100万回死んだねこ100万回死んだ猫
二度目は、交通事故だった。
太陽がとろけるように西の端に落ちていく時間。光がじんわりと街中を舐めて、黄昏色に染め上げていた。鈍色の海は静かに揺蕩って、陽が落ち行く様を見つめていた。
海岸沿いにある防波堤のすぐ横にある狭い歩道は、白線が摩耗して途切れ途切れだった。大人の肩幅よりもほんの少し広いだけの領域を、泉とレオは一列になって歩いている。この時間帯の交通量は少ないが、信号がほとんどないせいでどの車も勢いよく通り過ぎていく。仲良し横並びが好きな小学生ですら、この道に来れば誰もが黙って一列になる、そんな道だった。
学院の門を出てからずっと、二人の間に会話はなかった。ずっと一緒にいるはずなのに、このところ学校でもあまり話ができていない。口を開けば喧嘩ばかりで、互いに言葉を交わすことに疲弊していた。それでも、一緒にいることをやめないのは、敵だらけの学院で心を許せるのが互いだけだからだ。静寂すらも、僅かな安寧となっていた。
沈黙を破ったのはレオだった。
「セナはさ、おれは人間だと思う?」
前を向いたまま、レオは世間話でもするように口を開いた。「今日の宿題なんだった?」くらいの気軽さで、しかし妙な空々しさを伴っていた。
「……はぁ? 藪から棒に何の話? ……もしかして誰かに変なこと言われたんじゃないの」
泉からは前方にいるレオの顔は見えない。レオが意味不明な問いかけをすることは今に始まったことではないが、最近の様子からして、ただの気まぐれでないことは泉にも分かっていた。
「ほんとは言っちゃいけないんだけど、たぶん、おれ、もうもたないと思うからさ。セナにだけは言っておこうと思って」
レオの足が止まった。合わせて泉も立ち止まると、すぐ横を赤いワゴン車が通り過ぎて、ごう、と風が髪を揺らしていく。海の方から差し込んでくる光が、じくじくと疼くような痛みを孕ませる。
ゆっくりと、レオは振り返った。空と同じ色の髪が潮風でゆらゆらと揺れて、その隙間から覗く錆びた萌黄の双眸が、泉の身体を貫く。その視線に怖気づいて目を逸らそうとしたが、決してこの少年から目を離してはいけないと本能が警鐘を鳴らしていた。
「……俺に、何を言いたいの」
レオに聞きたいことは沢山あった。メイクでも隠せないような濃い隈。増えていた手の噛み痕。汚されていた体育着。ぐちゃぐちゃに捨てられていた五線譜。だけど、それを追及したところで目の前の少年ははぐらかすだけで、意味がないことは分かっていた。弓道場の時のことだって未だに本当のことは聞いていない。その身が傷だらけになって、滴る血を隠せなくなっても、マントを被って王さまを演じるのだ。レオに王であるよう求めたのは泉で、敵をすべからく斬り伏せる役割を担わせたのも泉だ。ぼろぼろになっても泉が求めた役割を演じ続けようとしているレオに今更「やめて」など言える筈もなかった。
この関係も終わりになるのかもしれない、と泉は予感した。
破綻はとうに見えていた。泉の目の前にいる少年の心が擦り減っているのを知っていて、見ない振りをしていた。そうすることでしか、前に進めなかった。前も後ろも、暗闇しかなくて、後戻りもできなかった。その先に破滅が待っていようとも、諸刃の剣を携えて茨の道を進むことを選んだのだ。だから、これは当然の帰結なのだ。
錆びた萌黄色を見つめ返す。今にも震えて逃げ出そうとする足を必死に抑えつけて、泉はレオと向き合った。薄い笑みを浮かべているレオを見て、自分の顔が酷い顔をしているのだろうと思った。
「おれはね、人間だよ」
「知っているよ」
「でもね、みんなとはちょっと違うんだ」
「知っているよ。アンタは唯一無二の才能を持った、音楽に愛された天才だ」
「そう。それでね、――――みんなとは違って人間の理からちょっと外れてるんだ」
レオが抽象的な物言いをするのはよくあることで、曖昧な言葉にそっと本音を忍ばせることがあると泉が気付いたのは、最近だ。いつもなら一蹴していたが、今日は些細な変化や手がかりも見逃すまいと、神経を張り巡らせながら続きを促した。
「……理ってなに?」
「ン~……おれもあんまよくわかってないけど、生命のサイクルとか、輪廻転生とか、死の不可逆性とかそういうやつ。そういう、『大きな流れ』から外れてるんだ」
「なにそれ、じゃあ死んでも生き返るとか」
「実際に何が起きるのかは分かんないんだけど、おれには神さまから与えられた役目があって、それを全うすることでおれは”終わり”を迎えられるんだ。でも、役割を終える前におれはきっと”ダメ”になっちゃうから、バグが起きちゃうかも」
レオは曖昧な笑みを浮かべていた。きっとレオ自身にもよく分かっていないのだろう。教科書を棒読みしているような、そんな言い方だった。ただ、泉に何かを伝えようと言葉を探しているのは感じ取れた。弱音を見せようとしないレオが珍しく本心を話そうとしているのを、泉は静かに待っていた。
「バグが起きちゃうかもっていうか、おれが今ここにいること自体が既にバグなんだ」
レオはしきりに腹をさすっている。腹痛があるとか、空腹を誤魔化そうとしているような表情ではない。腹にある”何か”を確かめるような手つきに、泉は違和感を覚えた。
「れおくん、お腹どうしたの」
「確かにここにあったんだよ。昨日はさ」
「あったって、何が」
「鉄骨」
レオの目はぞっとするほど冷え込んでいた。錆びた萌黄色の中に昏くてどろっとしたものが澱んでいるのを泉は見てしまい、思わず息を呑む。
泉はレオの言葉を脳内で反芻した。今、目の前にいた少年は鉄骨と言ったのだろうか。泉の聞き間違えでなければ、工事現場で見かける鉄骨が腹にあったと言っているのだ。礼の抽象的表現だとして、鉄骨は何を示しているのだろうかと考えを巡らせていると、レオが再び口を開いた。
「そのまんまの意味だよ。鉄骨。工事するときに使うやつ。昨日さ、おれ一人で帰っただろ。そしたらさ、あそこ、コンビニの横に工事現場あったじゃん。あそこの前通ったら、鉄骨が落っこちてきたんだよね」
「……落っこちてきたって、どこに」
レオの薄い唇が弧を描いて、酷薄な笑みを象る。笑っているのにひどく歪で、少し身体が動くたびに皹が増えていく。一年前までは、こんな笑い方をしなかった。ああ、変わってしまったのだなと諦念を抱くとともに、自分のせいで変えてしまったのだという罪悪感が胸の裡に広がっていった。
「ここに」
レオは痛々しい噛み痕が残る手で、薄い腹を撫でた。まるで、腹に愛おしい我が子がいるような優しい手つきで。
「腹も脳内もしっちゃかめっちゃかに掻き回されてぐちゃぐちゃでさ、痛過ぎて何もかもがわけわかんなかったんだけど、おれは確かに昨日死んだんだ。走馬灯だって見たし、助からないなってのは何となく感じてたし、病院に搬送される間もなく意識はなくなった」
開いた口が塞がらないとはこのことか、と泉は思った。
脳がレオの言葉を理解することを拒否している。いつもの妄想とやらであってほしい、と願っていた。だが、それが妄想でも冗談でも誇張表現でも比喩でもなんでもないということは、静かなレオの双眸が物語っていた。
「朝起きたら傷一つないからさ、夢かなって思って。でも、学校行く前に工事現場に行ったんだ。そしたらさ、確かにおれが通ったところの鉄骨がいくつか無くなっていたし、いつもなら大工さんが揃っている時間なのに誰もいないし、立ち入り禁止のテープが張ってあって、いかにも『事故が起きました!』って感じでさ。流石に洗い流されて血とかは見つかんなかったけどさ」
レオは腹を撫でていた手で制服を捲った。そこには薄い腹があるだけで、傷なんてものは見当たらない。白い腹が夕日に照らされて、浮いたあばらの陰影を際立たせているだけだ。
「おかしいよな。おれは確かにあの時、腹を鉄骨が食い破ったのを覚えているよ。周りにいた人たちの悲鳴も、血がどくどくと身体の外に流れていくあの感触も、魂の灯が消えようとする気配も知っている。最近はずっと音楽が聞こえにくかったけど、死んでからずっと脳内でオペラが鳴り止まないんだ。あの死がおれにかつてない霊感を与えてくれたんだよ!」
おかしいって、何から何までおかしい。何から何まで分からない。泉は得体の知れない恐怖に立ち尽くすことしかできなかった。目を逸らすことさえもできずに、ただただ目の前の深淵を覗き込むしかなかった。
レオは大仰な振りで手を広げた。まるでオペラの登場人物のように。過ぎ行く車のライトがスポットライトのようにレオの姿を照らしていく。
「セナには証人になってもらいたいんだ。おれもまだ確証はないからさ、これがバグかどうかを観測して欲しいんだ」
「ねぇ、俺にも分かるように説明してよ。死んだとか、バグだとか、流石にわかんないんだけど」
「見てて、”もうすぐ”だから」
泉はレオの一挙一動に気を取られていて、“それ”がすぐ近くに迫ってくるまでその存在に気付けなかった。
その轟音に気付いた時には、もう逃げることすらもできない距離で、泉はただただ反射的に身を竦ませることしかできなかった。
「……いたた」
泉が身体を起こすと、身体のあちこちが痛んだ。多少じんじんと痛むが、骨は折れてないことに安堵した。大きく息を吸うと、油と鉄の匂いが鼻につく。どうやらぶつかった衝撃で少し飛ばされたようだ。先程まで自分が立っていた場所に目を向けた瞬間、泉は顔を真っ青にした。
真っ先に目に入ったのは、赤色だった。
「れおくん……?」
その姿を目にした瞬間、泉の喉から熱いものが逆流しようとした。咄嗟に口を押え、こみ上げるものを無理矢理抑え込む。
うそでしょ、という言葉は音にならなかった。
嘘だっただどれだけ良かったのだろう。
数々の名曲を生み出した腕は有り得ない方向に曲がり、黄昏色の髪は血に濡れ、薄い腹は中身の存在が感じられない程にへこみ、少女のようなかんばせは目を逸らしてしまいたくなるほどぐしゃぐしゃに歪んでいた。
死んでいる。
医学に関して素人の泉でさえ、その身体がもう時を止めているのだと分かった。それくらい酷い有様だった。
レオの死体のすぐ横にはひしゃげた大型バイクがあった。運転手と思しき男の姿が数メートル先に見える。この距離では生きてるかどうかも分からないが、そんなことは泉にとって些事だった。
「れおくん、れおくん……」
鉄の匂いが立ち込める空間で、泉の力無い言葉だけがこだまする。血に濡れるのも厭わずに、泉は捻じ曲がったレオの手をとって呼びかける。返事は無い。生命活動を終えたレオの身体は最早物言わぬ物体に成り果てていた。
どうして。どうして。どうして。誰に対するでもない、ただただ純粋な慟哭が泉の心に募った。
涙腺は決壊してしまったようで、意味もなく塩水を垂れ流している。口から漏れ出るのは、言葉にすらならない嗚咽ばかりだった。
「なるほど、こういう感じなんだな」
耳慣れた声がした。泉のよく知っている声だった。それも、つい先ほどまで聞いていたような――――――
「………な、んで」
泉が声のする方を振り返ると、そこに立っていたのは、
「バグの法則がちょっとわかったかも。セナが観測してくれたおかげだ。ありがとう」
――――死んだはずの月永レオだった。
「帰ろうかセナ」
いつもと同じ声音で声を掛けられて、泉は戸惑ってしまった。何が起きてるのか分からない。今日はわけが分からないことだらけだ。
噎せ返るような血の匂いも、握った手が温度をなくしていくのも、制服から血が染みてべたついているのも、全部感じている。
「幽霊にでも会ったような顔をしてるけど、どうした?」
レオはあっけからんとした表情で泉の顔を覗き込む。その身体に傷は一つも見当たらない。足も透けてなどいない。影だってある。手の噛み痕も、目の下の濃い隈も、潮風に靡く黄昏色の髪も、つい先ほどまで泉の前を歩いていた姿と全く同じだ。その姿はどこまでもリアルなのに、この空間で異常な程浮いていた。
「……なんで、生きてるの」
長い思考と沈黙の果てに泉がようやく絞り出せたのは、そんな言葉だった。驚愕を浮かべている泉に対して、レオは当然のように言い放つ。
「言ったじゃん。バグだって。元々理から外れていたおれが神さまから与えられた役割を果たせなくなったからバグが起きてるって。その死体もそのうち修正されて消えるから置いといていいよ。」
「冗談も大概にしてよ! 何が言いたいの!?」
激昂する泉をよそに、レオは淡々と答えた。海も、風も、道路も、腕の中の身体も、全てが静かで冷たくて、泉だけが取り残されているような疎外感があった。周りの全てはこの状況を肯定していて、泉だけが何も分からず異を唱えている。
「おれも全貌は掴めていないんだけど、多分、役割を果たせなくなったから神さまが廃棄しようとしてて、でも世界の方がそれを許して無いから修正をかけてるって感じでバグが起きてる。でもしばらくしたら消されちゃうんだろうなあ」
「廃棄……? 修正……? 消されるってなに。誰に消されるの」
「神さまだよ。セナ。神さまはいるんだよ。おれはもう用済みだから、神さまにポイされちゃうんだ。今はバグのおかげで留まっていられるけどそのうち修正されちゃうからさ、セナには最後まで見届けてほしいんだ」
レオの表情は水のように透き通っていて、美しいのに怖かった。
「―――おれの生きざまを」