ジャーファル少年の憂鬱 前編 二日ほど寝込んだあいだに、雪はすっかり溶けていた。寒々しくきれいな冬の朝は、呼吸をするだけで病み上がりの肺を洗うようだ。分厚い窓ガラスの結露を手のひらで拭うと、なめらかな藍色に沈んだ寒々しい街並みを、昇りくる朝日がまばゆい白に塗り替えてゆくのが見えた。屋根の上を走る朝焼けが議事堂の尖塔を照らし、そこから落ちた影がまっすぐに商館へ伸びて来ている。次いで商館沿いの大通りを見下ろすと、ボロを着た新聞配達の子どもが尖塔の影をくぐり息を切らせて駆けていくのが視界に入る。遠目から見てもあっちのほうが上背があるけど、たぶん同い年くらい。この時間、あの子はいつも山盛りの新聞を両脇に抱えて南へ走ってゆく。普段通りの光景。私が寝込んでいた間も、街の時間は日々同じように流れていたに違いない。
二日間の休息を終えて、今日からわたしも「いつも通り」に復帰する。身だしなみを整えて一階の厨房へ顔を出すと、顔馴染みの面々が朝の静けさなんてものは無縁とばかりに忙しく働いていた。鶏舎から取ってきたばかりの卵が積まれた籠の向こう側で、火にかかった寸胴鍋がもうもうと湯気を上げている。胃袋を刺激するいいにおいが鼻をくすぐった。そう言えば、寝込んでいたあいだ、ものをあまり食べていない。
「あらあら、風邪はもういいのかねえ」
おおきなお尻を丸椅子に預け、火の前で芋の皮剥きをしていた初老の女性が、こっちに気付くなりのんびりした声で言った。彼女は「よっこいしょ」と言ってずんぐりむっくりした身体を起こし、エプロンで濡れた両手を拭うと、火に当てていたパンを二切ればかり取り出してくれる。長らく連れ添った夫と死別したばかりというこの女性は、商会のごく近所にひとりきりで住んでいて、早朝から昼過ぎまで煮炊きの番をしてくれる頼もしい存在だ。
彼女はパンと、温かいお茶を注いだカップをトレイに支度しながら言った。
「おはようジャーファルちゃん」
「おはようございます」
商館で働く女性たちの一部は私のことをジャーファルちゃんと呼ぶ。最初はちょっと、いやかなりムッとしたのだけれど、彼女らに一切の悪気がないことに気付いてからは気にしないように心掛けている。「孫と同じくらいだわ」「こんなにちいさいのに偉いわね」「お菓子を焼いたから一緒にお茶にしましょう」そんなことを言ってくる相手にいちいちカッカしてもしょうがないことを、それなりに早く学んだ。彼女たちの前では、私はどうあってもかわいいジャーファルちゃんなのだ。
女性は素焼きの壺の蓋をしわくちゃの手で開くと木匙を挿し入れ、掬い上げたはちみつを乾いたパンの上に垂らしてくれた。金色をしたとろとろの液体がパンの表面に染み込んでいく。空きっ腹の胃のあたりがキュンと傷んだ。
「熱は下がった?」
「はい。お陰さまですっかり元気です」
「そりゃあよかった。あなたの顔が見えないねえって、厨房のみんなもとびきり心配していたのよ」
目尻に皺を寄せて微笑んだ彼女は、快気祝いだと言って寸胴鍋の底に沈む塩漬け肉をみっつもよそってくれた。そんなに食べられません、はこの場合通用しないことも学習済みだ。ちいさなジャーファルちゃんという生き物はとにかくたくさん食べることを求められている。拒否の代わりに、頭を下げてお礼を言う。身の回りのお世話をしてくれるひとには敬意を払うこと。ルルムに教わったことだった。
「みんな大袈裟です。ただの風邪ですから」
「そう? じゃあ、足りなかったらお代わりもあるからね」
「はい。いただきます」
会話を切り上げ朝食の乗ったトレイを食卓に運ぶ。早朝なだけあって食事を摂る者はまばらだ。海沿いにある倉庫番の夜勤を終えた者や、早番の店子たちが何人か。商会の中心メンバーもまだ顔を出していない。厨房の喧騒から離れた静かな食堂で、はちみつの染みたパンを頬張りながら新聞に目を通す。今年初めてだった積雪の話題と、首都にある中央銀行の頭取が交代した話、僻地の戦争のこと。ここでこうして過ごすのが、私の朝の日課だった。
いつも通り。
いつも通り。
——いつも通り、の、はずなのに。新聞の内容が、頭に入ってこない。
「おっ、ジャーファル!」
後ろから声を掛けられて、文字通りドキッと心臓が跳ねた。
反射的に背後を振り返る。私の次に早起きのヒナホホが、朝食の乗ったトレイを手に乗せてこちらへ向かって来るのが視界に入った。……なんだヒナホホか。ホッとした胸を撫で下ろし、広げていた新聞を折りたたんだ。跳ね上がった心臓がドキドキいってる。でも、努めて顔に出さない。ヒナホホは真正面に腰掛けると、大きな背中を丸めて顔を覗き込んで来た。
「熱はもう良いのか?」
「もちろん」
「顔色も良いな。良かった良かった。慣れん酒をあんなにガバガバ飲んだら、体がびっくりして熱も出るってもんだ。雪も降ってて寒かったしな」
「私、そんなに飲んだの」
「ここで一番でかいゴブレットがあんだろ。あれをまるごと一本」
ヒナホホは塩漬け肉を齧りながらニヤッと笑った。彼の言う通りならたしかに飲み過ぎだ。寝込んでいた間に頭と体が割れるように痛んだのは、いわゆる二日酔いだったからかも知れない。ヒナホホのお皿に自分の分の塩漬け肉をせっせと移動させる私へ向かって、首を傾げた彼が問い掛ける。
「覚えてないのか」
「うーん、宴会がはじまった時のことは覚えてるけど。気がついたらシ……、シンの、部屋で寝込んでて」
シンの名前を口にするのに、ほんのちょっと勇気が要った。すると、塩漬け肉を二切ればかり押し付けられたヒナホホが、肉を噛み切りながらとんでもない事を口にした。
「お前、あの日シンドバッドにくっ付いて離れなかったもんな」
なにそれ。
私の口がポカンと開いたのを見咎めたのか、ヒナホホが続けた。
「それも覚えてないのか? ベッタリだったぞ」
全然覚えてない。
「シンドバッドの奴、お前を寝かせてくるって出て行ったあと戻って来なかったし、ちゃんとふたりで話して仲直りできたんだろ?」
そのふたりの事、知らない。
ゾッとした。
シンが。そう、シンが看病してくれたのは覚えている。
伏せった私の顔をわざわざ見に来てくれて——と言うか、熱を出した一日目はシンの寝床を占領して寝込んでいたので、彼は自室へ帰って来ただけだったのだけど——額の濡れタオルを手ずから交換してくれたり、あたたかいパン粥を口に含ませてくれたりした。「仕事に穴を空けてすみません」ほとんどうわ言だったろう言葉に対する返事は「お前そんなこと気にしてんの。馬鹿だなあ」。勝気な顔を緩め、白い歯を見せて笑ってくれたシン。久しぶりに見たあのひとの笑顔。あれを仲直りと言うなら仲直りなのだろうし、いつも通りのシンを見て、安心したのも確かだった。遠巻きにされていると感じたのは勘違いだったのかも知れない。身体の辛さなんか吹き飛ぶくらい、シンの態度にホッとした。でも、今となってはそれよりも、お酒を飲んだ日の事を覚えていないことの方が重大だった。なにかとんでもないことをしていないだろうか。なぜなら私は、寝込んでいる間に————
その時、食堂にはつらつとした声が響いた。
「おはよう!」
「!」
声だけで、脳天に雷が落ちたみたいだった。来た。ヒナホホに声を掛けられた時とは比べ物にならない衝撃が心臓を襲う。全身の肌が粟立ち、ものすごい緊張が背筋を走る。身体が固まって、声のした方を振り返ることができない。でも、彼が来ただけで、閑散とした食堂と忙しない厨房の雰囲気がわあっと明るくなるのが分かる。暖炉に火が入ったように周囲が活気づき、華やかな気配に満たされていく。
目の前に座っていたヒナホホが、声の主へ向けて逞しい手を振り上げた。
「おはようシンドバッド!」
「おはようヒナホホ」
声の主が、シンが、軽やかな足音と共にこちらへやって来る。途中、食事中の従業員達に愛想を振りまきながら。だんだん近づいて来るシンの気配。私は太ももの上で両手を握りしめ、朝から何度も胸中で繰り返してきた言葉を、乾いた舌で呪文のように重ねた。
いつも通りだ。大丈夫。いつも通りにするんだ。いつも通り、いつも通り、いつも通り、いつも通りに……、
ガタン。隣にやって来たシンが椅子を引き、そこへ腰掛けるのが視界の隅に入った。彼は背中を丸めると卓上に肘をつき、まず最初に私の顔を下から覗き込んだ。切れ長の眼窩にはまったこがね色の双眸が、こっちを見てる。
「おはようジャーファル。もう寝てなくて良いのか?」
きれいな鷹の目。
「ジャーファル?」
きれいな声。
「……おい、大丈夫か?」
反応がないことに怪訝な顔をしたシンが、額へ向かって手のひらをすっと伸ばして来た。たぶん、熱を測ろうとしてくれている。いつも通りの私なら分かる。
——でも、今のわたしは、いつも通りじゃなかった。
バシンッ!
結構な炸裂音が、食堂中に響いた。他でもない自分が、額へ向かって伸ばされたシンの右手を強かに叩き落とした音だった。はっとした時にはもう遅い。部屋の中の時間が止まったみたいに辺りが静まり返っていて、みんながこっちを見ていた。びっくりしたシンの顔。びっくりしたヒナホホの顔。びっくりした従業員の視線。びっくりした私。そう、私自身も驚いていた。シンの手を叩き落とすなんて、いつも通りじゃない。
でも、わたしの、いつもどおりって、どんなのだっけ。
「あ、あの、……ご、ごめんなさいっっっっっ‼︎」
考えるより足が動くほうが早かった。震える口がシンへ向かってごめんなさいを叫んで、気がついたらそこから逃げ出していた。病み上がりの足は風のように早く、想像以上に軽やかに床を蹴った。誰かに、もしかしたらシンに名前を呼ばれた気がしたけれど、振り返れなかった。こんなのぜんぜんいつも通りじゃない。いつも通りに戻れない。いつも通りが分からない。
だって私。シンのことを汚してしまった。
——お酒をたくさん飲んだあの日。あんなにきれいなシンと、へんなことする夢を見て。シンのこと、汚してしまった。
後編へ続く