その日は朝から頭が重かった。
牧紳一は、昨日から熱を出していた家族を家に残し、とある施設で行われる神奈川県国体選抜合同練習に参加した。少しだけ重い頭に違和感を覚えつつ、これくらい何ともないと練習を続けていたのだが、異変は走り込み中に起きた。全員参加で行われるランニングで、5キロも走らぬうちに疲労困憊になってしまったのだ。神奈川随一のスタミナを誇る牧がたった5キロで脱落した───。
国体選抜メンバーの衝撃と騒ぎようは凄かった。すぐさま医務室に連行され、熱を測ってみれば39℃。普通ならば歩けない熱と言われても風邪を引いた経験がほとんど無いのでピンと来なかったが、尚も心配する監督やチームメイトの顔を立て、牧は医務室のベッドで練習終了まで休むことにした。
「親御さんに迎えに来てもらうか?」と高頭監督に言われるも、「小学生じゃねえんで自分で帰れます……」と断固拒否しておいた。夕方まで一眠りすれば、帰宅するには何の問題も無いだろう。高頭監督に追い出される神と清田を心配するなと見送って、牧は独り静かに眠りに落ちていった。
ギシリ、と沈むベッドの音で牧は目を覚ました。何十分、何時間経ったのかはわからないが、カーテンの隙間から覗く空が赤かったので、今は夕方なのだろう。眠る前よりも熱が上がったようで、体中が火照っている。ズキズキと痛みを増した頭で音がした方向を見てみれば、そこにはベッドの淵に腰掛ける他校の後輩───仙道がいた。予想外の人物の出現に、牧は目を見開く。驚きと喉の痛みで声も出せずに凝視していると、牧が目を覚ましたことに気付いた仙道が口を開いた。
「あ、起きた」
「……何で、お前が?」
「ぶっ倒れた割に、元気そうですね」
「これのどこが元気そうなんだ」
牧を見下ろし、愉快そうに笑う仙道に、ベッドの中から掠れた声で呟く。
「見舞いならもっと心配しろよ、39℃あるんだぞ……」
「そんだけ喋れるなら、明日休めば練習復帰出来そうですね」
牧の文句など涼しい顔で受け流し、仙道はさらに予想外なことを告げて来た。
「この前の返事なんすけど、」
「?」
この前の返事───。
痛む頭を働かせ、牧は記憶を呼び起こした。返事と言えば、思い当たることは一つしかない。つい一週間前、牧は仙道に告白をしていたのだ。ずっと好きだった、付き合ってくれ、と何の小細工も無く愛を告げていたのだ。それの返事なのか、と身構える間もなく、仙道はさらりと言った。
「オレもあんたに惚れてるから、付き合ってもいいですよ」
「…………は?」
「じゃあ、オレは帰りますね」
「はあ⁉ いやちょっと待て、もっとこう……、あるだろ! シチュエーションが!」
「元気があるなら牧さんも帰った方がいいですよ?」
思わず体を起こし抗議する牧に、仙道は普段通りの呑気な笑みを浮かべている。
「何で今⁉ オレが好きならもっとタイミング考えろ!」
「返事はいつでもいい、って言ったのは牧さんでしょーが」
「言ったけどな! 普通人がぶっ倒れてる時に言うか⁉」
「えー……、男に二言は無いって言ったのも牧さんなのに……」
だめだ。熱で頭がぼんやりしているこの状況では、上手く口が回らない。せっかく両思いになった感動的な場面だと言うのに、何なんだこれは。甘い雰囲気など一切無く、いつも通りの会話ばかりでは無いか。
もしもOKだったならば、抱きしめてキスしようと考えていた計画が全て水の泡だ。
それでも、こちらの想いを受け入れてくれた嬉しさがじわじわと襲って来て、牧は本当に帰ろうとしている仙道の腕を掴んだ。
「オレの体力が戻ったら、絶対にもう一回言えよ……」
熱でふらつく体で必死に言えば、仙道は楽しげに、そして少しだけいたずらっぽく笑った。
「早く治して下さいよ、キスの一つも出来やしねー」
「……熱が上がったら、お前のせいだからな」
その後、高頭監督が「まだ帰ってなかったのか」と様子を見に戻って来るまで、保健室で何が行われていたかは恋人達だけの秘密である。