チェリーニアの褥 サルッツォの館は酷く静かだった。
食客であるチェリーニアは自由にその中を歩き回ることが出来た。もちろん多少の制限はあったが、不都合があるわけでもない。
テキサスの家も騒がしいものではなかったが、サルッツオはそれとも違う。常に粗暴な男たちが寄り集まる場所にしては、異様な静けさがあった。張り詰めた糸——そしてそれが、いつ切れるのかという緊張感に充ちていた。
頂点にあった太陽がやや高度を下げた頃。昼食と一服を済ませて戻ってきたチェリーニアは音を聞いた。それは馴染みのあるものだった。ファミリーには不可欠な、制裁に伴う声。ここではさほど聞くことがなかった。なぜならそれは一瞬で行われ、叫びが続くことは少ない。運が良ければ呻き声が続くであろうが、扉一枚で遮ることは容易い。
それはそうと、チェリーニアは足を止めた。なぜならそこは、サルッツォファミリーの娘、ラップランドの私室であった。
扉に鍵はかかっていなかった。それどころか、小さく隙間を空けていたが。チェリーニアは礼儀として拳で数度音を立てた。
「やあテキサス」
許可は陽気な挨拶だった。チェリーニアは扉を開いた。
予想よりもそこは狭かった。チェリーニアに与えられた客室より、一回り広いだけだ。首領の令嬢の私室にしては、あまりにも殺風景だった。白い無地のシーツのベッド、簡素な本棚、古びたライティングデスク。
ラップランドは窓際に佇んでいた。レースのカーテンを通してさし込んだささやかな光が、部屋の薄暗さを際立たせている。
その中で、彼女の肌の白さが際立っている。彼女はいつもよりも薄着だった。曝け出された肩と、それを掠める銀の髪。陽光が滑り落ち、きらきらと輝いている。
テキサスはゆっくりと視線を落とした。彼女の足元には、男が蹲っていた。服装から、サルッツオファミリーの人間だとは理解したが、名前までは分からない。
テキサスが覚えているものは少ない。必要ならば頭に入れるが、必要なくなれば忘れてしまう。そして、このシラクーザでは、人の名前がなくなることが多すぎる。
——さっきの悲鳴は、きっとこの男のものだろう。
「どうした」
「別に」
ラップランドは酷薄な笑みを浮かべた。そうして目を輝かせながらチェリーニアに熱い視線を送るのが彼女の常だったが、今はつまらなさそうに目を伏せている。
チェリーニアは苦しそうに呻く男を見やった。痛みでそれどころではないのか、わざと顔を伏せているのか、表情は読み取ることが出来ない。
「簡単なことさ」
思考を読んだようにラップランドは口を開いた。彼女はチェリーニアから見ても敏い少女で、度々こういう物言いをした。
「サルッツォを手に入れようとした、分不相応な愚か者だよ」
チェリーニアは納得した。確かに彼は愚かだ。ラップランドはファミリーの中でも手練れだ。それを白昼堂々襲うなんて、よくもこのシラクーザで生き延びられたものだ。
「変なことを考えてそうな顔だね」
ラップランドは変わらないチェリーニアの表情を見て、呆れたように肩を竦めた。
「君は頭が悪いわけじゃないのに。他人に興味がないんだ」
彼女は無造作に、男の腹を蹴り上げた。彼女の革靴の値段は、一般的なシラクーザの工夫(こうふ)の年収を優に超えるであろう。丁寧に鞣した仔牛の皮が、血に染まってゆく。
「要するに、ボクに子供を産ませようって画策したわけさ」
チェリーニアは数度瞬きをし、それからようやく顔を上げた。広がった視界の中、ラップランドはうんざりとした顔をしていた。
そこで初めてチェリーニアは男が股間を抑えて倒れ込んでいる理由を理解した。
チェリーニアは常にマフィアらしい振る舞いが出来る。
「そんな未来のことを考えると、うんざりするよ」
けれどもチェリーニアはマフィアの振る舞いを好んではいない。出来るだけだ。
「君だってそうさ。チェリーニア・テキサス」
ラップランドはそう呼ぶことで、わざと意識させた。そういったやり口において、ラップランドは自分より上手だった。
「他人事みたいな顔をしないでよ」
そして彼女の言う通り、考えたこともなかった。
否、考えようとしなかっただけかもしれない。
——ああ本当に、うんざりだ。
芯までマフィアとしてしか生きられない祖父も、利益のことしか考えない父も。それに従うだけの母も。当たり前のように人を殺すファミリーも。それを受け入れ、死んだように生きる市民も。
「すべてが嫌になってしまったんだ」
「それで放火して家出してきたってか。ロックじゃねえか。俺はヒップホップだけどよ」
チェリーニアが不思議そうな顔をするのを見て、エンペラーと名乗った彼は盛大にため息をついた。
街で出会った奇妙なリーベリは、チェリーニアの顔がしょぼくれているという因縁をつけ、手近なバーに彼女を連れ込んだ。彼はおよそ物が持てるとは思えない手で、チェリーニアのグラスに酒を注ぐ。
「それにしてもこのエンペラー様を知らないとは、これだからシラクーザの田舎者は……」
「私はクルビア育ちだ」
「なんと。ならとんだ深窓のお嬢様だったわけだ」
チェリーニアは否定しなかった。二つの国を行き来しても、自分の世界は狭いままだった。
「で、お前は何がしたいんだ?」
酒は高級なものではなかったが、頭の芯まで強く効いた。くらくらと脳が揺れ、思考がぐるぐると回って纏まらない。けれども、この感覚すらも心地よい。
たとえ期限付きだとしても。今確かに、自分は自由なのだ。
「私は——」