ヴェルニースの、穏やかでのどかな昼下がり。
炭鉱からは土壁を掘る音や鉱夫たちの声が響く。彼らはしばしば唄いながら仕事をする。舟唄や茶摘み唄のように、それらは文化のひとかけらを担う重要な芸術であった。
竜を連れ歩く少女・クルイツゥアも密かに口ずさんでいる。彼女の保護者的存在である錬金術師ケトルも、散歩中にそれを聞けば鼻歌程度に音を辿る。
そして土いじりから現場監督、はたまた開拓計画の作成に税務会計まで――多種多様な仕事をこなす多忙な開拓監査官・ロイテルも勿論、その歌は馴染みだった。
小さな開拓地ゆえ、どこにいても聞こえてくるので自然と覚えていた……というのが実際のところなのだが。
優秀な開拓監査官が書類仕事を一通り片付け、小休憩でもと席を立ち上がったところ、外が騒がしいことに気づいた。
何があったのかと窓の外を覗いてみると、何やら人だかりが出来ている。クルイツゥアやコルゴン、ケトルの姿もあった。何か嫌な予感がする。
「どうした」
野次馬を掻き分けて人だかりの中心へ向かう。
ロイテルの姿に気づいたケトルが顔を上げ、やや困惑気味な声色でこう言った。
「冒険者たちが戻ってきたのだけど――」
そこには馴染みの冒険者たちの姿があった。
ネフィアから帰還の巻物で帰ってきたようだが、様子がおかしい。冒険者は口から血を吐き、傷口を抑えながら、意識のないファリスの身体を支えていた。その彼女がいつも抱えているリラは弦が切れ、フレームも著しく壊れている。
その様を見た瞬間、ロイテルの顔から血の気が引いた。たちまち刺すような頭痛が襲いかかり、視界が嫌な点滅を始める。平衡感覚が消えて立っていられなくなりそうだったが、なんとか耐えた。
「すぐに癒し手の手配を」
声が震えないようにと、懸命に気を張る。幸いどうにかなった。すぐに担当者がやってきて、冒険者たちは安全な場所へと運ばれて行った。
二人がテレポートしてきた場所には、生々しい血の痕が残っていた。
――ナイミールへ向かった際、私は冒険者を雇ったのです。
けれど知っての通り、あなた方と出会った時、私は既に一人でした。冒険者たちは途中で倒れてしまったのです。
私が助けられた時、彼らの安否を確認する余裕はありませんでした。最も確認できたところで、彼らも一緒に地上へ逃げ帰れたかどうかは分かりませんが。
ファリスはずっと、その時のことを気にしていた。
彼女が運命の出会いを果たし、ナイミールから始まった物語に付き合いしばらく時間が経つ。冬の足音が近づいてきた11月、彼女はかつての仲間たちの弔いのため、改めてナイミールへ向かうことにした。
南東へ旅立っていく冒険者とファリスのことを、ロイテルは大人しく見送った。
あの時一緒に行けば――否、ついて行ったところで何の役に立っただろう。銃器の取り扱いに多少の心得はあるが、基本的に彼が得意とするのは事務仕事だ。開拓現場で身体を動かすことも少なくないが、それは肉体労働であり戦闘ではない。身体の使い方も頭の使い方も違う。
考えてもどうにもならない思いが、次々とロイテルの胸中に渦巻いていく。頭痛がする。それらを払拭すべく、無心で仕事に取り掛かった。こういう時に感情を無理やり追いやる術を、彼は宮廷時代に身につけていた。
夕暮れ前、癒し手から声がかかる。二人とも安定しました、会話もできます。
その報せを聞き、すぐに部屋へ向かう。早る気持ちが所作へ顕著に現れていた。なりふり構っていられない。荒々しく扉を開くと、ベッドには見慣れた姿が並んでいた。
「ロイテル様」
包帯と簡素な着替えに身を包んだ二人。いつもは飄々としている冒険者も今回ばかりは疲労が隠せておらず、笑顔がぎこちない。
ファリスの方は、いつもストールで隠れている襟元が見えているせいか、ほっそりとした印象を受けた。もともと細めだが、今は輪をかけて小さく薄く、元気がなく見える。
「良かった、生きていてくれて」
安堵の溜息と共に呟かれた言葉に、苦笑を浮かべるファリス。
「大袈裟ですよ」
「大袈裟なものか、ファリスさんは気絶していただろう」
「しー」
「……済まない」
ファリスは静かに、と声をひそめる。隣のベッドで、冒険者も手を振っていた。無意識に声を荒げていたらしい。余裕がなくなるとすぐこうなる。ロイテルは己を省みた。
「目的は果たせたのか」
「ええ、おかげさまで無事に……いえ、無事とは言えませんね。さすがにこの状態は」
二人の話によると、弔いを終えた直後に変異種のモンスターと遭遇したらしい。そのまま交戦が始まった。
出口までの道を戻る途中、更にモンスターの群れと鉢合わせしてしまい、脱出に苦戦を強いられたという。
「……これから寒くなりますし、療養を兼ねてしばらくのんびり篭ろうかと話をしていたところです」
「ああ、それがいい。春が来るまでゆっくり過ごせば――」
「触らないで」
ファリスが俯き、はらはらと髪が流れる。
ついいつもの調子で――主に二人きりの時だが――ロイテルが顔にかかったそれを指先で払おうと手を伸ばした瞬間、冷たい声が響いた。
男の手が止まる。
すぐに声の主が顔を上げた。狼狽えた様子で声を震わせる。
「ごめんなさい、違うんです。あの」
――ファリスの手。
ここぞというタイミングで冒険者が口を開いた。ぶっきらぼうでどこか幼さを残した声に誘われるまま、赤い瞳は唄い手の腕の先へと動いていく。
「手……?」
指先までびっしりと包帯で覆われた手。その隙間から、淡く毒々しい色が滲んでいた。
「エーテル病です」
観念したようにファリスが呟く。いつも明るく唄う彼女の声が、ひどく小さく響いた。
モンスターとの交戦中、近場にいたウィル・オ・ウィスプを巻き込んでしまったようで、エーテル光を強めに浴びたという。
「二人一緒に発症してしまいました」
「言われてみれば、冒険者の首が太くなったような……。……ファリスさんのそれは」
「どうやら、手から毒が滴るようになったみたいで……」
憂いを帯びた緑の瞳が、自身の両手を見つめている。
自分の意志とは関係なしに染みを作っていく両手。いつも騒がしく空気を賑わせる彼女の沈んだ表情は、予想以上にロイテルの心に突き刺さった。
「……治るまで無闇に触れられませんね」
楽器にも、あなたにも。
何も言えない無力さに打ちひしがれるロイテルの横顔を夕日の色が染めていく。
穏やかなはずの秋の出来事だった。
窓の外で響く終業の鐘の音がやけに遠く感じた。