キスの日フロマティ 幼い頃、母におはようのキスを貰ったことはある。
額に軽く口付けるだけの簡単なもので、そこに情熱性は一切なく、我が子を想う純粋な気持ちだけが込められた温かいものであったことを覚えている。だからこそ、フロリアンから送られる「おはようのキス」がおかしいことには気づいていた。
「おはよう、マティアス!」
朝、フロリアンは私を見つけると嬉しそうに駆け寄ってくる。人懐っこい笑みを浮かべたまま私を抱き寄せ、鋭く尖った歯の覗く唇をむちゅ、と押し付けてキスをしてくる。当然のように唇同士を触れ合わせ、彼はうっとりと目を伏せて食むように唇を動かすのだ。
「……おはよう」
「んん、ちゅ……ぷはっ。ふふ、今日も頑張ろうね」
「ああ……」
朝目が覚めたら身支度を整え、朝食のために部屋を出て、フロリアンと鉢合わせて、おはようのキスをする。これが朝のルーティンである。
いつからこのルーティンが始まったのかは覚えていないが、いつの日からか「僕の生国では朝起きたら親しい人にキスをするんだよ」とフロリアンが言ったことから始まった気がする。そもそも私達はそこまで親しくないだとか、そんな習慣は聞いたことがないだとか、私の意見は一蹴されたままこの奇妙なルーティンは続いている。フロリアンがあまりにも嬉しそうにキスをするものだから、拒み切れないというのも本音だ。
「今から朝食かい?」
「うん」
「なら一緒に食べよう。今朝は何が出るかなぁ」
私はフロリアンと並んで食堂に向かって歩き始めた。朝の廊下はすっきりとした風が吹き込んでいて涼しい。遠くの森から野鳥の鳴き声が響き渡る。
食堂からは既に賑やかな客人達の声が聞こえ、我々は扉を開けて中へ入った。ふんわりとしたスクランブルエッグとケチャップの匂いが鼻を掠めた。
長テーブルの端に居場所を陣取ると、まもなくして料理が運ばれてきた。ここの執事達は膨大な参加者達の様子を如何にして把握しているのかはわからないが、優秀な者達であることはわかる。賑わいに混じって食堂へ入ってきた我々の様子もしっかりと見られていたらしく、まるで初めから用意されていたかのように皿が並べられた。監視されているみたいで気分が悪いが、荘園の参加者である以上仕方がない。
「わ、美味しそう」
フロリアンが歓声を上げた。
我々の前に出されたのは、ケチャップが添えられたスクランブルエッグとハムチーズの乗ったトースト、フルーツサラダであった。元来少食である私にはやや量が多いように思える。余ったらフロリアンに押し付けよう、と思いながら、私はトーストを手に取った。
横ではフロリアンが大きな口で料理を次々と頬張っている。彼は食べるのが私よりも速いし、よく食べる。健康的なことだ、と他人事のように思いながらもそもそとトーストを齧り、口の中に広がるハムの塩気をゆっくりと咀嚼する。分厚いハムは荘園のキッチンで熟成されたものなのか、質が良い。ハム一つ取っても一級品なのは流石だ、と感心する。
グラスコップに並々と注がれた牛乳をちびちび啜っていると、フロリアンが不意にこちらを向いた。
「マティアス、お腹空いてないの?」
私は首を傾げた。が、すぐに言いたいことを察する。
彼の目の前の皿はほとんど片付けられているのに対し、私の皿は小ネズミに齧られたような痕の付いたトーストと、ほとんど手を付けられていないスクランブルエッグとサラダが残っていたからだ。
フロリアンは心配そうに眉を下げ、「もしかして具合悪い?」と聞いた。
「ならエミリーさんに診てもらった方がいいんじゃ……」
「いや、大丈夫だよ。私は元々あまり食べないんだ」
「そんなんじゃ今日のゲーム保たないよ。もう少し食べた方がいい」
「そう言われても……」
フロリアンはスプーンを取ると、スクランブルエッグを掬って私に差し出した。「はい、あーん」と言っている。
「や、やめてよ……いらない」
「駄目。ちゃんと食べるまでやめないからね」
「皆見てるからやめてくれ……ほら、ナワーブがすごい顔してる」
「周りの目は気にしないで。食べないと口移ししちゃうよ」
それは困る。私は仕方なく口を開け、スプーンを頬張った。口の中に甘めの卵の味が広がり、甘酸っぱいケチャップがそれと混ざり合って舌の上で蕩ける。柔らかい卵はあっという間に消え、喉の奥をごくりと通っていった。それを見てフロリアンは満足げに微笑む。
「美味しいでしょ?」
「う、うん……でももういいよ……」
「だぁめ。ほら、もっと食べて」
フロリアンは次々とスプーンを差し出し、私は衆目に晒されながらそれを食べるしかなかった。恥ずかしくなって「も、もうお腹いっぱいだよ……」と言うと、彼は「ええ?もう?」と不服そうに眉を顰めた。
「じゃあお昼はもっと頑張ろうね」
「まだ続くのかい……?そんなに食べられないってば……」
「君がちゃんと食べるようになるまで僕は諦めないからね」
ふとフロリアンは「あっ」と声を上げた。なんだろうと思って顔を向けると、彼は「ふふ」と笑って私にずいっと顔を近づけた。
「マティアス、ケチャップ付いてる」
「え?」
「ほら、ここ」
そう言ってベロォ、と唇の端が舐め上げられた。「ひゃあっ」と思わず悲鳴を上げて仰け反る。彼は真っ赤なケチャップを舌の上に乗せたままにやにやし、それをぺろりと口内に収めてしまった。
「かぁわいい」
「も、もう、揶揄うのはよしてくれ……」
「お昼も一緒に食べようね。また食べさせてあげる」
「え、遠慮するよ……」
不意に向かいの席からボソ、と声が掛かった。ナワーブが頬杖を付き、スプーンを咥えたまますごい顔をしている。
「……お前ら付き合ってんの?」
「え……いや……?」
「ん?まだだよ?」
ナワーブは「あ、そう……」と言って再び黙々と目の前の皿に取り掛かった。「なんか腹一杯になってきたな」と唸っている。大食漢な彼が珍しいことを言うものだ。
フロリアンはにっこりと笑って立ち上がり、私の手を引いた。
「さ、ゲーム頑張ろう!」
私は彼に連れられて、慌ただしく食堂を出ていった。彼に食育をされて私が若干ムチムチになるまで、あと数日……。