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    課(特に付き合ってない)たざかみ、愛と地獄の新婚旅行編

    たざかみの日のプリズンなブレイクの続編です。

    #たざかみ
    upland

    ◾️◾️




    波間の揺れる一面のコバルトブルー。神永は海の真ん中、木製の小洒落た桟橋の上に立っている。頬を撫でる風に目を細めて、はて。──どうしてこうなった。と、隣で柔らかく微笑む田崎の顔面を見つめながら、答えのない疑問を脳裏に過らせた。


    さて、神永が水上飛行機から桟橋に降機したのは、ほんの1分ほど前の話である。桟橋の専用プラットホームに横付けされたその飛行機に乗り込んだのは、大凡1時間ほど前だっただろうか。因みに、小型水上飛行機へ乗り込むより前の、南国の国際空港に到着したのは3時間ほど前のことで、神永が日本で旅客機に乗り込んだのはそれより更に約15時間前だ。
    この土地に降り立つまでに既に半日以上が経過し、神永の凝り固まった背筋は慣れない疲労を訴えていた。しかし、神永の疲弊は肉体的よりも寧ろ精神的な部分にある。開放的な南国の土地に降り立った人間にしては些か場違いだろう。とはいえ、神永はそんな疲弊の断片を顔色に滲ませることなく、口角を緩めてながら極上の幸福に溢れたバスタブに浸かった顔をする。順風満帆で、今まさに世界が終わりを告げても尚、隣にこの男がいてくれるのなら後悔などない、という顔である。
    「田崎、早く」
    神永は振り向き様、つい先程までセスナの操縦桿を握っていた陽気なラテン系の中年男性と言葉を交す田崎の隣に並ぶ。片時も離れたくない。そんな態度を滲ませると、太陽に肌を焼いた操縦士が田崎の肩を軽快に叩いた。貴方達は幸せ者だ。こんなに素敵な場所で新婚を過ごせるのだから。今に口笛を鳴らしそうな、弾んだ声色で彼が言う。
    ああ、そうだ。彼の言葉に間違いは一つもない。田崎と2人きりの新婚旅行。バカンス。愛の旅。田崎がつられて陽気に笑った。
    「待たせたかな。ハニー」
    「その呼び方、まだ慣れない」
    擽ったいと身じろぐ神永の腰に田崎が回った。照れなくていいんだよ、なんて。耳元に直接蜂蜜を注ぎ込まれる。至近距離に見つめ合うと目の前、さすが熱々が過ぎると操縦士の男性も肩を竦めたものの。しかし神永は冗談めかした態度で唇を開き、彼に追い打ちをかけてやる。
    「それに俺たち、まだ新婚じゃないし」
    「ああ、でも。この旅行中、プロポーズするつもりだった」
    「ふは。それ、先に言ったらサプライズにならないじゃん」
    まぁでも知ってる。だって、こんなに愛されているのだから。神永は緩んだ田崎の唇を突いたあと、薄ら下唇に田崎の唇にキスを送った。
    そんなうち、いつの間にかプラットホームの水上飛行機が旅立っていく。付き合っていられないとでも言いたげな早急さ。跳ねた水面から水滴が田崎のシャツへ僅かに飛んだ。コバルトブルーに負けじ劣らず、爽やかな空色カラーのポロシャツと純白のチノパンを合わせた田崎の姿はまさに有閑セレブそのものだ。気取ったストローハットも憎らしく、目元のサングラスも余程。これは精悍な黒髪と真っ直ぐに伸びた背筋のお陰で、田崎でなければそれこそ金持ちの道楽息子にしか見えないだろう。
    とも、対する神永とてラフな白のTシャツ姿ではあるものの。しかしその肌触りは極上だ。このシャツ一枚、神永の給料1ヶ月分では足りないかも知れない。と、南国の地に似合わない下世話な予測を立てながら神永は桟橋を歩き始めた。とびきりの幸福感を背負い込んだまま。
    鮮やかな太陽光が燦々と空から降り注ぎ、コバルトブルーの爽やかな情景が神永たちを歓迎している。真っ直ぐに伸びたその先、海の真ん中にぽっかりと浮かぶ水上ヴィラの前、ウッドテラスにはスタッフが行儀良くずらりと並んで客人を待ち構えていた。
    神永は田崎の肩にしなだれかかりながら、横並びに歩幅を合わせた。田崎の片腕が未だ神永の腰を支えているが、同身長の並歩は些か滑稽に見えるだろう。
    桟橋の木枠は所々がガラス張りに加工を施され、神永は足元より下の、海の表層でしなやかに揺れる魚の魚影を確認することが出来た。粋な仕掛けは神秘的な様相を醸し出しているものの、神永にはあまり好ましく思えない。開放的なリゾート地のすぐそば、底知れない闇が差し迫っている事を知らしめているようで。非日常に纏わりつく不安感が糸を引く。と、神永はそんな思考を振り払うため小さく肩を震わせ、身体を寄せたまま田崎に耳打ちする。
    「なあ田崎くん。このホテルってさ、一泊幾ら?」
    「ああ。大体、……五万ドルだ」
    「……うげぇ」
    思わず声に出た。すると、田崎が目尻を吊り気味に神永を見る。神永の反応が意外だったのだろう。悪戯に小首まで傾げて。
    「神永の、その反応の意図は?」
    「俺と田崎のセックスに五万ドルかって思ったら、つい」
    「……言葉が悪いな、神永」
    田崎が吐息と共に神永を窘めたが。神永は自分がおかしなことを言ったつもりはなく、寧ろ口笛を鳴らした。すると降参といいたげに田崎が首を振って、それもそうだと同意を口にされる。これには神永の方が身動いだ。自分から発した皮肉のくせ、いざ肯定されると居た堪れない。これぞ墓穴。神永は田崎の肩にもたれ掛かり、かわり指股同士を擦り合わせて手を繋いだ。
    絡み合わせた指先を撫で合わせたあと、神永はヴィラの前に並ぶ制服姿の若いコンシェルジュに手を振る。神永と田崎の熱烈な様子に当然一つのツッコミもくれない彼らは代わり、ウェルカムと軽快な声をあげ、人好きのする笑顔が返された。彼らが腕を持ち上げた先、オープンリビングから覗く白カーテンが揺れている。
    明るいブラウンカラーのウッドデッキ、ラタン調の長テーブルの上にはシャンパングラスや果物、それにナッツとチーズの乗る皿が所狭しと並べられていた。ああ、さすが五万ドル。現金換算を惜しまない自分の感覚は随分と庶民的で、ごく平均的な感性の一般人なのだと、神永は今更ながら実感する。
    神永はスタッフに誘われるまま、柔らかなラグを踏みつけてソファに腰を落とした。程よいクッションマットに身体が沈んだ途端、耳触りの良い音楽が部屋の中から流れてくる。グラスに唇を寄せながら新鮮なフルーツに目配せをすれば、意図を察した田崎がマスカットの端を摘み上げ、神永の口元に運んでみせた。唇で薄皮を噛み合げ、ついで田崎の指先を舌先でぺろりと舐め上げる。
    「ご馳走サマ、ダーリン」
    「この至れり尽くせり。気に入った?」
    「ああ、もちろん。極上の贅沢の中でセックスしてる気分」
    唇を持ち上げて微笑む田崎を見つめながら、奥歯でマスカットを咀嚼した。果肉が潰れ、あとを引く独特の甘ったるさが喉を通り過ぎていく。田崎に向けて微笑みを返し、神永は首元へ両腕を回した。強く抱きついて、果汁の残る唇を耳先に寄せる。
    「……刑務所とさ、どっちがマシだと思う?」
    テラスの周囲を甲斐甲斐しく動き回るスタッフたちに聞こえないよう声を顰め、田崎の鼓膜にのみ言葉を流し込む。南国に経つ飛行機に乗り込むよりさらにおおよそ、今より20時間ほど前の話。薄ら暗い上司の執務室で手渡された旅券は、神永達に明確なデジャブを与えた。
    だから神永達にとって、予想外にすんなりと入国審査を済ませたことは些か拍子抜けだった。少なくとも以前は入国前に物々しく取り囲まれ、警棒を振り下げられ、剰え刑務所送りにされたのだから。
    水上飛行機が今に爆発するんじゃないかとか、無人島に置き去りにされる可能性まで考慮したものの。どれも杞憂に終わった事にはほっとする。しかしながら、神永達の警戒心が抜け切らないのは仕方がない事だろう。こと、結城からの直属の任務に無茶振りは常なのだ。それに今回の任務内容とて、何も安易とは言い切れない。
    ──とびきりに浮かれ、あまりにも馬鹿馬鹿しいほど、二人きりの新婚旅行を満喫すること──刑務所の粗雑さの方がマシではないかと首を捻りたくなる、お粗末な任務内容だ。
    しかし、それにしたって神永の質問は不毛である。カビだらけのマットレスでネズミと同衾したことと、南国のリゾート地に用意された極上の贅沢を比べるなんて。だからこそ、神永は田崎に問いかけた。しなだれかかりながら頬を擦り付けると、田崎が苦虫を噛み潰したような顔を見せ、それから手元のシャンパンを一気に煽る。
    「きっと、今回の方がひどい」
    「その心は?」
    「俺たちのボスが優しかったことがない」
    いつの時代も。そう、シャンパングラスを回しながら付け加える田崎に対し、神永はついに噴き出した。これは田崎に全面同意だ。任務に送り出された時点、神永達は特大の爆弾を抱えている。あとはいつ爆発するのか。神永達はいつだって、起爆のタイミングを知らされない。
    神永は一呼吸を置き、広がる海原と水平線を見る。それから突然、大袈裟に身体を捩ってソファを軋ませた。
    「優しくないって言うなら、それは田崎もじゃん」
    「俺が?」
    「だって指輪。買ってくれなかった」
    神永は意図して声のボリュームをあげた。眉を寄せ、唇を尖らせて。いちゃつく内緒話のあとの痴話喧嘩。ありがちなシチュエーションを演出するための小細工だった。これぞ不毛だと内心に毒付きつつ、しかし神永は、半ば自分が状況を楽しんでいる事も否定するつもりはない。
    ソファの背もたれに片腕を引っ掛け、神永は世話係の若い男性の一人に挑発的な視線を向ける。まったく、どう思う? 本当はいつだって別れられるつもりなのか。それとも、自分にはその価値がないと思っているのか。
    ああ、さすが少しドラマ仕立てが過ぎたな、と。大袈裟な自身の演技に呆れながら、(当然だが)なにも嵌っていない左手薬指をスタッフに見せつける。
    そんな神永の態度に対し、スタッフの青年が苦笑いを落とした。どう返せば失礼がないだろうか。見え透いた彼の思考を笑い飛ばし、「旅行の後に買いに行くんだ」と、神永が適当なウソを並べるため口を開いたとき、田崎が神永の指を絡めとる。
    「神永」
    蕩けた低音で名前が呼ばれ、神永の身体が無自覚に強張った。なにかひどく、とてつもなく嫌な予感がする。
    「指輪、用意したに決まっているだろ?」
    「………は?」
    チノパンのポケットからベロア生地の小箱を取り出した田崎に対し、神永の方が間抜けな声を出してしまった。とはいえ、田崎の器用な指先がスマートに開いて見せた箱の中、神永の予想した「其れ」はなかった。だって代わり、田崎の絡み取った神永の指の根本には既に「其れ」が嵌っている。
    シンプルな手品。意識のすり替え。神永が箱に集中した一瞬の隙をついて仕込まれた手品の仕掛け──田崎の得意分野且つ、嫌味な演出だ。そして、周りのスタッフ達から感嘆の声が湧き上がる。拍手と同時、今にフラワーシャワーでも降らされそうな浮かれようだ。
    神永は自分の指に嵌め込まれた細身のプラチナリングに視線を向ける。リングの縁取りが緩やかに湾曲したその端、嵌め込まれた鉱石が太陽光に輝いていた。
    「神永。俺がプロポーズをするって言ったこと、もう忘れたのか?」
    ひどいな。付け加えた田崎が薬指の第一関節にキスを降らせるから、神永は喉を引き攣らせる。聞いていないぞ、と。暗に含ませた恨めしげな視線を田崎へ送りつつ。
    「……よくこんな物に経費が出たじゃん」
    神永が小声を落としながら太陽に手のひらを翳した時、田崎が眉尻を下げる。
    「これは正真正銘、俺から神永に贈る指輪だ」
    田崎が神永の指の根本、リングの隙間をなぞりながら呟いた。薄皮膚が擦られてくすぐったい。けれど、神永はそんなむず痒さを享受している暇はなかった。
    何故か突然、腹の底が重たくなったのだ。贈る? 誰が誰に? 神永が田崎の言葉を反芻した隙、至近距離の田崎の黒目にほんの僅かな熱を携えたことに神永は気がついていた。捕食者のような、それでいて、海の底より深い愛情のような。言うならば、独占欲? 情欲?
    言葉にし難い、しかし明確に向けられた感情。神永はそんな田崎を見たことがなく、自分の心音が高まる事にも無頓着だった。違う。これは、ああきっと──慣れない南国の太陽光に侵されたせいだ。そうに違いないと肩を竦めつつ、唇を開く。
    「え、なんで? 田崎……」
    「ああ、いや、………神永。ウソだぞ」
    一拍置いてすぐ、田崎が神永の肩を叩いた。背負った空と同じような、爽やかな笑顔を浮かべて。
    「あっ、え? ん?」
    「まったく。……どうして俺が、神永に指輪を渡す必要があるんだ?」
    片腕で神永の背中を引き寄せ、田崎が耳打ちしてみせる。田崎の口角から漏れ出る笑い声が憎たらしさを増幅させた。まさか本気にしたのか、と。なら本当に買ってくるべきだった。これは結城の借り物だとも。指輪の縁を擦りながら囁く田崎の声色はいつもより弾み、饒舌を重ねていた。まるで小難しい手品に成功した時のような。だから神永は堪らず唇をひん曲げ、シャンパングラスを躊躇なくぐいっと傾けて中身を飲み干す。
    「……くそ」
    「まさか、神永が素直に騙されるなんて思ってなくて。指輪、欲しかったのか」
    「……そんなわけないじゃん。田崎のばーか」
    神永はソファの脇から田崎の小脇を容赦なく突いた。田崎の青臭い言葉にすんなり騙されたのは間違いなく、自分がこのリゾート地の開放感に飲まれたせいだ。だからこそ悔しい。「昔」ならありえなかったという言い訳を付け加え、緩やかに首を項垂れる。
    「……ハァ、今のナシ。マジで悔しい。なんでだろ。田崎の顔に、騙された」
    「はは、そんなにか?」
    怪訝に小首を傾げつつ、しかし優雅に足を組み替える田崎の勝ち誇った顔が目の前にあった。神永は奥歯を噛み締める。これは自分の初歩的なミスである。リゾート地の開放感に飲まれたに違いない。情熱的で欺瞞的。紙一重の哀愁と愛情。自慢と自負に溢れた有閑セレブとも、女性の前の王子様さながらとも違う。剰え、国の諜報員なら垣間見せることのない其れ。
    しかし、神永と田崎は今、幸福に浮かれ切ったカップルである。これぐらいの仕込みは当然だろう。田崎が笑いながら神永にキスを振り下ろす。ほんとうに、絵に描いたような幸福に浸るカップルさながらの様相で。
    「神永がお気に召してくれてよかった」
    「そりゃあ、もう。いやってほど」
    波間の音の合間にリップ音を重ね合わせる。神永の声も表情も、今に蕩けそうなほどに極上だ。しかし、内心は少し騒がしかった。
    もしかして、本当にもしかして。自分は──偽物と聞いた瞬間、落胆しただろうかという無意識の自問自答──……馬鹿らしい。それこそ、ありえない。自身の内情をひと蹴りした神永がテーブルのクラッカーに手を伸ばしたとき、スタッフの一人がテーブル前で膝をついた。
    表情筋を吊り上げた笑顔を浮かべ、スペシャルルームの準備ができた旨を告げる。彼が目配せした先はヴィラ内、リビングから続く廊下の突き当たりだ。開放的で明るい室内には場違いな重苦しい鉄板扉、ヴィラに設置された専用のエレベーター。
    神永は田崎に片手を絡めたままソファから腰を上げ、スタッフに付き添われるままエレベーター内部へ乗り込んでいく。手狭な内部は肌に纏わりつく南国の熱気が恋しくなるほど無機質で、冷気さえも漂っている。とも、神永の凍えた背筋がぶるりと震えたころ、軽快な音がフロアに響いて扉が開いた。
    同時、神永の唇から感嘆の声が出てしまう。うわァ、と。ウソ偽りのない、純粋な歓喜だった。
    「すご、」
    「ああ……これは、さすが」
    四方に視線を一巡させ、田崎と共に言葉を失う。エレベーターの前、色鮮やかな青一色の空間が広がっていた。頭上の微かな光のみを享受する海の中。否、四方を分厚いガラスが覆っている室内を言い換えるのなら、神永達が水槽内にいるようなものだろう。
    しかしこれは、水族館の人工物とはわけが違う。壁も天井も、床にまで広がる青の全てが海の一部なのだ。魚の群れがベッドルームを泳ぎ、リビングテーブルの上をマンタが回遊していた。かまぼこ型のアーチの下、時折はサメたちも姿を現すのだとコンシェルジュが丁寧に説明してみせる。
    小洒落た食器の並ぶダイニング、電子機器の揃うリビングに清楚な白を基調にしたベッドルームに至るまで。最新を完備した空間は分厚いガラスも苦にならず、閉鎖的な居心地の悪さは一切感じられなかった。ああ、流石の五万ドル。
    天井の照明器具が照らすダイニングテーブルの上、キャンドルの炎が揺らめいている。海に反射するオレンジ色は神秘的だ。神永はスタッフに促されるままダイニングのイスに腰を据え、淡い明かりを挟んだ正面、田崎の顔を見る。正確には、田崎の背後で群れるカラフルな魚たちに視線を奪われたものの。
    熱帯魚をバックにした田崎というのは似合うような、全く似合わないような。神永はついおかしくなって笑ってしまった。「本当の恋人」相手なら、田崎はこんなにも見え透いた品のないエスコートはしないだろう、と思案する。
    「神永? 何を笑ってるんだ」
    「いや、別に? ただ、ちょっと田崎にファンタジーは似合わないなって」
    神永の漏らす笑い声が演技ではないと気がついたのだろう。田崎もまた、普段の呆れ顔に近い様相で眉尻を垂れ下げる。なんだそれ、と怪訝な態度で。
    しかしそんな隙を垣間見せたのも一瞬のことで、神永が真新しい指輪の嵌まる片手を田崎に差し出すと、すぐに指が絡み合う。その仕草の反動でテーブルクロスの上で順序よく並んだフォークが床に落ちてしまった。カンと短い音が響き、神永は傍に控えていたスタッフの一人を顎を持ち上げ呼びつける。若い男は慌てた仕草で床に膝をつくとしゃがみ込み、それを拾い上げテーブルクロスに並べ直す。神永がそんな男の仕草を目で追いかけているうち、湾曲のリングと皮膚の隙間を田崎がやんわりと撫でつけた。まるで神永を窘めるように。
    「神永には、この幻想がよく似合う」
    「……うそくさい」
    神永は堪らず、テーブルの下で田崎の足先を突いた。寸分も思っていないくせに。だって田崎の顔面には、大きく嘘だと書いてあるのだから。と、そんな無意味な戯れに興じているうち、ワインボトルを片手に現れたソムリエが長ったらしい説明を流暢に重ね、テイスティングのワインをグラスに注ぎ入れた。深いガーネットが底に溜まり、芳醇な香りが鼻腔を満たしていく。一等に良質なワインに違いないが。
    神永がグラスに指を添えると、正面の田崎が神永を見た。見たというより、睨んだと表現しても良いかもしれない。先程までの嘘くさい演技とは対極な、鋭く冷静な黒目だった。神永が瞬間、懐かしいと感じるほど。それは「田崎」らしく、しかし今世の「田崎」の話ではなかったものの。
    神永はそんな田崎に微笑みかけ、唇の先端を動かして「大丈夫」と呟きを返す。テーブル横に控えるソムリエに促されてグラスに口を寄せ、舌の粗目にワインを溢した。芳醇な渋みの中に微かな甘さが際立ち、ゆるりと食道に落ちていく。
    「これ、悪くないんだけど。……でも、やっぱり」
    神永はワインで濡れた下唇に舌を一巡させたあと、不自然に言葉を飲み込んだ。蝶ネクタイ姿のソムリエが怪訝な顔をした事に気がつかない振りをして、神永はテーブル越しに田崎の腕を掴みあげる。
    反動でテーブルクロスに引きずられ、中央のキャンドルまで倒れかけたものの。神永は全く意に介さず、引き寄せるまま田崎にキスをした。視界の脇、前菜の乗る皿を携えたスタッフがぎょっと目を見開いている。神永は周りのスタッフ達を見渡して、全体に聞こえるよう敢えて声を張り上げる。
    「だって、幻想的なベッドがあるのに。先に食事って、ナンセンス過ぎるじゃん。田崎も、なに。俺にずっとマテさせて楽しんでる?」
    「はは、いや、俺もだ。海の中で早く、神永を抱きたかった」
    テーブルを挟んだまま囁き合いながら、神永はソムリエに視線を投げる。ワインも食事も後にする、と。さも横暴な態度を貼り付けた。蕩ける笑顔は、目の前の田崎にのみ向けて。そんな神永の態度を窘めるでもなく、田崎は当然だとばかり神永の腕を引いた。とも、ダイニングから数歩も進めばベッドの上だが。
    シーツの上に背中を放り投げて、神永は丁寧なベッドメイクを皺だらけに乱しながら、天井に広がる一面の海を見る。ドーム型のガラス越し、群れを成して揺蕩う熱帯魚たちの中で行う極上のセックス。これぞ五万ドルの価値。
    神永が感嘆の吐息をこぼした時、海原の視界を田崎の顔面が遮った。伸びてくる細長い指の先が輪郭を撫で、下唇に到達する。唇の皺目に残るワインを拭い取るよう、中心の肉厚をきゅっと強く擦られた。
    「大丈夫だったか。神永」
    「ん? なにが?」
    神妙な田崎の問いかけに、神永は惚け顔を返す。悪戯に田崎の指先をまで噛んで戯ければ、端正な眉間に皺が寄った。これは思いの外、本気で心配されているらしい。田崎の口から溢れたため息が神永の頬を掠めていく。
    「だから、あのワインだ」
    ダイニングテーブルに目配せしながら「何が入っていたんだ」と田崎が耳元で尋ねてみせた。はて、アレは睡眠剤の類いだったか。少なくとも即効性の毒ではなかった。神永は首を振り、折角のワインが勿体無かったと肩を竦める。
    こと、神永がこの状況の違和感に気がついたのは、イスに腰を据えてからすぐのことだった。田崎との戯れの最中、意図してテーブルクロスを乱した際。神永からイレギュラーに呼びつけられたスタッフは、落ちたフォークをまさか床に落ちたまま、新品に取り替えずに並べ直したのだから。まったくのお粗末だろう。つけ焼き場もいい加減が過ぎると呆れた神永は、今に態度に出してしまいそうで(田崎から指を擽られて制止を促された助け船は、些か不服だったが)元より、高級ヴィラに到着した時点、彼らが上客を相手にするスタッフとしては不慣れな様子である事には十分気がついていた。
    では、彼らは一体誰で、何が目的なのか。神永は脳裏で思案を広げつつ、しかしそんな態度は噯気も出さず田崎の背中に腕を回して縋り付き、身体を擦り付けた。
    「折角だし、このまま本気でセックスしとく?」
    「神永がそれをお望みならな」
    「うわ。ずるい答え方」
    人に委ねるなよと神永が身じろぐと、田崎に耳裏を吸い上げられた。思わずあっと声が出て、そんな神永の痴態をガラス越し、取り囲む魚がじっと静かに凝視している。
    カラフルな群れを掻き分けるよう、尾鰭をしならせるサメまで姿を現して。神永もさほど魚類に明るくないため、即座に種類を言い当てるのも困難であるが。しかし、有象無象にうごめく魚たちがベッドを取り囲んでいる。これは、たとえるなら。まるでスイミーの世界だ。と、そんな現実逃避に思い至ると、寧ろ魚達の存在が雑念に変わる。
    「いや、無理でしょ、コレは」
    つい、声に出た。魚の黒目が行き交う中で交尾に及ぶ事は、どうにも自分が妙に低俗で滑稽な人間になった気分にさせられる。つまり、神永には視姦の趣味がないらしい。と、今更に自身の性的趣向を再確認しながら、神永は田崎の胸元をコンと小突く。すると田崎もまた苦笑いを浮かべ、神永の上から上半身を起こした。
    「……俺もちょうど、集中力が切れたところだ」
    「なに、田崎も?」
    「ああ。まぁ、俺は魚の話じゃないけどな」
    俺は見られる分には構わない、とも。余分な性趣向を平然と口にした田崎が代わり、ベッドサイドを指差した。
    指の先、大振りな電子パネル式の時計が壁に密着する形で置かれている。シンプルな文字盤が立体的にデジタル表示された近未来風の洒落たそれ。さも高そうで、しかし、神永は違和感を覚えざるを得ない。これはまごう事なく時計だが、コンマごと数字が減っていた。──時間が進むのではなく、後退していく。
    「………うげぇ」
    本日で2回目の、カエルの潰れたような情けない声が神永の口から出た。ディスプレイに表示されるのは現時刻ではなくて、タイマーのカウントダウンだろう。だからといって。いや、まさか。神永が眉を顰める隣、田崎が顎に手を置いて、さも神妙を気取りながら口を開く。
    「起爆装置だな、これ」
    起爆装置──詰まるに爆弾。爆薬を仕込み、起爆するための装置である。と、そんな今更の説明文が神永の脳裏を通り過ぎた。
    「……あのさぁ、何をしたら五万ドルのホテルの、その地下に爆弾仕掛けられる人生になるわけ?」
    「それも、ワインには毒まで盛られているんだ」
    だから筋金入りの大馬鹿なんだろう、と。田崎が言葉を吐き捨てた。田崎の低音は嘲笑うというより、いっそ呆れを通り越した故に違いない。
    大馬鹿者改め、所謂本来の「宿泊者」──五万ドルの豪華な新婚旅行を満喫する筈の彼らは、神永たちがすり替わるより前の、新婚で、ネジが緩み飛んだカップルたちの話である。彼らは一体どんな過ちを犯したというのだろう。神永は想像する。もろろん、これは想像の域を出ない話だが。
    たとえば、うだつの上がらない運び屋の男が偶然、麻薬カルテルの一人娘と良い仲になったとする。娘は男にゾッコンで、調子に乗った男は組の金も薬も、武器さえ好き勝手に手をつけた。自身がボスにでもなった気分で。剰えしかし、最後に娘を手酷く振ったなら、その男はさて、どうなるだろうか。深く考えるまでもない。
    それも舌の根も乾かぬうち、本来の恋人とカルテルの金を使って婚前旅行に出かける計画を立てるような、そんな愚かな男が海の藻屑になっても十中八九、自業自得だった。
    しかし、浅はかにも知恵の回る男は、ことの重大さに気がついてすぐ、麻薬カルテルの情報と引き換えに自分の命を守ってほしいと泣きついた。インターポールか地元警察か、もっと別の組織かはこの際重要ではない。
    男の命には微塵の価値がなかったとしても、情報は違う。古今東西、命以上の価値があるのだ。だから男の有益を天秤にかけた時、愚かな人間を守るために優秀な人間は、自分の命を差し出さなければならない。ああ、全くこの世は不条理である。
    これは全てが神永の推測だが。しかし、きっと当たらずも遠からず。
    「これなら、刑務所の方がマシだった気がする」
    「だから言っただろう、神永」
    無意識な呟きに対する田崎の勝ち誇った顔が憎らしい。ガラス越しの鮮やかな熱帯魚たちも、今は強面の死刑囚より極悪に思えるから不思議なものだ。
    海の中と粗雑極まりない刑務所。一見して美しい世界も裏を返せば地獄というのは、まるで人生の縮図である。と、そんな悟りの境地に達している場合ではないのだが。神永の目の前、刻々と進むカウントダウンは既に10分を切っている。
    起爆のスイッチは神永達がベッドに移動した際、スタッフが遠隔で操作したものだろう。ベッドへ移動する際にはまだキッチンで忙しく働いていたスタッフたちの姿は既にどこにもない。はなから全てが計画の上。神永達が食事よりセックスを優先させようと、仕組まれた罠は水中の豪華絢爛な監獄内に散りばめられているのだ。
    たとえば遅効性のワインの毒然り、露骨なカウントダウンのパネル然り。見え透いたそれらは全て、恐怖を煽るための巧妙な仕掛けである。海の中、至極を尽くしたベッド上。幸福に蕩けたセックスの絶頂の合間、自分たちを取り囲む状況に気がついた瞬間に味わう絶望。
    天国から真っ逆さまの地獄行きだ。殊更、この窮屈で閉鎖的な海の中に閉じ込められている時点、既に監禁と言って遜色ないだろう。恐怖に晒された中、ワインの毒がじわじわと全身を駆け巡るなんて。緩やかに麻痺する四肢の中、迫り来る死神のカウンドダウンに怯えながら過ごす時間はまさにホラー映画さながらだった。少なくとも、神永は暫く夜の水族館デートを計画する気になれないだろう。ガラス越しの切迫感がトラウマになりそうだと肩を竦めて、神永はベッド脇に腰を据えた田崎の手元を覗き見た。
    デジタル時計の上部を開いた田崎がせせこましく押し込められた起爆パネルと配線の確認をしている。はて、この男なら解除できるだろうか。神永がほんの僅かな望みを抱いたとき、まるで計ったように突如、頭上の明かりが消え落ちた。
    「あ」
    「うわっ」
    神永と田崎の声が重なって、真っ暗闇の室内にこだまする。ガラスに反響した声は鈍く、地上より間抜けな声色だった。慣れない暗がりの視界の中、室内より寧ろ明るげに見えるガラスの向こう側、海の深い揺らめきがより顕著に映し出されている。これは、さすがに怖い。神永は僅かに身震いした。とも、この薄ら寒気は物理的な代物である。
    明かりが落ちた原因は、ヴィラの電力供給が遮断されたためだ。つまり空調機能も、そして地上と此処を繋ぐ唯一のエレベーターも作動しないに違いないし、更に最悪を重ねるのなら地上から遥か下方のこの場所へ新鮮な酸素を供給するシステムさえ止まっただろう。
    「これ、俺ら詰んだじゃん」
    「それは、まぁ。見るに明らかだろうな」
    神永の絶望的な独り言に対し、田崎が隣で深く頷いた。剰え、こんな手土産もあるとばかりに田崎が手元の起爆装置を容赦なく揺らすものだから、神永は冗談に変え難い現実を突きつけられる。
    尚タチが悪いのは、デジタル式の時計に仕込まれたLEDだけがこの真っ暗な室内、煌々と眩い光を放っている事だ。自分たちの四肢が吹き飛ぶ残り時間だけが明確にわかるなんて、とんだ皮肉である。
    深々とため息を吐き出し、神永はこの現実に向き合う覚悟をした。ズボンのポケットからスマホ端末を取り出すと画面を軽くタップする。圏外は想定内。神永は内蔵ライトでベッド周辺を照らし出した。田崎の手元、赤と青の絡むワイヤー。田崎の指が導線の巻き付く起爆装置を弄り回している。
    神永は手持ち無沙汰、明かりに照らされた田崎をぼんやりと眺めた。鼻筋の凹凸が影を生み、端正な横顔が強調されている。こうして見ると──ああ。残念かな、言い訳が浮かばない程度にいい顔をしている。とは、これぞ見るも明らかな吊り橋効果だろう。
    神永はそんな、つい見惚れてしまった田崎の頬を指で突きながら、口を開く。
    「たーざきーくーん、残り8分なんだけど」
    「ああ。そうだな。……神永、これは解除は出来そうにないぞ」
    と、田崎があっさりと、今更の白旗を振った。全く悪びれないその態度は、手元に爆弾を抱いている状況下とはとても思えない肝の据わりようである。元より、器具も工具一つない状況下だ。神永も過度な期待はしていなかったといえ、田崎の悠長な態度は神永にとって憎らしい。わざとらしい落胆を込めたため息を大袈裟に溢したとき、田崎がでもと言葉を続けた。
    「このサイズの起爆装置なら、強化ガラスまでは吹き飛ばないさ」
    「それってつまり、俺らが一瞬で海の藻屑にはならずに済むって話?」
    「いや、寝室とダイニング……リビングまでは多分、木っ端微塵になるだろうな」
    「ばか、全然ダメじゃん」
    海を隔てるガラスが割れなければどうにかなる、という問題ではない。もちろん、四方のガラスごと吹き飛んで水中ヴィラが丸ごと深い海に沈んでいく未来は、神永の想定する中でも特に最低の部類だが。しかし、ダイニングテーブルやベッドのマットレスで爆発の死角を作ったとしても、神永たちが5体満足でいられる可能性はかなり低いだろう。
    「威力は、そうだな。ヴィラの整備不良によるガス漏れで言い訳が出来る程度……と、言えばわかりやすいだろ? 神永」
    「あー……それ、腹立つぐらい分かりやすい」
    大方、男の使い込んだ大金を彼の命で補填するつもりなのだろう。この規模のホテルだ。保険金も相当額。とはいえ、神永にとってはホテルの経営者がカルテルと結託していようと、ヴィラの所有者が黒幕だろうと、そんな事には一つも興味がない。
    目下問題は唯一、迫り来る死神から逃げること。マヌケで哀れな男の末路を肩代わりするだけで、神永たちはもう精一杯だ。神永が恨めしげにガラス越しの魚影に目をやると、田崎がベッドサイドのガラスをコンと軽く叩いてみせた。
    「きっと四散した俺たちは、こいつらの撒き餌だ」
    「え? ……なあ田崎、それ今言うこと?」
    場にそぐわない田崎の言葉に、思わず神永の頬が引き攣った。家具ごと吹き飛んだ室内の、つまり自分達の身体を片付けるに最適な方法を今、この場で口に出す必要がどこにある。神永の脳裏、夥しい数の熱帯魚が自分(だったもの)に取り巻く様相を思い浮かべてしまった。十中八九、最悪な映像だ。
    「そういうの、今時B級映画でもやらなくない?」
    「さぁな。でも、これがB級映画ならヒロインは大概、生き残るんじゃないか」
    田崎がニコリと微笑んで、神永の指に触れてみせる。正確には、左手の薬指の根本。神永はこれでもかと顔を顰めたあと、代わりに嫌みたらしく笑い返した。
    「俺がヒロインなら、主人公は田崎でしょ。B級映画の鉄板なら、それこそフラグじゃん」
    「はは。いや、俺は主人公を気取るつもりもないさ」
    と、ひどい謙遜が返された。自分たちはいつだって主人公になり得ない。主人公はそうだ、本来の宿泊者の、そのマヌケで哀れな男だと田崎が言うから、神永も思わず同意しかけてしまったものの。そんな、場違いな会話に花を咲かせたとして、しかし南国の熱帯魚の餌になるつもりは毛頭ない。
    神永は田崎の肩を軽く小突いて諌めたあと、ベッド脇から立ち上がった。足裏を据えたフローリングは空調が切れたせいか、不快なほど冷えている。ここが既に海底の底だと思い知らされるような、そんな居心地の悪さだった。
    手元のスマホを一巡させ、静まり返った室内を一箇所ずつ歩いて回る。ディナーの支度が放置されたダイニングルーム、ソファの並ぶリビングから人気のないキッチン奥。ステンレス仕様のキッチン台の上、前菜のテリーヌが置きっぱなしになっている。神永はそれを片手で摘み上げ、一口に頬張った。こざっぱりとした鶏肉と濃厚な生クリームの組み合わせは悪くない。しかし、最後の晩餐には些か味気ないような。
    口腔内でテリーヌを咀嚼しながら、神永はシンク横に設置された料理運搬用の小型エレベーターの電源を押した。予想通り、無反応。無理矢理にこじ開けても良かったが、そもそも田崎と神永が通り抜けられる幅もなく、脱出に使用するのは不可能だろう。
    そう簡単に逃してくれるわけもない。神永が僅かな悔しさと八つ当たりにエレベータードアを軽く小突いたとき、リビングを物色していた田崎が顔を出した。
    「神永、ちょっと来てくれ」
    軽い手招きに呼ばれて、神永はスマホを片手にリビングへ移動する。リビングと寝室の間、ちょうどドーム型の変形ガラスから空調用のはめ込み天井に切り替わる部分を田崎が指差した。照明器具の横に出来た天井の隙間に取手が附属している。丸型の凹みが一周する様子からして、これは避難用の緊急経路に違いなかった。
    神永は田崎と目を合わせてすぐにソファを引き摺ると、取手の下に移動させる。踏み台代わりにした神永が腕を伸ばして取手を引くと、途端に頭上から冷風が流れ込んできた。
    「神永、どうだ?」
    「真っ暗で、何にも。あー……でも、登れば上には行けそう」
    ハッチ内の四方に手元のスマホを巡らせると、無機質な鉄板に等間隔の取っ手が並んでいた。地上と地下を繋ぐ緊急用の脱出トンネルだ。そもそも、電力依存のエレベーターだけでは安全基準も満たせないだろう。リスクがありすぎる。しかし、エレベーターの距離を垂直に登るこのハッチも使い勝手が良いとはとても言えないが。
    神永たちが今から登り始めたとして、地上側のハッチに到着するまで大凡5分半から6分程度は必要だろう。起爆装置の時間は5分を切っているから、登っている最中に部屋が吹き飛ぶ計算だ。つまり、一旦登り始めたら最後、下に戻る事はできなくなる。
    「で、どう思う? 田崎的にあり?」
    「俺は、そうだな。……無しに1票だ」
    「そこは、ほら。上のハッチを閉め忘れる可能性とか」
    「こんな大掛かりを仕込んでおいて、か? さすがに楽観がすぎるぞ」
    賭けに出るには分が悪い。田崎に言い切られ、神永は片手を軽く振った。希望的観測な自覚はあるし、神永も田崎に大方賛成である。神永たちがこの緊急用のハッチを見つけることは、計画に折り込み済みと考えていいだろう。徹底的な恐怖に突き落とされている最中、死に物狂いで室内を物色することぐらい見越されているに違いない。
    暗がりのトンネルを登っている最中に部屋が吹き飛んだとして、その爆発に巻き込まれず奇跡的に地上のハッチまで到達出来たとして、しかし開かなかった場合。神永たちは下部に戻ることもできず、外にも出られず。暗闇のせせこましいトンネルの中で自分の選択を後悔しながら息絶える──まったく、これは最悪なパターンだ。
    ああ、せめて手元に起爆装置さえなかったら。差し迫るカウンドダウンは神永達の選択肢を狭め、死神の足音をより顕著にする。起爆を止めることも出来ず、放置も許されない。
    (ならいっそのこと、爆発を利用すればいい)
    不意、神永の脳裏に作戦が浮かぶ。既に3分を切っているから、迷っている暇はなかった。
    神永はハッチ内の取手を両手で掴み込み、軽やかに身体を持ち上げた。一段目の取手に足を引っ掛けて登りきると、背中を逆側の壁に預け、筒状のトンネル内でバランスを保つ。スマホを片手に握ったまま、鉄板壁を拳で数回ノックした。鉄壁の振動がトンネル内に響き、短く鈍い音がハッチの中でこだまする。神永は壁と取手の継ぎ目に指先を這わせながらハッチの下、室内から首を持ち上げる田崎へ向けて声を投げる。
    「田崎、なあ。このトンネルの壁、たぶん相当薄い」
    緊急時のトンネルは、しかし「緊急時」を想定して作られていなかった。謂わばハリボテである。緊急事態など早々に起こらないと高を括ったのか、それとも建築費を少しでも浮かせたい横暴か。そのどちらも正解か。兎に角、このトンネルが規定の安全強度に到達していない事は明らかだった。
    「だからって、それでどうするつもりだ?」
    「つまりこのハッチの中で、起爆させるってこと」
    「………本気か? 爆発で壁が破れたら、数分も保たずに此処まで浸水するぞ」
    「でもさ、外には出られるじゃん」
    手詰まりの中で爆弾を抱えるよりよっぽどマシだろう。神永は手狭なトンネル内で首を窄めた。とも、この壁の向こう側に広がる闇深い海底は想像したくないし、目指すべき海面もそう近くない。途中でサメに襲われる可能性だってゼロとは言えないだろう。しかし、爆弾の直撃で四肢が吹っ飛ぶ最悪な事態だけは、少なくとも免れる。
    壁が破れて部屋が浸水するまでに十分な猶予も取れるなら、後のことはその時考えれば良い。どうせ、爆発を回避してもここにいる限り酸素不足になるのを待つだけだ。外に出られる穴が空くだけ、御の字だろう。とは、あまりに浅知恵で、楽観な脱出劇ではあるものの。
    「今の所、これが生存率も一番高そうっしょ」
    「そんなに首尾よくいくと思うか?」
    「保証はしない。でも、俺は田崎と心中する趣味とかないし」
    死が二人を分つまで。そんな文言を思い出し、神永は思わず笑ってしまった。新婚を気取っても、これには同意しかねる。田崎と二人で仲良く天国(もしくは地獄か)なんて、上司に何を言われるか。何より、D課の面子に小馬鹿にされるなんてことを神永は許せない。
    「俺も、ないな。折角の新婚なのに」
    「だから、……結婚してないっての」
    「それなら尚のことだろう?」
    とも、冗談めかして田崎が笑った。神永は今し方、脳裏で結婚の定型文を否定したばかりだというのに。まったく、そんな内情をあっさり見透かされた気がして妙にむず痒い気分だった。
    神永が顔を顰めているうち、ソファ上に立った田崎がハッチ側の神永に向け、手元のデジタル時計を差し出してくる。時計という名の、起爆装置を。
    「それじゃあ頼んだぞ、神永」
    「ん? あ、やっぱり俺がやる感じ?」
    「そりゃあな。今更、悠長にじゃんけんしてる暇はないだろ」
    それにどうせ、負けるのは神永なんだ、とも。悪びれもなく田崎が平然と言い切った。憎たらしく垂れ下げた眉尻も少し腹立たしい。だが、神永には反論の余地もなかった。時間が無い状況を差し置いたとして、不憫が神永に巡るのは運命のような代物である。神永は背筋を屈めて片手を伸ばし、田崎の手からデジタル時計を掴み上げた。
    「田崎くんってば、サイテー」
    と、小言を投げ捨てることだけは忘れずに。そして神永は息つく暇もなく、小さな取手を交互に掴んでトンネル内を駆け上がる。まるでアスレチックのように。
    しかし薄暗いトンネルの中、詰まる壁が差し迫ってくるような感覚を享受していると、早くも呼吸が乱れ始めた。無意識に煽られる窮屈感と不安感のせいだろう。神永の駆け上がる薄い鉄板の外は海の中。神永は脳裏に浮かぶ最悪をひたすらに掻き消していく。
    たとえば──爆発威力が予想より弱く、壁が破れなかった場合。逆に強すぎて、自分たちまで一緒に吹っ飛ぶ可能性。その他諸々。考えれば考えるほど、生き残る確率の低さを思い知る。
    しかし、自分の閃きが失敗する可能性なんて、万に一つあり得ない。懐かしい自負を引っ提げながら、神永は十メートルほど登ったところで足を止めた。デジタル時計を取手の内側に引っ掛けると、パネルから引っ張り出した導線をワイヤー代わりに巻きつけて固定する。煌々と光るカウントダウン。表示の残り時間は、約10秒。
    神永にはもう、悠長に取手を一段ずつ降りている時間はない。ふっと短く息を吐き、円柱の壁へ片足を引っ掛けた。背筋を背面の壁に軽く密着させてすぐ、殆ど落下する勢いのまま、一気に下方へ降下する。
    「神永! 早く来いッ!」
    下方から叫ぶ田崎の声を耳が拾う。神永はハッチの出入り口に身体をぶつけないよう身体を窄め、衝撃に備えた。鉄板の凹凸に擦れる背中が悲鳴を上げる。
    残念かな、ソファの上にバランスよく着地するなんてことは到底不可能だ。神永は反動を逃すためために足を折り込んで、勢いを殺しながらフローリングに転がり落ちる。頭部を庇ったせいで、二の腕と肩口を強く強打した。骨が軋んだ痛みに顔を顰めたものの、泣き言を口にする暇はない。神永が床に落ちると同時、田崎がすぐにハッチを閉めた。
    残り時間を思い出し、神永は脳裏でカウンドダウンする。

    サン、ニ、───イチ。

    ドンッと、一撃。瞬間、まるで重力を失ったような衝撃が室内に伝わった。室内が不規則に大きく揺さぶられると同時、爆破に耐えきれなかったハッチの鉄板ドアが天井から勢いよく落下する。神永は慌ててフローリングから身体を起こしたが。間髪入れず、大量の海水が開きっぱなしになったハッチ内から流れ落ちてきた。ドーム状のガラス脇がミシミシと不快な音を立てるほど、強烈な轟音ととも。
    怒涛の如く降り注ぐ海水は、瞬く間にリビングのソファを飲み込んだ。部屋の中、不均等な渦を巻いて。足元を引き摺られたら最後、溺れてしまいそうだった。神永は水圧に押し負けないため、リビングポールに腕を伸ばしてしがみつく。しかし瞬く間、海水は神永たちの腰の高さまで到達した。予想より遥かに早い浸水速度は、起爆の威力が思いの外に強かったことが原因か。それとも、壁の強度の問題か。どちらにしても、神永達の脱出までに残された時間はもう僅かだという事である。
    頭上から降り注ぐ水飛沫に晒されて、いっそ濡れ鼠が可愛らしく思えるほど、神永たちの全身が濡れ細ぼった。
    「っふ、はは。まさに地獄って感じ」
    「ああ、本当に。これは、酷いな」
    神永は海面から顔を出し、みるみると浸水する室内を見渡した。リビングからベッドまで、部屋の全てが水没していく。絢爛な装飾品達が自然の威力に飲まれていく様子は、少し小気味良くもあるものの。しかし、予測できない海水の渦が引き乗せる大型家具や家電を避けるだけでも重労働だ。ぶつかって怪我でもしたら、挟まったら。逃げる機会を失ってしまう。
    天井から轟く水音が徐々に弱まり始め、ガラス張りの室内が海水で並々と満たされていく。あと数分も経たないうち、水面は天井まで到達するだろう。そろそろトンネルに潜る準備をするべきだ。と、神永が田崎に視線を向けたとき、伸びてきた腕に手首を掴まれた。
    「神永、やっぱり結婚しようか」
    濡れた黒髪を額に張り付かせて突然、田崎が言う。やけに楽しげな様相で頬を緩めているから、神永は間抜け顔でぽかんとした。それからすぐ、場違いの笑い声が喉奥から込み上げてくる。これはきっと、大量分泌されたアドレナリンのせいだった。酸素が貴重ということさえ忘れ、神永は腹を抱えて笑ってしまう。
    だったまさに今、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされているというのに。滑稽を通り越し、面白くて仕方がない。神永は笑いすぎたせいで目尻に涙を浮かべ、喉をヒクヒクと引き攣らせる。
    「ははっ、むり。ウケすぎて俺、今なら本気でイエスって言いそう」
    「ああ、だから言ってるんだ」
    吊り橋効果を利用して。と、田崎の濡れた胸元へ引き寄せられて、耳側に甘い声色が注がれた。今更、新婚を気取るくだらないパフォーマンスなんて必要ないはずなのに。
    ああ、ほんとうに。必要ないとわかっている。誰も見ていない海の中。しかし、神永は田崎の頬に指を滑らせた。薬指の指輪が目に入って、心臓の奥が擽ったい。
    場違いな状況で視線を絡め合い──しかし、それ以上にお互いの顔が密着することはなかった。タイムリミットである。神永達の口許が海水に埋もれ、今に水面は天井へ到達する。神永は田崎から距離を取ると、大きく息を吸い込んだ。室内の残り少ない酸素で肺胞を満たし、一気に──、潜る。
    沈んだ先の視界は良好といえず、海水が不自然に渦を巻いている。気を抜けば身体ごと引き摺られ、溺れるリスクも伴っていた。神永は天井に片腕を這わせながら、ハッチの入り口へ身体を滑り込ませた。迅速且つ、的確に移動すべきである。散乱する家具たちが運悪くトンネル内を遮断したのなら、神永達の人生はここで詰んでしまうのだから。
    しかし手狭なトンネル内部、優雅に泳ぐことは予想以上に困難を極めた。両手足を広げるスペースがないため、トンネル内で思うようなスピードが出ないのだ。身体をしならせるたびに体力が如実に削られ、肺の酸素が低下する。薄暗い内部に方向感覚が麻痺させられ、上下左右の感覚さえも常に朧げだった。
    神永が時計を仕掛けた場所、つまり壁に開いた穴に到達したのは予想したより少し遅い。爆破の威力が下方ではなくて、上方に向かってしまったことも理由だろう。と、今は反省会に興じている場合ではない。神永は抜け出した海の中、大きく両手を動かして一気に水面を目指していく。ここまで来れば、ほんのあとひと押し。
    でも、ああ、そういえば。神永は半ば無意識にベッドルームのガラス越しに尾鰭を揺らしたサメの姿を思い出す。確か、アレは、そう。イタチザメとか、そういった部類ではなかったはず。だから早々襲われる心配なんてない。大丈夫。これは一種のマインドコントロールのような、無意識下の精神安定だった。
    神永の思考も肉体も、どちらも酸素不足に直結する。指先が痺れる感覚。脳内が霞む息苦しさ。それでも神永は、少なくとも他者より「生きる」ことが得意だった。昔も、それに今も。結城の扱きを耐え抜くほどには。そんな達観と自負についぞ到達したころ、取り囲む海に色が戻り始めた。海面が近い。
    神永は波間を突き破るように、勢いよく水面から顔を出す。
    「ッ……、はぁ、っ! げほっ、ッ!」
    大口に酸素を吸い込むと、鼻腔に溜まった海水が勢いよく逆流する。咽込んだ途端、鼻や耳の粘膜にツンと突き刺すような痛みが生じるから散々だったが。しかしふと、神永は視界に入った頭上の情景に瞳が奪われた。太陽が水平線に飲み込まれるよりも少し前の、鮮やかな夕焼け空。赤紫の濃淡の中、既にいくつかの星の輝きが見てとれる。海面までをキャンパスに変えた其れは、あまりにも広大で圧巻だった。今し方まで仄暗い海の中、神永が迫る死神にもがき苦しんでいた事さえもちっぽけな事のようで。
    とはいえ、神永はまず盛大に安堵した。これが完全な夜に変わっていたら、海面に辿り着くことなく溺れていた可能性もある。標識ひとつない大海原、光源は殊更に貴重な存在だった。
    水平線を見上げて数秒も経たないうち、神永から数メートル離れた波の間に田崎が顔を出した。神永の顔を見つけるなり、珍しくほっと安堵を晒してみせる。
    「はっ、かみなが。……はぁ、平気か」
    「……まぁ、なんとか。結構、……いや、わりとギリってとこ。田崎は?」
    「俺も、……ああ、同じだ」
    余裕を気取りたい気持ちはあるものの。海の中に沈む足先まで、鉛の如く重たくて堪らなかった。満身創痍の疲労困憊とはこのことである。それにまだ、一息つくには早すぎる。まずは海から上がって、自分達の安全を確固たるものにすべきだろう。不幸中の幸い、桟橋からはさほど流されていなかった。
    なけなしの気力を振り絞り、桟橋の先端に付随する水上飛行機用のポータルまで到達する。頭上の空も既に日は落ち、夜闇が辺りを包んでいた。今となればこの黒も、神永達の味方である。神永は海面から伸びるクロス型の木製枠に足をかけて、ようやく海の世界から脱却することに成功した。
    全身から滴り落ちた海水の雫が桟橋に散布して、木枠が瞬く間に色濃く染めていく。南国故の高水温には救われた。そうでなければ神永の体温は芯まで冷え切り、しばらく四肢を動かす事もできなかっただろう。しかし、濡れたシャツやズボンの不快さは変わらない。素肌に張り付くシャツの裾に手を掛けて、神永は布がよれることも厭わず一思いに絞り切る。快適とは未だに程遠いものの。
    「はぁ、もういっそ、全裸になりたい」
    「いいんじゃないか? まぁ、俺は他人のふりをするけどな」
    「なんだよ。そこは、ほら。興奮するって言えばいいのに」
    「残念かな、俺にそんな趣味はないさ」
    だって脱がす方が好きなんだ、と。戯けた態度で田崎が言葉を付け加える。神永はそれが嘘かまことかも知らないが、少なくとも田崎らしい。つい緊張感なく笑ってしまったものの、しかし神永は未だ己に纏う極度の緊迫を手放してはいない。
    真っ直ぐに伸びた桟橋の奥、佇むヴィラは室内に明かりが灯っている。地上の電力は今も稼働を続けているらしい。陽気な曲が神永の耳へ微かに届いた。建物内に人気を感じ、反射に小さく息を飲む。
    「神永、裏手だ」
    田崎が顎を揺らし、ヴィラの裏へ視線を向けた。取り囲むテラスの手すり枠、横並びの水上バイクが部屋の明かりに照らされている。スタッフ(に扮した輩達の)移動手段だろう。これは神永達の脱出に好都合な、おあつらいむきに違いない。
    しかし建物の正面、ウッドテラスの編み込みチェアに背中を預けた男の姿が目に留まった。神永たちが到着した際、ウェルカムと人好きのする笑顔で出迎えてくれた青年である。到着時の姿が嘘のようにリラックスした顔色で、鼻歌混じりに瓶ビールを傾けていた。さらにハンドガンが一丁、長テーブルに置かれている。彼の愛用品だろうか。今がいくら暗がりに落ちたといえ、ヴェラの裏手まで気づかれずに移動するのは不可能だろう。一本道の開けた桟橋では隠れる術もない。
    さて、どうしたものか。神永が横目で田崎を伺えば、やれやれといいたげな風体で田崎が大袈裟に肩を竦める。
    「俺が行くのか?」
    「いいじゃん。だって、俺が囮になるんだから」
    「それでも、もう一度海に潜るのが億劫なんだ」
    田崎が浅い息を吐き出すと神永は笑い、遠慮なくその背中を叩いてみせる。ご愁傷さま、とそんな軽薄まで投げつけた。
    一呼吸のあと、トンっと足先に勢いをつけた田崎が桟橋の縁から再び海に潜った。着水時の水音に対し、テラスデッキで寛ぐ男がチェアから緩やかに背筋を起こす。赤らな頬を晒したほろ酔い顔で、さも怪訝な様子である。つまり、ヴィラに残ったスタッフたちは未だ神永達が水中から生還したことを知らないのだ。彼らは高級ヴィラの備え付けワインと極上のつまみを堪能しながら、謂わば作戦成功を祝う宴の真っ最中である。それは残念かな、些か早すぎる宴だが。
    神永は桟橋から一気に駆け出して、ヴィラの入り口を素早く越える。瞬間、海面ばかりを気にしていた男が振り向き様、神永を視界に捉えた。二言三言の罵声とともに手元のビール瓶を放り投げて代わり、テーブル上のハンドガンに腕が伸びる。
    「っ、!」
    神永は走り抜けた勢いのまま、減速することなく片足でラタン調のテーブルを蹴り上げる。男の身体をチェアとテーブルの間に挟み込むような形で。
    瞬間、揺さぶられたテーブルの上からシャンパンクーラーが滑り、氷が床に散乱した。皿やグラス、それにハンドガンまで全てが床へ転がり落ちる。その間、男に隙が生まれた。見失った銃の行方を追いかけるため、無意識に視線を床へ向けたせいだ。
    神永は見計らって再度、テーブルの端を強く蹴った。次はガラス張りのテーブル盤が派手な音を立てて床に落ち、甲高い騒音がテラス全体に響き渡る。これはヴィラの室内にいる他のスタッフ達の耳にも届いただろう。物々しい罵声が窓越しに聞こえてくる。
    床のグラスと氷を払い除けた男の指が、もう間も無くハンドガンのグリップに届きかけていた。神永は肩口から前転の要領で転がると、床のシャンパンボトルを男目掛けて蹴り付ける。数万──数十万のボトルを足蹴にすることに対し、良心の呵責を感じたような気がすもるのの。男の意識がボトルに逸れた隙を狙い、先にハンドガンを奪い取ることに成功した。
    神永は不意に思案する。今、男のポケットに手を伸ばして水上バイクのカギを探し出すべきか、否か。彼が持っているという保証はないが、もし万が一持っていた場合、今すぐに脱出することが可能になる。
    しかし、神永はその選択をすぐに脳内から打ち消した。田崎が先、今に水上バイクに到着したころだ。あの男にキーは必要ないだろう。もちろん、お得意の手品でエンジンを入れる、などという魔法じみた事を期待しているわけではない。だが、あの淡白且つ淡麗な見た目のわり、田崎は横着で横暴なのだ。神永はそれを十二分、嫌というほど知っている。田崎なら、そうだ。まず間違いなく、水上バイクのエアロをこじ開けて、配線から直接エンジンを稼働させるに決まっている。ショートさせてしまう可能性や、剰え神永の到着を待つというしおらしい選択をするわけがないのだ。
    神永はこの結論が外れない自負があった。ならば今、やるべきことは一つだけ。田崎がエンジンをかけ終えるまでの時間稼ぎ。この陽動を続ける他はない。そうと決め、神永はハンドガンを握り締める。しかしさすが男も体勢を立て直していた。チェアの背もたれを掴み上げ、男が見た目以上の腕力を有している事に感心している暇もなく、重たげな編み込みチェアが神永の顔面を目掛け飛んでくる。
    反射的にしゃがみこみ、寸前の所で避けきれたものの。神永の真横ギリギリをすり抜けたチェアは豪快に床へ叩きつけられ、脚が無様に折れ曲がった。まともに喰らっていたら、神永の身体は無様に吹き飛ばされていただろう。
    そんなうち、ヴィラ内部の階段を駆け下がる足音が聞こえてきた。足音に重なる重低音は、彼らが手に下げたマシンガンかもしれない。闇雲の狙い撃ちは、神永の方に分が悪い。ああ、もう。いい加減に早くしてくれ、と。声を張り上げたい気分に陥った時、エンジン音と共に波が沸いた。
    「神永! こっちだ!」
    「田崎!」
    テラスデッキと海の間、波間のギリギリに水上バイクを走らせながら、田崎が此方に声を張り上げた。名前を呼ばれると同時に神永は走り出し、ウッドテラスの手摺り柵を越える瞬間、男の足元に銃口を向けて発砲する。
    「ったく、田崎は焦らしすぎ!」
    「神永はわりと好きだろ、そういうの」
    「はは、ばーか! 蜂の巣になるとこだったじゃん」
    容赦のない悪態を吐きながら神永は、田崎の操縦する水上バイクの後方に乗り込んだ。間髪入れず、背面のポンプから勢いよく水が噴射する。水面が大きく揺さぶられ、テラスが水浸しになるほどの水飛沫が湧き上がった。
    しかし、そんな豪快な水音をかけ消すような発砲音と同時、手摺の木枠に銃弾が幾つも着弾する。ヴィラのリビングに続くオープンウィンドウの手前、数人がマシンガンを片手に此方へ照準を絞っていた。夜闇に硝煙が浮かぶ。
    ヴィラと水上バイクの位置はまだ然程離れておらず、マシンに着弾する可能性もゼロとは言えない。神永は跨った両足で体幹のバランスを計りつつ、ウェストを捻って上半身をヴィラへ向ける。ハンドガンの銃口を定めることな微々たる時間を有したものの。
    海風に煽られないように指の先に力を込めた神永は、弾が切れるまでの全弾全てをヴィラに並ぶ水上バイクのタンクに向けた。彼らが此方を追ってくる手立てを奪う方がより確実だという判断だ。無駄な傷を負わせる趣味も神永にはない。そもそも、不要な怪我を与えたことによって、彼らに報復の理由を与えないためではあるものの。
    波に持ち上げられた車体が大きく左右に揺さぶられ、神永は慌てて田崎の腰に両手を回す。密着した肩口へ顎を乗せながら、田崎の骨ばった背骨を胸部に感じる。疲れた、とまず一言。隠すつもりもない本音が口からこぼれ落ちた。全身ずぶ濡れで、今も額から海水の雫が垂れ落ちている。
    そんな時だった。田崎が片手をアクセルレバーから離してすぐ、神永の回した左手の指先に触れてくる。水にふやけた皮膚のせいで、体温も感触も碌に伝わってはこなかったものの。しなやかな田崎の指が、神永の左手薬指に嵌るリングの縁取りをなぞりあげる。柔らかく、優しく、愛おしげに。
    「無くさなくてよかった」
    田崎が言った。今に波の音にかき消されそうな声色に、神永の口角が吊り上がる。
    「それで、これ。本当は、いくらした?」
    「……教えるわけがないだろ」
    「意地っ張り」
    「なんとでも」
    だって、どうせ本物のくせにして。もっと素直に渡せばいいとのを。と、神永はそう、田崎の耳側で悪戯に囁いた。巻き上がる水飛沫の轟音にかき消えないように。すると田崎が少し息を飲み込んで、ふいと視線を逸らしてみせる。見え透いた田崎の言動についぞたまらず、神永は笑い声をあげてしまった。
    ああ、だって。こんなにもわかりやすい男だっただろうか。否、まぁ、そんな態度を可愛いと思うほどに自分は、この男に毒されている自覚がある。
    「今、田崎とキスしたい」
    神永ははっきりと口にした。田崎が素直に負けを認めるなら、日本に帰るより前にベッドシーンのやり直してもいい、と。そう思えるほどに。
    そこはもちろん海の中ではなくて、もっとシンプルで、ベッドさえあればいい。粗悪な刑務所や、高級を詰め込んだヴィラとはもうおさらばだ。神永の甘い誘い文句に答えが返ってくるより先、田崎がアクセルレバーを強く回した。



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    mu____zi

    DONE課(特に付き合ってない)たざかみ、愛と地獄の新婚旅行編

    たざかみの日のプリズンなブレイクの続編です。
    ◾️◾️




    波間の揺れる一面のコバルトブルー。神永は海の真ん中、木製の小洒落た桟橋の上に立っている。頬を撫でる風に目を細めて、はて。──どうしてこうなった。と、隣で柔らかく微笑む田崎の顔面を見つめながら、答えのない疑問を脳裏に過らせた。


    さて、神永が水上飛行機から桟橋に降機したのは、ほんの1分ほど前の話である。桟橋の専用プラットホームに横付けされたその飛行機に乗り込んだのは、大凡1時間ほど前だっただろうか。因みに、小型水上飛行機へ乗り込むより前の、南国の国際空港に到着したのは3時間ほど前のことで、神永が日本で旅客機に乗り込んだのはそれより更に約15時間前だ。
    この土地に降り立つまでに既に半日以上が経過し、神永の凝り固まった背筋は慣れない疲労を訴えていた。しかし、神永の疲弊は肉体的よりも寧ろ精神的な部分にある。開放的な南国の土地に降り立った人間にしては些か場違いだろう。とはいえ、神永はそんな疲弊の断片を顔色に滲ませることなく、口角を緩めてながら極上の幸福に溢れたバスタブに浸かった顔をする。順風満帆で、今まさに世界が終わりを告げても尚、隣にこの男がいてくれるのなら後悔などない、という顔である。
    24017

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    さて、神永が水上飛行機から桟橋に降機したのは、ほんの1分ほど前の話である。桟橋の専用プラットホームに横付けされたその飛行機に乗り込んだのは、大凡1時間ほど前だっただろうか。因みに、小型水上飛行機へ乗り込むより前の、南国の国際空港に到着したのは3時間ほど前のことで、神永が日本で旅客機に乗り込んだのはそれより更に約15時間前だ。
    この土地に降り立つまでに既に半日以上が経過し、神永の凝り固まった背筋は慣れない疲労を訴えていた。しかし、神永の疲弊は肉体的よりも寧ろ精神的な部分にある。開放的な南国の土地に降り立った人間にしては些か場違いだろう。とはいえ、神永はそんな疲弊の断片を顔色に滲ませることなく、口角を緩めてながら極上の幸福に溢れたバスタブに浸かった顔をする。順風満帆で、今まさに世界が終わりを告げても尚、隣にこの男がいてくれるのなら後悔などない、という顔である。
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    さて、神永が水上飛行機から桟橋に降機したのは、ほんの1分ほど前の話である。桟橋の専用プラットホームに横付けされたその飛行機に乗り込んだのは、大凡1時間ほど前だっただろうか。因みに、小型水上飛行機へ乗り込むより前の、南国の国際空港に到着したのは3時間ほど前のことで、神永が日本で旅客機に乗り込んだのはそれより更に約15時間前だ。
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