さなぎ「あの、門白さん、」
彼女の声は私の視界の少し下から聞こえた。私は振り返る気力が無くて、ただ彼女の駆ける音に足を止めるだけ。凹んだクリアファイルの隙間から元気をなくした資料が何枚か、頭の先を覗かせていたけど無理やり指先で曲げてしまった。彼女の小さく華奢な体は私の歩幅に追いつくのに数秒を要したけど、すぐに目の前にやってきて深刻そうに顔を歪めてみせた。
――有村、麻央。
彼女は私の担当する現役の高校生アイドル。そして、誰よりも可愛くて格好良い、最強のアイドルでもある。
「…どうしました?何か、懸念点が発生したのですか?それとも、」
「ボク、プロデューサー科を受けようと思っていて」
私は唇を噛む。彼女にとってどういった思考の果てに至ったのか知らない。アイドルとして三年積み重ねた夢の山の頂で、そうなることを望もうとしたのだから。
善良なプロデューサーなら、応援したかもしれない。その道の厳しさを知っている人なら、覚悟を問いただしたかもしれない。でも、私は生まれたばかりの幼い蛹で、善い生き物ではない。見失った細い枝についていた葉を食むように、雨上がりの露を吸うような生き方で此処に立っている。そこに間違いと貼り付けた建前はない。
「応援できません」
「…え、っと、門白さんは…その、答えを見つけるのが、早いですね、」
「貴方が目指すのはアイドルという生き方だけです。他の道はもう、残っていない」
「そんな、はっきり…言わなくても、良いじゃないですか!」
悲痛な声が私の目の前で涙色に染まる。アイドルに酷な事を言うつもりではなかったが、彼女を引き留めなければ後悔するだろう、私は何となくそう感じた。麻央さんにとっての理想のアイドル像が見えて、指先だけでもその未来に触れることができたのだから…そのサポートをする側になった私は、感情的な言葉をかけるつもりはない。プロデューサーとしての、厳しくも正しい道を誘導している筈だから。
「ボクは、王子様にそれでも憧れているんです」
「…それは王子様ではない。私は一番知っています、プロデューサーという立場になる事は、二度と人の視線を奪う事ができなくなるという意味でもあります」
「…貴方が見た王子様は、舞台の上に居たのでしょう?」
――アイドルという蛹から羽化できなくて、ぐちゃぐちゃに引き裂かれた中身は中途半端な自我を持って、プロデューサーになる事しか出来なかったのだから。
それが、私であり…門白沙凪。