結婚しよっか。『続きまして、本日の特集です。先日音楽特区で行われたライブフェスでの…』
ニュースキャスターが明るい声色で台本を読み上げる。コメンテーターの毒にも薬にもならない相槌が、右から左に耳をすり抜けていった。ガチャガチャと切り替わる画面が、見慣れた街並みに切り替わる。あまりのカラフルさに窓の外へ目をやれば、街路樹が夏の日差しを受けて青さを増していた。段々色濃くなっていく夏の気配を感じながら、燐音はおおきな欠伸を一つ零す。時刻は午後3時。久々のオフは、平凡な一日で終わりそうだ。
汗をかいたグラスを握りながら、ちびちびと麦茶を口に運ぶ。暑さにやられて鈍った胃がグルグルと不満げに鳴いた。パチンコも新台は出ていない。競馬もボートレースも、今日は気分じゃない。競輪や麻雀をするにも億劫だ。一足早い夏バテの予感に深くため息をついたところで、暑さがマシになる訳ではない。だが、そうでもしないとやっていられないのも事実だった。
机の上に体を投げ出して、窓の外を眺める。遠くの方には、真っ白な入道雲が山のようにそびえたっていた。雲の流れ方から考えて、あと一時間もしないうちにここも夕立に見舞われるだろう。ぼんやりと思考を巡らせながら、温くなりつつある机に頬を擦りつける。分かってはいても、体は重い。
「ニキ~。もうちょっとで夕立がくるから、洗濯物取り込んだ方がいいっしょ。」
「え~!僕いま手が離せないから、燐音くんが先に取り込んどいてほしいっす!」
「下僕の癖にご主人様に命令するとはいい度胸だなぁ」
「はいはい、僕もこれ終わったらすぐ向かうから!」
キッチンに立つニキが、振り向かずに答えを返す。少しして聞こえてきた揚げ物の音に、仕方ないと再び大きなため息をついて体を起こした。ここでごねてもいいが、揚げ物の様子を見張っていろと任される方が厄介だ。重たい体を持ち上げベランダへ出れば、湿気を含んだ風が頬を撫でる。雨の足跡が、着々とこちらへ近づいていた。
窓ガラスに反射するテレビ番組を横目に、燐音はふんわりと乾いたバスタオルをピンチから外す。少しくたびれたタオルは、燐音がここに来た時から使われていたものだ。あの頃はこのタオルにすっぽりと収まっていたニキは、今やこのタオルじゃ下半身しか隠れない。懐かしい記憶に、ひっそりと口角を上げた。
キチンと角を合わせて畳めば、柔軟剤に混ざって、なんとも言えない香りが鼻を掠める。ニキ曰く、おひさまの匂いというらしい。その匂いの正体が、生地を構成するセルロースなどを僅かに分解することで生じるものだと、本当は知っている。けれど、おひさまの匂いだと解釈した方が幸せな気がして、燐音は特に訂正せずにいた。
(あったけえなあ…)
くるりと巻いたタオルに顔を埋める。ふわふわとした柔らかさに、大きく息を吸い込んだ。柔軟剤と、おひさま。その奥に混ざるニキの家の匂いに、思わず口元が綻ぶ。きっと自分の持っている服も、同じ匂いがするのだろう。少し気恥ずかしいが、悪くない。
タオルに隠れて笑いを殺せば、追いついてきたニキが不思議そうに燐音を見ていた。どうやら揚げ物の処理が終わったらしい。「何してまんねん!」なんて芸人のツッコミが妙に現実とリンクして、耐え切れずに吹き出してしまった。未だに状況が飲み込めていないニキにタオルを押し付けて、再び洗濯物を取り込む作業に戻る。背後から聞こえてくる文句が加わったBGMはやかましいが、気分は上々だ。
「ちょっと燐音くん!何するんすか!」
「ん~?遅かったニキきゅんに罰ゲームっしょ。」
「あんたの夕飯でもあるんだから!」
ぎゃいぎゃいと騒ぐニキをからかいながら、物干しハンガーからシャツを外していく。ぶつくさと何かを言いつつも、ニキも大人しく角ハンガーから洗濯物を外し始めた。それを横目に、燐音もニキのバイト用の襟付きシャツを整えていく。裾に飛んだカレーのシミも、綺麗に落ちていた。他の者に聞きまわりながら処置を施した甲斐もあるものだ。
達成感に浮かれながら、残りも取り込んでいく。十連のハンガーは、二人分の洗濯物でいっぱい。今かかっている服だって半分はニキの仕事着だ。エプロンに、シャツに、ユニフォームTシャツ。その中に混ざる自分の服も、今ではすっかり見慣れた光景である。
(最初はもうちょっと小さいヤツだったのにな。)
ニキと出会った頃は、物干しハンガーも角ハンガーも小さいものだった。中に混ざっている燐音の服も一着か二着で、学生服の中に交じる私服が酷く浮いて見えたことは今でも覚えている。だからこそ、ニキが「一回り大きいやつ買って来たっす!」と真新しいハンガー類を買って来た時、心底嬉しかったのだ。
この部屋にも、ニキの中にも、少しずつ燐音が増えていく。それを許された気がして、くすぐったかったのが懐かしい。零れる鼻歌もそのままに、昔より大きなサイズのバイト着を取り込む。早くもたたみ終わったニキが、洗濯物を仕舞いに行くのが目の端で見えた。
「ニキ~、ちゃんと端っこ揃えて畳んだかぁ?」
「んい?まあボチボチっすよ。」
「どれどれ?燐音くんがチェックしてやるからちょっと見せろよ♪」
「ええ~、仕方ないっすねぇ…」
渋々といった形で差し出されたタオル類は、隅がずれている。畳んだ際の大きさだってまちまちで、とてもじゃないが綺麗ではない。何度か口を出して教えてはいるが、一向に治らないニキの癖だ。この歪な畳み方もニキらしい。それでも最初の頃よりはずっとマシになったのだから、上出来だろう。
「最初にお手本渡しただろうが…。」
「ええ⁉ あれお手本だったんすか⁉」
「当たり前っしょ。まあ、今回はギリ合格点だなァ。関心関心…♪次は満点目指せよ?」
「も~‼ 燐音くんが几帳面なんすよ!」
ぎゃいぎゃい言いながらタオルを仕舞いに行ったニキを笑いながら、燐音も残った洗濯物を手早く取り込む。最後の一枚をたたみ終えれば、入道雲はすぐそこまで迫っていた。あんなにも明るかった空が、すっかり暗くなっている。万が一に備えて物干し竿を外せば、湿った風が頬を撫でた。