死神【死神】
八左ヱ門の懐には密書が入っている。
捕らえられ、拷問され、この偽手紙が敵の手に渡る──そうして命を落とすことで策は成る。それが任務だった。
いよいよ勤めを果たす前夜、最後の下見を、と目的の城に忍び込もうとした時だ。
旧知の男に声をかけられた。
「八左ヱ門、久しいな」
思わずその場に凍りついた。この声、この調子。
「勘右衛門……!」
八左ヱ門の背筋に冷たいものが走る。かつての同胞が、なぜここに──。
まずいことになった。
連れられて来たのは、例の城から程近い山中の破れ寺だった。剥がれた屋根と崩れた壁から、月の光が影を落としている。
打ち捨てられた仏像の前で、二人は杯を重ねた。八左ヱ門は昔の同胞の表情を窺う。勘右衛門の飄々とした面持ちはあの頃のまま、しかし、なにひとつ心の内を覗かせない。
かつての学園の同級生たちの消息はおおかた知れている。兵助は国許に戻り山守を継いだ。雷蔵と三郎は同じ城で双忍として名を上げている。ただ勘右衛門の行方だけが、これまで杳として知れなかった。
まさかあの城に仕えていたとは──。
「蛍火の術だろ」
静かな声に、八左ヱ門は息を呑んだ。
「……なんのことだ」
はぐらかしても無駄だった。相手が悪い。互いの手の内など、とうに知り尽くしている仲だ。
「やめておけ」
勘右衛門はきっぱりと言い切った。
「そういうわけには……」
「お前が命まで賭ける義理も筋合いもないだろう。勤めてわずか数年の忍びに死間の役目を押し付けるとは、上の采配が浅はかだ」
「しかし……」
「郷里の親兄弟は知ってるのか? 兵助やあの二人にも言ってないんだろ」
八左ヱ門は視線を伏せる。──言えるわけがないではないか。
「孫兵にはどう伝える」
もっとも痛いところを突かれた。
「あいつ、泣くだろうなあ」
あの学園にいた頃、ふたりの仲は周知の事実だった。
年下の後輩への想いを周囲に知られた折には、散々からかわれたものだ。とりわけ勘右衛門は三郎と共に、実に容赦のない手加減だった。
だが、人一倍不器用な八左ヱ門の恋を見守り、時に背を押したのもまた勘右衛門だった。だからこそ彼は、八左ヱ門の胸の内を知り尽くしている。その最大の未練も。
「この件から降りろ」
「……それがお前の仕事なのか」
「そうじゃない」
「勘右衛門はあの城の忍びなんだろう。それで俺を懐柔して策を事前に防ごうと──」
「お前の寿命はまだ尽きない。策は失敗する」
「なぜわかる」
勘右衛門はわざとらしいほどに大きな溜息をついた。
「俺な、死神なんだ」
「……嘘をつくにしてももう少しましなものがあるだろう」
「信じなくとも良い。仮にお前の言う通り、俺があの城の忍びだったとすれば、すでにその策はバレている。どのみち失敗することに変わりはない」
「……それはそうだが」
「どうせなら五体満足で逃げ延びて、孫兵とふたりで暮らすがいいさ。悔いを残さないようにな」
死神うんぬんは置いて置くとしても、勘右衛門の言うことにも一理ある。八左ヱ門の内に迷いが芽生える。
「竹谷八左ヱ門は今日ここで死んだんだ。国を出て、名を変えて、医者でもやればいい」
「──医者? 虫や獣の具合を診るのならともかく、」
八左ヱ門に医術の心得はない。あの学び舎で叩き込まれた、最低限の処置と本草の知識がせいぜいだ。
「伊作先輩でもあるまいに、医者って、」
「どうせ正体を明かしたんだ。友達のよしみで助けてやる。病を得た人間の寝床の側には、必ず死神が座っている。お前にそれが見えるようにしてやろう」
「勘右衛門、なにを言ってるんだ」
「まあ聞け。死神の座る位置が枕元だった場合は、もう助からない。じきに寿命が尽きる。だが足元に座っているとき、これはまだ助かる。そのときは呪文を唱えるんだ。するとたちまち死神は消える」
八左ヱ門は言葉を失った。異様な話に戸惑いながらも、勘右衛門の真剣な表情に、いつもの冗談とは違うと直感する。
「死神さえいなくなれば病は治る。呪文は──」
おごそか、と言っていい調子で、彼は珍妙な呪文を唱えた。いわく、あじゃらかもくれんてけれっつのぱあ。
「覚えたか?」
「……あじゃらか、もくれん、てけれっつのぱあ」
言い終わるとほぼ同時に、勘右衛門は消えた。
「おい、どこへ……」
──なるほど、呪文を唱えれば死神は消えるということか。手が込みすぎている。ここまで来ると忍びの技と言うよりも、もはや幻術の域だ。あるいはそれも、戦意を削ぐための手管か。
確かにそれは功を奏した。
八左ヱ門は、すっかり萎えていた。
そうして、夜明けを待たず、身一つで出奔の道を選んだ。
見知らぬ土地で日々の糧を得るのには、ずいぶん苦労した。とはいえ一度は捨てた命、なんとかやりようはあるものだ。野良仕事と、ときおり声の掛かる合戦の足軽稼業で糊口をしのぎ、どうにか活計は立った。
追手の影におびえる抜け忍の身でありながら、細々と、だが穏やかな日々を過ごしていた頃のことだ。
近隣の百姓が長患いに伏せっていると聞いた。
日々の食扶持にも事欠くような貧しい村だ。医者や薬師を呼ぶ銭などあろうはずもない。
身元も知れない八左ヱ門を受け入れ、暮らしを成り立たせてくれた村人への恩を思えば、黙って見過ごすわけにもいかなかった。──あの頃学んだ知識が、多少なりとも役立てばよいのだが。わずかな可能性に賭けて、見舞いに赴いた。
そうして出向いた先の傷んだあばら家で、板の間の筵に横たわる病人の足元。見慣れぬ人影を見つけた。不吉な気配を纏う白髪の老人が、腰を下ろしている。
「……この方は、どなたですか」
「なんのことだ?」
周囲の者たちの様子を窺うに、老人の姿は八左ヱ門にしか見えていないらしい。
八左ヱ門の脳裏に、勘右衛門との会話が蘇る。──死神。
足元だ。あの話がもし本当だったとすれば──。震える声で、例の呪文を唱える。
あじゃらかもくれんてけれっつのぱあ。
老人は驚愕の表情を浮かべ、煙のように姿を消した。
見る間に、病人の顔に血の気が戻る。半刻と待たずに、彼は起き上がれるようになった。
村人たちの驚きようといったらなかった。
たちまち、八左ヱ門の噂は広まった。
寝込む病人のある家から次々と声が掛かる。どの病人のかたわらにも必ず死神の姿があった。それが足元ならば呪文を唱え、枕元ならば黙って首を振る。
幾多の死神が現れては消えた。しかし、その中に勘右衛門の姿はなかった。
一文の銭も取らずに病を治してくれる、そんじょそこらの医者も敵わない腕前だ──。いまでは、遠くの村からわざわざ八左ヱ門を訪ねて来るものもあった。
その日も八左ヱ門の住まう小屋の戸を叩く者があった。
がたつく引き戸を開けた先には、伊作の姿があった。
互いの姿に一瞬言葉を失ったものの、忍びの心得ある者同士、感情に呑まれてばかりもいられない。八左ヱ門は無言のまま来客を迎え入れ、音を立てて戸を閉めた。
「驚いた。君が医者とはね」
「……あなたみたいな医術はありません。俺のはしょせん、まじないみたいなもんで──」
「まじないでもなんでも、それで治るなら立派なものさ」
伊作は粗末な小屋の中身を見渡すと、何かを悟ったように目を伏せた。
「名前も生業も変えたというわけか。詳しいことは聞かずにおくよ」
正直なところ助かった。昔から察しの良い人だった。
「……要件は、」
あの学園で医術と言えば伊作だった。その彼が、なぜ己のようなまがいものの医者を──。
「僕には治せない患者がいてね。このところ評判の君を頼って来た」
「寿命の尽きる者は、俺にも治せないですよ」
「患者は伊賀崎孫兵だ」
その名に、八左ヱ門の呼吸が止まった。粗末な小屋の空気が、一瞬で凍りついたように感じる。
「──孫兵が?」
「今は僕の診療所に寝かせてある。満身創痍で担ぎ込まれて来たときは肝が冷えたよ。傷は縫ったものの、熱が下がらない。意識も戻らないままだ」
「……容態は」
「僕の見立てでは、もって数日というところだ。だが、あの学園の後輩を、そう簡単には諦めきれなくてね」
ほうぼう手を尽くして、君の噂に行き着いた、と伊作は告げた。
「ともかく一度診てやってくれないか」
二人は急ぎ足で小屋を後にした。
どうか、どうか足元であってくれ──。藁にも縋る心地で通された部屋を見回す八左ヱ門の面が青ざめた。
枕元には、勘右衛門が座っていた。
八左ヱ門は息を呑む。思わず伊作の顔を窺うが、彼の表情に動揺の色はない。
「……伊作先輩、枕元に、なにも見えませんか」
「なんのことだい?」
「無駄だ」勘右衛門が口をはさむ。「今の俺はお前にしか見えない」
「……先輩、しばらく俺と孫兵をふたりにしてください」
伊作が部屋を出るや否や、八左ヱ門は勘右衛門に掴みかかった。
「どういうつもりだ!」
「決まってることなんだ。俺だってこんな役割はごめんだよ」
「だからって、こんな……!」
「お前こそ、せっかく助けてやったのに、孫兵に会いもしなかっただろう」
「それは……」
抜け忍の自分が、彼の前におめおめと姿を表せるわけがないではないか。いつか暮らしが落ち着いたら、いつかもっとましな身分になれたら──。そう思い続けてきた。
「言っただろう。孫兵と暮らせって、悔いを残すなって」
「まさか、こうなることがわかっていて……」
「お前は間違えたんだよ」
胸ぐらを掴む八左ヱ門の手を、勘右衛門はそっとほどいた。
「頼む、どうか、なんとかならないのか」
今度は懇願し始めた八左ヱ門を、勘右衛門は憐れむような目で見た。
「あじゃらかもくれん──」
「枕元の死神には、その呪文は効かない」
八左ヱ門はその場にへたり込んだ。震える手で孫兵に縋り付く。
数年ぶりに目にした彼は、病にすっかり窶れ、見る影もない。
乾いた肌、落ち窪んだ瞼、熱にひび割れた唇。苦しげに目を閉じたその顔は、それでもあの頃の面影を色濃く残していた。
八左ヱ門の記憶に焼き付いた屈託のない笑顔。耳朶に残る、自分を呼ぶ低く甘い声。そのすべてが、もう二度と戻らないというのか。
堰を切ったように込み上げる想いに、堪えきれない嗚咽が漏れた。
「明日の夜明けまでだ」
勘右衛門は目を伏せた。
「俺はこの場を離れられんが、後ろを向いててやる。それまでに別れを済ませろ」
それきり彼は背を向けた。
部屋に響くのは八左ヱ門の啜り泣きと、孫兵に語りかける声だけだ。
苦しいだろう、長く放っておいてすまなかった。──答える声はない。
やがて、八左ヱ門は、呪文を唱え始めた。もはや体面も体裁もかなぐり捨てて、このふざけた響きの呪文に、一縷の望みをかけて縋った。
勘右衛門は一度振り返り、ふたりのようすを目にすると、見るに堪えないとばかりに、黙ってふたたび背を向けた。八左ヱ門はそれを意にも介さず、ただ呪文を繰り返し続けた。
──死神の座る位置が枕元だった場合は、もう助からない。だが。
孫兵を抱きあげる。
ぐったりと力の抜けた孫兵の身体を、己の胸によりかからせる。ぐらつく頭は肩口に乗せた。ぜい、ぜいと熱く掠れた息が掛かる。俺が助けてやるからな、と声を掛け、最後にきつく抱きしめる。それから。
八左ヱ門は孫兵の身体を素早く横たえた。──先程までと上下を逆にして。勘右衛門が座る場所が、孫兵にとっての枕元から足元へと変わる位置を見計らって。
あじゃらかもくれんてけれっつのぱあ!
その瞬間、勘右衛門は大きく身震いした。自分の方に足を向けた孫兵を確認し、その意味を悟ったのか、驚愕に顔を歪める。
「お前、なんてことを……!」
そうして、彼は姿を消した。
孫兵の頬には、瞬く間に赤みが差した。
もう大丈夫だ。
伊作を呼び、処置を任せる。後は彼の領域だ。
夜が開ける前に、八左ヱ門は席を外した。
外には勘右衛門が待っていた。
「……自分がどんなことをしたのかわかっているのか」
「ああ」
「……ついてこい」
先をゆく勘右衛門の後に従う。ふたりの間を気まずい沈黙が流れた。
連れて来られた先は洞穴だった。一寸先すらおぼつかないような暗闇の中を、彼の気配を頼りに進む。
しばらく歩いたところで、急に光が目に飛び込んだ。眩しい。闇に慣れた目の奥に染みる。
ようやく目が馴染むと、あたりのようすが見えてくる。
光の正体は無数のろうそくだった。地面と言わず壁と言わず、天井の近くまでを埋め尽くし、おびただしい数のろうそくが燃えている。
「──これは、」
「このろうそくは人の寿命だ。この火が消えれば、命も消える」
長いもの、短いもの、太いもの、細いもの。音を立てるほど威勢よく燃え盛るものもあれば、頼りなげに揺れる火もある。
勘右衛門はそのうちの一本を指差した。
爪の先ほどの短いろうそくの先で、小さな火が揺らめいた。
「これがお前のろうそくだ」
「……消えかかってる」
「ああ。本来のお前のろうそくはそれ──その太くて長いやつだった。さっきの件で孫兵のろうそくと入れ替わったんだ」
「そうか……」
八左ヱ門の顔に浮かぶのは、安堵の表情だった。
「おい、それでいいのか? お前は死ぬんだぞ」
勘右衛門は声を荒げた。
「孫兵の火を見てみろ」
見るからに寿命の残りをたっぷりと残すろうそくの先で、か細い火が揺れている。
「まだ火が安定してないんだ。今なら間に合う。もう一度火を入れ替えて──」
八左ヱ門は黙って首を振った。
「早くしろ、消えるぞ」
「一度は捨てた命だ。孫兵のために使えるのなら本望だよ」
勘右衛門は苛立ちを隠そうともせず手を伸ばして来た。
「どけ、俺がやる」
ろうそくに手が伸びる。
その直前。
八左ヱ門は、短いろうそくに強く息を吹きかけた。
──今度こそ間違えなかった。
最後に八左ヱ門が聞いたのは、己の身体が崩れ落ちる音と、勘右衛門の哀しげな声だった。
「ああ、火が、消えた……」