シンドバッド少年の憂鬱 中編「お前ら、喧嘩でもしたのか?」
「ん?」
港の倉庫に顔を出したヒナホホに尋ねられて、思わず聞き返した。巻物から視線を上げると、ヒナホホの巨体の向こう、ぶあつい窓の外で雪がちらついているのが見える。冷えるはずだ。もう越冬用の燃料に事欠くようなことはないのだけれど、それでも冬は心をざわつかせる。冬を越せなかった顔見知りが冷たくなっているところを、生まれ育ったちいさな漁村で幾度か見てきた。
かじかむ指先で書類の巻きを戻しながらヒナホホの言葉を反芻する。お前ら喧嘩したのか。お前らと言うからには俺と、それに相手もいるのだろう。喧嘩なんか心当たりもない。考えてみると、そもそも自分は喧嘩というものをしたことがない気がする。倉庫番と軽く挨拶を交わし、労いの言葉を掛け、鍵を預けた。ここから商館へは徒歩で三十分ほどだ。
倉庫の外に出てから、先を歩くヒナホホへ向かって言った。
「お前らって?」
「ジャーファルだよ。最近お前がおかしいって」
「あ。ああー……」
前言撤回だ。心当たりしかない。曖昧な頷きと共に漏れた力ない息が雪の舞う空気中で白く濁り、海風に乗って流れていく。
大丈夫じゃないかも知れない。そう思って以来、それまで以上にジャーファルと顔を合わせないようにしていた。具体的には、ふたりきりにならないようにしている。食堂で。ホールで。廊下で。倉庫で。自室で。ジャーファルと顔を合わせる機会は一日に何度もあって、その度に用を思い出したフリをしたり、今でなくとも構わない仕事を言いつけたりして、接触を避けている。不自然でない程度を装っていたつもりだったけれど、無駄な努力だったようだ。でも、別に喧嘩をしてる訳じゃない。こっちが一方的に気まずくなっているだけで、ジャーファルにはなんの落ち度もないのだ。
逞しい背中を丸めて俺の顔を覗き込んだヒナホホが、人の良さそうな顔で言った。
「あいつスゲー気にしてたぞ。何か、お前の気に触ることでもしたんじゃないかって」
「ないない」
俺は笑った。気に触るなんて、馬鹿馬鹿しい。ジャーファルの何かが気に触るのだとしたら、出会った時に既に触っている。あんな最悪な出会い方をしたのに、今更ジャーファルの何が気に触るって言うんだ。あいつ、そんなふうに思ってたのか。遠ざけているのは俺なのに、原因を自分のほうに探したりして、馬鹿だな。
「別に、何もないよ。この所ちょっと忙しかったから、以前ほど話してないだけだ」
「ふうん」
話を聞いたヒナホホは自分の顎の辺りを指先でスリスリと撫で、鈍い色の空を見上げて言った。
「なあシンドバッドよ」
「うん?」
少しのタメを作ったヒナホホが、急に背中を丸めてズイッと顔を覗き込んでくる。イムチャックの戦士がそうするとなかなかの迫力があった。
「あいつにはお前しかいないからさ」
「ああ」
「なんもないならそう言っといてやれ」
「……そうだな。うん、分かった」
時間ができたら。そういう機会があったら。近いうちに。続く言葉が声になることはなかったけれど、なんとなく、状況を先送りにする言葉ばかりが浮かんだ。あの時、大丈夫じゃないかも知れないと感じたこと。大丈夫じゃなかったらどうしようと思ったこと。居心地の悪いドキドキが頭に残っていて、とてもじゃないがすぐに行動を起こす気になんかならない。まあでもそのうち。落ち着いたら。
ジャーファルだって、いつまでも俺がこんなんじゃ居心地が悪いだろうし。
※
「なあジャーファル。お前どんだけ飲んだんだ」
「んー……」
背負ったジャーファルが背中の上でぐずった。それと同時に、一階のホールから聴き慣れた従業員たちの笑い声がドッと上がる。盛り上がるホールからは煌々と灯りが漏れていて、楽しい酒盛りは夜遅くまで続くことを予感させた。宴会場を後にした俺はジャーファルを背負い、寝室までの階段を一段一段登って行く。
「子どもはジュースにしとけよ。酒の味なんか分かんないだろ」
苦言に反応したジャーファルが耳元でわっと唸った。
「俺はあ、子供じゃ、ねえっ!」
「あー、もう。暴れるなって!」
酒臭い。背中でジタバタする元筆頭を背負い直し、また階段を上がる。なんでこいつを背負っているかと言うと、離れなくなったからだ。ヒナホホ達の悪ふざけに付き合ってゴブレットの中身を一気に煽ったジャーファルは、ぐでんぐでんに酔っ払った挙句、俺にしがみついて離れなくなってしまった。離れないというのは比喩表現でなく、文字通り、隙間もなくベッタリ、ガッチリ掴まれて身動きが取れないという意味だ。赤ら顔のヴィッテルは俺たちを見て猿の親子みたいですねと笑っていたが、まさしくその通りだと思う。
「子どもだよお前は。……はあ、子どもじゃなかったらな」
子どもじゃなかったら。自分で言っておきながら馬鹿らしいし、ちょっと怖い発想だった。こいつが子どもじゃなかったら、俺はどうするつもりなんだろう? あんまり考えたくない。
昼間ちらついていただけの雪は夜になってから本格的に降り始め、吹き抜けの階段はキンキンに冷え込んでいる。火のあるホールを出ると、酒を飲んでいても肌寒かった。早いところベッドに運んでやろう。階段を登り切り、ジャーファルの自室の前に立ったところで、背中の小猿がボソッと言った。
「……子どもじゃなかったらいいのかよ」
ドスの効いた声だった。これは筆頭だ。愉快になったり不機嫌になったり引っ付いて離れなくなったり。普段介抱される側だから知らなかったけれど、どうも酔っ払いというのは脈絡のない生き物みたいだ。ジャーファルは俺の後ろ髪に顔を埋めて、鼻先をグリグリ押し付けながら言う。
「俺が……私が、子どもだから、あんたの夢に、ぜんぜん足りないんですか」
夢。突然出てきた言葉にドキッとした。ドアノブを捻ろうとする手が止まる。ジャーファルは俺の首に回していた腕にぐっと力を込めた。離すまいとしている。鏢を扱い慣れたその腕は、たぶん同い年の子どもよりずっと逞しくて、でも未熟だ。親に縋り付いていてもおかしくないちいさな手が、しがみついてくる。俺は黙っていた。鼻を啜ったジャーファルが続ける。
「国を作るとか、戦争をなくすとか。私が子どもだから、シンの夢に足りなくて……、それで、遠巻きにされてるんですか」
あ、こいつ、真剣だ。真剣なんだ。そう思った。アルコールの浮つきなんかじゃ隠しきれない、身を切られるような寂しさが声に滲んでいる。気が付かないなんて無理なくらいに。
ジャーファルは、俺がなんとなく避けているあいだも、たぶん、真剣に悩んでた。居心地が良いとか悪いとか、気まずいとか気まずくないとか。そんなのからはもっとずっと遠く離れた、どうしようもない事を想像して。
昼間、ヒナホホに言われた言葉を思い出す。ジャーファルにはお前しかいないから。あれはきっと大袈裟でもなんでもなくて。こいつにはほんとうに、俺しかいない。俺しかいないから、ある日を境につれなくされて、たぶん、ずっと悩んでた。
「…………。」
背中にしがみついてくるジャーファルに何も答えず、ドアノブに手をかけて回した。カチャンと音がして開いた扉の隙間の向こうに、整頓された寝室が広がっている。冷ややかで真っ暗な夜の帳のなか、僅かばかりの家具と、白いリネンを被せたベッドがあった。見慣れた部屋だ。そりゃそうだ。
「遠巻きになんかしてないさ」
だって、毎晩のように、ここでお前の夢を見るんだ。
ジャーファルを運んだ先は、俺の寝室だった。
後編に続く