古民家の軒先に轟々と降り注ぐ雨は、雨樋を溢れさせ、夏の日差しで乾いていたはずの土を瞬く間に泥濘に変えてしまう。そんな雨を乗せて縦横無尽にざわめく風は、庭木を横倒しにしかねない程にたわませ、古民家を成す材木全てを軋ませている。
山の天気は変わりやすいなどと言うが、ここまでとは思わなかった。外と部屋を隔てる頼りないガラス一枚ががたがたと揺れる音を聞きながら、タルタリヤは灰色に濁った空を見上げる。今でこそ山頂を覆う雲は雨風を運ぶばかりだが、そのうち雷鳴でも孕みかねない様子だ。
「音が、気になるか」
古びた、しかし目の隙までよく掃除された畳の上に座り、ぼうっと空を見上げていたタルタリヤの横に、二つ湯飲みを乗せた盆を持った十代半ばの少年がそっと座る。きっちりと首元までボタンが留められた古めかしい学生服に身を包む彼の年齢は、およそ衣服でしか計る事が出来ない。年代物の卓袱台に置かれた盆から湯飲みを手ずから差し出されたタルタリヤは、それを受け取り微笑んだ。
「ありがとう、停電でもしたら大変だろうなと思ってさ」
「でも、そういう日の夜は星がとても綺麗に見える」
「本当? ただでさえこの辺はよく見えるのに?」
「地上に少しでも光があると、夜空が霞んでしまうから」
小さな雷鳴の音を立て始めた空を見上げながら、彼の両手がそれを包み、口に運ぶ。その所作は見た目の齢から想像するような粗野さはなく、隙なく洗練されたものだった。山の中にぽつんとある古民家に住む彼の正体を、タルタリヤはまだ知らない。
***
タルタリヤが年不相応に大人びた少年に初めて会ったのは、タルタリヤが大学生の時にフィールドワークでこの山に訪れた時だった。その当時、少年は恐らく小学二、三年生くらいのように見えた。山に点在する遺跡の数々を見て回っている最中に、少年は自らの背丈ほどもある雑草の間からひょこりと現れたのだ。それはもう驚いた、タルタリヤはその山に都合三度ほど訪れたが、辺り一帯に人が住んでいるような気配はなかったから。
美しい少年だった。薄く、華奢な肩より少し下まで伸ばされた黒みを帯びた茶色の髪は結わえられ、鮮やかな緑の雑草に引っかかっていた。タルタリヤをじっと見つめていたのは、自らの髪色を薄めたような琥珀色の二つの瞳。ふくふくとした柔らかな頬が浮かべるには、些か違和感を抱くほどの涼やかなかんばせ。幼いながらも整った目鼻立ちは、見惚れるに十分なものだった。
自分の事は棚に上げ、タルタリヤは『こんにちは、何処から来たの』と極めて穏やかに問いかけた。タルタリヤまでの距離は、大人の足で歩いて三歩くらい。蝉の声はけたたましく、きちきちと鳴く鳥の声はうるさく、声を遮りそうな雑草はうずたかく伸びているが、これならば届くだろう、と思うぎりぎりの声量。
すると少年は『此処に住んでいる』とはっきり答えた。その声音は見た目よりも幼く、鈴を転がすような高音の甘みも含んでいた事を、タルタリヤは今でもはっきりと覚えている。
鼓膜をやわらかく揺らす、何処か優しく、懐かしさを覚える音に、タルタリヤは返事をすることも忘れて山々にこだまする自然の喧騒と初夏の日差しに一筋汗を垂らした。するとそれを見た少年が『何か飲んでいくか』と声をかけてくれたのだった。思えばあの時、遺跡の連なりを追うばかりで手持ちの飲み物も尽きかけていた。夏の入り口の季節とはいえ、山の中ではあまりにも軽率な行為だっただろう。
タルタリヤは少年の背に着いて行った。少年がすいすいと進んでいく道の大半は獣達によって踏み固められたらしい獣道で、もしかして狐に化かされているんじゃあるまいな、とふざけて思ったものである。そんなタルタリヤを見透かしたかのように、或いは見計らったかのように、少年は『もう少しで着くから』と小さく告げた。背中に目でもついていたのかな、これは真面目にそう思った。
程なくして着いたのは、平屋建ての古民家だった。家を組み上げる木材は色褪せていて、ひゅう、と吹く風一つで塗炭の扉ががたがたと揺れる。おまけに静まり返った家の付近には、ただ騒がしく風に揺れる塗炭の側で、草木がさわさわと笑う声だけが聞こえる。
あからさますぎるほどに、人の気配がなかった。『家族は?』タルタリヤは思わず口を着いて出そうになった言葉を飲み込んだ。昨今、家族関係には複雑な事情がつきものの時代だ。出会ってまだ数十分の自分がそんな質問をしていいものだろうか。しかも子供に。こんなストレートに。
導かれるままに、タルタリヤは古民家の玄関を潜った。やはり人の気配はない。玄関に揃えられた靴は、少年のものと思しきシンプルなスニーカーと、小さなサンダルだけだ。一人で暮らしているのだろうか。
玄関から家の奥まで延びる廊下は耳が痛くなりそうな程の静寂だった。窓から差し込む日差ししか光源がなさそうで、日が落ちたらきっとここは静かなな闇で満たされるに違いない。想像した景色はお化け屋敷そのもので、ちょっと怖くなった。
「お茶と、ちょっとした茶菓子くらいしかないが」
「え、そんな気遣わなくていいよ」
「客人にそんな粗雑なもてなしは出来ない」
小学校に上がって間もないだろう子供とは思えない事を言われた。寂しいのかな、とも思ったが、冷ややかに見える表情の中に滲む柔和さは、それを感じさせない。一歩進む度にぎしぎしと音を鳴らす床板は、タルタリヤが経験したことのない郷愁を煽るようだった。
「貴方は、何をしにこの山に?」
「ああ、この山には遺跡……昔の文明の建物がたくさんあるだろう、それを調べに」
「成程、……成程。じゃあ、俺はその助けになれるかもしれない」
タルタリヤの先を歩いていた少年が、半身を振り返らせた。幼いはずのかんばせに浮かぶのは、何処か浮世離れした含み笑い。タルタリヤがぎくりとしたのは、わずかに一瞬。
「親戚……から、この山に残るものの話は聞いているから。分かる事であれば」
「そうなの? それは助かるな、いろいろ聞かせてよ。『先生』」
***
そんなやりとりをしたのが、もう十年ほど前の話だろうか。少年――『先生』は中学生くらいになり、タルタリヤは大学を卒業後、歴史の教師となった。初めて出会った初夏の季節が訪れる度にタルタリヤは山を訪れている。
十度以上は顔を合わせているはずなのに、タルタリヤは彼の名前も、何処の学校に通っているかも、どんな理由でこの家に住んでいるかも知らない。彼が語ろうとしないから、タルタリヤも訊かない。掘り返せば、このなまぬるい逢瀬、のようなものが粉々に瓦解するような気がしているからだ。
最初はフィールドワークの一環だった。現地で顔見知りとなり、色々な歴史を知っている彼から話を聞くのは自らの研究において相当の助力になっていたから。だが、大学を卒業し、教師となり、この山をめぐる必要がなくなった今でも、タルタリヤはこうして毎年彼のもとへ訪れては特に何をするでもなく、長いんだか短いんだか分からない日数を彼と過ごしている。
「……あ、雷の音。また鳴ってる」
「耳が良いな。多分、じきに音が大きくなる」
「ふうん……」
遠く、遠くの方から、ごろごろと雲の内側が喉を鳴らす音が聞こえる。雲が吐き出す雷鳴を蓄えている音だ。やがて堪えきれなくなって零れる稲光も見える事だろう。自らの住まいである都心にいるうちは、これほど静謐に雷雨の訪れを待った事はない。やれ電車が止まるだとか、マンホールから水が溢れるだとか、そんなような話ばかりだ。
「先生は、俺が来るまで何してるの」
「何、とは。学校に行くとか」
「うんうん、それで?」
「それで?」
「友達とか、……彼女とか? そういうのは?」
「ふ、興味があるのか」
「そりゃあね」
隣に座る彼の顔をじい、と見る。幼い頃に見た涼やかなかんばせはそのままに、美しい面立ちが少年から男のそれへと成長しかかっていた。瑞々しい手のひらは僅かに骨張った男の手へと変わり始めているが、爪先まで丁寧に整えられ、きめ細やかな肌は少年の頃と何ら変わりはない。含み笑いに滲んでいた無邪気さは消え失せ、代わりにどきりとさせるような妙な色気を纏わせるようになっている。整った骨に沿うなめらかな輪郭に手のひらを添えたくなるのを我慢するのは、大人としての義務だ。ただただ義務に準じているのか、或いは、触れたら、何もかもが終わってしまう事を恐れているのかは、いまいち判然としない。
「割と長い付き合いなんだし、知りたくなってもおかしくないと思うけどなぁ」
「毎年、初夏の数日しかいないのに?」
「それを言われると弱いな……」
フィールドワークに身を窶している間は、大学の時間割の都合で初夏頃にしか訪れる事が出来なかった。だが、今度は多忙極まる教師であるが故に、彼のもとへ訪れる事も儘ならない。少しだけ拗ねたような彼の言葉には、反論が出来ない。
「先生は俺に何か訊きたい事とかないの? 一年ぶりなわけだし」
「うーん……特には」
「ええ? 泣いちゃうな」
この素っ気なさも幼い頃から変わらない。これまで彼がタルタリヤに対して殊更熱弁を振るうのは、この山にまつわる事柄だけだった。出会って数年はその勢いだけが子供らしく、愛らしいと思っていたが、今やそれを僅かに寂しいと思ってしまう。だが触れるのを耐えるのと同じように、そう態度に出さないのも、告げないのも、また責任だ。だから『泣いちゃうな』という言葉も欠片ほどは真実である。陳腐な事を言えば、構ってほしい、のだ。一回り近く年が離れているであろう彼に。すべてを悟られたくないくせに、悟らせないようにも尽くしているくせに、なんて都合のいい事だろう。
湯呑みに口を付けた彼が、ちらり、と天井に視線をやってから、卓袱台に湯呑みを置いた。それと同時に、雷鳴を孕んだ雲が一際強くごろごろと音を立てる。水を含み切れなくなった空から、ばたばたと大粒の雨が地面に注がれる。荒れ狂い始めた風が吹き飛ばす葉や枝が、時折ガラス戸や屋根に当たりバチバチと唸る。
「なら、泣いてみてくれないか」
あの時のように。
輝く稲光が、灰色の緞帳を切り裂いた。稲光が満ちた窓を背にした彼の爛々とした瞳だけが、暗がりに浮いている。数瞬遅れて地を打つ雷の音が、タルタリヤの鼓膜を鋭く叩いた。激しい風雨。ざわめく木の葉。がたがたと揺れ動く密室の中に、彼と、二人。
「…………あの時、って、……」
タルタリヤには覚えがなかった。彼の目の前で泣くどころか、僅かでも雫を落とした記憶もなかった。
それでも彼の浮かべる表情に冗談はない。『あの時って?』そう問おうとして、言葉が途切れる。数秒言葉に詰まっていると、雷鳴は穏やかになり、風雨もにわかに落ち着きを取り戻す。ざわめく木の葉の隙から、ちち、と逃げ損ねた小鳥のちいさな鳴き声が響いた。
「いや、……忘れてくれ。人違いだった」
ふ、と伏せられた瞼の奥で、彼の瞳がはちみつのように水を含んだように見えた。つとめて無味乾燥に仕立て上げたような彼の言葉にタルタリヤの跳ねた心臓を知らないはずの彼は、再び静かに湯呑みを手に取り、一口含む。
「誰と間違えたの」
自分でも驚くくらいには、冷たい声だった。彼の平静が崩れるところなど、一度も見た事がなかったのに。いとも容易く、ただ過去を回想するだけで彼の沈着な瞳をぎらつかせる者がいたなんて。
「貴方が、知る由もない事だ」
タルタリヤは彼の名前も、何処の学校に通っているかも、どんな理由でこの家に住んでいるかも知らない。
氷水のような声音で訊ねられ、少しだけ悲しそうに彼が微笑む理由も知らない。
なめらかな頬の輪郭に触れられない事。蜜の甘みを含む声を享受できない事。きめ細やかな皮膚の手に指を絡められない事。
風雨に軋む部屋の音が、その現実を否応なしにタルタリヤに突き付ける。彼に伸ばそうとする手が、畳の上で握りしめられる。瞼を伏せて黙った彼に向けてタルタリヤが出来る事と言えば、ただ、彼を見つめる事だけだった。