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    mu____zi

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    mu____zi

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    ※課、たざかみ

    海外出張した二人で収監された二人がぷりずんをぶれいくする話。

    ■■


    神永の額にじわりと汗の筋が浮かんだ。張り付いた前髪の不快さに眉を顰めながら床に腰を据えると、タイル張りの僅かな冷気が心地よい。今の神永にとって、砂漠のオアシスにも似た幸福である。こんな微々たる事にさえ感動を覚えるなんて。神永は床に伸ばした両足の先から室内をぐるりと見渡し──ここを「室内」と形容すべきかを思案する。
    小狭な四方に窓は無く、染みだらけの薄っぺらなマットレスの2段ベッドが部屋の大半を占め、片隅には剥き出しの簡易トイレ、無機質な太い鉄格子。神永は今、不自由を強いられた刑務所に収監されている。更に悪環境を嘆くのなら、遠巻きに聞こえる声が異国の言葉で吐き連ねられた罵声ばかりという事だろう。
    母国から遠く離れた土地で投獄を余儀なくされるなんて、これじゃあまるで過去の再現だ。と、そんな自虐を吐けるのは、神永が自身のひとつ前の過去を明確に覚えている故である。とも、神永の脳に蔓延る劣悪な、大戦時の環境と比べれば今は幾らかマシな方だろう。たとえば、一撃の砲弾で脆く崩れる煉瓦壁に生き埋めにされる心配はないだろうし、檻の中を我が物顔で這いずり回る害虫に怯えることもない──否、空調の無い房内は昼夜問わず熱気で蒸れ、換気不足による悪臭が常に鼻腔を刺激しているものの。安気なD課のオフィスと比べるのなら、やはり天国と地獄ほどの差があるだろう。
    首元の詰まるツナギ服は、体内に熱が篭って仕方がない。胸筋から腹部に溜まる汗が不快指数を底上げし、神永の体力を奪っていた。胸元を摘んでパタパタと扇いでせめて熱を逃しつつ、神永は簡易ベットに視線を投げた。硬いマットレスに横たわるのは、同僚の田崎であるが。しかし、男の切り揃えられた黒髪に派手なオレンジ色のツナギ姿はあまりに不釣り合いで、神永は未だ見慣れなかった。
    「……田崎、よく寝れるじゃん」
    「暑さの話か? それとも、このベッド?」
    瞼を薄らに開いて、田崎が答えた。得体の知れない黒ずみと、ネズミの噛み漁った穴ぼこが目立つベッドは清潔感など微塵もない。神永は汗の隙間から痒さを覚え、つい身体を捩ってしまった。
    「どっちもだって。あー……俺、痒くてやばい」
    「はは、そんなに繊細じゃないだろ」
    軽口の応酬をしながら、神永は腕の湿疹に爪を立てる。田崎の方が色白だし、荒れそうなのに。お前なんで平気なの。悪態を吐くと、ご愁傷様だと田崎が他人行儀を投げてきた。神永はむすっと眉を寄せる。
    「……全く。こんな出張なら、せめて一言言ってくれりゃ良かったのに」
    久しぶりの海外出張で、五つ星ホテルの高望みはしていないが。しかし、安宿のモーテル以下も想像していなかった。さて、つい一週間前の話である。神妙な顔をした佐久間から結城課長の直々だと渡されたファイルの中には、南米行きの旅券が2枚挟まっていた。D課の海外出張はさほど珍しいことではない。もちろん、数が多いとも言わないが。隣近所の万引き犯から、しかし強盗の高跳びに至るまで。無茶振りをこなせと言われたらやるしかないのだから、全くテイのよい便利屋だ。
    だからと言って、便利屋扱いでまさか投獄までされる羽目になるとは誰が想像できるだろう。同行者の田崎と二人、早々仕事を片付ければ宿泊先のホテルを満喫する時間があるか算段をしたし、折角ならナイトプールのバーカウンターに腰を据えて異国のアバンチュールを謳歌したい邪な気持ちもゼロではなかった。もとより、任務内容は現地に着けばすぐに分かる、と。その一文が添えられたファイルの不穏さをもっと警戒すべきだっただろう。これは、後の祭りだが。入国審査のガラス越し、神永のパスポートを訝しげに眺めた男の顔を見た時点、神永も察しがついていた。何か、ヤバい気がする。だが、身構える暇もないうちに過剰に武装した警官が神永を取り囲み、こめかみには銃口が突き刺さった。内心、──ああ、中佐め。(今は課長だが、)人使いの荒さは相変わらずかと。そんな悪態を吐いた時、神永の腕は既に背後から容赦なく捻り上げられていた。
    神永は碌な言い訳を並べる隙も与えられず、自国の領事館に取り次ぐことも出来ないままに正規の手順を全てパスして、身包みを剥がされた。あれよあれよと現地の刑務所内に放り込まれたのは、三日前。麻薬カルテルの幹部が数多く収監される刑務所はまるで要塞の如く物々しく、神永の唯一の安堵は田崎が同室だった事ぐらいだろう。とも、いの一番に顔を合わせた田崎のツナギ姿に腹を抱えて笑ったら、看守から膝裏を容赦なく蹴り上げられた事も記憶に新しい。
    「そういえばさあ。田崎って、こういうの経験済み?」
    「経験?」
    「こう、投獄される」
    言葉少なげに、神永は田崎に疑問を投げかけた。もちろん、田崎は神永と共に市民を守る善良な警察官だ。そんな田崎に獄中経験があるとは、神永だって思っていない。しかし、「以前」の田崎なら。どうだっただろうと浮かんだ疑問をそのまま口にした。すると田崎が重たげな頭を持ち上げ、しばらく思考をしてみせる。
    「そうだな。……ベッドがあるだけ、今の方が随分マシなんじゃないか」
    神永の言わんとすることを察したらしい田崎が目を細めてから首を振る。思い出させるな、とも言いたげな態度だった。お互いに過去を蒸し返すほどの未練は何もないが、手持ち無沙汰が過ぎると昔話が多くなる。
    「じゃ、参考までに聞くけど。その時の脱獄方法は?」
    「あぁ、……役には立たないぞ。同室の奴を売っただけだから」
    そもそも、それがマトだったと田崎が平然と言い切って薄らに微笑む。情報を聞き出したあとに早急な処分をしなければならなかったから一石二鳥で助かった、とも、つらつらと口にする田崎を見て、ああ、こういう男だったなと神永は肩を竦めてしまう。
    「……ちょい。此処出るのに俺の事、売ろうとか考えてないよな。田崎くん」
    「残念かな、今の神永にそんな付加価値はないだろ」
    前は随分あっただろうけど。と、付け加えた田崎から伸びてきた指の先が、神永の汗ばんだ鼻頭を撫でてきた。つまりこの男は過去、何度此方を売る算段をしたのだろうか。神永自身か、またはその情報だとしても。田崎ならばやりかねない確信が神永にはあった。ただ単にその機会が無かっただけで、──なら代わりに今、売ってやろうか。神永はふと思案した。東洋の秘宝だとか理由をつけて。だって、この男の顔面は随分ウケるに違いない。神永が切れ目がちな黒目を凝視していると、田崎の眉間に皺が寄った。
    「神永。お前今、不躾な事を考えているだろ」
    「いや? 別に、田崎のアジアンビューティーっぷりは価値があるだろうなぁって。それに俺と田崎なら、確実にお前の方が先に掘られるじゃん」
    「……決めつけるな。神永の童顔も、こっちでは随分人気だっただろう。昨日の昼間もベビーだの、冷やかされて」
    田崎のこれ見よがしなセリフにより、神永は昨日の日中の運動時間内、手錠を嵌めた屈強な男たちから投げ寄越された値踏みの視線を思い出した。殊更、神永は年齢以下の童顔に見られがちな事は否定しない。だが、褒められた神永が手放しで喜べるのは、相手が女性の場合だけである。こちらを卑下する声の合間、入れ墨まみれの男達に返した神永のウィンクは、サービス精神ではなくて後で覚えていろよという、恨み節の代わりだった。
    鼻頭を撫でる田崎の指が、いつの間にかゆるりと神永の目元に移動をしていく。垂れ目のお陰で愛嬌がある、とも。珍しく神永の顔面を褒める田崎の独言に、神永は思わず目を丸くした。
    「……ははん。田崎、珍しい。お前溜まってるだろ」
    「まあ、ご丁寧にベッドまであるからな。それなのに、目の前にいるのは神永だけだ」
    一般的に人が危機的状況に陥ると、格段に性欲が上がるという。本能に刷り込まれた生殖本能というのは、実に厄介な代物だった。田崎の指がついに神永の輪郭に到達し、耳裏に溜まる汗を擦るから妙に擽ったい。
    「このベッドでセックスするのはちょっと。俺、安っぽ過ぎるじゃん」
    「いや、流石に始めたら、すぐに看守が飛んでくるさ」
    格子の外に備え付けられた監視カメラを横目にしながら、正論らしい正論を田崎が口にしてみせたが。しかし神永は元より、ここで貞操を蹴散らすつもりも毛頭ない。異国の刑務所内で同僚と初体験を済ませたなど、到底人に聞かせられない事柄ばかりの過去の案件より酷過ぎる。
    「今はカメラや看守の正論じゃなくて。まず、俺とのセックス否定するとこな」
    「……、はぁ。溜まってるんだ」
    間を置いた田崎の低音を拾ってすぐ、神永は田崎からすっと距離を取った。互いにやることがないまま無気力が過ぎると、本格的に本能ばかりが先行する。いよいよ洒落にならない事態を察したのは、田崎のツナギの隙間から流れる汗の筋を見た途端、下腹部が重たげな熱を享受した事で、神永は慌てに首を大振りに回した。
    それから、神永は思考を切り替えるために収監される前、空港の時点で奪い取られたスマホ端末の存在を思い出す。搭乗後から随分長い間メッセージの返信が出来ていない事は神永の懸念の一つだった。知り合ったばかりの女性相手、やっと初デートの約束を取り付ける直前だったのだ。苦労を水の泡にするなんて神永は御免である。しかし残念ながら、女性とのメッセージを思い出せば余計に邪な気持ちが急かされて下腹部が煽られた。何かにつけて欲が顔を出す現状に、神永は濡れた前髪を掻き上げて眉を顰める。そろそろ、本格的に逃げる算段が必要だった。──田崎と事故に至るより先に。
    「……あのさ。帰りの飛行機って、何時だっけ」
    「ちょうど、今日の午後の便だな」
    ふむ、と神永は相槌を打つ。復路の旅券が用意されていたということは、つまりその時刻が神永たちのタイムリミットに違いないのだろう。過ぎてしまえば以降、救助が来ない可能性も大いにある。
    自力で出るしかない。神永が天井を仰ぎ見ていると突然、鼓膜をつん裂くような五月蝿いサイレンが廊下に鳴り響いた。ビービーとけたたましいその音の正体は、些か物騒な飯時の合図である。警棒を携えた看守が廊下を闊歩して、カン、カンと小気味よく鉄格子を叩いていく。騒ぎ立てる受刑者たちを罵倒する声と共、看守からの鋭利な視線に晒された神永は、仕方なく重たい腰を床を持ち上げた。

    ■■

    スプーンを動かすたび、神永の手首に嵌る手錠がガチャガチャと小うるさく音を立てた。隙間ない金属と薄皮が擦れて不愉快な痛みを伴うために、食べ辛くてかなわない。そもそも、針の筵の如く柄の悪い受刑者に囲まれた中で食事を楽しむ気になどなれないし、雑に盛り込まれたステン皿に乗る料理はどれをとっても食欲が一切唆られない。多分、きっと、今日のメインはトマトと豆類のスープだろう。しかし赤いだけの汁は煮詰まり過ぎて食材が原型を保っていない上、鼻腔を刺激する香りは香辛料か、はたまたこの暑さで傷んでいるのか。神永は無駄な思考を放棄して、代わりに硬く捏ね上げられたパンを口に運んだ。唾液の分泌が追いつかない口腔内では、一口分を咀嚼するだけでも随分と時間を有してしまう。
    小さくちぎり取った二口目を頬張って、隣で優雅にスープを啜る田崎の横顔を伺い見た。劣悪な食卓もさながらフレンチレストランにいるような、そんな涼しげな態度である。神永はテーブルに肘をついたまま、田崎の口元に運ばれるスプーンの行方を見送った。
    「田崎それ、美味い?」
    「……まあ、見た目ほどは悪くないと思うぞ」
    「うへぇ……マジ? イヤ、無理でしょ、色的にも。あーあ、田崎の悪食が羨ましい」
    「こんな時にグルメを気取っても、何の得にもならないからな」
    神永の嫌味に意を介せず、田崎が悠々とスープを飲み込んでいく。しかし、なら仕事帰りにふらりと立ち寄る駅前の大衆居酒屋で並ぶ文句は一体何なのか、と。神永は思わず眉間に皺を寄せてしまった。得体の知れないスープは平然と飲むくせにして、フランチャイズの居酒屋料理には味が濃いだの、出汁がきいていないだの。田崎の小言を思い出しているうち、神永は冷えた生ビールと冷奴がどうしようもなく恋しくなってしまった。
    八つ当たり気味に靴先で田崎の脛を突いてみせれば、スープをひと掬いしたスプーンが神永の口元に差し出される。神永の怪訝な表情に対して、初日の肉よりはマシだからと、田崎がスプーンを揺らして言葉を続けたが。
    初日のメニューは確か、炭の如くよく焼かれた肉の塊の上にマスタードの乗った、──最後の一切れを飲み込んでも尚、その肉の正体はついぞ分からないままだった。元よりこの世界には、知らない方が幸福なことも山ほどあるに違いない。
    だからそんな料理と比べてマシと言われても、マシの程度が低く過ぎる。神永が仕方なく渋々薄らに唇を開くと、田崎からはご丁寧にあーんと優しげな声を掛けられ、容赦なくスープが流し込まれた。妙に甘ったるい豆と酸味が舌の上で一気に広がり、統一感のない味わいがあとを引く。中途半端な野菜の筋が喉に引っ掛かる不快感を享受しながら無理矢理にごくりと飲み込んだものの。拒絶反応で胃が今にもひっくり返りそうだった。
    「おっえ、これ、スープ冒涜してんじゃん、……っ!」
    「はは。すごい顔になってるぞ、神永」
    大袈裟だと笑いながら、田崎の指腹が下唇を擦っていく。擽ったさに身動いだとき、折角の可愛い顔が台無しだ、と。そんな歯の浮いたセリフが神永の耳に届いた。それは隣に座る田崎の発したものではなく、向かいのテーブル奥に座る男の発言だった。神永が反射に顔を向けるとすぐ、ひゅうっと短い口笛まで投げ寄越される。肩まで伸びる重たげなドレッドヘアを揺らした男と目が合うと、卑下た笑みまで添えられた。それから二言、三言。侮蔑的で性的要素を大いに含んだスラングは、神永が辛うじて聞き取れる程度に訛っていたが。
    男の声に感化され、周囲の受刑者たちまでが神永を囃し立て始めた。聞くに堪えない誹謗と挑発的な口笛は、神永の存在を明確に嘲笑っている。彼らにとって、神永は生まれたての子犬より更に貧弱に見えるのだろう。このホール内の受刑者達は誰彼も見るから体格が良く、「人を見かけで判断するな」とは、とても言い難い形相ばかりが揃っている。
    その中にぽつんと、何の後ろ盾も持たない若い日本人が二人放り込まれているのだ。殊更、新参者は好奇な視線に晒されるのがセオリーだろう。下世話な笑いが響く中で神永は、壁際に棒立ちする看守へ視線を送ってみたものの。一貫して我関せずの態度を崩さない看守は、この場を節制するつもりもないらしい。このクソ野郎め。と、神永が内心に悪態を吐きつけていると、田崎が小脇を突いてきた。
    「神永。今は構ってる場合じゃないだろ。……それより、どうやって出る?」
    時間の猶予もそう長くないだろう。耳打ちした田崎の声に、神永は眉を顰める。皿のスープを気だるく掻き混ぜながら、そうだなぁと、つい緊張感のない間伸びした声が溢れてしまった。神永だって当然、玉砕覚悟の脱出劇に挑むつもりは毛頭ない。
    だが現状、神永は大凡を把握出来ていた。此処に収監された時点、監視ルームと監房を行き来する看守の歩数は計り終えているし、建物内のマップ──これは過去、英国で囚われた時の失態を繰り返すわけではない。神永が出張を言いつけられたファイルの中、空港に併設されたばかりだという商業施設のパンフレットが不自然に折り込まれていた。
    機内の暇潰しがてら目を通したそのフロアマップはまず間違いなく、この刑務所内の内部構造を模したものだっただろう。パンフレットを眺めていた時に無意識に感じた違和感は、たとえば、スタッフ在中の案内所が一階と二階の壁隅に二箇所──(商業施設なら普通、それはエスカレーター脇が通例で、わざわざ人目の少ない壁隅に配置をしないだろう)つまり、看守の監視兼オペレータールームである。一階の玄関ホール前は入り口専用と書かれており、脱出に不向きに違いない。バリケードに覆われた正面突破が些か難しい事は、もとより想像に容易いが。
    等間隔の店舗が監房で、フードコートから二重に続く防火シャッター(と、書かれているのはデジタルロック式の鉄格子だろう)と、奥に非常階段。バックヤードに続く裏口はスタッフオンリーのバツ印。では、屋上ならば、──最上階、緊急用のヘリポートがあったことを思い出した。屋上の解放は15時から17時まで。つまり、神永たちの明確なタイムリミットだろう。神永が指先で上を指すと、田崎が軽く頷く。
    「向かうまでの手順は?」
    「んー………そこはやっぱり、王道なやつでどうよ」
    たとえば、これから派手な乱闘騒ぎが起こったりしてさ。神永が弾んだ声で先のドレッドヘアの男に視線を流すと、田崎が大振りな態度で肩を竦めた。
    「それはまた。ありがちが過ぎるな」
    「何事も王道が一番じゃん。女の子をデートに誘う時と一緒で」
    「……ああ、なら。そうだ、このホールの看守は一人につき、四人の受刑者を監視しているらしい。俺を見てるのは上の奴、神永は……さっきから壁側で棒立ちしてる男だな」
    見事に無視をされていただろう、と余分な一言を添えた田崎が更に言葉を続けていく。
    「イレギュラーが起こって受刑者の目視が出来なくなった場合、ルーム奥の監視室から30秒もかからず応援が来る手筈だ。監視カメラは四隅と真ん中、ドア前の六つ。彼らは武器の使用を許可されてないが、催涙弾ぐらいは持っているだろ。防弾チョッキ、フルフェイス。着替えるなら、全くのおあつらえ向きじゃないか」
    「へえ。……で、お前が中々詳しい理由は?」
    「……んん? ああ、丁寧に教えてくれた奴がいたからな」
    言葉を濁した田崎の態度に対して、神永は悪戯に口角を吊り上げてしまう。くだらない応酬にかまけている時間はないが、しかしいつの間、看守相手に色仕掛けでも仕掛けたのかと。神永が弾み口調に冷やかすと、唇に人差し指をあてがった田崎が小首を傾げる。内密にとでも言いたげな仕草を見せつけられた神永は、人の悪い男だと甚だ実感させられた。色仕掛けとはテイの良い言葉に過ぎず、言い逃れの出来ない弱味につけ込んで脅したに違いないというのが、まず神永の見立てである。
    「でも俺と神永、同時には逃げられないぞ」
    今でさえ、十二分に悪目立ちしているのだ。二人同時に、それも手錠を嵌めたまま行動するとなると、あまりにリスクが大きすぎる。そもそも、神永にとって田崎と行動を共にする必要などどこにもない。どうせ片方が失敗した時点、二人仲良く生き埋めコースが待っているに違いないのだ。
    「田崎は正面からどーぞ。俺は、別口で行く」
    神永はツナギの襟元を指の先で摘んで、縫い目の間に差し込んだ短い鉄の棒をほんの一瞬、田崎の視界に晒してみせた。携帯用の小型レンチの先が折れてしまったそれは、針金代わりにもならないゴミにも近い小さな棒である。だが、無いよりはいくらか逃亡の足しになるだろう。田崎が薄らに微笑むと、伸びてきた指が襟元の曲がりを正してきた。
    「これ、可愛い子犬への貢物か」
    「お手してマテして、ご褒美ちょうだいってさ。俺も可愛くおねだり出来るわけよ」
    「はは、それは大嘘だな」
    安売りするのは嫌いだろう、とも。田崎にあっさりと嘘を見抜かれて、神永は表情筋を緩やかに持ち上げる。神永とて当然、媚びが必要になった場合なら出し惜しみなく幾らでも売り捌くつもりである。しかし、現状の神永は別段他者へ首を垂れるほど切迫しておらず、此方を卑下する男達の爪先へキスを落とす趣味もない。
    「バレたか。ま、俺が素直に色仕掛けとか。そんな芸のない事するわけないし」
    田崎と違ってと付け加えたのは悪戯心で、田崎が眉間を顰めた態度はついおかしくて笑ってしまった。この鉄の棒は、鍵型に加工する算段を自慢げに語った男からシャワー合間、神永がくすねたものである。盗んだ事を知られでもしたら、神永は命を奪われるより散々な目に合うだろう。だが、知られなければ何も問題ない。大凡、ひ弱な神永がそんな大胆な行動に出る事も、また、くすねるだけの手管がある事さえ、彼らは想像していない。
    さて、と。一拍を置いた神永は周囲を見渡した。これ以降は全てぶっつけ本番である。しかし、それは過去に幾度も切り抜けた潜伏と変わりない行為だ。人でなしと、そう呼ばれた記憶が脳裏の片隅に思い起こされて、確かに神永は今、この窮地から脱する高揚感に興奮している事を些か否定出来そうにもなかった。
    神永はドレッドヘアの男の行動を観察する。あの男は昨日の昼間にも、神永に対して舐めるような視線を向けてきた男と同一人物だ。不躾な値踏みに対して返したウィンクの、「今に覚えていろよ」は、未だもって健在である。返すのなら好都合で、神永は喉を鳴らした。
    「しかしアレを選ぶあたり、まったく神永らしいな。……まぁ、選ばれた神永も神永らしい、のか。お前はあの男が誰か、分かってるだろ?」
    「ええ。誰って、俺の事が好きで好きで堪りませんって、顔に書いてあるクソ野郎?」
    「……そうじゃない。あの男、地元の麻薬栽培を牛耳っているカルテルのNo.2だ。もしかして、知らなかったのか?」
    数ヶ月前の逮捕劇がニュースになっていただろうと、田崎が呆れた態度で肩を竦めた。ああ、どこかで見た気がすると思っていたのはつまり、テレビの画面越しだったのかと神永も合点がいった。まさか生で拝見する機会があるとは、想像していたわけがない。
    「じゃ、愛人にでもなったら大出世できるじゃん。いいな、夢がある」
    ガシャリと、鈍い音を立て手錠の鎖が短く擦れた。神永はトレイを片手で器用に持ち上げて、田崎の隣から腰を浮かせる。立ち上がる際、田崎が軽く手を振って見せた。
    トレイの返却用カートを素通りし、神永は向かいのテーブルまでゆっくり進む。イスに深く腰を据えてふんぞりかえったドレッドの男の前、3歩ほど距離を取ったところで足を止めた。男の年齢は神永より一回りほど年上だろうか。彫りの深い端正な鼻筋は悪くないかと値踏みして、しかしまぁ、趣味じゃないなと内心でひと蹴りした。神永の不躾な態度に対して、ドレッド男の脇に立つ筋肉質の若いスキンヘッドが神永に距離を詰めてきた。ツナギ服の上からも分かる筋骨隆々から察するに、男の本職はレスラーだろうか。剃り上げた頭部まで彫り込まれた刺青を一望して、神永は自分より頭一つ分高い位置にあるスキンヘッドの男の顔面に向かってトレイを、──スープとパンが乗ったまま、スプーンに至るまで全てを丸ごとを、躊躇のないフルスイングで投げ付けた。ガシャン!と、男の顔面と接触してすぐ、床に落ちたステンが激しい音を立てる。
    瞬間、聞き取れない罵声が男の口から吐き出された。高揚状態の早口では、一体何を捲し立てているのか。さっぱり理解出来ないと戯けた態度で神永が大袈裟に肩を窄めると、男の太い腕が神永の胸倉を容赦なく鷲掴みにする。足元が床から離れた瞬間、身体が宙を舞っていた。舞った、と自覚した時点、神永は既に背後のテーブルまで投げ飛ばされ、騒音と共に角にぶつかった背骨が酷い鈍痛を放っている。
    ホール内が、異様な興奮と熱気に包まれた。喧嘩の幕開けに対して、壁際の看守がインカムに向けて慌ての口早を告げていた。床に倒れ込んだ神永の目の前、距離を詰めたスキンヘッドの男が仁王立ちしていた。青筋を立てた額には、ぶちまけたスープが垂れたままである。ふっと笑ってから、神永は立ち上がるついでに男の顎下へ拳の第二関節がをめり込ませた。だが、残念ながらこの体格差故、男の体幹はびくりともブレていない。ああ、殴った指の方が痛いじゃないか。神永は鼻を鳴らしたあと、振り下げられた男の拳を両腕の上腕二頭筋で受け止めた。筋肉を貫通する衝撃に骨が軋む。神永は堪らず舌打ちを溢して、再度振り下げられた腕を屈んで避けた。避けながら、男の無防備な脇腹に肘鉄を食らわせる。肋骨の間から内臓までめりこませてやっと、男が唸り声を上げてよろめいた。
    はっと神永が短く吐息を切らす頃、歓声と罵声が混ざり合うホール内は既に他の受刑者達を巻き込んだ大乱闘に発展している。持て余したストレスによって誰彼の導火線は短くなっているし、そもそも頭のネジがいくつも飛んだ連中だ。マッチを擦った瞬間、燃え上がって止められない。殊更、マトになるのは監視の看守達だった。受刑者たちの抱えた鬱憤が薄っぺらな防弾チョッキ程度で堰き止められるわけがない。床に叩きつけられて伸びた看守の姿が、まず一人。
    だが、この場に便乗するにしてはまだ少し餌が足りなかった。神永は阿鼻叫喚に入り乱れるテーブルの間から田崎の方に視線を向けた。目があってすぐ、乱闘に傍観を決め込む男たちに田崎が何やら耳打ちをしてみせた。神永を顎で指した田崎の仕草はやや小芝居じみて、わざとらしい笑顔が癪に触る。人参をぶら下げて、男たちをけしかけたに違いない。その人参とはつまり、神永だろう。田崎が一体どんな甘い誘惑を投げたのか、神永もほんの一瞬気になってしまった。だが、今は気取られている暇もない。田崎の側から腰を上げた男たちが、嬉々と大股で神永に近づいてくるのだ。ああ、クソ。何でもする。何でもするから。俺に味方してくれ。神永は、大声を張り上げた。
    そんな神永の声がすぐに掻き消えるはど、ホール内はけたたましい警報装置が鳴り響いている。ビービー煩い警報と受刑者の罵声、ステンのトレイやカートがひっくり返る金切り音。神永の鼓膜も今に馬鹿になりそうだった。ホール上部の小窓さえも柵が降り、一切の光が遮断される。統制不能による所内のロックダウンが始まった。唯一の出入り口の格子が開き、防弾チョッキを着込んだ看守チームが警棒とシールドを片手に小走りで流れ込んでくる。
    神永が田崎に目配せしている間、ホールの中央に到達した看守の一人が床に筒状の──催涙弾を転がせた。筒から白い煙が湧き上がると同時、天井からも同様のガスが噴射される。神永は床に伸びている男の肩口に顔面を潜り込ませて、この際男の酷い汗臭さには目を瞑り、呼吸を止めた。
    神永が椅子の下に身体を屈めている間、立ちこめた煙の中で田崎の腕が看守の一人を締め上げていた。意識を飛ばした看守を盾代わりに抱え込み、カードキーで素早く鉄格子のロックを解除した田崎がドアを潜っていく。田崎は田崎で多分、上手くやれるだろう。やってくれなければ困るのだ。
    神永は視線をすぐにホール内へ戻した。中腰に身体を持ち上げた途端、視界の横から警棒の先が耳元を掠めた。風の切れるひゅんっと短い音が鼓膜に流し込まれ、体勢が僅かに揺さぶられる。神永がつま先を翻したとき、瞬間の隙をつかれて背後から伸びた警棒が首に回った。分厚い手袋を嵌めた看守が警棒の両側を強く握り締め、神永の首骨にめりこむほど強く圧迫する。それは今に気管が潰れるんじゃないかと神永が懸念する程の力で、呼吸が遮断された脳裏が酸欠に陥り、息苦しさが増していく。
    更に正面から二人、首や肩を物々しいプロテクターで覆った看守が走ってきて、ツナギ袖を乱暴に捲り上げられる。押さえていろ、と看守の一人が怒鳴り声を上げた。ひやりと冷たい感覚が神永の手首の内側に押し当てられる。脱力しかけの指先には力が入らず、神永は代わりに顔を背けた。だって、注射は嫌いだ。田崎と代われば良かったと、今更の後悔を覚えている矢先、薄皮を貫く針の感触に身体が竦む。くそったれ。吐き捨てたつもりの声は弱々しく窄まって、神永の意識がぷつりと途切れた。

    ■■

    周囲から人の気配が消えた事を察して、神永は重い瞼を持ち上げた。途端に視界に入った頭上の照明器具があまりに眩しく、顔を顰めながら反射的に腕を持ち上げる。しかし、太い拘束用ベルトでベッド柵に固定された神永の両腕は、シーツからほんの数センチを浮かせるのが精一杯だった。
    消毒液の匂いが鼻につく此処は刑務所内の医務室で、監房やホール内に比べれば清潔感もあり、一般的な病室とさして変わりはない。とはいえ、遠巻きの警報装置は未だ忙しく鳴り響いたままである。神永は眼球を一巡させ、室内全体を見渡した。勤務医の姿が見当たらないのは、非戦闘員がこの暴動で避難対象になっているためだろう。しかし刑務官たちは入れ替わりに出入りをするだろうし、今の神永は暴動を起こした主犯格だ。悠長に寝転がっているほど、時間に余裕は無さそうだった。
    神永は顔を横向きにずらして顎を引き、肩口を縮めて襟元に鼻頭を密着させた。首下の筋が今に攣りそうなほど半身を窄め、内側の縫い目を歯先で噛み解いていく。隠していた短い鉄の棒を唇の先で取り出して、ツナギの内側から袖口に向かってスライドさせた。固定具により指の付け根は身動きが取れないものの、辛うじて折り曲がる人差し指と中指の第二関節で器用に棒を捕まえた。落とさないように慎重に、且つ素早く拘束ベルトのつく棒の隙間に棒の先を食い込ませる。固定穴に隙間が出来たところで手首のスナップを利かせ、皮膚の摩擦を利用しながら力ずくで引っこ抜いた。擦れる痛みに思わず顔を顰めたが、片腕さえ固定具から抜けてしまえばあとは容易なものである。
    神永は自由になった両掌を動かして痺れを取ると、ベッドのパイプが軋まないように細心の注意を払いながら身体を起こした。ツナギを捲り上げてまず、二の腕をキツく縛り付けていたゴムチューブの圧迫を解放する。鎮静剤の効果はいくらか鈍足になっているが、だからといって血液中に回っていないわけではない。床に足を下ろした途端に爪先は船上の如く上下に揺さぶられ、視界は朧げに霞んでいた。動き回る気力が削がれてしまい、いっそベッドで寝ていたい気分ではあるが。神永は首を大きく左右に振って、正常の思考を手繰り寄せる。
    医務室の壁際には受刑者の医療記録や画像データを表示するモニターが並び、乱雑に置かれたステン皿の上には細身の注射器が乗っている。これは先程、神永の打たれた鎮静剤と同種のものだろう。皿の一本を拝借した神永は、ゆっくりと床の際まで腰を下ろしながら壁伝い、医務室から死角になる隣の制御室を覗き込んだ。
    正方形のせせこましい室内には、モニター前の椅子に座るオペレーターの監視役が一人、その後ろでは勤務医がタブレット端末を片手に忙しく手元を動かしている。様子を伺い見る限り、暴動は未だ鎮圧出来ていない様子だったが。しかし、もう間もなく機動隊が到達する旨をオペレーターがマイク越しに報告していた。いくら屈強な受刑者揃いとは言え、首尾の整った部隊が到着すれば事態は一気に収束へ向かうだろう。
    神永は一呼吸を飲み込んでタイミングを見計らうと、勤務医がタブレット端末に集中している隙をついて背後へ忍び込み、男の首を片腕で一気に躊躇なく絞め上げた。白衣から覗く耳下の皮膚に注射針を差し込んだが、しかし、即座異変に気がついた監視役がイスから腰を上げ、腰ホルダーの拳銃に指を伸ばす。神永は寸前のところ、男の膝皿を蹴り上げた。先に発砲されるか否かは運だったが、男の指はまだ安全装置のトリガーを外し切れておらず、未発砲の拳銃がテーブル下に滑り込んだ。慌てた様子で拳銃を追いかける男がこちらに背中を向けるため、神永は背中にのしかかると腕を首に回して、男が酸欠に陥るまで一気に圧を加えてやる。闇雲に四肢を捩り回す男の身体を背後から押し倒し、床に押し付けて動きを固定させた。暴れた拍子にテーブルを薙ぎ倒されでもしたら大惨事である。他の看守チームに気が付かれた時点、神永は生き埋めコースにリーチどころか役満だ。最短で鎮静化出来たことに安堵して、神永は脱力した二人の身体を床へ寝転がせる。
    額に薄らい浮かんだ汗を拭い取り、神永はまず勤務医のシャツと白衣を剥ぎ取った。男の服を追い剥ぎする悪趣味はもちろんないが、流石にツナギのままでは動き回れない。着替えのついで、神永はモニター横に置かれた黒縁のメガネも拝借する。これを変装というには些かお粗末だが、体格や顔面を少しでもカバー出来るのなら御の字だろう。乱れた横髪を大雑把に整えて、ファイルとタブレットを片手に持ち直した神永は、白衣のポケットに入っていた勤務医のカードキーでドアのロックを解除した。
    頭上のパトランプが回り続ける廊下は未だ殺伐として、殺気立った刑務官が往来を繰り返している。手元のファイルを眺める振りをしながら足早に非常階段へ向かう途中、鉄格子のロックドアのほんの手前で正面から横柄に歩いてくる刑務官の男と神永の肩口がぶつかった。白髪混じりを掻きむしり、眉間に深く皺を寄せた男は、ここの看守長である。常に不機嫌そうに顔を顰めて、官服の袖口から派手な金腕時計をチラつかせる悪趣味な男だった。
    神永は僅かに顔を上げて、すみませんと言葉短く謝罪を口にする。こちらを見もしなかった男は、しかし、神永の声を聞いてすぐに訝し気に顔を顰め、廊下の真ん中で足を止めた。背面から男の視線を感じる神永は、ドア脇に設置された解除盤へ急ぎにカードキーを当てがうが。ピッと、小気味良い解除音が鳴ると同時に、男が「おいっ」と、荒く声を掛けてきた。神永は聞こえない素振りで身を翻し、鉄格子のドアを後ろ手に閉めて背を向けた。だが男もまた、自身のカードキーを使ってすぐにロックを解除すると、カツカツと廊下に靴音を響かせながら神永に向かってくる。
    非常階段に続く踊り場を曲がる寸前、追いついた男が神永の手首を鷲掴みに引っ張り上げた。神永が息を詰める暇もないうち、真正面から顔面を見られ──その瞬間、男の背後からごんっと鈍い音がして、脱力した看守長は廊下の床に力なく倒れ込んだ。防弾チョッキを付けたフルフェイスの男が、看守長の頸を警棒で強打したためである。神永は目尻を下げ、肩口を覆う硬いプロテクターをポンと軽薄に叩く。
    「はは、サンキュ。田崎」
    「神永は少し、隙が多いんじゃないか」
    「言うなよ。此処に誘き寄せたのは、お前も分かってたくせに」
    黒縁の先に指を這わせ、神永はウィンクを投げる。防弾メットで覆われた田崎の顔は全く見えていないものの、廊下に出た時点、刑務官と打ち合わせをしていた部隊の一人に田崎が混ざっていることに神永は気がついていたし、看守長クラス以上のカードキーが非常階段手前のフェンス扉の内ロック解除に必要なことも既に盛り込み済みだった。神永は伸びた男の胸元からカードキーを拝借し、階段手前で赤ランプの点滅するパネルに接触させる。
    解除音と同時に重たいドアを開放して階段を駆け上がった先の屋上には、ヘリが今し方到着したばかりだった。重たげな銃器を抱える新鋭の機動隊がぞろぞろと数人降りてきて、彼らとすれ違う合間、神永は手元のタブレットへ監視カメラの映像を映し出す。前方の隊員に声を掛け、この映像が二階ホールであること、看守長のカードキーが彼らに剥奪されたことを早口に捲し立て、タブレット端末を彼に差し出した。部隊はインカム越しにやり取りを繰り返し、小狭い屋上の出入り口へ小走りに駆けていく。
    その背中を見送る最中も回り続けるヘリのプロペラが、辺りの砂埃を激しく舞い上げていた。乾燥した熱気が立ち込めて、神永の毛先まで砂塗れである。空から降り注ぐ久方ぶりの太陽光をありがたがる暇もなく、神永は大股でヘリに向かいながら白衣と眼鏡を放り投げた。隣の田崎もヘルメットを外して、防弾チョッキを脱ぎ捨てている。
    「神永、ほら早く。行くぞ」
    田崎の伸ばした腕を掴み取り、神永はドアが開いたままのヘリの後部座席へと乗り込んだ。シートの背もたれに背骨を預けると、疲れが一気に溢れ出す。動き回ったせいで随分と薬が回ってしまったのだろう。早く飛ばしてくれと催促するように運転席のシートを軽く叩いたとき、操縦桿を握ったサングラス姿の男が振り向いた。お疲れ様と一言、弾んだ声色は神永に聞き馴染みのある軽口だ。
    「なんだ、──迎えは甘利か」
    柔らかく目尻を落とした人好きのする笑顔を向けられて、ついに神永は脱力をする。操縦は得意分野だからねと甘利が笑って、安全装置の解除された機体が地上を離れた。窓の外、先ほどまで神永たちの立っていた屋上はもう随分と遠ざかっている。名残惜しさは微塵もなく、もう二度と御免だと神永は思わずぼやいてしまった。
    「……はあ。マジ、疲れた」
    「ああ。神永の前髪、砂だらけだな」
    疲労感を携えた神永が隣の田崎に頭部を預けると、砂と汗の混ざり合って乱れた前髪を田崎が指先でやんわりと梳いていく。安堵の表情を浮かべて微笑む田崎の所作は妙にキザったらしく、普段の神永ならまず間違いなく即答で小馬鹿にしていただろう。だが、これが所謂、吊り橋効果というやつだろうか。妙に身体の奥がむず痒くなって、見慣れている筈の田崎の表情に思わず見惚れてしまいそうだった。否、既に神永は心身共に十二分の満身創痍である。これは単に脳みそがバグを起こしたに違いなく、元より全身を巡る鎮静剤の効果も否定はできない。と、神永は自身の思考回路を冷静に分析してみたが。しかし、したところで結果が変わるわけでもなく、神永は促されるまま田崎の肩口に頬を押し当て擦り付ける。手錠から解放されたお互いの指先同士が隙間なく絡み合って、指の股が擽ったい。
    「今、田崎がちょっといい男に見えてるんだけど。これ、俺相当疲れてるじゃん」
    「そうか? 神永がようやく気がついたって、ただそれだけだろ」
    「うわぁ。自分が良い男ってとこ、否定なしか」
    悪戯な口調で言い返すと、田崎の指が遠慮なく神永の下唇を往来していく。分かっているだろうともいいたげな手慣れの手管で肉感を弄ばれ、最後には柔らかな田崎の唇まで降ってきた。せせこましい機内の中に似つかわしくないリップ音が鳴って、そのまま繰り返し啄まれると唇の神経が熱を帯びる。神永も軽い甘噛みを返して、ゆっくり身体を離した。このままでは多分止まらないだろうな、という危惧故だ。
    「あー……シャワー浴びたい。出来ればプールに入りたい。あと、そうだ。派手な花とカットフルーツが乗ったカクテルもあれば完璧」
    「それで、そのまま清潔なシーツにダイブなんて、絵に描いたようなセオリーだな」
    「映画なら最後、脱出あとのラブシーンは必須でしょ」
    「なら、その映画のヒロインは神永か」
    神永の片頬を手のひらで包み込んだ田崎が、至近距離にじっと瞳を見つめてきた。蕩けるような甘い笑顔は、それこそスクリーンの中でヒロインに向けるそれだろう。そもそも、こちらが主役だと神永が反論するつもりの口元は再び、田崎の唇でぴたりと蓋をされてしまった。薄ら開らく口の端から侵入した舌先が内頬を掻き回し、最後に舌の裏腹まで丁寧に吸い上げられる。
    脳内が痺れていく浮遊感に似た高揚は、脱獄中の緊迫よりも恍惚さと興奮を神永に与えてくれた。ああ、悪くないな。神永が瞼を押し下げて田崎との口付けに勤しんでいるうち、操縦桿を握る甘利からひゅっと冷やかしの口笛が寄越されるため、神永はキスの片手間に運転席のシートを片足で蹴り上げた。
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    mu____zi

    DONE課(特に付き合ってない)たざかみ、愛と地獄の新婚旅行編

    たざかみの日のプリズンなブレイクの続編です。
    ◾️◾️




    波間の揺れる一面のコバルトブルー。神永は海の真ん中、木製の小洒落た桟橋の上に立っている。頬を撫でる風に目を細めて、はて。──どうしてこうなった。と、隣で柔らかく微笑む田崎の顔面を見つめながら、答えのない疑問を脳裏に過らせた。


    さて、神永が水上飛行機から桟橋に降機したのは、ほんの1分ほど前の話である。桟橋の専用プラットホームに横付けされたその飛行機に乗り込んだのは、大凡1時間ほど前だっただろうか。因みに、小型水上飛行機へ乗り込むより前の、南国の国際空港に到着したのは3時間ほど前のことで、神永が日本で旅客機に乗り込んだのはそれより更に約15時間前だ。
    この土地に降り立つまでに既に半日以上が経過し、神永の凝り固まった背筋は慣れない疲労を訴えていた。しかし、神永の疲弊は肉体的よりも寧ろ精神的な部分にある。開放的な南国の土地に降り立った人間にしては些か場違いだろう。とはいえ、神永はそんな疲弊の断片を顔色に滲ませることなく、口角を緩めてながら極上の幸福に溢れたバスタブに浸かった顔をする。順風満帆で、今まさに世界が終わりを告げても尚、隣にこの男がいてくれるのなら後悔などない、という顔である。
    24017

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    さて、神永が水上飛行機から桟橋に降機したのは、ほんの1分ほど前の話である。桟橋の専用プラットホームに横付けされたその飛行機に乗り込んだのは、大凡1時間ほど前だっただろうか。因みに、小型水上飛行機へ乗り込むより前の、南国の国際空港に到着したのは3時間ほど前のことで、神永が日本で旅客機に乗り込んだのはそれより更に約15時間前だ。
    この土地に降り立つまでに既に半日以上が経過し、神永の凝り固まった背筋は慣れない疲労を訴えていた。しかし、神永の疲弊は肉体的よりも寧ろ精神的な部分にある。開放的な南国の土地に降り立った人間にしては些か場違いだろう。とはいえ、神永はそんな疲弊の断片を顔色に滲ませることなく、口角を緩めてながら極上の幸福に溢れたバスタブに浸かった顔をする。順風満帆で、今まさに世界が終わりを告げても尚、隣にこの男がいてくれるのなら後悔などない、という顔である。
    24017