ふと意識が浮上して、雛乃秀は目を開けた。ぼんやりとした視界に、何度か瞬きをして辺りを見回す。
――どこだ、ここは。
見たことのない景色に雛乃は慌てて起き上がった。しかし激しい頭痛と眩暈に襲われて、ベッドに沈む。痛みで閉じた目をもう一度開いてみるが、変わらない視界に雛乃はため息を吐いた。
――調べるしかないか。
痛む頭を押さえながら、雛乃は身体を起こす。さらりと視界を遮るものがあり、手に掴んだところでノックする音が響いた。
「お嬢様、失礼いたします」
聞き慣れない女性の声と言葉に、雛乃は部屋を何度も見回す。何回見ても自分以外誰もいなかった。ではお嬢様とは誰のことだ。
「失礼いたします」
女性がもう一度声をかけながらドアを開けた。そしてその目が大きく開かれる。何かまずいことでもしただろうか。雛乃は固まったまま女性を見つめていると、女性は雛乃のところまで駆け寄ってきて膝をついた。
「お目覚めになってよかったです。どこかお加減のよろしくないところはありますか?」
「……頭が少し」
「まだちゃんとお風邪が治っていらっしゃらないのですね。でもよかったです。一週間も熱が続いたのでどうなるかと!」
そういうと女性は泣くのを堪えるように俯いた。聞きたいことは山ほどあるが、女性の反応を見るに本気で心配しているようなので雛乃は何も言わずに口を噤む。そして女性の言葉から現状について考えた。
どうやら自分は一週間、熱で寝込んでいたらしい。そしてお嬢様と呼ばれていること、先ほど話した時に声が高かったこと、手に掴んだままになっているものを引っ張ると頭が痛いこと、下を向くとないはずの胸元が膨らんでいることを考慮すると、現在自分は女性になっているという結論に辿り着いた。
――どうしてこうなった。
別の意味で頭が痛くなってくる。雛乃はこめかみを抑えて項垂れた。
「だ、大丈夫ですか、お嬢様!?」
「問題ない。少し記憶が……」
いっそのこと熱で記憶があやふやになったことにしてしまおう。そう考えた時、部屋の外から物音が聞こえてきた。壁が分厚そうな割に音が響いてくるとは、どれだけ暴れているのだろう。雛乃は立ち上がり痛む頭を押さえながら扉に向かった。侍女だろう女性が心配そうに声をかけてくるが、無視して扉を開ける。どちらにしろ情報を集めないと現状がわからないため、この騒ぎは部屋の外に出たかった雛乃には好都合だった。
「スナオお嬢様、お待ちください!」
――すなお?
聞いたことのある名前に雛乃が首を傾げていると、侍女が駆け寄ってきて扉にもたれている雛乃の肩を支える。
「シュウお嬢様、ご無理はいけません。さぁ、ベッドに戻って」
「でも……」
部屋に戻そうとする侍女に声をかけて、音の方へ目をやる。するとドレスを持ち上げて走ってくる女の子と目が合った。その瞳が大きく開かれる。雰囲気が柔らかくなっているものの見たことのある顔に、雛乃も同じように目を見張った。
「秀さん?」
――柊迫?
名前を呼ぶことは憚られ、雛乃は口を動かすだけにとどめる。しかし柊迫には伝わったようで、走る勢いのまま柊迫は雛乃の胸に飛び込んできた。床に押し倒されながら柊迫を抱き止めると、柊迫が顔を雛乃の胸に隠しながら小さな声で話しかけてくる。
「秀さん、おれのことわかる?」
「あぁ、柊迫だよな。いったいどうなってるんだ」
「うん、そのことについて話したいからなんとか二人きりになろう」
「わかった」
押し倒された拍子に離れた侍女が、また近づいてくる。柊迫がぎゅっとくっついているため、引き離したくても離せなくて困っているようだ。
「スナオお嬢様、シュウお嬢様は病み上がりですのであまりご無理をさせませんよう」
「……申し訳ありません。お姉様が起きていらっしゃったので嬉しくて。あの、二人きりでお話ししても大丈夫ですか?」
「しかし……」
「私なら大丈夫です」
そういうと雛乃は柊迫の頭を撫でた。安心させるように撫でていると、侍女が笑顔を浮かべる。
「お二人は本当に仲がよろしいですね。わかりました。私はこれで退室させていただきます。ただシュウお嬢様はご無理なさいませんように」
「はい、わかりました」
「では、失礼いたします」
侍女が静かに部屋から出ていく。扉が閉まりしばらくしてから、柊迫が起き上がって雛乃の上から降りた。
「あー、疲れた」
「謎の緊張感に包まれたな」
二人は床に座り込むと大きく息を吐く。中身が違う人物だとバレたら一巻の終わりだと、二人は怪しまれないように言葉を紡いでいた。おかげで侍女は何も疑問を持たず部屋から出ていってくれたわけだが、これからもこの生活が続くのかと思うと先が思いやられる。
「とりあえずベッドに行こう。秀さん、まだ休んでた方がいいでしょ?」
「そうらしいな。熱が下がったところらしい」
自分のことながら侍女から聞いた情報しか持ち合わせてなく、雛乃としてははっきりしたことが言えなかった。苦笑しながらベッドへ歩いていくと、柊迫が手を貸してくれる。柊迫に助けられながらベッドに入り、クッションに背中を預けて座ると柊迫に布団をかけられた。
「何から話そう」
「俺はつい先ほど目が覚めたところだが、柊迫はいつからこの世界にいるんだ?」
ベッドに腰掛けた柊迫が雛乃の方を向き話しかけてきたので、雛乃は気になったことを口にした。柊迫の態度を見ていると、すでにこの世界のことをわかっているように見えたからだ。
「おれもさっき目が覚めたとこ。自分の部屋の机に突っ伏して寝てた。起きたら日記があって、それ読んだからなんとなくこの世界が何か知ってる……というかわかった」
「どういうことだ?」
「この話もおいおいするとして……それより秀さん、覚えてる?」
「何をだ」
「おれたちが意識を失う前に何をしていたか」
「っ!?」
あまりにも非現実的なことが起きていてすっかり忘れていたが、柊迫に言われて雛乃は何故意識を失ったのか思い出した。
今日はライブに呼ばれて電車とバスを乗り継いで会場まで行った。無事にライブは終わり、会場からバスで駅に向かっている時だった。
「しゅーちゃん、危ない!」
窓側に座っていた伊佐が急に覆い被さってきた。伊佐の必死の形相とその後ろからトラックが近づいてくるのが見えて、雛乃は声も出せずに目を見張った。伊佐が抱きついてきた瞬間、ぶつかった音と振動と衝撃が一気にきて身体が宙に浮く。必死に伊佐の背中にしがみついたが、頭や身体が何かにぶつかり痛みとともに目の前が真っ暗になった。
「……死んだのか?」
「わかんない。でも今おれたちはここにいる」
柊迫の真剣な眼差しに雛乃は一つ頷いた。バスの事故がどうなったかはわからない。しかし自分たちは今ここで性別は変わってしまったが生きている。
「それで柊迫はここがどこなのか知っているように見えたが……」
「うん、そのことを秀さんに相談しようと思ってたんだけど」
扉をノックする音が響き、柊迫は言葉を止めた。二人で見つめあった後、扉に目を向ける。
「少しでもお食事をと思いまして、軽食をお持ちしました。あとシュウお嬢様にお会いしたいと……え、あのっ」
「持っていくから下がってもらってもいい?」
「ですが……」
「運ぶだけでしょ? 大丈夫」
「……かしこまりました」
騒がしくなったかと思ったら静かになる。どうしたのかと雛乃が柊迫に目をやると、柊迫もわからないと首を振った。しばらくして再度扉がノックされる。返事をして入れてもいいものか悩んでいると、返事を待たずにゆっくりと扉が開かれた。