愛しい影【決裂に向かうバッドエンドマハグリュです。暗い話好きな人どうぞ】
それは事故だった。
視察中、精神解析の魔法が誤作動を起こしグリュックに直撃した。解除自体は外部の精神魔法の専門家がほどなく対応できるとのことだったが、人類に伝播する可能性があるため、到着まではグリュックを安全のため隔離することになった。
「私は魔族です。精神の在り方が違いますので影響は受けないでしょう。」
マハトは見守り役を買って出た。領主に忠実な僕で、魔力も力も強いマハトはまさに適任、領主と2人きりになることすら、誰からも警戒されない。
静まり返った部屋の中で、グリュックの独り言や空笑の声だけが響いている。
(確かに異様だ。)
どうやらグリュックは、その短い人生を追体験させられているようだ。幸せそうに微笑んだかとおもえば、両手で顔を覆い涙をこぼし、静かに怒り、その表情はくるくると変化する。
マハトは、自分が魔族であることに感謝した。こんなに面白いものを間近で観察出来るのだ。
「…。」
グリュックが急に動きを止め、マハトを見つめる。今まで見たことがない、優しい目だった。
「***。こちらにおいで。」
その響きは知っている。グリュックから直接聞いたことはないが、これは彼の妻の名だろう。グリュックはマハトに向かって手招きをすると、自分の座るソファの隣を手のひらで優しく示す。
マハトはどうするべきかしばらく考えたあと、グリュックの隣に座った。純粋にどうなるのか興味があったからだ。するとグリュックは微笑みながらマハトに体を寄せた。マハトの姿は、恐らく彼の妻に見えているのだろう。
「政略結婚など碌でもないと思っていたが。いい意味で裏切られたよ。君が目の前に現れた時、女神様の使いが来てくれたのかと思った。それなのに、君ときたら。」
グリュックは堪えきれないようにくつくつと笑う。今の彼の目には、ありし日の妻が見え、その影に向かって語りかけているのだろう。マハトに向けられたグリュックの視線は、彼を見つめているようでいてどこか遠くに向いていた。
(精神魔法はこれほどに人を惑わせるのか、面白い。)
マハトは術式を確認しようとグリュックの顔を覗き込むが、人間の精神構造は無秩序で短時間で解析するのは無謀だと悟った。
その強い視線を、グリュックは『妻に叱られた』と理解したようで、困ったように眉を寄せる。
「ああ、悪かった。もう言わないと約束していたね。ふふ、でもあれは傑作だったからな。来年には子どもも生まれる。私ももっと頑張らないと。いや、無理はしないよ。君は怒ると怖いからね。それに・・・」
そして、ふと動きを止めマハトの方を見つめる。ため息を交えるような切ない声で、
「君の髪は美しいな。」
と呟き、肩にかかる髪に手を伸ばしてきた。
そして肩からこぼれる柔らかなそれを、愛おしそうに何度も指に絡める。夢中になるうち少し強く引いてしまったようで、はっとしたように髪から手を離した。
「痛くはなかったかい?」
マハトがゆるく顔を横に振ると、ほっとした顔で少し伸びをすると髪に口付けた。
(たかが髪を触るのに、何故そんなに楽しそうなんだ。)
マハトは思いながらも、満足そうなグリュックの様子をじっと観察する。
「そんなに見ないでくれ。」
グリュックは、はにかんだように微笑むとソファから立ち上がり、おもむろにマハトの額に唇を落とす。
マハトはその行動を大変愉快に思った。
(次は何を見せてくれるのだろう)
と試しに目を合わせて微笑んでみせた。すると、グリュックは
「キスをしても?」
ためらうように尋ねてくる。マハトがこくり、とうなずくと、
「***」
再び妻の名を呼び、熱を帯びた視線でマハトの瞳をじっと見つめ、唇を優しく一度だけ食んだあと、すぐに離れた。
「もう一度、いいかな。」
とねだられたので、唇を薄くあけてやれば、
「積極的な君も素敵だ。」
などと幸せそうに言いながら、そろりと舌を入れてきた。それは丁寧で、それこそ相手の望むことを掬い上げて、そのまま注ぎ込むようなやり方だった。ゆったりと舌を擦り合わせ、上顎の敏感な部分を優しくなぞり、良さそうなところをまた柔らかく撫でる。
ぬるま湯に頭から浸されている気分だった。
(グリュックはこのように妻に触れていたのか。)
マハトは目を開けたまま、興味深くグリュックの観察を続ける。彼がマハトに抱かれる時はいつも性急で、甘さなど望む様子はみせない。口づけもひたすら快楽だけを追うようなもので。
だが、この口付けはひたすら優しく、甘く、薄い貝殻の細工物を壊さぬように大切に手のひらで包むようなやり方だった。相手をただひたすら慈しむように触れるこんなやり方を、マハトは知らない。
グリュックは目を閉じて静かに口づけに没頭していた。その合間に漏らす吐息や、「愛している」の声、頬や首筋を撫でる指がひどく熱くて驚く。
口付けだけなのに、マハトはひどく興奮した。このまま引きずり倒して服を剥いで、後ろから犯してやり、彼がこぼす涎を啜りながら「お前が見ているのは幸せな夢なのだ」と知らしめてやりたい。
しかし、それはいつでもできるし、それをして見ることが出来るグリュックの顔はきっとつまらないものだと思う。
(‥今度は、このやり方を試してみようか。)
そう思いながらマハトはグリュックが愛おしげに髪を撫でる指の感触と、ただひたすら甘い口付けを忘れないよう、今度は目を閉じて味わうことにした。
+++++
事故から2週間ほどたったある日。
執務がひと段落つき、グリュックは執務机の前でため息を吐く。静かな部屋で、その音がやけに大きく響いた。
それもそのはず、もう夜も大分深い。使用人も文官たちもすでに下がらせていたので、執務室の中はマハトとグリュックの2人だけだからだ。
最後に残っていた数編の書類も処理が終わり、グリュックは小腹を満たすためマハトの淹れた砂糖入り紅茶を飲み干したところだった。
「キャンディス(氷砂糖)か、いい選択だ。甘いが、今日のような日にはありがたいな。」
「恐れ入ります。」
今日のグリュックは食べ損ねた昼食を夕方に腹に詰め込み、その後はひたすら書類と格闘していたのだ。
この間の魔法の事故からどうも調子がすぐれない。あの時の記憶は曖昧だが、妻の夢を見ていた気がする。この慌ただしい日々も、あの夢の懐かしく幸せな感触がグリュックの心を温めてくれていた。思い出の甘さを反芻するように茶器の底に残った小さな氷砂糖の塊を噛み砕き飲み込む。
「グリュック様。触れてもよろしいでしょうか?」
突然、マハトがそんなことを聞いてきた。お茶のおかわりを尋ねるような態度だった。
「急だな。」
「いけませんか?」
拗ねた言い方に聞こえるが、マハトの表情も仕草も普段と全く変わりがない。彼は手際よく茶器を片付け、返事を求めるようにグリュックに近付き微笑む。
「かまわないが、手短に。傷はつけるな。明日も仕事だ。」
「仰せの通りに。」
グリュックは、きっかけのない申し出に少々驚いていた。
(普段なら夜会で粉をかけられただとか、何か珍しいものを本で見ただとか、何か理由があるのだが。)
そんなことを考えながらマハトの赤い手袋が抜き取られるのをグリュックはぼんやりと見つめた。
最近、彼が触れてくる時には必ずそうするのだ。何故だろうとは思うが、疲労で重い頭は、砂糖入りの紅茶程度では冴えてくれない。
手袋の下から現れるのは、作り物のように滑らかな手だ。白く長い指がうっすらと光るようにさえ思える。それがゆっくりと近づきグリュックの顎を捉えた。
共に過ごす年月の中で、何度このような事を許したのだろうか。
この魔族との契約の条件は、悪意や罪悪感を理解させること。それを彼が理解できるか正直なところわからない。
彼との年月を重ねる度、もしかしたら難しいのでは?との思いも強くなる。焦れたマハトがいつ研究を辞めるかもわからない。
しかし、マハトは悪意や罪悪感の他にも、グリュック自身に興味を持っているように見える。グリュックそのものへの興味を失わない限りは、おそらく協力するのだろう。
(これは、保険だ。)
そう自分に言い訳をしながら、求められるままずるずるとこの関係を続けてしまっていた。理性ではわかっている。これは行き過ぎている。
それにこの不毛な関係は、肉体の触れ合いから得られる浅ましい己の欲を満たそうとしているだけではないかとも。
そんな迷いなどまるで知らないように、マハトは目を開けたままグリュックに顔を寄せてきた。グリュックは目を閉じ、彼の噛みつくような口づけを受け入れるため唇をわずかに開く。
最初に彼の唇が触れたのはグリュックの額だった。
「‥?」
不思議なほど優しい触れ方だった。グリュックの頬に触れる指先は熱く、軽く音を立て触れた唇はひたすら甘い。マハトの白い指先が、その感触を楽しむように頬の表面を何度も滑った。まるで「愛しい」と指先で語るような触れ方だった。
「愛している。」
吐息交じりに呟かれ、再び口づけられる。
(また、何かで学んだようだな。他所では試さないよう言い含めねば。)
グリュックは少々呆れながら、その勤勉さに感心もしていた。
普段であれば舌を絡め引き摺り出そうとし、食いちぎるのを堪えるように何度も噛み、浅い傷口から滲む血を唾液ごと飲み干そうとするのに。今はグリュックの反応を確かめるような振る舞いで、グリュックが舌先を差し入れてやればそれに応えるように優しく表面を撫でるだけだ。そのまま上顎まで擦られるとグリュックの背に甘い疼きが走った。
わずかな違和感はあったが、柔らかく触れる感覚に溶かされていく。
(甘い。)
全て飲み込んだはずなのに、口の中に氷砂糖のかけらが残っているようだ。繰り返される口づけの合間にも指が耳朶を挟むように触れ、反対の手では輪郭の全てをなぞり覚えようとするように首筋まで撫であげられる。
首筋から脳天に抜けるように痺れがゾワゾワと駆け上がり、一瞬息が詰まった。
「‥っ!」
それに気づいたマハトの唇が一度離れる。柔らかく微笑むマハト。涼し気な顔立ちと相まって、年頃のご令嬢なら頬を染めて俯いてしまうほどの、とろけそうな視線だった。
マハトの指がグリュックの肩先に延ばされ、そこにはない長い髪をすくい弄ぶような動きで何度も空を切る。
(何かが、おかしい。)
どこかぼんやりとしていた頭が氷水を注いだように冷え、意識の輪郭を形作りはじめる。
「‥マハト、離れなさい。」
固い声が出た。
「はい。」
命じられた通りにマハトはグリュックから一歩距離をとる。見つめる視線がいつもよりも熱のこもったものに見えた。
グリュックには、マハトの”これ”は観察の結果で感情を伴わないのは分かりきっている。だが、今まで彼にこんな視線を向けられたことはなかったはずなのに、何故だか覚えがある。
(君は、何を見た。何を考えている。)
曖昧な記憶をなんとか探ろうと集中するが、目の前の人工物のようなただ美しい瞳に思考が吸い込まれる。
静寂が部屋に満ちた。薄暗い部屋の冷たい石壁に、あるべきはずの音が吸い込まれ、キン、と耳鳴りさえするようだ。
それを破ったのは、マハトの穏やかな声だった。
「お顔の色がすぐれませんね。グリュック様のお心が慰められると思ったのですが。***様のようにはいきませんね。」
マハトは、失敗をとがめられた子どものように曖昧にほほ笑む。
グリュックは、耳を疑った。
「…何故。」
声が震え、手のひらにじわりと汗が滲むのをグリュックは何度も指を握り直し誤魔化す。あれは妻の名だ。マハトには、直接彼女の名を教えたことがない。使用人がこぼしたことくらいはあるかもしれないが、ヴァイゼの使用人が彼女の”愛称”を知るわけがない。
マハトが呼んだ名は、帝都にいる時にグリュックと彼女。2人だけの時に呼んでいたものだ。
あの事故の後断片的に残る、幸せな記憶。鮮やかな感覚に違和感はあった。
「答えなさい。何故、その呼び名を知っている。」
思わず語気が強くなった。
「先日の事故の時、グリュック様が私に向かって仰いました。」
「どういうことだ?」
マハトは、先日の事故の時にあったことを語りだした。グリュックの監視をかって出た事、その後の出来事その全てを。
にわかには信じられないが、マハトがグリュックに嘘をつく理由がない。推測が確信に変わる。
事故の治療後、精神魔法の専門家はグリュックから症状を聞きとり首を捻った。
「体の感覚まで影響することはほとんどないはずなのですが…。おそらく記憶が混乱された名残でしょうが、何か問題があればご相談を。」
(あの部屋には、マハトと私しかいなかった。)
いまだ記憶に鮮やかに残る、彼女の髪と唇の柔らかさ、幸せな温もり。あれは、今グリュックの目の前にいるマハトのものだった。
声が掠れる。
「君なら、止められたはずだ。」
マハトは言い淀むこともなく、するすると答えた。
「ええ。もちろん止められはしたでしょう。しかし、せっかくの機会ですので、研究にお付き合いいただきました。あれが人類の”愛情”なのですね、初めて見るグリュック様のお顔でした。人の愛をうかがい知ることができ、喜ばしく感じております。」
マハトは満足げに笑った。
「…それは、君が知りたい感情ではないだろう。必要のないことを、何故、やめなかった。」
「お体には影響がないようですし、問題ないのでは?」
「結果論だ。それに答えになっていない。何故、やめなかった。」
「そうですね…何故でしょうか。」
首を傾げ、マハトはまた微笑む。その目はひどく優しげだ。グリュックに向けられたそれが、愛情であると思えてしまうほどに。
大切なものを踏みにじられた、と思った。
まだ帝都に暮らしていた時のこと。グリュックは野心に燃えた若い男だった。何かを仕掛ければ面白いほどうまく行き、寝食を忘れるほど仕事に打ち込んでいた。その頃娶ったばかりの妻とは政略結婚であったが、そんなことなど何の障害にもならないほどグリュックは彼女に夢中だった。
賢く、優しく、強い女性だった。
背中に流れる柔らかな長い髪に、柔らかな頬や小ぶりの耳に触れるのが好きだった。
淑やかな見た目に反して闊達な性格が好きだった。グリュックが少し無理をすれば貴族の娘らしい美しい言葉で、そのくせ容赦なく叱り、無理矢理にでも食事を取らせ、強く抱き締めてくれる乱暴な優しさが好きだった。 抱き合えば温かく溶けるように満たされるなんて知らなかった。「愛している。」と言うと、はにかみながら「私も愛しております。」とこたえる姿が好きだった。
ずっと大切に心の中にしまいこんでいた。
息子の無念を思い、相手を憎み殺してしまいそうな時。何よりも大切な娘のことすら忘れて、何もかもを捨ててしまいそうな時。彼岸から手招きする悪魔たちに吸い込まれそうな時。 そんな時に、ガラスの箱に仕舞い込んだ宝物のように、時折取り出して眺めていた妻との幸せで大切な記憶。
そんなものまで、マハトは興味の赴くまま学習だ、研究だと言い無邪気に踏みにじっていく。
怒りが湧き上がる。しかし、その白い頬を殴り飛ばし、目の前の赤い髪を力任せに掴み、感情の赴くままがなり立てたとしても恐らく何も変わらない。
「‥マハト」
自分でもゾッとする程の冷たい声が出た。
「はい」
「君が私の妻の名を呼ぶことは許さない。次にその名を呼んだ時は覚悟をしろ。君を殺してやりたいが私は君を殺せないだろう。私を殺せ。」
「それは、かまいませんが。」
おや。とでも言いたげな顔を見せるマハト。グリュックが怒っているのはわかっていても、その怒りの理由など知る由もないのだろう。
これが魔族だ。
「殺したら、全部食ってしまえ。骨の一欠片、髪の一筋も残すことは許さない。」
「‥大変魅力的なお誘いですね」
マハトが口を開き、化け物そのものの笑みを形作った。グリュックは冷えた目でその笑みを眺め吐き捨てる。
「それで終いだ。君が悪意や罪悪感を知ることは、未来永劫叶わないと思え。」
「それは困りました。」
ほんの少しだけ眉を寄せたマハト。
その出来のいい人形のような顔を見ながら、グリュックは考えていた。
(命じれば、マハトは私を全て喰らい尽くすはずだ。)
マハトの記憶力には恐ろしいものがある。きっとグリュックのこの呪いの言葉を、永遠にも近い生涯忘れることはないだろう。
(私は自らの体を贄にして君を呪ってやる。君の髪の一筋、肉の一かけらになって。)
そして、グリュックを食らったその先で。マハトがその有り余る時間を使って、その勤勉さとひたむきさで人類を知ろうとするたびに、耳元で囁いてやるのだ。
「君の夢は、永遠に叶わない。」