第63条執行中ハートの女王の法律・第63条
『法廷で女王を激怒させた者は、トランプ兵に追われて迷路を走り回らなければならない』
通称『右往左往の刑』と呼ばれるそれは、実際はめったに執行されることがない。そう聞いていたはずがしかし、今まさに、エースの目の前にあった。そして、彼は監督生を探して薔薇の迷路をひた走っていた。
今日は、しばらくぶりの何でもない日のお茶会だった。それを聞きつけた学園長が、見学者を入れたい、と言い出したのは数日前。なんだか偉い学外出資者が来るそうで、グレートセブンと名高いハートの女王の法律に則った寮の行事を見せたいとかなんとか。それならば、と、お茶会の後に模擬裁判も開かれることになったのだった。
青空の下で盛大に開かれたお茶会は、見学者たちにも好評で、そこまでは、よかった。しかし、その後、事件は模擬裁判中に起こった。かいつまんで言えば、眠りネズミを追いかけたグリムが法廷に乱入し、裁判をめちゃくちゃにしてしまったのだ。当然のごとく、リドルは激怒し、グリムにあの首輪をはめたわけだが、問題はそこが法廷であった、ということ。ゆえに、グリム、そしてその半身たる監督生に対して、ハートの女王の法律・第63条が執行されることになった。
トランプ兵の一人として、エースは迷路を右へ左へ走っていた。「グリムをみつけた。追いかけてる」とデュースからメッセージがあったのはついさっきだ。広く複雑な女王の庭で、既にトランプ兵たちも散り散りになり、しかし、そこかしこの角で寮服の切れ端が視界の隅に踊り、芝生を踏む足音が聞こえる。
見上げた空は青く、薔薇は美しく咲き誇っている。スマホもつながるから、デュースたちと連絡だってとれる。勝手知ったるこの庭は、たとえ『右往左往の刑』のルートであろうと、どこにどう通じてどう変化するか、すべて頭に入っている。それなのに、エースはひどく不安だった。自分は追いかける側のはずが、ややもすると何かから逃げているのは自分の方であるような気がしてくる。たぶんそれは、エースがリドルの夢でのことを思い出すからにほかならなかった。
圧倒的な力の女王の暴走になすすべもなく、先輩やデュースたちとも離れ離れになって、逃げ回るしかなかったあのとき。足手まといで逃される側になったことに一瞬でもほっとしてしまった自分。悔しくて情けなくて、そんな土壇場で発現した魔法に戸惑って。でも、あんなギリギリでエースが勝負に出られたのは、監督生が、エースを信じて、その震える手を握ってくれたからだった。
たとえ監督生がほかの寮生にみつかって追いかけられたって、別にひどいことをされるわけじゃない。でも、エースは一刻も早く監督生を見つけ出したかった。迷路に足を踏み入れたときの少し不安気な監督生の顔がちらつくから。グリムとはぐれて一人でいるなら心細いはずだから。悪夢の世界でエースを見失わずにいてくれた監督生に借りを返したいから。……それに、だって、異世界から迷い込んだ監督生を、入学式翌日のあの朝、あのメインストリートで見出したのは、エースなんだから。だから、真っ先に、エースが監督生を見つけるべきなのだ。だれよりも、はやく。
角を曲がると、薔薇の垣根が閉まりかけているところだった。その先に、見覚えのあるシルエットの端っこを認めて、エースはそこに滑り込む。
少し絡まった薔薇のつるを払い除けながら進むと、よく知る瞳がエースを捕らえた。安心したように細められたそれにニヤリと返してやれば、次の瞬間、監督生は弾かれたように走り出す。その背中を、エースは迷わず追いかける。
そう、刑はまだ、執行中だ。