反省してもし足りない
    母は気にしないでいいのよと優しく頭を撫でて抱きしめてくれた
    人見知りが激しい(と思われている)俺が急にたくさんの人に囲まれて驚いて心因性のパニックを起こし倒れたのだとわかりようやく納得したように安心した顔になった

    「先生から聞いたよ。いっぱいお友達に囲まれてびっくりしちゃったのね」
    「…うん」
    「体育でサッカーしてたのよね、楽しかった?」
    「…ううん」

    楽しくなんてなかった。ずっと誰かに見張られてるみたいで気持ち悪くて早く終われ早く終われってずっと逃げたくて仕方なかった
    そっか。楽しくなかったか…。ともらした母は俺の手を引いて歩く

    「凛はサッカー嫌い?」
    「きらい。こわいの」
    「どうして怖いの?」
    「……」

    チラリと母を見ると目が合った
    不道徳な事以外全てを受け入れて受け止めてくれる母にこの思いは通じるのだろうか
    言ってもいいのだろうか

    「……あのね、」
    「うん」
    「…にいちゃんみたいに、できないの」
    「サッカー?」
    「うん」
    「だから怖いの?」
    「うん」

    そもそも今生きている人生の中でボールを触った事などほとんどないのだが母はどう解釈したのか「そうねぇ」と考え始めた

    「凛は絵が好きよね?」
    「うーん、…うん」
    「あれ?好きじゃないの?」
    「わかんない」

    好きかどうかと言われると微妙だ
    元々は兄を喜ばせるために始めて今は自分の中のものを昇華するためにやっている。いずれこの道で食べていけるようにとは思うが好きかどうかはまた別の話だ
    サッカーも絵も全部全部。好きで始めたことなんて1つもないのかもしれない

    「凛はお兄ちゃんのこと好き?」
    「うん」

    これは即答できる。兄のことは好きだ。世界一優しくてかっこいい自慢の兄だから
    例えどんなことがあっても心の底から大好きだと言える

    「お兄ちゃんが凛みたいに絵が上手に描けなくて怖いって言ってるの見たことある?」
    「ない」

    無い…というかあのマウントお兄は俺の絵より自分の絵の方が上手いと宣っていた
    どう考えても幼い頃から延々と絵を描き続けて絵画教室なんかに通っている俺の方が上手いに決まってるのに
    (ちなみに兄ちゃんの絵は目も当てられないほどひどい。それでも「そうだね。じょうずだね」としか言えない俺もどうかと思う)

    「そうよね、だから凛も怖がる必要ないのよ?人と人は違うの。誰かと比べて上手にできないからって怖いなんて思うことないのよ?」
    「…でも、」
    「うん?」
    「おれがじょうずにサッカーできないと…にいちゃんおれのこときらいになる」
    「ならないよ、大丈夫。お兄ちゃんは凛のこと「じょうずにできないからおれのことすてる」
    「……」
    「おれなんていらないって、すてるから」

    母が絶句してるのがわかる
    まさかそんな言葉が出てくるとは思わなかったのだろう
    突然立ち止まってから俺を抱き上げて「誰かにそう言われたの?」と真剣な顔で聞いてくる
    兄にそう言われたんだよ。俺は夢と共に捨てられたんだ。なんて言えるはずもなく肯定するため首を縦に振るのが精一杯だった

    「凛、もし次誰かに怖いことを言われたりされたりしたらすぐに言うのよ?お兄ちゃんもお母さんもお父さんも凛の味方だからね?」
    「うん」
    「いい子ね、凛…。あのね、お願いだから捨てられるなんて言わないで?誰もあなたのことを捨てたりなんかしないわ」
    「…」
    「いい?お願いよ…凛…」

    無言で頷くしかなかった。
    ごめんなさい母さん
    俺はあなた達を捨てました
    ありもしない幻の光に手を伸ばして死にました
    そんなつもりじゃなかったけど結果としては俺はあなた達を捨てたことになるでしょう
    不出来な息子でごめんなさい。

    「ごめんなさい…」
    「謝らなくていいのよ。凛…話してくれてありがとう」
    「うん、…あ、そうだ…」
    「うん?」
    「おねがい。にいちゃんにはいわないで?おねがい…」

    わかったわ…と絞り出すような声を出しながら抱きしめてくれた母の腕は少しだけ震えていた。

    季節は移り変わり夏休みに突入。
    兄も自分も相変わらず誰かと遊ぶでもなく兄はサッカー、自分は絵を。と各々やりたい事に没頭していた
    絵画教室のない日は兄のサッカー見学兼景色の絵を描くようになりあの鼻血を流した日から青い瞳の怪物に拘るのをやめた。

    結局あの後何をしても青い色が作り出せなかったからだ
    まだ潔を求めている俺にとっては苦渋の決断ではあったが潔に拘り続けるとそれこそ鼻血だけでは足りず腕を切りつけてしまうかもしれないと近くに置いてあった工作用の鋏を見ながら思ったのは割と最近の話で、自分の生っ白い肌に多量の血が溢れるのを想像しゾッとしながら鋏を片付けた。


    「うみかきたい」
    「海?………」

    小学生の足には少し遠い距離だが今は夏休み
    時間は無限にある
    本来なら水辺に近づくのであれば親もしくは大人がいた方がいいだろうが自分は中身大人の19歳。今世合わせれば25年の時を生きる立派な大人だ

    「………母さんと父さんには内緒だからな」
    「うん」

    ほんの少しだぞ。絶対に水に近づくなよ。と散々注意されてうん、うん。と頷いて兄の服の裾を掴む
    2人だけのちょっとした遠出、兄だって今は小学生男児。好奇心には勝てまいと誘ってみたが思ったよりあっさり承諾されて内心ほくそ笑む
    (やっぱり兄ちゃんも子どもだなぁ)
    昔はいつまでも完璧で立派に見えた兄の可愛らしい一面を生まれ直してからたくさん見てきた
    少し意地っ張りでかっこつけで負けず嫌い。ストイックで本当はすごく勝ち気なのに顔には出さない実力で示す。
    世界一かっこよくて可愛い俺の兄ちゃん
    …でも兄ちゃんだって人間なんだ。俺は理想ばっかり押し付けて兄ちゃんの少しだけ見せた弱い部分を、俺にだけ見せてくれたのに否定して傷つけた。
    今だって兄を利用して自分の願望を叶えようとしている
    情けなくてかっこ悪い自分が嫌になる

    「凛、聞いてんのか?遠くから見るだけだからな?」
    「うん」

    いつの間についたのか眼前には青い海が広がっていた
    持ち運び用のクレヨンは色鉛筆に変わり色も72色に増えていた
    それを取り出し堤防に座り大人しく写生を始める
    太陽が照り付け遮蔽物のない海岸は非常に暑そうだった
    堤防も大して変わりないが兄が度々水筒に入れておいたお茶を飲ませてくれているのでそこまでつらくはない

    「…」
    「…」

    色鉛筆を擦らせる音と波の満ち引き、カモメの鳴き声と海岸にいる人の声
    俺たちは2人並んで無言のまま
    兄には退屈かもしれないとチラリと見ると渡り鳥の群れを見ていた

    「とりみてるの?」
    「あぁ」
    「たのしい?」
    「あぁ」

    兄は鳥が好きだったなんて知らなかった
    ただ見ているだけだと思っていたがいつもと少し目が違う
    兄は好きなものを見る時ほんの少しだけ眉根が緩む
    自分では気づけなかった。潔が教えてくれた兄が気を許したという証
    『冴ってお前を見る時雰囲気変わるよな、なんか眉が緩んでる』『大事に思われてんだよ。自信持てって』
    俺の中に息づく潔が今も助けてくれる
    自信を持つことはできなくてもその目印を見つけ現状の確認だけはできるから、今はまだ大丈夫なのだと安心できる

    スラスラとまっさらだった紙の中へカモメを落としていくと兄がそれを覗き込み「へぇ」と感心したように声を漏らす

    「うまくなったな」
    「ほんと?」
    「あぁ、凄いぞ凛」

    帽子越しに頭を撫でられぐりぐりと頭が揺れる
    ちょっと首が痛いけどそれを甘んじて受け入れてペンを進めていくと兄のクラスメイトであろう子どもに声をかけられた

    「冴じゃん。なにしてんの?」
    「海見てる」
    「へぇー他の奴らもきてんだけどこっちきて遊ばね?」
    「凛の面倒見てるから無理だ」
    「え?あぁもしかして弟?ちっちぇー」

    兄の影に隠れていた俺に気付き男児がこちらに近づき目線を合わせて「こんにちは」と挨拶してきたのでこちらも挨拶を返すと持っていた絵を見て「うまいじゃん!」と興奮したように近づいてきた

    「俺の宿題のポスターも描いてよ」
    「ふざけんな。自分でやれ」
    「冗談だって!つか冴って弟いたんだ」
    「あんま凛に近づくな」

    ぐいっと無理やり入るように兄が俺と男の間を遮りしっしっと手を払う
    過保護ってやつ?と揶揄いながらヘラヘラと笑っているあたり付き合いがそれなりにあるのだろう。普通なら多少怒ったりするものだと思うが…

    「凛くんもおいでよ」
    「ダメだ。お前らと遊ぶと凛が怪我する」
    「させないって!ちょっとだけ!」
    「にいちゃん、おれここにいるからいってきなよ」

    絵を描いてる俺を待つのは退屈だろうと思っての発言だったが兄は不機嫌そうにダメだと言い俺のそばに寄る

    「最近ぶっそうだから凛を1人にはできない」
    「そうだよ、こっちで遊ぼ?」
    「うーん…」

    本当は絵を完成させたいけどあとは色を塗るだけだからまあ見なくてもできるからな…
    見ながらの方がいいけど兄の数少ないであろう交友関係に俺のせいでヒビが入ったら困る

    「わかった。にいちゃんいこ?」
    「絵は?いいのか?」
    「うん」
    「よし!行こうぜ!」

    パタパタと走り出した男の後を追うと大人が数名、水着の子どもが数名いた
    ビーチボールをしていたらしく砂だらけになりながらきゃあきゃあとはしゃいでいる
    声をかけると兄がいる事に気づいた女子が恥ずかしそうに頬を染めていた

    「冴くん!いたんだ」
    「いちゃ悪りぃのか」
    「そういうわけじゃないけど……あれ、その子」
    「弟だ」

    ちっちゃい!可愛いと女子に囲まれてしまい兄に目線で助けを求めるとあっという間に追い払い俺を守るように後ろに置いて「凛に近づくな」と威嚇している
    周囲は不満そうにしていたがすぐに遊びを再開させ場の雰囲気は楽しげなものへと変わった

    「凛くんは小さいから手加減してあげてよー」
    「わかってるって!」

    そうは言っていたもののやはり熱中していくと力が入るようで最初はそれなりに弾ませることくらいはできていたがビニールの安っぽいボールだというのに腕にあたればそれなりに痛くてあっという間に両腕が赤く染まってしまった

    「お前ら手加減しろって言っただろ…!」
    「ごめん!」「痛そう…」「ごめんねー」
    「だいじょうぶ。おれあっちですわってるから」

    じんじんと痛む腕を休めるため近くで兄を待つ事にした俺は先ほど中断していた色塗りを再開しようと海を見る

    「あ……」

    キラキラと向こうの方に光が見える

    あれはあの激しく荒れた白波の向こうにあった幻だと思っていた光明ではないだろうか

    それを認識した途端俺の足は海の方へ進んでいた
    この穏やかな海であれば飲まれる事なくあの光へたどり着けると、そう思っての行動だった
    ざぶっと足が濡れる感触がする
    あの時の違ってえらく穏やかで柔らかな風に穏やかな空模様、波もほとんどない無いのでこれなら奥まで行っても大丈夫だ。そう確信して足を進めた。

    「凛!!」
    「ゎ、あっ!?」
    「なにやってんだ!このバカ!!」

    ぐいっと後ろに肩を引かれてひっくり返りそうになる
    慌ててバランスを取るといつの間にか真後ろに来ていた兄に先ほどボールを受け真っ赤になってしまった腕を指が食い込むほどの強さで容赦なく引かれて痛みが走り反射的に涙が溢れる

    「いたい!」
    「バカ!バカ凛!」

    ぐいぐいと腕を引かれ砂浜の方へ強制的に連れて行かれて抱きしめられる
    兄の胸に強く押し付けられ初めて兄の心臓がバクバクと激しく打ち鳴っているのに気づいて「?」で頭がいっぱいになる。


    「冴くん!凛くんは!?大丈夫!?」
    「海はいっちゃダメでしょ?危ないよ!」
    「あ、ごめんなさい…」

    気づけば膝下まで海水でびっしょりと濡れていた
    足を動かすとぐちょりと靴が泥濘にハマったような違和感と気持ち悪さに襲われる
    家まで距離があるというのに…と今から帰り道の心配をしてしまう能天気な思考を刺すようにパンッ!と高い音が響き頬が熱くなる

    「ぇ…」
    「馬鹿野郎!お前っ…なんで海に入ったんだよ!」
    「…にい、ちゃ…」
    「わかってんのかよ…死んでたかもしれないんだぞ…っ!」

    兄に頬を叩かれたのだと気付きそこでようやくまた間違えたのだと悟る
    理解するのが遅すぎた…と体の芯から急激に冷えていく

    「ごめ、なさ……にいちゃ…ごめん、ごめんなさいっ…ごめんなさいっ!」
    「もうするなよ…俺のそばから離れるなよ…!」
    「うんっ、うんっ…」

    あと何回こんなことを繰り返すのだろう
    自分はなんて浅はかで強欲なのだと悲しくなる
    こんなに満たされた生活をしていながら未だに潔のことを求めて今や目を向ければ再び見えなくなった幻の光目掛けて進もうとしてしまう

    「ごめんなさい……にいちゃん…」

    抱きしめ返した兄に幾度となく繰り返したこの言葉を言わなくて済む日はくるのだろうか


    帰ってから母さんにしこたま叱られた後2人揃って無事で良かったと抱きしめられた。
    本当に悪いことをしたと思いしばらく大人しくしなければとへ
    兄と共にお風呂に入り夕食を食べ寝る準備を始めた

    「にいちゃん、きょうはごめんなさい」
    「もういいから謝るな、それに俺も悪かった…」

    叩いたりしてごめんなと未だ腫れている頬にそっと手を這わせる
    ピリッと痛みが走る
    口内にほんのり鉄の味。頬の内側を切ってしまったらしくもう血は止まっているが酸っぱいような変な味がする

    帰り道ぐちゅぐちゅと靴を鳴らしながら口の中が気持ち悪くて舌を出すと血のついたヨダレがれろぉ…と伝い「うぇ…」と声を出すと兄ちゃんは物凄く驚いた顔をしたあと傷ついたような表情に変わり「口の中切れたのか?見せてみろ」と強制的に口を開けさせられ恥ずかしかった

    「しばらくアイス食べれないな」
    「なんで?たべたい」
    「しみるぞ」
    「いい。たべたい」

    あと何回こうして一緒に並んでアイスを食べれるかわからないんだ
    自分のせいでその機会をなくすなんて嫌だ

    「にいちゃん。あしたアイスかってくれる…?」

    布団に入り縋り付くように抱きつくと兄は少しだけ困ったような声で「しみるって言っただろ、他のにしろ」と頭を撫でてくれた
    優しい兄ちゃんをこれ以上困らせてはいけないと承諾しおやすみなさいと声をかけてくるりと丸くなる

    いつの間にこんなに泣き虫になってしまったのだろう
    ぽろぽろと涙が出てくる
    アイスじゃなくていい。他のでもいい。兄ちゃんと並んで歩きながら食べれるならなんだっていい

    『へぇ、凛もこういうアイス食べるんだ』
    『なんか意外だなー』
    『しょうがないなぁ、ほら!買ってやるから食べようぜ』

    でも 潔の事を思い出すにはアイスしかないから
    俺は未だに思い出にしがみついて未練がましくまだ潔を求めてる
    こんなことならこの鎌倉の地に思い出なんか残さなければよかった
    思い知らされた。穏やかで平穏な日々を過ごしているのにまだあの光明を…潔と過ごした日々に帰りたくて俺はソコ目掛けてふらふらとなんの迷いもなく歩いて向かってしまうのだと
    ただほんの少し一緒にいたことを思い出したり、現実では会えなくても絵の中で会えたり、教えてくれた事や話してくれた事を思い返してみたり。
    それだけでいいと思っていたのに
    どうしても頭の片隅で会いたいという気持ちが消えない。

    会いたいという気持ちを自覚してからは必死に潔を忘れようという方向へ思考を変えるべく怪物の絵は封印し彼の瞳を思い起こさせる青色の絵の具はあまり使わなくなった。


    そこから月日は流れて俺は色んな賞やコンクールに絵を出し続け兄には及ばないまでも自身で勝ち取った賞状や贈与品がほんの少しだけ兄のトロフィーと共に並べられる様になり少しだけ誇らしかった。

    兄は俺がいなくても強くなった
    元プロにまで上り詰めた俺から見ても今の兄ちゃんは凄い
    自分がいなくても兄は大丈夫なのだとトロフィーやメダル、賞状が増えるたびに実感する
    潔もきっとそうなのだろう。自分がいなくても皆前へ進んでいける。

    「………はぁ、」
    「凛。少し休憩しろ」
    「兄ちゃん…ありがとう」

    差し出されたココアを受け取ると中にマシュマロが入っていることに気づいた

    「なんだよこれ」
    「母さんが糖分必要だろうって」
    「へぇ…」

    現役時代の厳しい食事制限の反動…というより後遺症みたいなもので未だにジャンクな物や高カロリーな物を口に入れるのは抵抗がある
    家族の手前吐き出したり拒否したりはしないができるだけ口に入れたくない
    もう気にする必要はないというのに長年の習慣とは恐ろしいものでどうしても食べてはならないと脳が拒否反応を起こし兄に買い与えられた物以外はできる限り避け続けていた。

    そっと兄のココアを覗き見るとそちらにはマシュマロが入っていなかったのでこっそり入れ替えて飲むと底に溶けたマシュマロが沈んでいた

    「ゔっ…」
    「やると思った。お前甘いの嫌いなのか?」
    「嫌いじゃないけど…」

    俺の小さなイタズラは兄にはお見通しだったらしくあえて静観されていたのだと思うと恥ずかしくなった

    兄は12歳、俺は10歳

    兄が、兄ちゃんがスペインに行くまであと1年

    とうとうここまできてしまった
    短かった。兄はもうすぐ苛烈極まるかの世界の人間になるのだ。
    自分を置いて世界へ、戦場(フィールド)へ向かう

    そこで何があったのか俺にはわからない
    今回はぶつかり合うことのないよう上手くやらなければ…
    俺はもう兄ちゃんと潰し合える人間じゃない
    少しぶつかられたら多分折れる
    そんなぬる雑魚の自分ができることは兄に追い打ちをかけたり否定することではない。あってはならないのだ。

    「何描いてたんだ」
    「これ?次のコンクールに出すやつ」
    「ふぅん」

    絵の世界にも色々あって、"子どもらしさ"ってやつがウケるらしい
    調和が好きな日本らしい価値観だ
    自分の作品は何度も何度も選考落ちした
    仕方ない。求められている絵じゃなかったのだ。
    そう思うたびに自分自身が求められていない、いらない人間なのだと思ってしまって苦しかった
    どこの世界へいってもこういう苦しみはつきものなのだなと落とされて戻ってきた我が子をそっと箱へ仕舞う

    「いい絵なのに、勿体無いな」
    「ふふ…ありがとう兄ちゃん」

    蓋を閉める前に絵を覗き込んで兄が慰めの言葉をくれた
    それだけで十分だ

    『慰めてもらえるとでも思ったか?欠陥品が』
    「お前の絵の良さがわからないなんてくだらねえぬりぃ奴が審査員だったんだろうな」

    反吐が出るぜと吐き捨てた兄の言葉が遠回しに自分に刺さる

    「そんなことないよ。俺の作った物はそこで求められていた物じゃなかっただけ」

    頑張ってチームを日本一にした事があった
    努力してチームを勝たせるため自分を殺すプレーをした
    それしかやりようがなかった
    でも兄ちゃんはそれを求めてなかった
    どうすればよかったのかなんて今となってはもうわからないけど兄ちゃんに聞いても答えは返ってこない事はわかる
    俺はもう舞台を降りたからその質問をすることすらできない。

    「そんな風に言うなよ」
    「…」

    曖昧に笑い返して甘ったるいココアをひとくちだけ飲む
    喉を通る焼けるような甘さが嫌で机の上に置くと「もういらない、兄ちゃんのんで」と差し出した

    「俺だっていらねえよ。お前が飲め」
    「甘すぎるんだよ」
    「考え事ばっかして脳みそ使ってんだから糖分とっとけ」

    ずいっとココアを再び押し付けられてどうにか半分までちびちびと飲み進める
    あまり覚えていないが今の自分と昔の自分とでは体格が随分変わった気がする
    5〜6歳からサッカーをしていた時と違ってずっと絵を描いていたせいか腕や脚が前より貧弱で体育ってこんなに辛かったっけ?と思ったりもした
    兄ちゃんに蹴られたりなんかしたら多分受け身も取れずに転倒するとおもう
    今ですらココアを飲みきれずもう本当に無理だと机の上に置いて放置して冷え切らせてしまうほどだ

    「もう飲まないのか」
    「うん。片付けてくるから兄ちゃんのマグカップちょうだい」

    差し出された空のマグを持ちシンクに持っていくと母がいた。中身を覗かれ「ちゃんと全部飲んだのね」とニコニコ笑っている
    お揃いで購入されていた2つのターコイズブルーのマグカップは俺たち兄弟専用の物で兄の方は持ち手がほんの少し欠けている
    元々は俺が使っていたのだが持ち手が欠けた際に「それは俺が使うから」と交換させられたのだ

    本当は兄ちゃんが全部飲んで俺は残してしまったのだけど…部屋でマグカップを交換して飲んだことなど知らない母は俺に向かって良かったと言い洗っておくからねとカップを取られた

    兄にも母にも気を遣われて情けなさで泣きそうになる
    いくらだしても落選続きなのを気にしてくれてくれているのだろう
    飾られることはあれどNo.1になる事ができない自分の絵は前回の自分の生をみているようでなんだか哀れなような、物悲しいような何とも言えない気持ちにさせられた。


    兄は渡西が決まってからも忙しいはずなのによく俺の様子を見て構ってくれていた
    それももうすぐ失われるのかと思うと寂しくて辛くて夜な夜な抱きついてしまいたいのを必死で抑える
    甘えた態度を取れば兄ちゃんは余計に心配してしまうかもしれない
    それに普通の兄弟はそんなことしないのだと潔が教えてくれた

    『え?中学まで一緒に寝てた?ど、どういうこと?なんで?』
    『…?別に普通だろ』
    『いやぁ…どうだろ…?…。えぇー…?』
    『………』

    潔の引き攣った顔を見て初めて「おや?」と思い恐る恐る周囲にいた青い監獄の奴らにそれとなく聞いてみるとそもそも部屋が違うだとか部屋が与えられず仕方なく小学生低学年の頃までだとか自分の常識とは大幅に違う回答がきて表情こそ変わらなかったと思うが愕然としたのを覚えている

    『……』
    『まぁ、なんだろ……仲良しでいいと思うよ、俺は』

    いつも優しい潔の笑顔が普段より固いのにまたショックを受けてしばらくどうしたらいいのかわからなかった
    こんなことを思うのも変かもしれないがまるでしてもいない浮気を許されたような複雑な気持ちになってしまい謎に逆ギレしたのを思い出す

    「…ふふ」
    「あ?何笑ってんだ」
    「あれ、ごめん起こした…?」
    「いや起きてた」

    ゴロリとこちらに腕を回し頭をポンポンと撫で「早く寝ろよ…」と眠そうにしている兄は起きてたという割にはすぐに眠りについてしまった
    きっと起こしてしまったのだろう。小さな声だったはずなのにしっかり耳に届いてしまったらしい
    申し訳ないなと思いつつぼーっと天井を見上げる
    なんだか久しぶりに潔の事を思い出してしまい寝つけそうにない
    できるだけ忘れよう忘れようとしていたのに俺の馬鹿な脳みそはことあるごとに潔を思い出してしまう

    「凛…」
    『凛…』

    「っひ…」

    回されていた手と声が偶然、本当に偶然潔と寝ていた時の思い出と重なる
    ドクンドクンと心臓の鼓動が早まり下半身に熱が集まる
    最悪だ。潔と兄ちゃんを重ねてしまうなんてどうかしてる
    ソッと腕をどかしベッドから出てトイレへ向かう

    (最悪最悪最悪…っ!)

    自分が今からしようとしている行為にも浅ましい体にもバカな脳みそにも腹が立つ
    個室に篭るとズボンと下着を一気に下ろして普段は小さく垂れてるはずのソコがちょこんと立ち上がってるのを確認する

    (思い出して勃つとか…忘れる気ゼロかよ…)

    こんなのがバレたら死ぬ。さっさと抜いてしまおうと乱暴にちゅこちゅこと擦る。

    「ぅ……っ、…」

    なるべく声が出ないよう左手で口を押さえて右手で刺激を与えているとまた色々思い出してしまう
    青い監獄にいた頃。わざわざ棟を移動してきた潔とトイレで抜きあった事があった
    最初はそんなつもりじゃなかったというのに潔にトイレでキスされてお互い若さもあってか色々盛り上がってしまったのだ
    今にして思えばよくあんな場所であんなことをしたものだと反省。
    よくバレなかったものだと内心ヒヤヒヤしたのを覚えている

    今それに少し近い状況にある、と思うと下半身がゾワゾワしてくる
    (潔……)
    ぎゅっと目を閉じて彼に触られていた様に手を動かす
    潔は決して乱暴なことはしなかった
    けど普段優しい分こういう時だけはすごく意地悪でこちらが焦れて焦れて「もっと」と強請るのを待つのだ
    お前が欲しいと求めてくるのをじっと待つその手つきは残酷な程優しくてねちっこくて頭がおかしくなりそうな程にしつこく弱いところを責め立てる

    「ん……っ、…う…」

    声を出したらバレるというのに口を塞いだり唇を噛むことは許されず我慢できずに「あッ…」と声を漏らしてしまった時の潔の顔は試合中のソレに似ていて悔しくてこちらから唇を重ねて声が出ない様舌を絡めあった

    「ひ…ぃ……っ、」

    無いはずの熱を感じて体の奥から何かが込み上げてくる
    ゾクゾクとした寒気にも似た熱と快楽が全身を駆け抜けて大きく体が跳ねる

    「ぁあっ……!」

    思わず大きな声が出てしまいバッと口を押さえ直す
    いつの間にか押さえていたはずの手が離れて服を握り締めていたらしい。胸元に大きな皺ができている
    ドクンドクンと心臓が脈打ち、やがてゆっくり元のペースに戻る
    まだ精通を迎えていないソコはフルフルと震えておりそっとトイレットペーパーで先端を拭い下着を履き直す

    つらい。

    声を抑えるために絡め合ったはずの舌も、指を噛めば「ダメ」と言って手を取り噛み跡の残る指に優しく口付ける唇も、俺の痴態を眺めて欲望と熱情を混ぜ合わせたその瞳も
    今は全て失われて、俺には何も残っていない。

    「ぅっ、うっ…いさ、ぎ……ひっ…いさぎぃ…」

    ポロポロと溢れだす涙を拭うその手も無い
    忘れる、忘れると言いながらこんなにも潔を求めてる
    あぁ…惨めだ。

    結局それからもずっと潔を忘れるコトができないままあっという間にもう1人の大切な人、兄との別れの日が訪れた。
    もっとこの幸せな時間にいたかったのだが兄は前に進み続けるのだから俺もそれについていく他道はない

    「俺は明日からスペインに行く」
    「世界一のクラブレ・アールの下部組織でサッカーする」

    ああとうとうこの日が来てしまったと夕暮れの堤防の上。アイスを食べながら2人で並んで話した尊い日々がもう終わるのだ
    今度は海に投げ捨てる事なくあたりの棒をそっとポケットにしまい兄の方へ向き直る

    『俺たち2人で世界一になるぞ』

    俺がダメにしたその夢の話は、今回はどうなるのだろう
    兄の横顔に茜色の夕日がさし赤い髪が余計に美しく赤く煌めく

    「知ってるよ。なんだよ改まって…」
    「……だから、聞いておきたいことがある」
    「ん…?」
    「ずっと気になっていたが聞けなかった…」
    「どうしたんだよ…」

    なんだろう。
    兄ちゃんが俺に聞けないことって…
    逆にそんな物があるのかとこちらが聞きたいくらいだ

    「いさぎ。って誰だ」

    ドクンと大きく心臓が跳ねる

    「……え…」

    ありえない
    どうして、どうしてその名前を知ってるんだ…
    目を大きく見開く俺といつものように咥えていたアイスの棒を口から離し兄の目がこちらへとしっかり向けられる

    嘘偽りは許されない。
    視線がかち合った瞬間そう悟った。


    ー冴視点ー

    俺の弟は昔から変だった
    赤ん坊の頃は全然泣かないしいつ起きたのかわからないほど妙に静かに目を覚ましこちらが声をかけるまでぼーっとしている
    哺乳瓶でミルクを飲む時は必死にちゅうちゅうと吸い付いているのを見て「よっぽどお腹が空いてたのねぇ」という母の言葉に戦慄した
    こんな小さい生き物が腹を空かせているのにぼーっと泣きもせず宙を見つめていたなんて信じられない
    腹が空きすぎて動けないのか?と幼い頭で考えその日から俺はじっと弟を見守り起きれば母にすかさず声をかけた

    赤ん坊っていうものはもっとうるさいものじゃないのかと2歳にして思ったのを覚えている
    正確にはそんな言葉ではなかったが心に抱いた疑問を言語化するならそんな感じだろう
    人形かなんかと入れ替わったんじゃないかと思って頬を突けばふぇふぇと泣いたのでそれを見て弟はちゃんとここにいる。と安心したりした(母に怒られたのであまりやれない荒技ではある)

    「りん」
    「ぁぅ」
    「あらお返事したわ!すごいわねぇ」

    弟は、凛は名前を呼べば小さく返事をすることに気づいてからは頬を突き回すことはしなくなったけどやっぱり返事をする赤ん坊なんて変だと思ってよく観察していたらにこりと笑っていた
    お兄ちゃんのことが好きなのねと言われて悪い気はしなかったがやっぱり変だとは思った。
    変な赤ん坊は何故かおむつを変える時に俺がいると張り裂けんばかりの大声を出して泣く。それが面白いような可愛いような妙な気持ちになって毎回おむつを変える時に俺は横で新しいおむつを持って待機する役を買って出るようになった。

    とにかく変でぼーっとしてる赤ん坊は少し成長してもぼーっとしていた
    言葉を話し始めたり1人で何かをできるようになるのはとても早かった
    両親が驚くくらいなんでも出来るが相変わらず何考えてるのかわからないくらい口数も少なくただ俺の後をついて回っていた
    たった一度だけサッカーの練習中に邪魔だったから「あっちいってろ」というとひどく悲しそうな顔で「ごめんなさい」とトボトボ歩いて行くのを見て罪悪感でこっちが泣きそうになった
    さっきまで鬱陶しいなと思っていたのにいなくなると急に寂しくなって姿が見えないと不安で仕方なくなって母の元でちょこんと座っている弟にごめんと謝って頭を撫でればニコリと笑いかけてきた
    この日から弟はもう庇護対象になっていたのかもしれない

    凛は公園に来ても何をして遊ぶわけでもなく空を見つめてぼーっとしてる
    たまにきてるおじいちゃんですらもう少し動くぞと言ってやりたくなるがいつもの事なので気にしない
    声をかければ返事もするし遊ぼうと誘えば遊ぶ。ただサッカーだけは怖いと言って絶対にやらなかった
    まだ幼い凛が怪我をしたらいけないし俺も思い切りサッカーができないので別に気にしたことはなかったが思えばこの頃から凛はサッカーを恐れていたのだろう。

    ぼーっとしてる弟はたまにわけもなく静かに泣いていた
    赤ん坊の頃はもっと大声で泣いていたのに静かに泣くもんだから俺が見ていてやらないと誰にも気づかれないまま泣き止んでしまう
    泣き止ませ方を知らない俺はただそばにいることしかできなくて歯痒かったが凛は泣き止むと必ずありがとうと微笑んでいたので俺なりにできることをするしかないのだと、そう思えた。

    ぼーっとしていた弟がスケッチブックを与えられて絵を描くようになった
    凛が最初に描いたものはなんだかよくわからないものだった
    てっきり俺を描いてるのだと思っていたが黄色や青のよくわからない丸や線がごちゃごちゃと描かれていてひどく抽象的な絵だったことは覚えている
    今思えばあれは水の中から上を見上げているような。そんな感じだ。
    俺を描いてるもんだとばかり思っていた俺は用意していた言葉を反射的に言ってしまう
    本当は「上手だな」より「なんだこれ」の方が頭に浮かんでいた
    しかし上手と言ってしまった手前引っ込むことができず疑問は解消されないまま終わり「次は兄ちゃんをかけ」とお願いして描かせてしまった
    本当は自主的に描いて欲しかったのだが仕方ない

    「できた」
    「すごいぞ凛」

    絵なんかろくに見ずに凛を褒めるとちゃんと見てとスケッチブックを突き出してくる
    可愛いなと思いながら見てみると俺には似ても似つかぬ物体が描かれていた
    こんなん見てもなんとも思わないが凛が頑張って描いたものだ、素直に嬉しい。「またかけ」と頭を撫でてやればようやく満足したように笑った

    そう言ったのがいけなかったのか弟はその日からずっと絵を描くようになった
    家にいる時も外にいる時もずっとだ
    それはまだいい。でもサッカーをしている時、プレーが終わりベンチを見た時に凛がいないのが気に入らない。
    元々そんなに凛はサッカーに興味を示していなかったが完全にシャットアウトされるとなんだか気分が悪く木の陰に隠れるように座っている凛の麦わら帽子をボスっと掴んでこちらを向かせる

    「にいちゃ、どうしたの?」
    「…」

    このスケッチブックが悪いんだと思い無理やり引ったくってやった
    今にして思えば酷いことをしたもんだと我ながら呆れてしまうような醜い行為だ

    「…っ!?…うぁあ〜ん…!」
    「あ、」
    「うゎぁあん…っ!」
    「り、りんっ…ほら、かえす。かえすから…」

    ブルブル震えながらスケッチブックを受け取るとえぐえぐとしゃがんだまま涙を地面に落とす凛に罪悪感が湧いてきて何度も何度も謝った
    凛はとても小さくて弱いんだ。守ってあげないといけないんだ。と改めて思ったのを覚えている
    自分から傷つけておいて守らねばとは我ながら傲慢。

    幼さ故の傲慢さはその後も続きサッカーを避け続ける弟のことがまた気に入らなくなった
    俺のことを避けるのはやめたようだがやはりサッカーに関しては頑なに避けているように思える
    怖いのは仕方ない。小さくて弱いから。
    ただボールすら触ろうとしないのが気に入らない
    「とって」といえばなんでも素直に「はい」と持ってくる凛がサッカーボールだけは絶対に取ってくれない。触らない。
    最早意地だった
    これなら避けようがないだろうと凛が後ろを向いている隙にボールを転がし背中にトンとぶつけた

    「凛、とって」

    嫌がりながらもこれなら取らざるを得ないだろうと。
    くるりと振り向いた弟の顔がぐちゃりと歪み、口を大きく開けた

    「ぁぁぁーーーーーッッ!!!!!」
    「!!??」
    「ぁぁあぁーーーッッ!!!!!!」
    「…り、ん……?」

    小さく丸まって頭をぐちゃぐちゃと引っ掻き回して叫ぶ弟はいつものぼーっとしてる弟とはまるで別人で恐ろしくて呆然とする事しかできなかった

    「ッッッ!!!!ゃぁぁあッッッ!!!!!」
    「凛!?凛!!どうしたの!?」
    「ぁぁあーっっ!!ゔぁあぁあんっ!!!」
    「凛!!大丈夫か!?」

    母が慌てて凛を抱き上げ落ち着かせようとするがジタバタと暴れて床に転がり泣き叫ぶ
    父が救急車を呼んで凛が連れて行かれるまで俺は見ていることしかできなかった

    「冴!なにがあったんだ!?」
    「……わ、かんない……りんが…いきなり…」
    「…そうか、怖かったな。もう大丈夫だからな」

    父が俺を抱きしめて凛は大丈夫だからと何度も言ってくれた
    俺のせいだ
    凛はいつも怖い、怖いと言っていたのに俺がそうしたいからという理由で凛に無理強いをしてしまった
    このまま凛が帰ってこなかったらどうしようと思い顔が見れるようになるまでずっと泣き続けた

    結局大した事は何もなく弟は普通に帰ってきた
    この日から俺は凛をもっともっと大事にしないと、とそう心に誓った
    自分の都合で凛が嫌がることをしてはいけない
    凛はサッカーを恐れている
    何故かは知らない。このスポーツのどこが恐ろしいのかわからない。それでも凛はサッカーが嫌いで怖いんだ
    それはハッキリ自覚しなければならない
    もうあんな姿は見たくない。

    それから凛が絵を描くことの邪魔をせず自分はサッカー、弟は絵。各々の道を進むことを許容した
    本当はいつの日か一緒にサッカーができたらと思っていたが仕方ないと諦めたのだ。

    だというのに数年経ったある日弟が普通に転がってきたボールを手に取り俺に手渡してくるもんだから本当に驚いてしまった。なんなんだ。コイツめ。
    何故急に克服したのか、いつから平気になったのか知らないがいい傾向だと気にしないことにしておきいつの日かそんな事もあったねと言える日がくればと…。そう思いながら八つ当たりのようにボールを蹴った。

    弟はいつも俺の後をついてきた。サッカーをやらないくせにサッカーをするためにジュニアクラブに行く自分についてくる姿が可愛くていじらしくて堪らない
    帰り道にアイスを食べさせてやったり寒くなってきたらチョコやグミを食べさせてやり(飴は喉に詰まるかもしれないから買い与えなかった)2人で歩いて帰るのが楽しかった

    「あいすぅ…」

    甘えたように喋る弟の口調が自分を兄にする
    小さな手で俺の服の裾を掴みアイスをねだる姿を見てわざわざ袋を剥いてやりアイスを手渡す

    「ほら喰え」

    アイスを受け取るとぺろぺろと嬉しそうに食べる凛はどことなく幸せそうで、その顔を見てるとこちらも満足感でいっぱいになる
    暑い日差しの中アイスを食べながら他愛もない話をし帰宅する

    「今日は何描いてたんだ」
    「あり」
    「蟻?」

    なんで蟻なんか描いてんだと疑問に思っていると絵を見てゾッとした
    落ちてるお菓子に群がる蟻の大群が群がっている絵だ

    「気持ち悪りぃ」
    「うん。だからかいた」

    気持ち悪いと思ってるならなんでそんなもん描くんだと思ったが凛が自由に描きたいものを描くのは悪いことではないのでそれを止めるような真似はしなかった
    しかしなかなかどうしてクレヨンで描かれているというのにその光景がありありと浮かぶ恐ろしく奇妙で目を惹きつける絵だ
    俺の弟は天才なのかもしれない。と本気で思った
    もしこの才能がサッカーに向けば…
    冴と凛。2人で世界一になれるのに。
    せっかくボールが触れるようになったのだ、今からでも遅くない

    だがきっかけがない、やれと言えばやるのだろうか
    ともあれ少しでいいからボールに触らせてみようかな
    そう思いながらいつものように試合をしていた時のことだった

    2人にマークされながら片手で1人を押さえドリブルで交わして抜いていく
    感覚ではなく合理的に考えながらプレーすればこの程度は簡単だ
    だがその先に繋がらない
    ゴール前へとパスを出すがそれがゴールの中へ収まることはなかった。

    自分の先には誰もいないのだ
    ふと考えることがある。もしも凛が一緒にサッカーをしてたらどうなっていたのだろうと
    俺とずっと一緒にいるのだからきっとそれなりに上手くできると思う
    だがそれなりでは困るのだ
    俺の次に強くなくては困る
    もし俺の打ったパスの先に凛がいてくれれば…

    バサッ…

    妄想を打ち消すようにノートのようなものが落ちる音が聞こえて振り返る
    小さく丸まっている子どもの姿が見えて一瞬思考が止まった

    「……凛?」

    認識した途端走り出す
    フェンスの向こう。凛が蹲ったかと思えば胸を押さえて倒れてしまった
    あたりを見ると遠くに大人の姿がありその人たちにわかるように大声で凛に呼びかける

    「凛!?どうした!大丈夫か!?」

    苦しそうに顔を青くして冷や汗をかいている
    急いでそっち側に行きたいが目を離した隙に何かあったらと思うと足が動かなかった
    先ほどまで駆け回っていて今もまだ全然走れるのにピタリと地面に貼り付いたように一歩も動けない

    「救急車呼んだから!」「どうしたの!?大丈夫?」

    凛の様子に気づいて行動を起こしてくれた人達が口々にそう言いながら駆け寄ってくるがいつも人がなるべくいないところを選んでいたのが仇となりなかなか凛の状態が確認できない
    凛の目線が落ちていたスケッチブックへと注がれる
    荘厳な禍々しさを孕む青い怪物の絵
    本人は気に入らないと言っていたがこんな時だというのにその涙に濡れた目で必死に何かを求めるようにその絵を見ている

    「ごめ、ん…なさ、…にい、ちゃ…」
    「凛!聞こえるか?もうすぐ救急車来るから!」
    「ごめ……ん、…い…さぎ……」
    「……え?」

    初めて聞く単語だ
    いさぎ?
    謝っているところを見る限りそれは人名のようだが自分の知り合いにそんな人間はいない
    凛の交友関係を全て把握しているわけではないが人見知りであまり誰かと仲良く話したりする方ではなかったはずだ
    ましてこんなときに名前を呼ぶような間柄の人間を俺は知らない
    すっかり予想外の単語に気を取られた俺は凛が救急車で運ばれ監督に病院に連れて行くから荷物を持ってこいと言われるまでただ呆然とその場から動けずにいた

    母が駆けつけて必死に何があったのか聞いてくるが俺にだってわからない
    医師からの説明もハッキリ言って要領をえず「ストレス」と言われてしまった
    何がどうしたらストレスでいきなり苦しんで倒れるのかわからないが原因がわからない以上そうとしか言いようがないらしい
    精密検査を受けてどこにも異常がなかったとわかると母は釈然としない様子ではあったが凛が目を覚ましてようやく落ち着いたのかいつもの調子に戻っていた

    逆に俺は凛が目を覚ました途端色んな感情が込み上げてきて凛と病室で2人きりになった瞬間涙が溢れて止めようと思えば思うほど余計に出てきてせめて見られないようにと凛の布団に顔を埋めた

    この期に及んで「迷惑かけてごめん」と謝る弟に心配したと告げれば優しい手付きで頭を撫でられる
    たまに凛はすごく大人みたいなる時がある
    触れられたところがあったかくてまるで母さんに撫でられている時みたいな妙な安心感が溢れてくる
    涙声になってしまったからきっと泣いてるのがバレてしまったのだろう
    途端に恥ずかしさが込み上げてきてバッと起き上がりいつもの調子に戻そうとすると凛がなんとも言えない目で見てきた

    何だその目は。何が言いたいと思い「何見てんだ」と睨むと凛はつらそうに目を閉じて「おなかいたい…」と呟いた

    やっぱり悪い病気なんだと慌てて病室を飛び出して母と医者を呼びに出た俺の目にはまた涙が浮かんでいて、弟が本当に死んでしまうと思っていたからこその必死さなのでまあ…少し恥ずかしい話ではあるが半分くらい誇らしくもある
    パニックを起こしてその場で呆然とすることなくよく大人に助けを求められたと自分を褒めてやりたい
    結局ただ腹を下してただけだと分かった時には羞恥と怒りで弟に八つ当たりしかけて「怖い!」と泣かれて固まってしまった
    凛に怖いだなんて言われる日が来るとは思ってなくて気づいたら家のベッドの上で凛がいないことに一瞬パニックになりかけてそういえば病院にいるんだっけと一人寂しさを抱えたまま眠りについた

    朝起きた時、ご飯を食べる時、学校に行くとき。
    今までは凛がいないのが当たり前だったのに強烈な違和感と寂しさが襲ってきて気もそぞろになり色々うまくいかない日だった
    どうせ帰ったら凛がいるはずなのに隣にいないってだけでどうしたことか、ついアイツどこいった?と探してしまう
    調子が狂うと何も手につかない
    しまいには雨まで降ってきてサッカーまでできなくなってしまい最悪な気分のまま急ぎ家に帰った

    玄関の扉をくぐれば小さな水色の靴があり凛がいることを表していて手も洗わず凛の姿を確認しに行く
    きっと凛も寂しくて「にいちゃん!」って抱きついてくる、そう考えて少しだけ体に力を入れていたのにドアを開けると凛は絵を描いていてこちらに気づいていなかった

    「り……」

    声をかけようとして驚愕した
    凛は鼻血を垂れ流しながら必死に絵を描いていてその目は俺の知る凛の目ではない。こいつは誰だ…?
    慌てて「凛!!!」と呼びかけ肩を掴むとようやくこちらに気がつきぼんやりした顔で「おかえり」なんていうもんだから力が抜けて膝をついてしまった
    顔も服も血だらけでまるで誰かに殴られたり怪我をさせられたみたいだった
    震える手でとにかく顔を綺麗にしてやらないとと思いティッシュで拭うが既に固まってしまった血が皮膚に引っ付いて離れない。一体いつからこの状態だったのか、服についた血も乾ききっている

    呑気に「にいちゃんかぜひいちゃうよ」なんて言ってるがお前は死ぬぞと言いかけて…言ったら本当になりそうで怖くなってやめた

    「きゃあ!凛!どうしちゃったの!?」
    「かあさん、はなぢでた」

    凛はどこも痛くないよと言うが痛くないのに鼻血が大量にでてる事の方が心配だ
    病院に行くべきか悩んでる母に「もういきたくない。それより兄ちゃんとおふろはいる」と俺の腕を掴んでくるが安静にしてなさいと濡れたタオルで顔を拭かれ部屋に連れてかれてしまった

    俺は俺で雨に濡れて帰ってきたらから風邪をひいてはいけないと速攻風呂に入れられた。呑気に入ってる場合かといつもより急いで風呂を済ませて凛の様子を見に行くと天井を見上げながら相変わらずボーッとしていた
    顔色が少し悪いからやっぱり貧血を起こしているのかもしれないと覗き込むと「だいじょおぶ」といつもより幼い口調で言われやはり本調子でないことが窺える
    鼻血を垂れ流しながら絵を描くな。怖い。と言ってやれば素直にごめんなさいと申し訳なさそうに言い気づかなかったと言ってのけた。
    あれだけの血を垂らしておいてぽやぁとしてるのだから本当に鈍臭い
    こんな調子でもし凛が大人になってもこのままだったらどうしようと今から不安になってしまう
    凛はきっと絵を描いて生きていく
    その時もずっとポヤポヤしたまま兄ちゃん、兄ちゃんってついてきて絵を見せてくれようとした時俺は必ず見てあげられるのかわからない
    俺の夢はサッカーで世界一になること。
    凛のそばにずっといてあげることはできないのだから凛にもしっかりしてもらわないと困る

    風呂から上がった事がわかったのか母に呼ばれ凛に何があったのか聞かれるが自分も帰ってきて見たらすでに鼻血を垂れ流していたのだからわからないと答える

    「凛もいつから出てたのかわからないって言うのよ…もう…誰に似たのかしら」

    ブツブツ言いながら夕飯の準備をする母を横目に机の上を見ると描きかけの絵が置かれていた
    凛はやたら青に執着心を持っている
    いつもいつも綺麗な青を作り出しては「これじゃない」と淡々と作り直す
    凛が倒れた日に見たスケッチブックの青い怪物の絵と違い今目の前にある青い怪物の絵はいつもより奇妙な色になっていて不気味で危うげな印象を覚える
    先ほどの凛のあの目。別人になったかのように、取り憑かれたかのように色を無くした恐ろしい目
    あの目を通した時にコレが一体何に見えるのか
    青いその絵を見ていると垂れ流した血の匂いが立ち込めてくるようで思わず呻いてしまう

    あの日地面に倒れ伏した凛は泣きながら青い怪物の絵を何かを求めるように見つめていた
    謎のいさぎという…恐らく人物に対して謝罪していたのを思い出した時ふと絵の中の怪物と目が合う

    (もしかしてこれがいさぎ…?)

    青い怪物の絵を見ながらなんとなくそう思う。
    確証はない。凛に聞けばいいのかもしれないが多分いつものように曖昧に笑って誤魔化されるだけだろう
    無理に聞き出すようなことでもないなとじっとり濡れている不気味な色の絵をそのままに夕食をとるため母の元へ向かう
    隣に凛がいない夕飯は相変わらず少し味気ない気がした

    翌朝すっかり元気になった凛と共に登校しいつものようにつまらない授業は上の空で過ごし頭の中でサッカーのイメトレをする
    窓越しに一年生がサッカーをしてるのが見える
    自分もサッカーがしたいが授業ではダメだ
    なんのやりがいもない
    球蹴りごっこをしてる子ども達を視界から追い出しイメトレに戻る
    集中して自分のプレーを思い出しながらあれをこうして、これをこうして…と考えてるうちに深い思考の海に落ちていく
    外が騒がしい気がしたが雑音は耳から追い出すに限る
    そのうち何も聞こえなくなり授業が終わる鐘すら無視してしまい他の子に声をかけられるまでずっとそこから微動だにしなかった

    「え?たおれた?」

    学校が終わり一緒に帰るかと凛を迎えに行くとなんとまた倒れたらしく凛は先に親に連れられ帰っていた
    信じられない。何で連日凛がそんな目に遭うんだと頭の中がパニックになる
    コートを駆け抜けるかの様なスピードで家に急ぎバタバタと凛の様子を見にいくと思ったより元気そうで呑気にクッキーを齧っていた

    「おかえりなさい、にいちゃん」
    「お前……大丈夫か?」
    「うん?」
    「また倒れたんだって?」

    びっくりしたぞ…と言うともう大丈夫だよと皿に乗ってるクッキーを押し付けてきた
    手洗ってないから後でもらうと洗面所に向かうと凛が後ろからついてきて背中にしがみついてきた

    「コラ、なにやってんだ」
    「にいちゃん…今日おれサッカーしてた…みた?」
    「見てねえよそんなの…」
    「そっか」

    安心した様に俺から離れると足早にリビングに戻ってしまった凛になんなんだ…?と思いつつまあ元気そうでよかったと手を洗いクッキーを1つ摘むとサッカーをするため荷物をまとめていると凛が慌ててスケッチブックとペンをリュックに入れ始めたので「今日は連れてかないぞ」とさっさと玄関に向かう

    「まって、おれもいく」
    「ダメだ。母さんに言うぞ」
    「……」

    むうっと頬を膨らませて俯いた凛を置いて外に出る
    全く誰に似たのか甘えん坊なやつだ
    ドアを閉める直前までこっちをじっと見つめていた
    少し前に見た飼い主を追いかける猫の動画、アレに似てるなとくだらない事を考えながら足を進めた

    日は暮れて太陽が沈んだ頃。熱中しすぎて遅くなってしまい凛はすっかりむくれていた
    いつもなら凛がいるから少し早めに切り上げて帰るのを凛がいない事で気にせずプレーできたからついやらかしてしまった

    「にいちゃんおそい…俺もうおふろはいったよ」
    「悪かったって」

    ご飯も先に食べちゃうからと可愛く拗ねてる弟の頭を撫でてほらこれ、お土産。と猫じゃらしを渡すとフーーッ!と怒って部屋に戻っていってしまった
    ほんとに猫みたいだと思いながら風呂に入り凛にご飯食べようと声をかけにいくと猫じゃらしを握ったまま眠っている

    「母さん、凛寝ちゃった」
    「えぇー?もう…起こせそう?」
    「多分無理」

    一度寝ついたらもう起きない凛はたまにこうやってご飯を食べ損ねる事がある
    だからちっちゃいままなんだと言えばすぐ兄ちゃんを抜かすからいいんだと生意気な事を言ってくるもんだから呆れてしまう
    食べなきゃ抜かせるわけない。寝て背が伸びるなら俺だっていくらでも寝てやるっての

    「仕方ないわね…お父さんも遅くなるみたいだし2人で食べちゃいましょ」
    「うん」

    いつもより少しだけ元気がなさそうな母と静かに食事をし少しだけテレビを見てから部屋に戻る
    凛は変わらずぐーぐー寝ていて握りしめた猫じゃらしがすっかり形を変えて茎のとこから力をなくし始めていた
    自分が渡したとは言え雑草をベッドに持ち込まれるのは嫌でそっと手から抜き取って捨てる
    明日にはどうせ忘れてるだろうし覚えてて怒ったら一緒に取りに行けばいい。どうせ明日は休みなんだ
    ボールを磨き明日のためにスパイクの紐や着替えを用意し完璧な状態でベッドに入る
    今日は無理に置いて行ってしまったから明日は連れてかないといよいよ騒ぐか暴れるか…もしかしたら勝手についてくるかもしれないなといろんな凛を想像してるうちに眠りについた

    いつもと違う動きをしたせいか変な時間に目が覚めてしまった
    時刻は深夜。頭がぼーっとする
    凛は相変わらず小さくなって寝ているから起こさない様にベッドから降りてトイレに向かう
    もう両親も寝てるだろうからゆっくり音を立てない様にヒタヒタと廊下を歩くとリビングはまだ明かりがついていて2人の話し声が聞こえてきた

    「〜〜〜…!」
    「ーー…。」

    こんな時間まで何の話をしてるのだろうと軽く聞き耳を立てる

    「…凛が…、」
    「……、…」

    (凛の話…?)

    「サッカーが怖いって言うのよ…だからね、聞いたの。どうして?って」
    「そしたらあの子お兄ちゃんみたいにできないと冴に嫌われる、捨てられるって言われたって言ってたの…」
    「もう…信じられなくて…誰がそんな…っ」
    「………。」

    ドッドッと心臓が短く早く鳴りだす
    嫌われる?捨てられる?凛がそんな事を言われた?
    誰に…?

    ……いさぎ?

    ふとその名前が頭に浮かぶ
    そこからはもうソイツだと決めつけて行動した
    ずっとそんな事を思いながら俺と一緒にいたなんて信じられない
    俺の弟にありもしない事を教えたクソ野郎は誰だ
    ソイツに言われたせいでサッカーをしないんだとしたらそれこそ殺してやりたいくらいだ
    まだ幼い弟に恐怖心を与えてサッカーを奪った奴がこの世にのさばっているという事実
    一時はボールが触れるようになったのだからサッカーをやらせてみようかと思っていたのに…
    なにも知らずに普通に過ごしていた今までの時間
    全てが憎い

    翌朝目が覚めた凛を抱きしめて「昨日は悪かったな、今日はお前と一緒にいるから」と甘やかしてやれば猫じゃらしのことなんかすっかり忘れて「ほんと?」と嬉しそうに笑う
    絵画教室にも一度ついて行っていさぎとかいうやつの名前がないか念入りに調べた

    「にいちゃんも絵かくの?」

    じっと作品を見ていたのを興味があるのかと勘違いした凛が驚いた様に聞いてくる

    「別に。凛のが1番うまいなって思って見てた」
    「えー?」

    ふふふと笑う凛の顔は到底この場所で何か嫌な事やいじめられている様な風には見えなくてココではないのかと自分の見当違いに心の中で舌打ちをする
    学校も絵画教室も違うなら一体どこで誰にくだらない事を吹き込まれたのか
    よくよく考えるとかなり昔からそうだった気がしてきてますます訳がわからなくなる

    両親も凛もあの日から特段変わった様子は見せず普通に過ごしているから自分もそれに倣い同じ様に普通を装う
    凛はいつも通りマイペースに変な絵を描いたりして過ごしていたし俺も同じようにサッカーをし続けた
    そのままそんなことあったっけ。と忘れてしまいそうなほどの年月が流れ…
    凛の絵がいくつも賞に選ばれる様になり始め俺の渡西が決まりようやくここまできたのだと拳を握りしめる

    寂しいのだろうか、凛は昔より露骨には甘えてこなくなったがいつも後ろからこちらを見ている
    最初は構って欲しいのかと思っていたが何も言ってこないので勘違いかと思っていた
    こちらから声をかけると嬉しそうに笑うから昔から変わらないなとまだまだ子どもっぽい弟の頭を撫でる
    あと何回こうしていられるかわからない
    少し寂しい気もするが夢のためには何かを諦めたり犠牲にしたり、そういうものが付き物なのだ
    凛だっていずれそれを知る日が来る
    せめてその時はそばに居てやりたいが俺が凛のそばにいるのを諦めるように凛も俺から離れる日がいつか訪れるかもしれない
    兄弟いつでも仲良く一緒。は世界を目指すものにとって難しい話だ。だから一緒に世界を目指す人間になれれば、と思っていたのだが…仕方ないな
    同じ夢、同じ場所を目指す同志であれば離れることもないのに…
    だがそんな甘いことは言っていられない。
    でもせめて、ここに置いていく弟に対する気掛かりを消して置かねばならない。


    夕暮れの堤防の上、いつものように2人で並び何気なく話を始める。…そういつものように。こちらの緊張が悟られないように。

    「俺は明日からスペインに行く」
    「世界一のクラブレ・アールの下部組織でサッカーする」

    凛がこちらを向き俺の顔を見る。
    まだあどけなさの残る目には寂しさが浮かんでいた

    「知ってるよ。なんだよ改まって…」

    口調こそ少し年相応になったもののまだまだ幼く可愛い俺の弟。できることなら一緒に連れて行ってしまいたいが…そんなことはできないから、今ここでケリをつけねばならない
    ずっと気になっていたが聞けなかった…そういうと凛は不思議そうな、戸惑ったような顔をしていた
    意を決して言葉を紡ぐ

    「いさぎ。って誰だ」


    「……え…」


    凛の表情がサッと変わる
    やはりあの時の言葉は聞き間違いではなかった
    いさぎという人物は凛の知っている誰かで間違いないだろう

    「なん、で…」
    「凛。教えろ…そいつは誰なんだ」
    「……」

    凛の目が伏せられ少し間があいてからぽつりと「俺の…大事な人…」と呟いた


    予想外の言葉をくらい頭が真っ白になり聞こうとしたこと、言おうとしたこと全てを忘れた
    それはそれは長い沈黙のあと「兄ちゃん…?あれ…聞いてる…?」と凛に言われハッとして「そうか。帰ろう」と勢いよく立ち上がり凛を置いて行く勢いで帰路についた
    後ろから待ってよと焦った声が聞こえた気がしたが今の自分の耳には届かない
    大事な人。という言葉の意味を家に帰って調べねばならないからだ
    明日はスペインに行くというのになんて忙しい……


    そのまま俺は気絶するように眠り翌日には両親と凛に送られ空港で別れを告げた
    マネージャーであるジローランが何か言ってるがもう何も聞こえない
    凛がぎこちない顔で「……大丈夫?」と聞いてきたのに対して「だいじょうぶだ」とどうにか返事をし手を振ってる凛に片手をあげ挨拶をした…もうそれだけで精一杯だった

    大事な人の意味を何度調べても自分の想像していたいさぎと一致しなくてやっぱりネットは適当なことばかり書いてるなと見切りをつけ道中自身の頭で考え直すことに決め、凛の言葉をもう一度思い出す

    『俺の…大事な人…』



    「……あれ?冴ちゃーん?あらら…寝ちゃった?やっぱり緊張して寝不足だったのかな?」

    こうして盛大なブラコンを拗らせている冴はゆるやかな眠りに包まれながらスペインの地に向かった。

    Tap to full screen .Repost is prohibited
    🙏💖💞👏💘💗💯🙏😭💖💞😭😭😭😭😭👏👏💞💞😭😭😭😭😭😭😭😭😭😭💘💘💘💯💯🍵💙❤💜😭😭😭😭🍌😍❤❤❤❤
    Let's send reactions!
    Replies from the creator