太陽の裏側「マスカーニャ、行くよ!」
バトルコートのあちこちに散乱した水飴の位置をハルトがナビゲートして、マスカーニャは水飴に足をとられることなく、華麗に踊るようにそれらをかわして接近してくる。
カミツオロチが総勢で放つ本気のレーザーも、ギリギリまで引きつけてから頭上へ高くジャンプすることで回避された。
雲一つない青空へ舞い上がるマスカーニャは、ちょうど中天にある真昼の太陽を背にしていて、見上げた瞳の底まで灼くような光に、スグリは両目を細める。けれども今日は、闘志が挫ける気がしなかった。
ハルトがこの学園に来た日と逆で、今ではハルトがブルベリーグチャンピオンの座にいて、スグリのほうが挑戦者の立場だ。身の回りが落ち着いたらもう一度挑みに行くからなと、かつてハルトと約束をした、今日がその日。
今ここで、持てるすべてをハルトにぶつける。お互いに手持ちのポケモンは最後の一匹同士。ここまで来て、不甲斐ないところなんか見せられない。
「マスカーニャ! じゃれつく!」
空から落下してくる勢いを乗せて、マスカーニャが鋭い爪を振りかざす。同時に、マスカーニャが纏っている気配が少し変わった。本来くさ・あくタイプのマスカーニャが、フェアリータイプへと変化を遂げたのだ。
バトル中、使う技にあわせてポケモンのタイプが変わる特性・へんげんじざい。このバトルにおいてテラスタル使用権をまだ残しているハルトが、一向にマスカーニャをテラスタルさせようとしないのは、これが理由だった。
現在かくとうタイプにテラスタルしているカミツオロチに対して、フェアリータイプになったマスカーニャは攻撃面でも防御面でも有利になる。ハルトのマスカーニャはこの特性を考慮しなくてはならないので、いつも手強くて気を抜けない。
「踏ん張れ、カミツオロチ!」
スグリの指示で、オロチュたちが固い蜜飴の中へ引っ込んで、マスカーニャの爪から身を守る。
スグリとて、勝算なくこの勝負に臨んだわけではなかった。マスカーニャは非常に素早く、なかなか攻撃を当てさせてはくれないが、その代わり、決して打たれ強いポケモンではない。うまく攻撃を当てることさえできれば、スグリ側にも勝機が見えてくる。
弱点を突かれてもカミツオロチならば耐えきれると信じて、さっきのじゃれつく攻撃は、あえて避けずに受けた。痛手をもらったぶん、攻撃後に生まれるわずかなチャンスは絶対に逃さない。
「よし……! やり返すべ! ジャイロボール!」
カミツオロチのみずあめボムを周辺にばら撒いておいたおかげで、攻撃を終えたマスカーニャの着地地点はある程度絞り込むことができる。
マスカーニャがバトルコートに降りてくる、回避ができないその瞬間を狙い、カミツオロチが飴の中に引っ込んだまま高速回転し、マスカーニャに体当たりを食らわせる――はずだった。しかし。
「マスカーニャ、伏せて!」
カミツオロチがぶつかっていく直前、コートの表面に片手をついて身を低く伏せたマスカーニャに、カミツオロチがなぜか、一瞬だけ戸惑うような動きをみせる。
「……! 待てカミツオロチ! 身ぃさ守って!」
直感に従って、スグリは咄嗟に防御を指示した。マスカーニャはバネのごとくまっすぐ、カミツオロチの懐へ突っ込んでくる。
「――トリックフラワー!」
鋭く飛んだハルトの声とともに、ポケモン同士が交錯した、次の瞬間。
ぼんっ! と派手な音をたてて、マスカーニャの爆弾がカミツオロチの全身で炸裂した。
すごい威力で、爆風と煙がコートの端まで吹きつけてきて、スグリの上着の裾を激しくはためかせる。煙から顔をかばいながら、スグリはそれでも、バトルコートの中を注視し続けた。
――マスカーニャの背中の小さい葉っぱは、実は浮いてるんじゃなくて、ちゃんと体から茎が繋がってるんだ。
……以前、ハルトからそんな〝種明かし〟を、こっそり聞かせてもらったことがある。
マスカーニャの背を覆うマントのような深緑色の葉には、光を乱反射させて、見る者に目の錯覚を起こさせる仕組みが備わっている。マスカーニャはその仕組みを使い、普段は体から生えている茎の部分だけを、あたかも存在していないように、消えて見えるようにカモフラージュしているのだと。
さっきの攻撃の一瞬。カミツオロチの目にはきっと、姿勢を低くして背中の葉で体を覆ったマスカーニャの姿が突然消えたように映ったに違いない。
「カミツオロチ!」
スグリの呼びかけに、カミツオロチが煙の中から吼えて返事をした。
花粉爆弾の煙が晴れ、まだまだ元気な後ろ姿がふたたび現れて、スグリはホッと胸をなで下ろす。
咄嗟に攻撃を中断したので、なんとか急所を防御することはできたようだ。あのまま動いていたらたぶん、こちらの攻撃後の隙を、あの爆弾で逆に突かれていた。
ハルトのマスカーニャは深追いせずハルトのもとへ後退して、大きく間合いを取っている。
「マスカーニャ、大丈夫!?」
ハルトが少し心配そうに、マスカーニャに声をかけた。よく見ると、マスカーニャは足元が少しふらついている。先ほど接近戦を仕掛けたときに、カミツオロチが放つ甘い蜜の香りにやられたらしい。
マスカーニャはふるふると頭を振って気合いを入れ直し、まだやれる、と言わんばかりに短く鳴いてハルトに応えた。
うん、頑張ろう――そう言ってハルトも短く頷き返す。そしてその視線を、まっすぐにスグリたちへ向けてきた。
「すごい……! 今の技、とっておきだったのに、防がれたのはじめて! 強いよ、スグリ! カミツオロチ!」
興奮に拳を握り締めるハルトの瞳の中に、強くまぶしい光が揺るぎなくきらめいている。スグリもつられて、いつの間にか口角が上がっていることを自覚した。
「あんな攻撃、ずるっこだべ……さすが、ハルトとマスカーニャだ。一瞬も油断できね!」
ハルトが白い歯を見せて笑う。マスカーニャがまた、にゃう、とひと声発して、ハルトへ目配せをした。
「……うん。そうだね。やろう!」
短いやりとりで相棒の意図を汲み、ハルトはテラスタルオーブを頭上へ掲げる。
来るぞ――! コートの外で観戦している生徒たちから歓声があがった。
この学園の誰もがその強さに敵わなかった、いまだ無敗の交換留学生の切り札。本場パルデアのテラスタル。
渦巻く輝きを吸い込んだオーブを、ハルトはマスカーニャに向けて投擲する。マスカーニャの体を、まばゆく光る結晶が包みこむ。
「マスカーニャ! ショータイムだよ!」
楽しそうに弾むハルトの掛け声に合わせて、虹色の結晶の力をまとったマスカーニャが両手を広げ、力強く咆哮した。
光とともに吹きつける空気の波に触れたスグリの肌が、びりびりと、まるで感電したように痺れて粟立つ。
「――行くべ、カミツオロチ。しっかりついてきてな!」
畏怖か、武者震いか。震え上がる背筋を叱咤して、スグリはカミツオロチと共に、迎え撃つ構えをとった。
ハルトのペースに持ってかれたらダメだ。カミツオロチにはまだ余裕がある。
考えろ。ハルトなら次、どう攻めてくる――。
周囲の喧噪が聞こえなくなる。これまで生きてきた中でいちばん、深く集中できている瞬間を、このときスグリは感じていた。
互いがくり出すポケモンと、バトルコートの向かい側にいるハルトだけが見える世界。幸福感にも似た、素晴らしい充実感と興奮が、全身に満ち満ちている。
――楽しい!
◇
「あっ、部長! ちょっといいですか? このまえ相談に乗ってもらった、うちのポケモンのことなんですけど……」
些細なきっかけで気まずくなってしまっていた姉弟の仲直りを見届けたあと、ハルトは改めて、スグリをデートに誘った。
せっかくだからイッシュ本土へ行ってみようよという話でスグリと合意し、外出の準備のために、もう一度ふたりでスグリの部屋へ向かっていた途中。廊下の角で話し込んでいたリーグ部員の男子生徒と女子生徒が、スグリの姿を見つけるなり、先ほどのように声をかけてきたのだった。ふたりとも変に緊張した様子などはなく、気楽な雰囲気だ。
ちょっと待っててとスグリに小声で言われ、ハルトは頷いて、一歩後ろに下がった。さりげなく帽子の鍔を下げて衆目から顔を隠しつつ、後ろのほうから様子を見守る。
リーグ部員の子たちよりも、むしろスグリのほうが、少し緊張しながら喋っているように見えた。部長という呼び方にまだ慣れていないのかもしれない。ハルトから見ても、そういう風に呼ばれているスグリはなんだか新鮮で、つい帽子の下で表情が緩んできてしまう。
ハルトがこの学園に留学生として在籍していた当時は、スグリが荒れていた頃の影響で、彼のことを怖がって苦手意識を持っている生徒たちも中にはいたようだ。しかし、あれから時間が経って――なによりスグリ本人の努力によって、そんな空気も、今ではかなり和らいだらしい。
ハルトの交換留学期間が終わる直前、かねてから約束していた通り、挑戦者として再度挑んできたスグリと、ブルベリーグの王座をかけたバトルで熱戦を繰り広げたことの影響も大きかったのだろう。かつてハルトがこの学園に留学してきて間もなくスグリに挑んだ時と同じように、あの日の試合も、たくさんの人たちが観戦しに来てくれていた。
変幻自在に立ち回るマスカーニャと、難攻不落の要塞のようなカミツオロチ。
ダブルバトルなのに最後は互いのエース同士の一騎打ちとなり、息もつかせぬ攻防の末、全力の技をぶつけ合い、双方のポケモンたちは己のトレーナーを勝たせようと限界まで立ち続けて同時にダウンし、勝負は異例の引き分け判定となった。勝敗こそ決まらなかったものの、ふたりとも互角の実力の持ち主ということで、学園を去るハルトと入れ替わりで、スグリはブルベリーグチャンピオンに返り咲いたのだ。
今思い返しても、ハルトも手持ちのポケモンたちも全身全霊を出しきった、最高の勝負だった。
まわりで見ていた人たちもみんなハルトと同じ感想を持ってくれたようで、スグリのチャンピオン就任に異論を唱える者はおらず、教師のひとりが最初から最後まで動画に記録していたそのバトルは今でも学園内で語り草になっていると、ゼイユから聞いている。この決戦のあと、スグリのカミツオロチに影響を受けた生徒が続出して、キタカミのみついりりんごが飛ぶように売れたという嬉しい効果までついてきたのだとか。
「スグリくん! 来月のリーグ戦って――」
「ああ、えっと……その話は明後日のミーティングで……、」
部員たちに捕まっているうちに、スグリは他の生徒に見つけられて、また話しかけられている。
和やかに〝部長〟をやっているスグリの姿を見て、ハルトは微笑ましいような誇らしいような嬉しい気持ちと一緒に、ある過去の記憶を、わずかな痛みとともに思い出した。
あれは、しばらく休学していたスグリが学園に復帰して、まだ間もないころ。リーグ部の部室で、スグリがハルトに、自分の新しい決意を語ってくれたときのこと。
ポケモンっこたちと仲間たちともう一度、この学園で頑張っていくつもりだ――と、憑き物が落ちたような晴れやかな顔でそう語る想い人の姿に、良かったね! という安堵と祝福の気持ちの裏側で、ハルトはほんの少し、寂しさを覚えた。
あくまで交換留学生にすぎない自分は、スグリが言う、その『仲間』の輪には決して入れない。同じ空間で暮らして、仲間としてスグリを傍で支え、見守り続けていくことはできない。ハルトは、いずれ留学期間が終わってしまえば、この学園を去る人間だ。
うらやましいなと、心底思った。パルデア地方もパルデアの友達も大好きだけれど、ブルーベリー学園の生徒になりたいな、なんて少しだけ考えてしまった気持ちが顔に出てしまわないように、そのときのハルトはとにかく全力で、あまり良くない感情を押し隠して、スグリの前で精一杯の笑顔を浮かべていた。
スグリは強い人だ。いろんな事があったけれど、スグリが自分の意思の力で立ち直ってもう一度前に進み出してくれたことを、ハルトはただ心から祝福して、応援してあげたかった。
スグリが大切に思っているものすべてを、スグリごと大事にしたい。
スグリが憧れだと言ってくれるライバルとして、ハルトは、スグリの横に並び立つにふさわしい人間でありたかったのだ。
当時からハルトが思っていたとおり、スグリの中で頭角を現した強さと、苦しい状況でもひたむきに頑張り続けられる純粋さを、間もなく、ブルーベリー学園のみんなが知るところとなった。
それは喜ぶべきことだ。……だけれど。
ハルトは、じっとチャンスを待った。スグリがなんとか部員たちとの会話を切り上げて、ハルトと一緒に自室へ戻り――自分たち以外の視線が完全になくなったタイミングを見計らって、「スグリ、」と声をひそめて話しかける。
ハルトのほうを振り向いたスグリの手をとって、その親指の付け根に自分の唇を押し当てる。驚きに丸くなる金色のきれいな双眸を、真摯に見つめた。
「……ね、やきもち妬いちゃうから、このあとは僕のことだけ見てて。お願い」
「っ……!」
スグリが空気もろとも生唾を飲み込んで、ごきゅっ、とハルトの耳にまで聞こえる音が鳴る。
こうしてスグリの恋人にしてもらえる前まで、ハルトがどれほどの焦りと不安を抱えて毎日を過ごしていたか。想いが通じ合った今でも、僕からスグリを取らないでと、心の奥のどろどろした場所で叫び続けている我が儘なもう一人のハルト自身がいることを、スグリはきっと知らない。
でも、きっと、それでいい。スグリはこんなこと、知らなくていいんだ。
ハルトが守りたいと切に願う素敵でかわいい想い人は、うまく言葉が見つからない様子でまっすぐにハルトを見つめて、その顔をカジッチュのりんごみたいに真っ赤に染めながら、「うん」と一言、頷いてくれた。