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    23/8/20 インテ サンプル
    ※web再録のため、全文ネットにて閲覧可能です
    サンプル用として本文抜粋

    サンプル「夕方衣替えでアパート行くけど」7:16 [夕方衣替えでアパート行くけど]
     
    Ⅰ.夏至
    Ⅱ.大暑
    ?.?
    Ⅲ.十月三十一日
    Ⅳ.小雪
    Ⅴ.小暑
     
     
     

     今日は早く寝るつもりだったのに。
     脚の間で赤い髪が揺れる。突然押し掛けてきたこの男は鼻歌まで歌っていて、お酒ってそんなに楽しいものなのか。
     さっきお風呂で別れたはずの泡が再び股間に塗り付けられる。部屋で。しかも布団の上で。この布団は今日干したからふわふわだったのだ。ホールの仕事で疲れた脚をそこに潜り込ませて気持ちよく眠るつもりだったのに、申し訳程度のバスタオルと僕のおしりで潰される。ああ、今この瞬間少しずつ湿っているのかと思うと最悪だ。
     一刻も早くこの状況を立て直したいものだが、なにぶん息子を人質に取られているから些細な身動ぎさえ憚られる。
     ひたりと冷たい刃が僕の息子の上、腹に当てられる。そのままそっと袋の方へ。
     燐音の鼻歌に混じって、ぷつぷつと毛が剃り落とされていく。ここの毛だって僕の栄養を使って育ったものなのだ、どうこうされる筋合いはないと文句を言う。
    「燐音くん、やだ」
    「やだ?」
    「うん」
    「そうか。でもな、これは慰謝料なのでェ無理ですぅ」
     本当に最悪だ。意味が分からない。しかし息子は変わらず文字通り危機一髪の所にいるから手を出せば終わる。なら口か。
    「いや何の。ほんと、僕の安眠邪魔しないでほしいんすけど。あと毛も」
     勝手に剃らないでと言えば燐音はすん、と鼻歌をやめて真顔で見上げてきた。顔が整った人間の真顔は怖い。そして右手には剃刀。生きた心地がしない。

     
     

     
    ☆補足☆
    書いたのがHL前なので椎名家アパート内装が十割捏造です。玄関に並んでキッチンスペースがあり玄関口から見て少し奥にバストイレ、さらに奥に引き戸で洋間と分けられているイメージです(伝わって…!)。
     
     
     閉めきった窓の外から、ごうごうと室外機の音が聞こえる。
     街頭の光があると眠れないのだと、家主でもない燐音が選んだ遮光カーテンを引いた室内は、夏の昼間と思えないほど暗く、涼しい。少し遠くに、アブラゼミの鳴き声が響いている。

    「燐音くん、いるー? カルピス」
     1DKのニキのアパート。
     ニキはキッチンスペースで冷蔵庫を開けながら、燐音に話しかけた。
    「ん~いいや。コーラがいい」
    リビング兼寝室で、ベッドに凭れながら燐音が答える。その視線の先には、暗闇でパタパタと色の変わるテレビがあった。
    「はーい」と了解の返事を返して、グラスを2つ流し台へ並べる。

    「はい」
     燐音とテレビの間にある食卓へ、カランと音をたてるグラスを置く。その周りには、パーティー開けをしたポップコーンやポテトチップスなど、スナック菓子を机いっぱいに並べた。
    「きゃは、ニキちゃんアリガト」
    「はいはい」
    早速、コーラに口を付ける燐音が軽い調子でお礼を言う。普通に言えばいいのに、照れくさがって茶化すのは癖なのか。いつもの調子の燐音に、いつもの調子で返事を返した。
    「まだ予告? あ、広告か」
    「んー」
    「とばせばいいのに」
    「ニキちゃんは情緒がねえなァ? せっかくだし、観ねぇと損だろ」
    「ふぅん、そういうもんっすか」
    飲食物は用意できたし、なんでもいいや、と燐音の隣へ座り、ポップコーンへ手を伸ばす。
    燐音はグラスに口を付けたまま、流れる映像を目で追っている。
    少しして、メニュー画面に代わり、映画のタイトルが現れた。
    「これ字幕しかないらしいんで」
    「へぇ、ニキがンなもん借りてくるなんて珍しいな、つか初めてかァ? どういう風の吹き回しだよ」
    「んえ、なんか、タダだったんで……?」
    「ふーん……? ま、観たことないやつだし、有り難く頂戴しとくかねェ」
    ニキがリモコンを操作して、本編を再生する。
    机にリモコンを置き、ついでにポテトチップスを拾って口に入れる。横に座る燐音は、グラスを口から離して机に置いた。そのまま、頭の後ろで腕を組んでベッドに凭れ、観る体勢になった。


     

     
     ニキのアパートの食卓で、向かい合って食事をとっていた燐音が、小さくくしゃみをした。

     つられて、此方もくしゃみをした。
     鼻を啜りながら思わず閉じてしまった目を開くと、見慣れない服をきた、燃えるような頭髪の、燐音に似た少年が此方を見つめていた。
     顔つきが子供のせいか、いつもの彼と比べると大きく見える青の目を驚きで開きながら、隣に座る、何が起きたか把握できず兄さんと呼ぶ小さな男の子を抱き寄せている。
    「えーと、燐音くん?」
     ニキは、ご飯茶碗を置き、箸で挟んでいたおかずも小皿へおいて少年に尋ねた。
    本当は取り敢えず口に入れてしまいたかったが、流石のニキもこの異常事態に我慢をする。
     燐音と呼んだ少年と目があった次の瞬間、ニキの視界が暗転した。


    ***
     
    「は」
     目を開くと、真っ白な壁が見えた。両手が頭上で固定されている。背中が柔らかい、白い壁は天井か。この布団の柄は知っている。
     十数秒間思案し、自身が自宅のベッドの上に、縛られ転がされていると理解する。
    少年達――見た目から、理屈はさっぱり分からないが恐らく幼少期の燐音と弟――はどこへ行ったのか。身体を食卓の方向へ向けようとする。

    「動くな」

     頭の方から降ってきた、声変わり前の高く凛とした声と、喉元に当てられる冷たい感覚に動きを止めた。
     ニキが動きを止め、抵抗の意思が無いことを示すと、喉元の圧迫間を取り除かれた。
    「今からする質問に答えろ。さもないと……」
     頭側から覗き込まれているせいか、逆さまに見える青い目をみながら、承諾の返事をする。
    「はいはい。分かったっすよ。抵抗しないから、どーぞ」
     それじゃあと、少年が質問をしようとした時だった。きゅうう、という音が聞こえたため、思わずニ人はそちらを見る。
     すると、食卓とベッドの間で、時代劇で見た忍者の構えの様な何時でも動ける体勢をとっている弟くんが、顔を赤くして謝ってきた。 「ご、ごめんなさい。お腹が」
     謝る最中にも、くるるる、と音がなり、真っ白な肌がたちまち赤くなる。
    「大丈夫だから、落ち着け。……ごめんな直ぐに戻れるように考える」
    「お腹空いちゃったんすねぇ」
    「勝手に喋るな。早く戻らないといけないんだ、だから」
     少年は真剣な顔付きでニキに訴える。
    「ふふ、やっぱそんなちっちゃいときから……」
    「なんだ、はっきりしないな」
    「あー気にしないで。んと、うちので良かったらご飯食いますか?」
     ニキは、兄弟の理性的ではあるが隙の多い、子供であることが伝わってくるやり取りを微笑ましく思いながら、提案をする。
    先ほどから、弟くんの可愛い音に合わせて地鳴りのような音を上げるニキの腹もそろそろ限界の為、あわよくば自分も食事を取りたい。
    「あんな怪しいもの食えない」
     少年は、ちらりと皿の上の茶色い山を見て答える。
     燐音の食べる量は、日、というより合わせる酒の量によってまちまちなので、最初から個別の皿に盛り付けず、大皿で好きな量を取れるようにしている。基本的にニキが九割食べるのだが、兎に角、今晩も同じ調子で盛っている大皿は、中々の衝撃だろう。その料理が何か知らないなら尚更である。
    「ああ、そっか……あれはねハンバーグっていって、簡単に言うと牛とか豚の肉を挽いて丸めて焼いた食べ物。デミグラスソー、美味しい野菜と肉の汁?が、かかってるから見た目が怪しいかもしれないすけど、燐音く、君たちもきっと好きな味っすよ」
     燐音と呼ぶと、何故知っているのかという目を向けられ、ついでに手首も絞まるので訂正しつつ、料理を説明する。
    「……」
     ニキと弟くんの音にかきけされているが、兄の腹もくうくうと音をたてているのが聞こえている。こちらの燐音が食事中だったように、ニ人も途中だったのだろうか。
     もう一押しだ。
    「怪しい人間の作ったものは危ない」
    「毒味とかが要るんなら、適当な所をとって僕に食べさせてみればいいっしょ。ね?」
     僕逃げないし、格闘技できないんで弱っちいの君ならわかるっしょ、と言葉を重ねると、少年は少しだけ視線をさ迷わせたあと動くなよと念押しをしてニキから離れた。
     食卓へ向かう途中で、何やら弟くんへ耳打ちをする。さっきまで赤くなり、邪魔をしてしまった罪悪感からか少し元気の無かった顔がみるみる輝いていく。うむ、任せてほしいよ!と元気よく返事をすると、兄とは形の違う、けれど同じ色をした瞳が一層鋭くニキを見つめた。
     きっとなにか使命を与えたのだろう。また、耳打ちなのは呼び掛ける名前をニキへ知られないためか。分からないしこれ以上考える気もないが、少年がお兄ちゃんをしていることは理解ができた。

     テーブルにあったニキの箸を使い、ハンバーグの山から適当に選んだものを空いていた小皿へ取り出す。一口大に切ったそれを、縛られ寝たままのニキの口へ放り込む。
    「……俺が言うのもなんだけどさ、あんた警戒心無さすぎだろ」
     口を開けろと指示する前に、あーんと目を閉じ口を開けたニキに対し、げんなりしながら少年が言う。
    「んーんま……そっすかね?」
    「気を張っているこっちが、馬鹿みたいだ」
    「なはは」
     笑いながら、それは此方が君のことを知っているからだとニキは思った。変わらずへらへらと笑うニキを、少年は迷子の様な瞳で見つめる。
    「……なんで俺の名前を知ってる」
    「未来の君を知ってるから、なんて言っても信じられないっすかねぇ。でも他に言い様がない……うーん糖分が足らないっす」
    「……」
     無防備にも、再び目を閉じて空腹を訴えるニキ。
     少しすると、瞼越しに感じた影が無くなり、ベッドがぎしりと音を立てた。
    「お、食べるすか?」
    「……少しだけだ。いつ戻れるかわかんないし」
    「うん。怪しかったら、また僕に食べさせてみればいいっすよ」
    「あんたが食いたいだけだろ」
     変わらず、鳴り続けているニキの腹音を聞いた少年が言葉を返した。
    「! なはは、違いないっす」
     ほんの数時間しか経っていないのに、燐音との軽いやり取りが少しだけ懐かしく思えた。
    「あ、お箸がないっすね。えっとお兄さんわかるっしょ、奥の部屋の。どれ使ってもいいんで」
    「……」
    「あと、持ってきた包丁は返しといて下さいね、洗うから適当な台の上でいいすよ」
    「いやだ。武器を手放すわけないだろ」
    「あははっほんともう、こんときから変わんないんすねー。それは料理で使うものなんで、変な使い方しちゃ駄目っすよ。……ま、今は多目に見るっすかね」
     ニキが気絶している間に家捜しをしたのだろう。少年は包丁を持ち出し、武器として携帯していた。
     そうやって使うものではないとどうやったら分かってくれるのだろう。少なくともニ一歳には無理だった。つい先日のことを思い出し、やれやれと思うのと同時に、守りたいものがあるのは大変だなと思った。

    「兄さんどくみなら僕がするよ」
    「お前の身体はまだ小さすぎるから、駄目だ。それに大丈夫だよ」
     さっきあいつが食べてただろ、そういいながら、少年は怖々とハンバーグに口をつけた。
     表面のソースを少し舐める。初めての味に、ぴくりと肩が揺れた。横で弟が心配そうに眺めるのを、空いた左手で撫でてやりながら肉の部分を口に入れた。はじめこそ、探るように噛んでいたが、数度で、後は普通に咀嚼した。
     ニキを監視する目的で、ニ人ともニキの方を向いて食べている。その表情が、段々と柔らかくなるのが見える。目を輝かせ、真っ白な頬を紅くして食べる姿は小動物のようでとても愛らしい。
    「美味しいね! こんな美味しいもの初めて食べたよ」
    「そうだな。ほら口についてるぞ」
    「む、兄さんありがとう」
    「ああ」
     少年は弟の口に付いたソースを指で拭いながら話す。その姿は、幾分か警戒を解いているように見える。
     ニキは、こんなに美味しそうに食べてくれるなんて料理人冥利につきるなと思い、思わず笑みを溢した。と同時に、ハンバーグの味を思い出し、盛大に腹を鳴らす。
     微笑みながら腹を鳴らすニキと目があった少年は、思わず吹き出した。
    「あは、あんたほんと、変なやつ。あはは」
    「え、何で笑うんすか」
     笑われた理由が本気で分からないニキがそう尋ねると、少年はさらに笑う。
    「わはっそんなの、うふ、こんな縛られてるのに、笑って、こっち見て、すんごいお腹の音させて、おかしいよ」
     ついに箸を置き腹を抱えて笑いだす兄に、隣で引っ付いて食べていた弟がニキを睨む。
    「あなた、兄さんに何をした! 」
    「してないしてない! 」
     ニ人のやり取りで止めを刺されたのか、ついに声が出なくなる少年。変わらず理由が分からないニキは困惑することしか出来ない。
     倒れこむ兄へ心底心配そうに寄る弟を安心させるため、少年はなんとか身体を起こした。
    「けほっ、はあ、大丈夫だよ。あの人が可笑しくて沢山笑っただけだから」
    「む、なら良かったよ。兄さんに何かあるといけないからね」
    「…うん。ま、だから安心しとけ」
     言葉と共に、兄の安否を確め安心した様子の弟を抱き締める。
     兄の方の表情が何処か悲しそうだが、影になりニキには見えなかった。


     


    顔の掘られたカボチャと色とりどりのお菓子の山。アイドルは皆揃いの衣裳を身に付けて、オレンジと紫のスワローテイルでファンを魅せる。燐音も例外なく、いつか採寸された、一日限りの衣裳を身にまとい今日という日を盛り上げた。
     組まれたスケジュールはグループ単位でのお菓子配りとステージでのパフォーマンスを交互に行うものであったことから、四人揃って動き回った一日だった。夜は社内のホールでちょっとしたパーティーが開かれて、用意された見事な料理を堪能する。こちらも、途中までライブ配信されていたようで、副所長は抜け目ないなと燐音は感心をした。
     ビュッフェスタイルの料理が並ぶ中で存在感を示す、綺麗に盛り付けられたカボチャの菓子たちがあった。当然と言うか、ニキも関わっており、加えて燐音達と同じアイドル業をこなした彼は、会場の端あたり、料理から遠く窓に面したテーブルでご飯を食べつつ彼方を見つめていた。会場はカメラも入れるようにとそこそこ広い。ニキの座る机は会場の出入口から遠く、場所のせいか、周りにはほぼ人が居なかった。燐音は切り分けられているケーキを数切れ、生クリームののったプリンを掬って皿に盛る。フォークとスプーン、ついでにキラキラとハロウィン仕様に包装された飴を幾つか手に取り、ニキの元へ向かう。お疲れさん、と横から声を掛ければ、ニキから、ん、と短く返事を返した。
    「あ……、ケーキ」
    「ああ、食うだろ」
    「ありがと。燐音くんも食べた?」
    「んにゃ、まだだな」
     まだ。燐音がそう返すと、皿を受け取るやいなやケーキをスプーンで掬い大口を開けていたニキがピタリと止まる。スプーンの進行方向が燐音に変わった。
    「あーん」
    「いや、お前食えよ」
    「ええ~燐音くんに食べてほしいっす。これ自信作。ねぇ、ほら」
     疲れすぎて思考力が低下しているニキは、ここがパーティー会場であることを忘れたのか。ぐいぐいとスプーンを押し付けてくるニキを、燐音は何とかかわそうとするがニキは案外頑固だからこうなると折れない。恥じらい妙な空気になる前に、と燐音は仕方無く口を開けて受け入れた。カボチャの甘味が程好く生かされており、食後でもするりと食べられる。仄かに感じるスパイスは燐音好みの味であった。
    「うまいな」
     燐音から素直な感想が漏れる。するとニキは眠そうに目を溶かしながら頬杖をついてんふふと満足そうに微笑んだ。
    「でしょ。僕も食べよ」
     ニキはそう言って握ったままのスプーンで今度こそ自分用を掬う。そのまま美味しそうに頬張り始めた。燐音は、それさっき俺が使ったやつだけど、と言いそびれてそれを見つめる。
     
    「りんねくん」
     ニキはあっという間に皿の菓子を平らげて燐音に返す。言外に、おかわりと言っているようだった。燐音はそれを察する。正直お疲れのようだから、持ってきてやるのも吝かではないが、周囲の手前燐音は少し渋るふりをする。
    「お? 俺っちをパシリに使う? ニキちゃん調子こいてんじゃねェぞ」
    「だめ?」
     くるりと存外大きな双眸を向けられた燐音は、ぐ、と息を詰める。ニキは時々燐音のことを可愛いと評するが、逆も然り。燐音はニキのおねだりに弱い。しかも滅多にないから、尚更効果は抜群で、そもそも否定する理由もないため、あっさりと口を開く。
    「しょうがねぇな」
    「やった。燐音くん大好き」
    「そんな軽い大好き初めて聞いたわ。んじゃ取ってきてやるから、しっかり何かお礼くれよな」
    「えっなにそれ」
     ニキはげ、と面倒くさそうな顔をする。燐音は楽しくなり、契約成立だからな、踏み倒すなよ、と投げ掛けて料理へ向かう。
     



     明日、燐音様が帰郷されると耳にした。
     四年ぶりの事だと、通りがかる人たちは言うが、私の実感としては四半世紀ほど経ったように思える。それほどに待ち遠しかった。もう会えないのではないかとも思っていた。ついつい、白い息を吐き出す。
     私が燐音様に仕え始めたのは少年から青年への変わり目で、一方の燐音様はまだ頬の丸みが残る頃であった。数いるものの中から私の面構えが良いと選んでくれたという。
     と、いうのも嘘ではないが、本当は私がひとりで野山に向かう姿を好ましく思ってくださった事が理由だと、稽古をつけている際にこっそり耳打ちされた。嬉しいやら恥ずかしいやらでそのまま外へ駆け出してしまいたかったが、他のものの目もあり、また私は以前と違うのだと己を律した。私は燐音様に仕えているのだから。得意気にふんと鼻をならしてみせれば、燐音様は笑った。
     
     燐音様のため村から外へ出る手伝いもした。夕暮れ時に警備の目を掻い潜って出るのは爽快である。私も彼も夜目が利くため、夜は格好の移動時間であった。どうにも私は邪魔になるから、いつも手前の峠で待機をしていた。だから燐音様の言われるトカイを目にしたことはないが、どきどきと目を大きく開きながら、きらきら輝く髪を風で揺らして私の所へ駆け戻ってくる様を見ている限り、他の物が言う程悪い場所ではないのだと感じる。村からトカイへは遠く、帰路になれば流石に私も燐音様も疲労が滲んでくるが、私には燐音様手ずから用意して下さった履物があるからいくらでも頑張ろうと思える、頑張ることができたのだ。
     
     やがて燐音様は元服を迎えた。頬の丸みは無くなり、私に呼び掛ける声もすっかり低い。儀礼の際に正装をした燐音様の隣に立てたことは私の誇りになった。俺の相棒だ、と言われた日には、全身の毛が逆立ちそうなほど喜びを感じて、その日ばかりはつい歳も忘れて感情のまま青みの増した草を蹴った。
     
     あの日も。
     あの日は気持ちのいい夏の夜だった。祭りの喧騒に混ざれない私は自室の木枠越しに空を眺めていると、息を切らした燐音様が温い空気を切りながら懸命に走っていった。思わず息を吐くと燐音様は振り返ってこちらを見る。いつだって揺らぐことのなかった瞳が少しだけ揺れていた。遠く向こうから、他の村人達の声が聞こえる。ぴくりと肩を震わせて燐音様はもう一度走り出すために地面を踏み締めた。村人達の声が近づくから、私は燐音様と一緒に行きたいと思ったが、憎い脚は言うことを聞かない。うっかりと、本当にただのうっかりで痛めた脚は、今の燐音様にとっては枷にしかなれなかった。盛りを越し始めた身体は治りが遅い。
     きらきら輝く髪と、空と同じ色の眼の更に下、丸みのなくなった頬に汗が伝うのを、ただ見詰めることしかできない私に、燐音様はそっと駆け寄ってくださるから、ああ私はどうしたってこの方に仕えていたいのだと、心の底から思ってしまう。さらに村人達の音が近くなる。早く行ってほしいと顔を見れば、燐音様はそっと目線を合わせるために膝をついて頭を下げた。そして、「また」と、一言だけ残すと明るい夜のなかを駆けていかれたのだ。
     あの言葉を貰った私は、何の確証もないのに今でもずっと、その続きを待っている。
     
     


     肌寒い梅雨から一転、続いた夏日と仕事で少しだけ参った身体を休めたかった。本と保冷剤片手に旧館へと立ち入る俺を呼び止めたのは、リュックを背負ったニキだった。

     館内全てに空調が入っている新館とは違い、ここは寮室以外自然風のみだから普通に動けば汗をかいてしまうので、当然ニキの顎から汗が伝う。せっかくコイツが頑張ってからだに入れたもんなのに、こんな所でもったいないな、なんて。
    「あっつ……、部屋行ったらいないんすもん」
    「うん」
    「うん。……えっと」
    「料理しまくるんじゃねえの? ニキは」
    「へ? いやするっすけど……、しますけど」
     ニキの煮え切らない返事と止まらない汗に思わずふはっと笑ってしまう。午前中まで一緒にテレビの仕事をしていて、その時はオーダーもあってか全身で雄の色気を押し出していたのに、今や形無しだ。もじもじと汗で張り付く腕時計をいじって言葉を探している。
    「ニキ~? ここあちぃから部屋まで行きてぇんだけど?」
     強制撤去されないのをいいことに、今だ荷物を置いているユニット部屋には扇風機があるから、早く行きたいのだが。廊下はさながら蒸し風呂でニキだけでなく此方も汗が止まらない。
     だらだら溢れる汗が床に垂れて、ここも清掃の人入るんだっけ? こっそり使っているくせに悪いことしたなとか考えながらニキを見ると既に顔が赤いではないか。あぶねぇな用事は何だよ早く言えって。図らずとも同じタイミングで拭った汗が、手の甲を伝い床に跳ねる。それが二人ともぼたりと結構な量で、今度、清掃のおばちゃんには水羊羹を買ってこようと思った。
     

    ***
     
    ぼたりと天井から水滴が落ちてアイボリーの床材に跳ねる。揺蕩う湯気のなかで何となくそれを見つめた。
     ニキに呼び止められたことで俺の行き先は変わってしまった。今頃適度な暑さの中で本を読んでいるつもりだったのに、現実は奴の家の風呂に押し込まれている。
     MDM後は寮住まいになったから椎名家に寝泊まりする頻度は格段に減った。とくにここ数ヵ月は忙しくて、だからなのか久々の感覚にまだ他人の場所である気持ちが勝っているが、それでも、身体は分かってだんだんと落ち着いている様だった。
     曇りガラス越しに傾きかけの日を感じる。遠くに学生等が運動に勤しむ声を聞きながら両手でお湯を掬って顔を浸した。温かくて気持ちがいい。湯船の真ん中で緩く胡座をかきばちゃばちゃと手をお湯で遊ばせてみる。目を閉じてほうと息を吐くとからだの力が抜けていった。
     ニキは張り切って飯の支度をしているようだったが今は脱衣所にきて何やら弄っている気配を感じる。洗濯でもするつもりか?
     
    「お邪魔しま~す」
    「は?」
     タン、と扉が開けられて、素っ裸のニキが視界にはいる。なぜ。風が抜けて気持ちがいいな。思考が散った。それはいいのだが。
    「お、……おじゃまします」
    何でコイツが入ってくるんだ。しかも若干ビビってどもっているくせに動きに躊躇はなかった。目を合わせるように顔を見ると視線が泳ぐ。申し訳程度に手で股間を隠すな。いや出せという事ではなくて、もっとあるだろうよ、タオルとか。だいたいちょっとはみでてんだよな今度水着のロケがあるから剃っとけって言っただろうが。
     
     色々思うところはあるが、久し振りの二人きりならまあ。俺も男だからな、分かるよ。多分。そういうことなら受け入れて流されてやってもいいが、もう少しこのアホらしい姿を見てもいいだろうと無言になってみる。
    「……」
    「これは~そのぉ、セツヤク、デスネ」
    「ふ、何でカタコトだよ」
    「なはは、いやぁなんか、ねえ?」
     笑って誤魔化そうとするニキはへらりと口を開けながら手桶をとり適当に肩から湯をかけさーっと股間を洗うとそのまま浴槽に入ろうとしてくる。既に181㎝の男が入る広くないそこは定員オーバーを告げて湯を溢すが、この男はそんなことお構いなしに俺の背中側へ脚を入れようとしてきた。
     
    Ⅰ.夏至:2020/10/22  
    Ⅱ.大暑:2020/7/21
    ?.?:2020/6/19
    Ⅲ.十月三十一日:2020/11/2
    Ⅳ.小雪:2021/2/6
    Ⅴ.小暑:2021/6
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