宝石みたいな女の子 人生で早く忘れちまいたいのに思い出してしまうことがいくつかある。
最近では妹の結婚式だ。それはもう豪華にしてやった。しょぼい式なんてブラウンテイルの名折れだからね。
「初恋は実らないなんていうけれど――」
何度も直しに出して最終的に私が叱り飛ばしたドレスに身を包んだ愚妹は高らかに宣言した。
「そんなことないわ! だってあたしはユカタンと結婚できたんだもの!」
まったくおめでたい愚かな妹だ。これからの新郎の気苦労が偲ばれる。
疲れ果てた私にユカタンは気を使ったが、祝われるのはお前だと、酒をたらふく注いでやった。
まあ初恋なんて子供の愚かさの発露も同然だ。
あの出来の悪い妹はいつまで経っても子供のままだということで。けれどもそれは幸運だ。
この世にままならないことなんてたくさんある。
生まれた時からそう決まっているなんて大したことじゃない。
……よくある話さ。
シルバーアッシュ家の応接室の景色は、懐かしさを感じさせた。
「いくらなんでも不用心じゃないかい、エンシオディス」
ラタトスは肩を竦めた。この前殺されかけたというのに。
「お前は愚かではない。二度も同じ手を使わない」
上手い言い方だとラタトスは思った。あれは奥の手だ。ラタトスを評価するような物言いをしながら、その実、暗に自分を殺すことは出来ないと言っている。
「座れ」
言われるがままに、ラタトスは腰を下ろした。
もちろんブラウンテイルの家を継いでからは何度か訪れたことはあるが。いつも思い出すのは幼い頃、勝手に忍び込んだことだった。照明や暖房器具は最新設備に置き換えられていたが、机や椅子の調度品は昔と変わらない。ラタトスが座る長椅子も、幼い頃スキウースが上で飛び跳ねてサイドテーブルの上のランプを割った。彼女が祖父を怖がって泣くものだから、エンシオディスが自分がやったことにしてくれた。
ラタトスはため息をついた。つまらないことばかり思い出す。あの愚かな妹は、きっとそんなこと忘れてしまったというのに。
エンシオディスはケトルから茶を注いだ。火もアーツも使わずに湯を沸かすことが出来るヴィクトリア製の最新のものだ。ブラウンテイルでも使われている。口ではなんと言おうと、人は便利なものには惹かれてしまう。それが、生きるのが厳しい土地なら尚更だ。
「当主手ずから淹れてくれるのかい?」
「ああ。お前とは腹を割って話したい」
エンシオディスは二つのカップをテーブルに置き、ラタトスの対面に座った。彼の言葉をそのまま信じることは出来ないが、どうやら本当に二人きりで話をするつもりらしい。
「どうぞお好きに。生きてるだけで儲けものだ」
ラタトスは
「取り潰しも覚悟している。領地の安全の確保が条件だが——あんたは悪いようにはしないだろう」
「ブラウンテイル家は残すつもりだ」
存外あっさりと、駆け引きなくエンシオディスは切り出した。
「利用価値があるからか?」
ラタトスは率直に尋ねた。半分皮肉を込めて。
エンシオディスは小さく笑みを浮かべた。ヴィクトリアから帰郷した彼の作り笑顔は見飽きたものだったが、それは本当に楽しんでいるかのようにラタトスは錯覚した。
「ラタトス、覚えているか」
悠然と彼は肘をつき、脚を組んだ。それはシルバーアッシュ家の当主に相応しい態度だった。
「昔はよくチェスを指したな」
「ああ。いつも勝負が長引いて妹どもはどっかに行っちまって、見えないところで悪さをするんだ」
ラタトスも椅子に背を預け、気怠げにエンシオディスを見返した。
「あんたに勝てるのは私くらいだった」
「そうだな。特にノーシスがいなくなってからは」
「私はそれが一番の自慢だったんだ」
「…………」
人生で忘れてしまいたいことがいくつかある。幼い頃の屈託のない自分もそうだ。
あの頃は何もかもが違うようで、もしかしたら変わらないものもあるのかもしれない。ラタトスは唐突に思った。
炎の中で見つめ合った時、今までで一番彼を近くに感じた。
馬鹿なことをしたと思う。策といえばあれくらいしかない状況ではあったが。それでもほんの少しだけ期待してしまった。
生まれたときから決まっているのなら、死ぬときくらいは一緒でもいいだろう。
……あの時の昏い歓びは、未だに心臓にこびりついている。
一生明かすこともない。それこそ墓場まで持っていくことだ。
けれども、これからいくらでも、あの時できなかった工場や鉄道の話が出来るのだ。
考えれば、そう悪くない。
「別に、シルバーアッシュになったっていいんだけどね」
不意に呟いた言葉は、さすがのエンシオディスも予想外だったようだ。彼の銀灰色の瞳が、こちらの真意を読み取ろうとしている。
この男はうちの妹と違って賢いから、きっと理解する日なんて来るまい。
「……冗談だよ」
それがとても小気味よくて、ラタトスは喉を鳴らして笑ってやった。
だって、子供の頃の夢だったんだからさ。
*
彼が当然のように部屋に入ってきたのは、少し驚くべきことであった。車椅子の女はじっと見ていた。彼の手の中のアイリスは夜の闇に沈んでいたが、それでも瑞々しさが感じられた。彼はこの騒動の合間にすっかり枯れてしまった花を片付けた。それは友人たちが持ってきてくれたものだ。名残惜しいが仕方ない。花は枯れるものだ。
「あなたの銃はここにはないわよ」
彼は顔を上げた。不思議と、数日前より顔色が良いように思われた。
「それが目的ではないよ」
いつも微笑をたたえているように見えるのは顔立ちのせいだろう。本当の彼は、あまり笑わない。
「もう行くの?」
「ああ、明日には」
そう、と車椅子の女は頷いた。彼女は窓の外に目を向けた。
ラテラーノの街並みの美しさは、たとえ夜でも損なわれない。あちこちで光が瞬き、その下で騒ぐ公民の笑顔まで見えるようだ。
「いい夜よ」
車椅子の女は窓から手を伸ばした。てのひらの上に星屑が降ってくるかのように。
「少し歩かない?」
男は意外そうに目を見開いた。
毎日形は変わるが、ラテラーノという存在がそれで変わることはない。今夜も酒場からは浮かれた喧騒が聞こえてくる。陽気な歌、一見諍いのように聞こえる大声それは数年前の自分たちの姿でもあった。
「車椅子がそういう使い方ができるとは思わなかった」
「でしょう?」
ラテラーノの石造りの街並みは、細かい段差は避けられないが、それでもよく舗装されていた。
アンドアインが尋ねる。
「押してもいいかい?」
「もちろんよ。いつ言い出すのかと待っていたの」
レミュアンは車輪から手を離した。フィアメッタが見たら目を吊り上げて怒るだろうが。彼の手は心地よかった。アンドアインはそういう男だった。穏やかで、誰にでも心地よさを与える。
「あそこによくドーナツの屋台が出ていたわ」
レミュアンは街角を指し示した。
「よく朝食にあなたと食べたのを覚えてる。フィアメッタがモスティマを引きずってくるまで待って……でも目覚めてからは、もうあのおじいさんを見ることはなくなったわ」
「そうか……残念だね」
「あそこはよく飲みに行ったわね。騒ぎすぎて、二日酔いになりながら書類を直して」
「君たちの報告書は酷かった」
たった通りを一本歩くだけで話すことがたくさんあった。レミュアンは悲しくなった。
「楽しかったわ」
「……ああ」
何処へ向かっているのかは、尋ねなくても分かっていた。大通りを抜けると、一気に景色は寂しくなる。寝静まった住宅街は、そこで安らぐ家族を想像させる。
アンドアインが不意に口を開いた。
「何かを愛するということは、それ以外を愛さないということだ」
「なんだか、別れ話みたいよ」
レミュアンは笑った。彼は確かにサンクタだったが、ラテラーノで人気のメロドラマを見ている姿など想像出来なかった。
「低俗なんて言わないでね」
「そんなことはない。愛は大事なものだ」
その礼拝堂は、街の片隅にひっそりと建っていた。
二人が初めて出会った場所だった。そこは常に開かれ、神を讃える蝋燭の火が絶やされることはない。いつでも信徒を迎え入れている。
二人は無言で中に入る。今は祈る者の姿はなく、神を模した像だけが佇んでいる。
レミュアンは十字を切った。アンドアインはただそれを見ていた。
車椅子の女はやつれた男の手を取った。初めて出会ったときのように。あの時は彼を見下ろす形だったけれど、手の温かさはそう変わらないはずだ。
記憶と同じ、アンドアインの手は冷たかった。
「すべてを愛することなんかできないのに」
ラテラーノを見渡すことは容易いが、荒野を踏破することはできないだろう。
けれども、彼がどちらを選ぶかは知っていた。
「寂しい」
レミュアンは本心を綴った。
「あなたがいなくて寂しいわ。アンドアイン」
あなたはどうなの、とは聞けなかった。
聞くまでもなく、それは伝わってきていた。二人は同族なのだから。
悲しいと感じるのはどうしてだろうか。レミュアンは考える。
彼が変わってしまったから――それは違う。初めて会ったときから。数年間を共にしても、彼は変わらない。自分に向けてアーツを放ったあの時ですら。彼は彼以外で在りえなかった。
蜃気楼のようなあの日々を愛しく思う。
一番悲しいのは、彼の背中を押すことができないことだ。
「私、あなたの故郷になりたかったの。そうしたら、いつでも思い出すでしょう?」
「君を忘れたことは一度たりともないよ、レミュアン」
けれどもは優しく手を解いた。彼の肩越しに、ラテラーノの荘厳なステンドグラスが蠟燭に照らされて輝いていた。
「行ってくるよ」
小さな一言を残し、アンドアインは去ってゆく――
「……いってらっしゃい」
そう言えたのは、彼の姿が見えなくなってからだった。
少しの間、動けなかった。それはきっと、初めて会った彼と似ていただろう。
それではいけない――自分の信じたものに向き合わなければ、このまま一人取り残されてしまう。
彼女は神に祈った。
私の愛する人たちに安らぎが訪れますように。
遠くにいても、たとえ二度と会えなくても。