三日月本当にたくさんのことがあって、いろんな葛藤の末に、互いのことを認めて仲良くなれたことを、心から嬉しく思っている。
最初こそ恐縮していたけれど、あの人はとても真っ直ぐに俺のことを見て言葉をかけてくれるから、それに応えたいと自然と思えるようになっていった。
そして今や、こうして2人きりで晩飯に行けるまでの仲になった。こんな夢みたいなこと、奇跡としか言いようがない。
「おい、狗丸。どうしたんだよボーッとして」
「え!い、いや、なんでもないです」
「ふーん。まあいいけど」
「八乙女さん、次何飲みます?そろそろやめとく?」
「さん付けしなくていいって」
「ぅ、えと、はい……」
「狗丸が飲むなら飲もうかな」
「あ、じゃあもう一杯だけ」
軽くご飯食べてすぐ帰るって話だったのに、気付いたら本格的な飲み会になっていた。「明日に響かないといいな」なんて笑ってくれる八乙女さんのことを、俺は眩しいような気持ちで見ていた。
夜はまだ冷える、そんな季節。
店を出て涼しい風を浴びながら、ふと空を見上げる。雲一つない空に月が浮かんでいる。
「わ、すげぇ」
思わず声を上げると、八乙女さんも俺の視線を追って空を見た。
「ああ、三日月か」
「あんな細いのにすっげぇ明るく見える」
「本当だ。綺麗だな」
「はい」
いわゆる上弦の月、というやつだ。指で押し潰したら無くなってしまうんじゃないかと思うくらい細く、それなのにこの夜の全てを照らしているんじゃないかと思うくらい強く輝いていた。
「八乙女さん、やっぱり似合いますね。三日月」
「もしかしてクレセント・ウルフか?」
「そうそう。あれ本当にすごかったから、印象に残ってて」
美しくて儚くて、最高にカッコよかった。公演の模様を収録したブルーレイディスクも発売されて、実は密かに買って持っている。
「あの時の八乙女さん、すごくカッコよくて好きっす」
「へえ、好きなんだ」
「え!?あ、いや違、変な意味じゃなくて!その、え、演技とかそういう、そういうのが良いなって話で」
「分かった分かった。ありがとな、褒めてくれて」
自分でもなんでこんなに焦っているのか分からない。八乙女さんが軽く流してくれて救われた。
ほんの少し月に見惚れて足を止めている間に、八乙女さんは少しだけ先を歩いていた。
慌てて追いかけようとしたところで、彼が振り返る。
「なあ、狗丸。今の俺は?」
「え?」
「今の俺のことは好きか?」
息が止まる。時間すら止まったような感覚がした。
八乙女さんの真上に三日月が浮かんで見える。
どうしようもなく綺麗だった。
心の奥から熱い感情が湧き出てくるのが分かる。
ああ、俺、この人のことが。
俺は一言も返事をせず、ただ彼のまっすぐな目を見つめ返すことしかできなかった。
八乙女さんが「困らせて悪かった」と口を開くまで、ほんの少しも動けなかった。
あれから事あるごとに八乙女さんのことが脳裏にチラついて一向に消える気配がない。親愛とか尊敬とか、いろんな言葉で誤魔化そうと頑張ったけれどダメだった。とある夜、同性に抱くにはあまりにも爛れた劣情が湧いた時には、頭をかち割って二度と考え事なんかできないようにしてやりたいほどだった。
誰がどう見ても、この感情が間違いだと分かる。
罪と呼ぶに相応しい、卑しい想いだ。
「狗丸さん、大丈夫ですか?」
夜。仕事が終わり、ŹOOĻの4人で外を歩いている時にミナに声をかけられハッとする。ボーッとして3人に置いて行かれるところだった。
「悪い悪い、何でもねーよ」
「そうですか?それにしては何やら思い悩んでいたような」
「大丈夫だって。ほら行こうぜ」
ハルとトラも不思議そうな顔をしていたが、俺はそれらを振り切って大股で歩き出す。3人を抜かして先頭に躍り出たところで、建物の間に浮かぶ月が目に入った。
あの時より幾分か太った三日月。
「わー、月がすごい綺麗に見える!」
ハルがすぐに気付いて指を指す。全員が立ち止まって空を見上げる。
「………あー」
無意識に声が漏れていた。
「いやだなぁ、こんなの……」
どんなに振り切っても、八乙女さんの笑顔が脳裏から消えない。
この先ずっと、どれだけ頑張って考えないようにしても、きっと三日月を目にするたびに思い出すんだろう。そんな絶望的なことがあるかよ。こんな情けないことが、あるかよ。
ふいに視界が滲んで、グッと歯を食いしばる。泣くなんてダメだ。3人に見られたらどうなるか分からない。
誰にもバレちゃいけない。どうにかしてこの感情を殺さなければ。早く、どんな手を使っても。
それから数週間後。
「狗丸!」
怒気を孕んだ八乙女さんの声がして身体が強張る。恐る恐る振り返ると、声色の通り怒った様子の彼が足早に近寄って来ていた。
「俺に何か言うことはないか」
「いや、別に、ないです」
「嘘つくな。散々俺のこと避けてただろ」
その通り。俺はあの三日月の夜以来、八乙女さんと二人で話す機会を作らないように徹底して避けてきた。連絡も無難な言葉だけを返し、飯の誘いも何かと理由をつけて断り続けてきたのだ。
怒るのも無理はない。だけど、俺はそうする以外の選択肢がなかった。仕方なかったんだ。
「嫌な思いをさせたなら謝る。俺の悪いところ全部教えてくれ」
何も答えられない。だって、八乙女さんの悪いところなんか一つもない。
俺が黙って俯いていると、ため息が聞こえた。怖くて顔を上げられない。
少しだけ間があって、先ほどよりも小さな声で八乙女さんは囁くように言った。
「……あの時の、あれが嫌だったのか」
「………」
「好きか?って聞いたやつ。あれだろ」
まあ、バレバレだよな。
深掘りされても困るので頷けない。しかし無言は肯定と同義だ。八乙女さんは「だよな」と呟く。
「悪かった。せっかく褒めてくれたのに、茶化すみたいになっちまって」
「……別に、八乙女さんが悪いわけじゃ、ない」
「それでもこうなってる原因がアレなら俺が悪い。ちゃんと謝りたい。ごめん」
見なくても分かる。八乙女さんは頭を下げてる。
もう限界だった。黙っていても彼が自分のせいだと言い続けるだけだ。
違うって言わなきゃ。そして、もう二度と俺と仲直りしたいなんて思わせないようにしなきゃ。
「…………ダメなんだよ」
俯いたまま、掠れた声を出す。聞こえなかったかもしれないと心配だったけど、八乙女さんは「ん?」と優しく距離を詰めて耳をすまして聞いてくれている。
「ダメなんだ、あの日からずっと、あんたのことが頭から離れなくて」
涙が地面に落ちるのが見えて、慌てて顔を上げる。八乙女さんと目が合ってしまった。彼は驚いた顔をして、それから眉間に皺を寄せる。
「わ、忘れたくても、全然ダメで。距離置いても夜に空を見ると思い出しちまって。俺、こんな汚い感情持ったまま生きていくの嫌だ」
「汚い感情ってなんだよ」
「言いたくない。少なくとも、八乙女さんの中には絶対に無いものだよ」
冷たくしたいわけじゃない。でも、目が合うたびに「好きだ」と悲鳴を上げる心を抑えつけるにはそれしかなかった。八乙女さんは俺の言葉をどんなふうに捉えるんだろう。俺はこの人に、どう思われたら正解なんだろう。
「……………分かった」
八乙女さんはたっぷり時間を使って考えて、それから小さく頷いた。ああ、伝わった。伝わってしまった。俺が正常な気持ちでそばに居られないことを、彼は分かってくれたんだ。
八乙女さんが一歩前に出る。必然的に俺との距離が縮まる。ただでさえ近くに居たのに、どうして?
疑問に思う暇もなく、彼の手が俺の頬に触れた。
「だったら、ずっと苦しんでいればいい」
真剣な眼差し。逃げ出したいのに目を逸せない。
「ずっと俺のこと想って、そうやって泣いててくれ。三日月を見るたびに必ず思い出して」
「……なん、で」
「その代わり俺も苦しむから」
八乙女さんは笑った。
あの日の笑顔と少しだけ似ているような気がした。
「大事な人に想いが伝わらない苦しみを、いつまでもずっと心に抱き続けるよ」
言葉の意味がちゃんと読み取れなくて、俺はひたすら泣くことしかできない。
それでも彼の意志を守りたくて、優しいその表情に甘えたくて、無意識に頷いていた。
「分かった」
ガラガラの声で返事をする。
八乙女さんは頬に添えていた手を俺の肩に置こうとして、躊躇うように空中に浮かせたまま力なく握って引っ込めた。
「ありがとな、狗丸」
その時にやっと分かった。多分俺の考えてることが伝わって、八乙女さんも同じように何かを抑えてくれている。
お互いに傷付かないように。
お互いのことを傷付けないように。
それが正しいかどうか、俺たちには分からない。
でも一つだけ救われた想いがある。
どんなに醜い形でも、どんなに苦しくても、俺、この人のことを好きでいていいんだ。
俺は八乙女さんに手を伸ばした。だけどすぐにいけないことだと思い直して引っ込める。
彼はひどく驚いた顔をして、それから泣きそうな表情で、とても嬉しそうに、笑った。