月に望みたいものはオンボロ寮の監督生は、ふしぎな響きの名前の持ち主だった。「聞いたことない名前だね」ってオレが言ったら、「それ、あの学園長にも言われたわ」と笑ってた。NRC唯一の女子であるこいつは、魔法の使えない異世界人だというのに、妙に肝がすわっていた。普段は惚れっぽくてミーハーでそそかっしいやつなのに、先輩たちのオーバーブロットや学校の襲撃には、なぜか慌てず堂々と立ち向かう。勉強はデュースと同じくらいダメだったが、要領の良さとバイタリティはオレですら舌を巻くレベルで、なんだかんだ力技でいろんな事件をねじ伏せてきたのだった。異世界から迷い込んだか弱いオンナノコ、というものからはかけ離れていて、グリムと日々騒がしくオンボロ寮に暮らし、オレやデュースとも毎日バカやって楽しそうに過ごしてた。だから、意外だったんだ、あんなに帰りたいって言うなんて。
ミッキー交信調査のため、オレとデュースでオンボロ寮に泊まり込んだ夜のこと。オレは真夜中に目を覚ました。「ミッキーに会うぞ!」と意気込んでいたはずのグリムとデュースはそりゃあもうぐっすりと眠り込んでいて、もし今ミッキーがそこの鏡に出てきたとして、絶対に起きないだろうな、とオレは思った。と、監督生の姿が見えない。案の定、のぞいてみた談話室にあいつはいて、窓の外の月を見上げていた。
「なに、おまえ、寝てなかったの?」
声をかけると、ゆっくりと監督生は振り向いた。差し込む月光に照らされるその姿に不本意ながらドキリとした。
「いっちょ前に月なんか眺めちゃって。おまえそんなキャラじゃないじゃん。ミッキーが来たわけじゃないんだろ? 明日、トレイン先生の授業で寝てても、オレ起こしてやんないよ」
自分の心臓が奏でた不協和音をきかなかったことにしてオレは言った。言外に「早く寝ろ」の圧をこめたそれに、監督生は曖昧に笑った。こいつでも眠れなくなることってあるのか、とオレはわりと失礼なことを思った。
「寝れねーなら、特別にこのエースくんがぱぱっと手品でも見せてやるよ。それとも、占いでもしてやろうか」
手持ちのトランプからハートのエースをちらつかせて言うと、珍しくその瞳が揺れた。そこには、たぶん今、オレじゃなくてちがうものがうつってる。こんなにわかりやすいのは珍しいけど、ふとした拍子に思い出した何かで苦しそうにすることが、オレのむこうに違う誰かを見ているようなことが、こいつにはあった。今まで気づかないフリをして流してきたのに、今夜に限ってそうできなかったのは、きっと。
「なに、昔の男のことでも思い出しちゃった?」
「……前にね、言われたのよ。そう、占いで。『君の恋は決して叶うことはない』って」
監督生は、表向きキャーキャー言っても、実のところはそういう占いの結果とか気にしないタイプだと思ってたから、ちょっとその発言は意外だった。わりとマジメな顔をしてそんなことを言うから、オレはどぎまぎして、茶化すように軽口を叩く。
「……へー、じゃあ、試しにオレのこと好きになってみる? おまえなら特別に相手してやってもいーよ」
「やーよ、あたし、あんたのこと気に入ってるんだから、ずっとマブでいたいもん。もちろん、グリムやデュースもね」
冗談めかして言ったそれにもガチトーンで返されてしまって、いよいよオレはどうしたらいいかわからなくなる。と、よく考えたら、こいつとこんなふうに二人っきりで話したことなかったんじゃ、と今更ながらに気がついた。
「エース」
不意に呼ばれて視線を合わせると、監督生はオレをまっすぐに見すえて言った。
「あたし、帰らなくちゃいけないの。たしかに、ここは楽しい。グリムや、デュースや、エースたちといっしょにバカやって、時々大変な目にもあうけど毎日おもしろいよ。あんたたちとお別れするのは、そりゃさみしい。でも、あたし、家族も、友だちも、……そう、生きてきて積み上げてきたもの、みんな置いてきてしまった。それに、ここは、あたしの世界じゃないの」
そう言った監督生は、月の光に照らされて、とても大人びて見えた。いつもとちがうその姿にオレはたじろぐ。
――っていうか、なんだよ、「ここは、あたしの世界じゃない」って。今ここに、監督生はいるのに。オレたちや、オレたちとこの学園で過ごした時間だって、おまえが生きて積み上げたものじゃないのかよ。
「……おまえさ、」
「なんてね。まー、当面、グリムにちゃんと勉強させるのをがんばんないとだけどねー。それに、あんたたちはいいけど、オルトたちが来るならもうちょっとここもキレイにしないとだし」
オレが何か言おうとするのを遮って、監督生はカラカラと笑った。その顔や態度は、すっかりいつも通りで、結局、オレは形にならなかった言葉を飲み込んだ。
なんだかこれ以上いられなくて、「オレもう寝るわ」と告げると、まだ寝る気がないらしい監督生を置いて、オレは談話室をあとにした。
寝室に戻ると、相変わらずグリムとデュースは寝こけていて、オレはそのとなりにもぐりこんで目をつむる。でも、談話室の扉を閉める直前にきいた監督生のつぶやきがまだ耳にこびりついていた。
「……どっちもなんて、そんな都合のいいこと、望めるわけないもの」というその声を、オレは忘れられそうになかった。