現実逃避という名の駄文。 テーブルの上のスマートフォンがけたたましく鳴り響く。恋人の帰りを今か今かと待ちわびていた雨彦は、一つ息を吐いて画面に映る名前を視界に入れた。
「……渡辺サン?」
首を傾げて通話ボタンを押す。聞こえた声は至極慌てている様子だった。
「雨彦! ごめん! 圭さんが……」
恋人の名が出た途端立ち上がり、一つ二つ言葉を交わして車の鍵を手にし部屋を飛び出した。
車を駐車場に停め、たどり着いたは大衆居酒屋。個室にいるという彼に教えてもらった部屋の番号を見つけると何の躊躇いもなく襖を開ける。
—―そこにいたのは。
「あ、雨彦。……あ、あの……これはですね……」
何故か敬語になっている渡辺を一瞥し、テーブルに突っ伏して寝息を立てている金色の髪の傍に駆け寄る。
「…………これはどういうことだ?」
金色の髪の持ち主――恋人である都築圭――の横には飲みかけのオレンジジュースに似た飲み物。
雨彦は訝しげにそれを手にし、匂いを嗅いだ。
「……スクリュードライバーか。どうして飲ませた」
普段は固形物はおろか、水しか口にしないような恋人に酒など飲ませられるわけがない。最近ようやく少しだけ、週に一、二回うどんを食べる程度にはなっていたが、それも雨彦が言うまでは口にしないような人である。雨彦の声が地を這うような怒気を含んだものに変わる。
「待って! 顔怖い! アイドルの顔じゃない!! ファンには絶対見せられない顔してる!!」
「……つづきさんが酔ったらどうなるのかなって……思いまして……ですね」
騒ぐ渡辺と相反して、山下の言い訳は尻すぼみに小さくなっていく。それを聞いた雨彦は思い切り舌打ちをした。
「興味本位で?」
「はい……大変申し訳なく……」
いつも飄々としている山下が、恐怖の余り正座になり、敬語なうえ声が震えている。
だがそんなことを気にしてはいられない。雨彦はその場にいた面々を睨み付け、都築の身体を軽く揺すった。
「俺たちもまさか一口でこうなるなんて思わなくて……」
「……は?」
揺する手を止め今までに出したことのないほど低い声が出る。渡辺始め、山下やあの硲でさえもみるみる顔色が青くなっていった。
「この人が水しか飲まないのは、知ってるはずだろう?」
「……はい」
「どうして飲ませた。他に理由があるんだろう……?」
ここは地獄か何かかと思うほどの声色と形相に、全員が後ずさる。
「つづきさんとくずのはが、どんな風に愛を育んでいるのか興味があ……」
「興味があるなら俺に訊けばいいとは思わなかったのか?」
「ごめんなさい」
恋は人を変えるとはこのことだろうか。もはや恐怖しかない。
「……んん…………」
と、その場の空気を察してか都築が薄く目を開き、ゆるりと顔を上げた。
—―のだが、アルコールが回っているせいか後ろに倒れそうになる。それを慌てて支えた雨彦が、都築の顔を覗き込み人格が変わったのかと錯覚するほどに優しい顔つきになった。
「……圭、大丈夫か? 気分は?」
幻聴だろうか、声までもが甘くやわらかなものへと変わる。その場にいた全員が呆気にとられた。
「雨彦さんだ……ふふ、だいじょうぶ……ふわふわするけど……うん」
酔いの所為かいつもなのかは分からないが、蕩けた目で雨彦を見つめ、嬉しそうに笑みを見せる都築の様子にもう声も出ない。
「そうかい。……一緒に帰ろうな?」
「うん」
今まで一緒に仕事をしてきて、こんな声を聞いたことがあっただろうか。否、ない。雨彦が都築を見つめる目も、慈愛に満ちたものになる。先ほどの地獄からはせ参じたかのような形相はどこへ行ったのだろう。
「……次に同じことをしたら……分かるな?」
雨彦は財布から一人分の料金を出してから都築を軽々背負い、去り際に残った三人を睨み付けるとそれだけ残して去って行った。
「……」
「…………」
「………………」
「「「こ、怖かったぁあああ……」」」
酔った都築を車の助手席に乗せ、自宅まで向かう。
「ご機嫌だな?」
雨彦はハンドルを切りながら隣で揺れながら小さく歌う都築に声をかけた。
都築が楽しそうに笑いながら雨彦を見つめ、甘い声で答える。
「ふふ、運転する雨彦さん……かっこいいなって。いつもかっこいいんだけど、運転してる雨彦さんはもっとかっこよくて、大好き」
酔いの所為か、何割か増しで饒舌になっている。雨彦は緩む口元を押さえもせず問いかけた。
「ほう。惚れ直したかい?」
「うん。毎日大好きだけど、もっと好きになったよ。本当にかっこいいな」
茶化すつもりだったのだが素直に返されてしまっては反応に困る。酒の力もあるのだろうが、本音なのだろう。もし明日何もかも忘れていたらもう一度聞き返すまでだ。
雨彦は自宅とは反対方向にウィンカーを点け、車体を高速へと滑らせた。
「圭、このまま深夜のドライブと洒落込もうと思うんだが」
否の言葉を聞くつもりは毛頭なかった。都築もそれを知ってか知らずか嬉しそうに声を弾ませる。
「うん、雨彦さんとならどこまでもついていくよ」
「そりゃあ最高の殺し文句だ」
星空と月が瞬く夜空の下、突如決まったドライブデート。こんな日があってもいいと思う。酒は二度と飲ませる気はないが、今日ばかりは感謝してもいいと思うのだった。
fin.