伝統芸能 猫の日猫の日
「おはようございにゃ…ニャ!」
朝、ボウルに水をもってきたメイドが、青い顔で妙な言い方をした。
「どうしたニャ。」
ニャ?グリュックも思わず口を押える
「これは…何ニャ。」
「申し訳ございニャせん、朝から、館の者が皆こうなのですニャ。先ほど司祭様をお呼びしたのですが、にゃにがしかの呪いではニャいかと…」
「グリュック様、おはようございますニャ。」
領主の寝室に入ってきた赤い髪の彼も、いつも通りの微笑みで、いつもと違うことを言った。
「まさか、君までとはニャ。」
「人と魔族、共通して発動するとは面白い魔法ですニャ。しかし、害意はなさそうですニャ。ほおっておいてよろしいのでニャ?」
「…その顔でそれはやめニャさい。」
笑っていいのか、困っていいのかわからない。
ざっと聞き取った限り、語尾がやたらと呑気なものになるだけで、執務に影響はなさそうなので、1日様子を見ることにした。
部下も皆ニャアニャア言っている。
「本日の予定ですニャ。先方から変更の連絡ニャ。はやり病に罹ってしまったそうですニャ。」
「わかったニャ。では、その時間には別件の打ち合わせを入れるニャ。」
どうにもこうにも締まらない。
執務には影響がないと思っていたが、大ありだった。グリュックがいつもと同じ顔でいつもと同じ指示を出すだけなのに、周りが微笑んだり、笑いをこらえているのがわかるからだ。
閉口したグリュックは「声が出なくなった時の訓練だ」身振り、筆談などで執務を続けることにした。
意外と何とかなるものだニャ、と午後の執務がひと段落付いた段階でマハトが紅茶の準備を始めた。
「グリュック様、どうぞニャ。」
自分の言い様に、館の者が笑ってしまった気持ちはわかる。彼がいつもと同じ顔で、いつもと同じ微笑みを浮かべながらにゃあにゃあ言っているのは、確かに大変滑稽だ。
「グリュック様、今日は館の者の笑顔が多いですニャ。」
「そうだニャ。」
「いっそのこと、この呪いを固定してしまいましょうかニャ。」
「それは御免だニャ。」
そういえば朝食の席で、こんな異常事態なのに、娘は楽しそうにニャアニャア言っていた。我が娘ながら肝が据わっている。そして、娘が幼いころに「お父様、これから私は猫ちゃんね。お父様もよ。」とごっこあそびに付き合った時のことを思いだした。あれは大層愛らしかった。可愛らしい思い出に微笑みながらひと口紅茶を含む。
「熱!」
どうやら味覚まで猫舌になってしまったようだ。ひどく熱い。
「不便ニャ‥。」
紅茶は熱めが好みなのに。ひりつく舌を口の中でもごもごさせていると、マハトまでもおさまりの悪い顔で言う。
「グリュック様、どうやら私の舌もおかしくにゃったようですニャ。」
「何?見せてみニャさい。」
この魔族は強大な魔力を持っていて、呪いにも魔法にも強い耐性がある。それなのにその体を変化させるような強力な魔法など、今後どのような影響があるのだ、と恐ろしくなった。力のある司祭を帝都から呼ばなくてはならないだろうか‥しかし魔族に女神様の魔法は‥
「ニャ。ン‥。」
いきなり口づけられた。マハトの長い指が頬をおさえ、いつもより薄く平たく感じる舌を滑り込ませてくる。
ざり‥ざり・・とざらざらした表面が口内をこそげた。
「ニャ、あ、ング…。」
舌の長さは変わらないのか、マハトの舌は口内を丁寧に舐った。薄い舌を絡ませ、ざらつく表面を磨くように何度も往復した後、のどの奥の柔らかいところまでざりりと舐めあげられ、思わずぎゅう、と喉の奥が締まる。
「ん、ニャ‥」
苦しい、でも、やけに気持いい。グリュックの体の力が抜け、目が潤む。
こんな日の高いうちから、はしたないことをしている自覚はあった。でも、もう少しだけ‥そう思いマハトの頬に両手を伸ばした瞬間、マハトがその顔を急に離した。
「おや、戻りましたね。」
「…そのようだな。」
舌のざらつきも、火傷の痛みも、妙な語尾も、全てが元に戻っていた。部屋のドアをたたく音が聞こえ「火急の事態にて、こちらから失礼いたします。解呪に成功しました!」と弾む使用人の声が聞こえた。
「それは良かった。」
声にこたえ、マハトの所為で濡れた唇を拭いながら、口直しに冷めた残りの紅茶を飲み干す。
「グリュック様。」
「何だ。」
「本日のグリュック様は大変楽しそうでした。…もしお望みでしたら、猫になる魔法を研究したいと思いますが、いかがでしょうか。」
そういいながら、人の形によく似ているのにどこか違う舌をべろりと出してきたので、
「…それはやめるように。こんな日はもうこりごりだ。」
そうは言いながら、あの不思議な感覚の口づけだけは少し、ほんの少し惜しい気持ちもあったことは秘密にしておこうと思った。