零つむ DomSubユニバース026dom/sub
01
雨の匂いに混じって漂うその臭いに、男は顔を顰めた。
普通の人ならば気付かないくらいの微かさだが、常人よりも優れた五感を持つ男にとっては、その据えた匂いを無視することはできなかった。
薄暗い窓の外ではごうごう、と風が唸っている。台風が近づいて来ているようで、まだ雨こそ降ってはいないものの、あと数時間もすれば帰るのに一苦労するだろう。学院側から全ての部活と練習の中止と即下校のお達しがあったことで、ほとんどの生徒はとうに帰って校舎はがらんとしている。
耳を澄ませれば、廊下の奥から僅かに声が聞こえた。廊下の奥には空き教室が並んでいる。いつもなら放課後には練習やら暇つぶしやらで教室を使っている生徒がそれなりにいるのだが、台風で下校命令が下っているというのにまだいるということは、大方練習にのめりこみ過ぎて放送を聞いていない生徒か、あるいは人気のないこの時間を利用してよからぬことを企む輩だろう。向こう側から漂う悪臭からして、前者ではないことは明らかだ。
「このまま帰るわけにもいかね〜よな」
男は低気圧による頭痛を誤魔化すようにして艶やかな黒髪をかき乱すと、人の気配のする方へ足を向けた。
足音を隠しもせず堂々と男が近付いているというのに、奥の教室にいる者たちは興奮しているようで、誰一人その音に気付いていない。
ドアは閉ざされていたが、中かからは男たちの罵声と打撲音に混じって、微かな悲鳴と水音が聞こえている。男が躊躇なくドアを開け放つと、中にいた男たちは一斉にドアの方を振り返った。
「さ、朔間零……⁉︎」
入口に立ちはだかる美丈夫の姿に、男たちは目を見開いた。朔間零と呼ばれた男は教室内の惨状に目を向けると、静かに言い放った。
「何してんだ、てめぇら」
その一言で、男たちは動けなくなってしまった。
湿っぽい熱気に満たされていた教室は瞬時にその温度を失わせていた。重く、冷たい空気が場を支配している。
部屋の温度が氷点下までに下がってしまったような錯覚を感じて、男たちは身を震わせた。寛げられたスラックスからはみ出ているものを隠すことすらもできず、凍りついてしまったかのように呆然と立ち尽くしている。
顔を真っ青にして硬直している男たちの背後で、倒れていた男が僅かに身じろぎをした。意識が朦朧としているようで、数度咳き込むとそのまま動かなくなってしまう。
男たちを追及するよりも、手当を優先した方がいいだろう、と零は男たちを一瞥すると、ただひと言、「失せろ」と告げた。
先程まで彫像のように固まっていた男たちは、その言葉が放たれた途端、蜘蛛の子を散らしたように駆け出していく。零は一目散に逃げていく男たちに目もくれず、倒れている少年の側にしゃがみこんだ。
少年の服は半ば剥ぎ取られていて、全身には打撲と性の残滓が散らばっている。何をされていたのかは一目瞭然だった。
ネクタイの色からして一年生だろう。瞳は閉じられているが、柔和な顔立ちと、うねるような黒髪を図書室で見かけたことがある気がする。入学早々災難に見舞われて可哀想だな、と思いながら、零は少年の身体を、男たちが忘れていったブレザーで拭った。少年の服は血やら何やらで汚れているが、何も着ていないよりはマシだろうと、衣服を整えてやる。
このまま保健室に運んでもいいのだが、もしこの少年が“悪い方”に陥ってしまったとしたら、今すぐ“処置”をしなければ命に関わる。とりあえず彼の状態だけでも確認しておこうと、零は手の甲で少年の頬をぺちぺちと叩いた。
「おい、生きてるか?」
頬からの刺激に少年は「うう…」と眉間に皺を寄せた。左右に身動きをすると、突然目を見開いて咳き込んだ。何度か咳をして白いものが混ざった唾液を吐き出すと、ようやく目の前の存在に気付いたようで、ぱちぱちと目を瞬かせた。
少年の、僅かに緑味のある琥珀色の瞳が、零に向かって向けられる。きちんと焦点は合っているし、呼吸も正常なようだ。どうやら最悪の事態にはなっていないようで、零は僅かに安堵した。
少年は数瞬の間、零の顔をまじまじと見つめると、ぱっと顔を綻ばせて口を開いた。
「あれ……も、もしかして朔間零さん、ですか……? うわあ……近くで見ても、すごくカッコいいですね!」
あまりにも場違い過ぎる少年の言葉に、零は返す言葉を失ってしまった。
「……ええと、俺なんかにそんなこと言われても困りますよね。すみません、間近で見るの初めてで、はしゃいじゃいました」
あはは、と恥ずかしそうに少年は笑っている。
先程まで男たちに一方的に嬲られていたとは思えない、あっけからんとした表情に、零は気が抜けてしまった。
教室にも、目の前に横たわる少年の体にも、暴力と性の残滓がありありと残っている。それなのに、少年の表情と声からは、その色が全く感じられない。
まるで、廊下でたまたますれ違って話かけたかのような、そんな気軽さがあった。
すっかり毒気を抜かれてしまった零は、心配するのでも、怒るのでもなく、
「お前、今それ言う?」
と呆れ混じりのため息をつくことしかできなかった。
02
「すごいですね! 俺、走馬灯って生まれて初めて見ました!」
体育マットの上に乱雑に放り出されたつむぎは、潰れたカエルのような悲鳴を上げながらマットの上でもんどり打ってようやく立ち上がると、すぐ後ろで華麗な着地を決めた零を見上げて、そう言った。
屋上バンジーに誘った(無理矢理やらせた)のは零なのだが、流石にここまで好意的な感想が飛び出てくるとは思わず、拍子抜けてしまった。これまでに屋上バンジーをやらせた者たちは、衝撃のあまり何も言えなくなっているか、「正気か!」と怒りを露わにして文句やら説教やらを返してくるかの二種類だった。零が他人にバンジーをさせるのは面白半分、反応を見てその人となりを確かめるのが半分といったところだろうか。正直なところつむぎから文句を言われるのを覚悟して、否、楽しみにしていたのだが、予想の斜め上の反応をされて困惑した。だが、戸惑っていたのは一瞬で、零は不適な笑みを浮かべて乱れまくっていたつむぎの頭を更にかき混ぜた。
「お前、屋上から落とされてそんなこと言えるの、すげぇな。おもしれ〜じゃん」
屋上から落とす直前まではその高さを見て普通に恐れ慄いていたし、落下してゴムの張力によってびよんびよんと跳ねている間も情けない悲鳴を上げていたが、着地した途端にこれである。興奮で頬を紅潮させて、目は爛々と輝いている。我ながら騙し討ちするような形で屋上から落としたため、恨まれるつもりはあってもここまで嬉しそうにされると思わず、つむぎのことが余計にわからなくなってしまった。
適当に結ばれたゴム。申し訳程度に置かれた体育マット。たかだか五階程度の高さとはいえ、打ち所が悪ければ死んでしまう高さだ。普通の神経の持ち主なら肝を潰しているだろう。心臓に毛でも生えているのだろうか。
「あれ…これどうやって外せばいいんでしょう?」
身体に結ばれたゴムを一生懸命外そうとしているつむぎの顔には、まだ興奮と喜色が浮かんでいる。滅多にできない経験ができて嬉しそう、なのではあるが、どこか違和感を抱かずにはいられなかった。
零を前にして虚勢を張っているわけでも、嘘をついているわけでもない。その表情にも、言葉にも感情は乗っているのに、どこか淡々としているのだ。
「な〜にやってんだよ。ほれ、貸してみろ」
首を傾げて立ち尽くしているつむぎに巻かれたゴムを無造作に引っ張ると、零は手慣れた様子でするすると解き始めた。無秩序に固められていた結び目がたちまち緩んで解けていくのを見て、つむぎは目を丸くする。
「ありがとうございまひたたたた」
零はぺこりと頭を下げたつむぎの頬を、両手で思いきり引っ張った。つむぎの口元は両サイドから引っ張られたせいで、無理矢理笑っているようになっている。つむぎは痛がっているものの、本気でその手を振り払おうとはせず、されるがままだ。
「ふぁひふふんへふは(なにするんですか)」
頬を引っ張られたまま抗議をするつむぎの目には、困惑の色は見えるものの嫌悪感は見当たらない。それどころか、悦びの色が僅かに灯ったのを見て、零は確信した。
「ーーお前、Subだろ」
零がようやくつむぎの顔から手を離すと、つむぎは赤くなった頬をさすった。
つむぎは何も言わず、品定めするように零を見つめている。零はつむぎの目線を恐れることもなく、それどころか真正面から受け止めて、出方を待った。
ざわざわ、と風が木々を揺らしている。校舎の向こう側にある校庭からはホイッスルと生徒たちの声が聞こえてきた。
しばらく無言で頬を触っていたつむぎは薄い笑みを浮かべると、ようやく口を開いた。
「あはは、流石にDomの零くんには分かっちゃいますよね。ーーーーそれで、何がお望みですか?」
その声は先程までバンジージャンプに興奮していたとは思えないくらい凪いでいて、機械的だった。
それなのに、本能に訴えるかけるような、毒のような甘やかさがあるのだ。抑制剤なんかに頼らなくても己を完璧に律することができる零でさえ、じわじわと己の欲求が呼び起こされているのを感じていた。
現代では身体の性別とは別に、ダイナミクスという力量関係による性が存在することが分かっている。第二次性徴と共に稀に顕在化するその性は、身体的な特徴は持たないが、精神性や欲求にある程度の傾向が見られる。人類の大多数はダイナミクスを持たないが、ごく少数ではあるがDomやSubと呼ばれるダイナミクスを持つ者が存在する。
Domは『相手を支配したい、庇護したい』という欲求を持つ傾向にあり、Subは『支配されたい、庇護されたい』という欲求の傾向がある。性的嗜好や特殊性癖ではなく、ダイナミクス因子によるホルモンバランスや脳内物質の影響による生体的な症状として存在する。
零がつむぎを助けたのは、台風の日だけではない。あの日以降も、何度か不良生徒に絡まれていたり、嬲られていたりしたところを助けていた。
つむぎがアイドル科の生徒にしては控え目で、軟弱そうに見えるとしても、いくら何でも被害に遭い過ぎている。集団でいじめに遭っているのかと心配していたが、どうやらそういうわけでもない。加害者側にDomもいれば普通の人もいて、共通点は見つからない。まるで、近くにいた者を惹きつけて、加害者に仕立てているような整合性の無さと理不尽さがそこにはあった。
あの教室でつむぎを助けた時から、Subなのではないかと察してはいた。いくら学院内の治安が悪化の一途を辿っているとはいえ、教室という非密室で行為に及ぶこと事態、加害者側も正気ではなかったのだろう。とすれば、正気じゃなくなるような要素があったのは明らかだ。
零は目の前に立つつむぎの姿をまじまじと見つめた。
つむぎの表情は至って普通だ。
廊下ですれ違って、声をかけた時と同じような、柔和でゆるい笑みを浮かべている。
いつも通りなのに、何故かこちらの欲望を煽ってきているような錯覚を覚えてしまうのだ。並大抵のDomならすぐに己の欲求に従って、目の前の少年を服従させ、支配しようとするだろう。
その視線が、表情が、その声音が、零の理性を焦がして、欲望を溶かしていこうとしている。だが、
これは中々にタチが悪いな、と零は内心で独りごちた。
「別に、お前に何かするつもりはねえよ。バラすつもりもないから安心しろ」
「零くんがそんなことをするとは思いませんけど、お望みであればーー」
「だから何もしねぇって言ってんだろ」
零はつむぎの言葉を遮ると、風に煽られて乱れたままのつむぎの頭を軽く小突いた。
「そういうのが危ねえんだよ。お前、そうやって誰でも誘惑するのはやめとけ。痛い目遭うぞ……というかもう遭ってんだから、いい加減懲りろ」
「誘惑だなんて、そんなつもりは無いんですけどね」
つむぎに誘惑しているつもりがないことは分かっていた。
おそらくつむぎの性格からして、素直に服従することで被害が悪化しないようにしているのだろう。ダイナミクスの性質上、SubがDomに抗うのは難しい。下手に抵抗して相手を激昂させるよりかは、抵抗しない方が穏便に済むということを、つむぎは経験から知っていると想像するのは難しくない。
だが、つむぎの意図に関係なく相手が刺激されているのは確かだ。つむぎのSub性がそうさせるのか、あるいはつむぎ自身の性質によるものなのか。それともどちらも関係しているのか。
これは中々にタチが悪いな、と零は内心で独りごちた。
「無理やりバンジーやらせた俺が言うもんでもねぇけどよ、何でもかんでも受け入れるな。嫌なことははっきり嫌って言え。それくらい赤ん坊でもできるだろ」
「別に、嫌ってわけじゃ無いんですよ。俺ね、SubDropしたこと、一度もないんです 。Subだからってのもありますけど、どんなことされても平気というか、きっと、そういうの好きなんだと思います」
つむぎと何度か関わって、抱いてきた違和感の正体が浮き彫りになったのを零は感じていた。
他の生徒よりも大人びているのに、どこか幼いようなアンバランスさが気になっていた。どこにいても馴染んで、誰とでもそつなく接することができているのに、どこか浮いている。いかにも「普通です」という面をしているのに、その内側には得体の知れないものがあるような、奇妙な不気味さがあるのだ。深く関われば関わるほど、人間味が見えなくなっていく。
「ーーー成程な。お前は赤ん坊未満ってことなのか。まだ生まれてすらいねぇってことなんだな」
「へっ? 赤ん坊? えっと……俺もう15歳ですけど?」
困惑するつむぎの頭を零は乱暴にかき混ぜた。撫でるというよりも、頭を揺さぶってるようにしか見えないその手つきに、つむぎは目を白黒させている。
「生まれてすらいねぇから胎児だよ胎児。そんな胎児ちゃんに俺様が生き方を教えてやろう」
「た、胎児ってどういう意味です?」
自分にとって何が嫌か分からない。被害を認識できない。はるか昔に、人としての大事なものを失くしてしまったのだろう。
拒否することも、悲鳴を上げることすらできない。やり方を知らないのか、あるいはやっても意味がないと知ってしまったのか。ただただ誰かの望みを叶えるだけの、都合の良い子になることは、つむぎにとっての生命線だったのだろう。だけどそれは、命令を実行するだけの機械の生き方だ。
零とて、順風満帆な人生を送ってきたわけではない。きっと、他の誰に言っても理解されないだろうが、他とは違うことによる孤独と、絶望を知った。自分一人ではどうしようもないことがあるのだと思い知らされた。諦めることが、ほんの僅かな安寧をもたらすことを分かっていた。我ながら今の自分は、生ける屍のようだと思っている。
環境に己を適応させていくつむぎのあり方は、どんな場所でも自分を貫いてきた零とは真反対だ。だけど、親近感を抱かずにはいられなかった。
「俺様が教えてやろう」だなんて大口を叩いたものの、まともな人としての生き方を知らないのは、きっと自分も同じだ、と零は思った。ならば人間初心者同士、それっぽいことを一緒にやって見るのも悪くは無いだろう。
人生の楽しさを教えるならば、まず自分が楽しまなければならない、とどこかの教師が言っていたのを、零はふと思い出した。
「よし、とりあえずカラオケ行こうぜ」
「えっ、今の話の流れでカラオケになります?」
似た者同士で何か一緒にやれば、楽しいことも見つかるかも知れない。そう思って、零は立ち尽くすつむぎの手を引っ張った。