黒紅のリボン「にいさん、おねがいがあるのですが」
舌足らずながら丁寧な言葉遣いを心掛ける幼い声に音秀は柔く返事をした。
別に家族なのだからそこまで丁寧に喋らなくてもいいんだがと苦笑する兄に弟の律陽は何か自分は間違ったのかと恥じらいながら伺うように音秀を見上げた。
───動物特集番組で見た首をかしげ飼い主を見上げるポメラニアン。こちらを伺う弟の様子を愛くるしい犬と重ねくすりと笑みを深めた。音秀はそのまま掬うように律陽の手を取り、自分が座るソファの隣へ座らせる。
「すまない、おまえは何も間違っていない。むしろ綺麗な言葉づかいができていて兄さんは嬉しくなったんだよ」
えらい子だ、できた子だ。と、音秀は手放しで律陽をほめた。少し前までは頭を撫でるだのハグだのボディランゲージが多かったが、今はそれも卒業し賛辞は言葉だけにとどめるようになった。
そんな兄に律陽はどこか物足りなさそうにしながらも嬉しさの方が勝っているのか、ぽ、ぽ、とまろい頬を薄く染め「いえ、いえ」と遠慮がちな声を漏らしている。
「律陽、兄さんになにかおねがいがあったんじゃないのか?」
未だつないだままの両手をぎゅっと握り直し、音秀は覗き込むように首をかしげる。距離が少しばかり縮まり、律陽は驚いたようにびくりと肩を跳ねさせた。
うろうろと、いつもなら逸らさず見つめ返してくれる律陽の瞳は音秀から逃げるように下を彷徨っていた。
律陽は年に似合わず感情を表に出すことが滅多にない。特に怒りや喜びなどのアッパー系は特に。
日々、なにを考えているのか、どんな気持ちなのか、と配慮がしづらい彼だが目線の動きだけはわかりやすい。
兄である音秀ですら律陽の感情の機微は察することができず気を揉んだこともあるが、彼の目がありありと感情を映していると気づいてから音秀は注意深くそこを見るようになった。
恥じらいと、遠慮。言ってみたいがどうしようか。と悩む様子を察し、音秀は仕方ないなとばかりに眉を下げた。
「律陽、教えてくれないのか?兄さんは律陽がどんなことでも教えてくれるなら嬉しいけどな」
握っていた両手を音秀自身の顔の前まで引き上げ、緩く上下に揺さぶりながら宥めるように柔く笑いかける。
ん?とリズムに乗るように首を左右に動かしながら律陽の返事を待ってみれば、躊躇いがちにその小さな口ははくりと開く。音を乗せず数回。そして覚悟を決めたように握っていた手に力が籠められ「あのね」と律陽の目がこちらを向いた。
「にいさんの、髪を、結んでみたくて……」
きょとり、と音秀は目を丸くした。
たったそんなことで弟はもじもじと言い出しづらそうにしていたのか。なんといじらしいこと。
音秀はくすくすと笑いながらそのおねがいを了承した。
まだ成長しきっていない柔らかく小さな手がおぼつかないながらも丁寧に髪に櫛を通す。引っ張って痛まぬようにと気を使っている様が背を向けていてもよくわかる。
別にそこまで丁寧にしなくてもと何度か口にしたが、その度律陽はわかっているのかわかっていないのか返事だけ口にしてその手つきが変わることがなかったため音秀も受け入れた。
高い日差しを受けて部屋にかかる二人分の影を横目に、確かに髪が伸びたと音秀は思った。
特に伸ばしたいと考えていたわけではなかったが、演奏会などで着る衣装に合わせたヘアスタイルに母が気合を入れるタイプだったが故に散髪の機会を失くしていただけなのだ。
───切ってしまおうか。己の髪を解かす弟の影をみてふとそんな考えが浮かんだ。
「にいさんの髪はきれいです」
あどけない声が聞こえてはたとした。
音秀は思わず振り返ろうとしたが、後ろ髪が軽く引かれる感覚に慌てて正面に向き直った。
くる、とまとめられた髪が緩く縛られていくのを遠くで感じながら音秀は先ほどの言葉を脳裏で反芻していた。
そしてほどなくして胸の内に沸いたのは細やかながらも喜びだった。
「にいさん、どう?」
やがて弟がちょこりと正面にやってきたのを視界に入れ顔を上げる。
頭を一振りすればすぐに崩れそうなほどに緩いと思ったが、律陽のことだ。兄に遠慮して強く髪をまとめられなかったのだろうと予想ができる。
なるべく頭を動かさないようにしながら部屋に置いた鏡を手に取り自分の姿を覗く。すると、やはり予想通り結び目は緩く、結ぶ前よりも乱れていた。
それは正面から音秀を見直した律陽も感じたのだろう、眉を寄せ心なしかむっとした表情を浮かべているように見えた。
「ごめんなさいにいさん、うまくできなかったみたい。ほどきます」
と律陽が言ったが音秀は気にしてないように「いいよ」と返した。
「今日はこれで良い。律陽が折角結んでくれたんだ。母さんたちに自慢する」
音秀は満足そうにそう笑った。
日差しに照らされ緩く結わえた暗い色のリボンが揺れる。
彼の髪から滑り落ちないようにとなんとか縋りついたその見覚えのあるリボンに音秀はまだ気づいていなかった。