Glorious days 〈1〉
ひと足先に目を覚ましたのはハルトのほうだった。
カーテンの隙間から太陽の光が差してきて、朝の寝室を明るく照らしている。今日も天気がいい。窓の外で、小さな鳥ポケモンたちが楽しそうにお喋りをする声が、部屋の中までかすかに届いてくる。
ゆっくりと身を起こし、ベッドの上で気持ちよく両腕を伸ばしたハルトは、隣でスグリがまだ寝息をたてていることに気づくと、そうっとシーツに手のひらと肘を沈み込ませて、スグリの上へ覆い被さった。
スグリの顔にかかっている黒髪を指でやさしく梳いて撫でてから、耳のそばへ口元を寄せ、スグリの名前を甘く呼ぶ。耳の付け根へ唇を押し当て、そのまま、小さなリップ音をたてるだけの可愛らしいキスを何度も繰り返すハルトの頭を、のっそり持ち上がったスグリの手が、ぽすんと叩いて押しのけた。
「こら」
何してんの、とほとんど形だけハルトを咎めた声は、低いけれど甘く柔らかい。手持ちのポケモンたち以外には、ハルトにしか聞かせない声色だ。
そのことをよく知っているハルトが、えへへと嬉しそうに笑う。
「おはよう、スグリ」
「おはよ、ハルト」
あたたかい布団の中でいつまでも触れ合っていたい気持ちをお互い我慢して、唇同士を重ね合うだけのキスをしてから、それぞれ、大人として課されるようになった日常の義務に追われて、ふたり揃って朝の身支度を始める。
ハルトの肩にいくつも残る赤い噛み痕や小さな鬱血の痕がシャツの襟で隠れていくさまを盗み見て、スグリはこっそり、薄く笑んだ。これだけ念入りに痕をつけておけば、しばらくは消えないだろう。ハルトがあんなところを自分から人に見せることはないだろうが念のためだと、気分よくパーカーを羽織る。
顔を洗って歯を磨きながら流れで役割分担を決めて、ハルトはふたり分の朝ご飯を作りにキッチンへと向かった。
その間、スグリはハルトの手持ちのポケモンたちをいったん預かって、スグリ自身の手持ちも含めた全員を、順にモンスターボールから出していく。
「みんな、おはよう。お腹空いたべ? 朝ご飯にしよ」
スグリが声をかけると、待ってましたと言うように元気に、あるいはまだ眠たそうな目をしながら、寝起きのポケモンたちが口々に返事をする。何匹かはスグリのあとをついてきて、食事の準備を手伝ってくれた。
ハルトとスグリのポケモンたちはサンドウィッチのファンが多く、それゆえトレーナーと同じものを食べる機会も多いのだが、忙しくなりがちな朝はたいてい、ショップで売られている専用フードと木の実が彼らの朝ご飯になる。
みんなで集まって賑やかに食事をとる風景に和みながら、ポケモンたちの食欲がちゃんとあるか、元気のない子がいないかどうかを見てまわっているうちに、「スグリー、ご飯できたよー!」と、ハルトが呼ぶ声がキッチンの方から響いてきた。
学生時代は調理中の手つきがなんだか怪しかったハルトも、スグリやペパーたちの指導もあって、今ではちゃんと、見ていて不安にならない料理ができるようになっている。
ハルトお手製のホットサンドとサラダと甘いカフェオレでふたりとも胃を満たして、満腹で元気いっぱいのポケモンたちと一緒に朝食の後片付けをしてから、ふたり並んで玄関を出た。
「行ってきます」
「うん。気ぃつけてな」
「あとで電話するからね」
戸締まりをした玄関先で未練がましくぎゅーっと抱きついてくるハルトを適当にあやして、スグリは、空港へ向かうハルトを送り出した。
ハルトは今日から数日間の海外出張。スグリは今日もいつも通り、パルデアリーグ本部で仕事がある。
〈2〉
パルデアのリーグは実は、ほかの地域のリーグと比べてまだ新設の部類に入るのだと、スグリは話に聞いている。
チャンピオンランクの存在等、ほかのリーグとは異なる新しい制度も多く、そのぶん、少数精鋭で業務を回すことに苦労してきた側面もあるらしい。
そのためパルデアリーグでは、委員長兼トップチャンピオンのオモダカが直々にスカウトに出向くなどして、出身地や年齢を問わず、広く人材を集めている。スグリもハルトも、そして友人のネモとボタンも、オモダカの誘いを受けてリーグに雇用された身だ。
スグリは今、ここで人事にも携わっている四天王のチリの手伝いをしている。
手伝いといっても、まだ業務を覚える段階で、手持ちのポリゴンZにも手伝ってもらいながら慣れないパソコンと格闘しているうちに、毎日、あっという間に時間が過ぎていく。「面接までは別にやらんでもええけどなー。チリちゃんのお仕事なくなってまうし」と、上司が気さくな調子で言ってくれているのは、大人になっても人見知りの気が抜けないスグリにとっては、非常にありがたい話だった。
チリいわくここだけの話、委員長のオモダカは将来、トップチャンピオンの座を、ハルトかネモのどちらかに譲るつもりでいるらしい。たまに視察等と銘打って、自分の代理としてハルトに海外出張をさせているのも、現在彼女がやっている仕事の引き継ぎのためだとか。
そこで、現在チリがオモダカの〝お守り〟を担当しているように、将来、ハルトの補佐をやる気はないか?……と、そう言われて即、飛びついた役職だった。
我ながら現金だと思いはするものの、長いあいだ自分よりもずっと先を走り続けていたハルトの隣に、これでようやく追いつける――そんな希望を胸に、スグリは毎日、慣れない作業を頑張ってこなすことができている。
「……おっ、もうこんな時間か。スグリくーん、待ちに待った休憩やでー。お昼行っといでー」
「あっ、はい!」
チリに声をかけられてようやく、スグリはずっと集中していたモニターの画面から目を離した。
昼食のことがすっかり頭から抜けていて、何を食べるかまだ決めていない。少し考えてから、スグリは上着のパーカーのポケットに入っているスマホロトムを呼び出した。通話履歴の中から『そらとぶタクシー』の番号に繋いでもらい、リーグまで来てもらうよう依頼する。
「おん? タクシー呼ぶん?」
「ペパーの店さ行ってきます。あそこのご飯、俺のポケモンっこたちも大好きで」
あーあの子んとこか、と、チリが回転椅子の上で、すらりと細い手足を思いきり伸ばしながら納得した。
「自分らホンマに仲ええなぁ。ペパーって子とボタンとネモと……自分、あの子らとは学生時代からの付き合いなんやろ?」
「はい。みんな、俺の大切な友達なんです」
ハルトがキタカミの里に連れてきてくれた縁で友達になったみんなとは、学生の頃からずっと変わらず、今でも仲良くしてもらっている。ひとりひとりの顔を思い浮かべながらスグリがにへへと笑みをこぼすと、チリは回転椅子に座ったままくるっと半回転して、体の正面をスグリの方へ向けた。そのまま、にっこりと笑う。
「うんうん。友達を大事にするんはええことや。ほな、長話しすぎて午後のお仕事に遅刻せぇへんように、気ぃつけて行ってきーや」
「はい!」
ひらひらとチリに手を振られながら、スグリは仕事部屋をあとにした。
初対面の時は怖い人かと身構えたこともあったけれど、チリは、話してみればとても人当たりがよくて優しい先輩だ。特別似ているというわけでもないのだが、どことなく、ブルーベリー学園にいた頃にあれこれと世話を焼いてくれたタロ先輩を思い出す。それに、種類は違えど、話す言葉に地方訛りがある人間同士で、少なくともスグリのほうは、なんとなく居心地の良い親近感を感じてもいた。
ハルトたちがそばにいるとはいえ、生まれ故郷から遠い土地へ引っ越して来ることに最初は不安もあったものの、なんとかやっていけそうだと、今では実感を持てている。
昼休憩に何を食べようかとにわかに活気づくほかの職員たちに混じって、スグリは足取り軽く、リーグ本部の出入り口を目指した。
〈3〉
――いらっしゃいませ!
店のドアをくぐってすぐ、若い店員さんの明るい声に出迎えられた。奥の方から漂ってきて鼻腔をくすぐる良い香りは、オリーブオイルとスパイスのものだろうか。
広いというわけではないものの改装したてできれいな店内は、近所の人とおぼしきお客さんでほぼ満席の状態だ。人もポケモンも、みんなほくほくの笑顔で、ペパーの料理に舌鼓をうっている。
ドアの近くの、いつもの定位置に置かれたクッションの上で、店の看板ポケモンをしているマフィティフが、吠えることもなくおとなしくスグリを見上げて尻尾をふってきた。すっかり顔馴染みになったペパーの相棒に、スグリも軽く挨拶を返す。
ペパーはオレンジアカデミーを無事卒業したあと、プロの料理人でもあるジムリーダーのハイダイに弟子入りして数年間修行に励み、最近、コサジタウン近くのこの灯台下に食堂を開店した。
なんでも、ペパーがまだ在学中のころ、パルデアのジムめぐりをしていたときに自分の夢をハイダイに語ったところ、ハイダイはいたく感動して、その後いろいろと親身になってペパーを手助けしてくれたらしい。「あの人には一生アタマ上がんねえぜ」とはペパーの談だ。
おいしそうな料理の匂いにつられて本格的に空腹を訴えだした胃袋をさすりながら、スグリはレジカウンターの方へ進む。すると、ちょうど奥の厨房から、店主のペパーがひょっこりと顔を出してきた。「おっ」と青い目を丸くしたペパーの顔に、人懐っこい笑顔が浮かぶ。
「よう、スグリ! 昼飯食いに来たのか? 今日は何にする?」
店が繁盛して従業員を抱えるまでになっても、ペパーはスグリたちのような知人が来ると毎回、こうして店主みずから、親しげに声をかけてくれる。「ハルトもスグリもペパーのことアニキみたいに慕ってるから嬉しいんでしょ」というのはボタンの談だ。
スグリはポケモンたちが食べるぶんも含めて、サンドウィッチをいくつか、持ち帰りで注文した。
この店ではサンドウィッチを注文すると、カウンター越しに見える形で、お客の目の前で、できたてのサンドウィッチを作ってくれる。細長いパンの上に具材を手際よく乗せていきながら、ペパーが雑談をふってきた。
「今日はハルトのやつは一緒じゃねえのか?」
「ハルトは今日から出張なんだ。今回はシンオウ地方だって」
「シンオウ……? 聞いたことねえけど、ここから遠いのか?」
「キタカミの近くのほうだからなあ……飛行機でも、けっこう時間かかると思う」
「マジで遠いじゃねーか! アイツもなかなか忙しいちゃんだな……生徒会長もここんとこ顔見てねーし、たまにはパルデアでゆっくり過ごせばいいのによ」
家族がいるんだから、とペパーは少し口を尖らせている。
ハルトとスグリが結婚すると聞いたとき、一番びっくりしていたのはペパーだった。
そもそも、スグリたちが交際していることにすら、ずいぶん長いあいだ気がついていなかったらしい。どうも恋愛まわりのことにひどく疎いらしいのは、現在でも変わっていないのだが――「あいつお子ちゃまだからねー」とはゼイユの談だ。
けれどペパーは、スグリとハルトが式を挙げる日には、開店したてで忙しい日々の合間を縫って駆けつけてくれて、ご馳走をつくって祝福してくれた。
大事な親友の門出だからな! オマエら、いい家族になれよ! ……そう言って親指を立ててみせながら、スグリたちの背中を押してくれたとびきりの笑顔を、スグリは今でも、はっきりと覚えている。
スグリにとっても、ペパーは大事な〝親友〟だ。その明るさからは一見想像もできないような苦労の多い人生を送ってきているようだが、そんな彼と、彼の夢の第一歩であるこの店を、親友としてできうるかぎり、応援したいと思っている。
「……あ、そうだ!」
ぽんと手を打ったペパーが、カウンター裏から小さな紙の袋を取り出して、テイクアウト用の紙袋に入れてくれた。
「オマエ、甘いヤツ好きだろ? ペパーお兄さん特製、元気が出るクッキー! オマケでサービスちゃんだぜ!」
「えっ。お金、いいの?」
「コイツは試作品だからいーんだよ。その代わり、カミツオロチたちとみんなで食って、あとで味の感想くれよな」
紙袋に入れた商品をスグリに手渡しながら、ペパーは笑って親指を立ててみせてくれる。
ありがとな、と少し恐縮しながらスグリがお礼を述べて代金を支払った直後、パーカーのポケットからスマホロトムが飛び出してきて、スグリの周りを忙しなく飛び回りはじめた。
「わやじゃ! そろそろタクシー呼ばねえと……!」
スマホロトムにせっつかれながら、スグリは慌てて画面を操作して、そらとぶタクシーを呼ぶ。
「オマエもそんなに仕事詰まってんのか?」
「いや、ボタンに、ペパーのお店行くならうちの分も買ってきてーって頼まれてんだ。遅くなると、昼休憩終わっちまう」
「あんの引きこもり……」
ペパーは腕組みしてため息をついた。
「夕方になったら、また晩ご飯さ、買いに来るよ」
「おう! うーんと美味いの作ってやるから、楽しみにしとけよ! お仕事頑張れちゃんだぜ!」
「にへへ。ペパーもな! またな、マフィティフ!」
紙袋を腕に抱えてスマホロトムと一緒に店を出るスグリを、ペパーとマフィティフが、上げた片手と尻尾をそれぞれ大きく振りながら見送ってくれた。
〈4〉
ボタンもアカデミー卒業後、ハルトとほぼ同時期にパルデアリーグに就職しているが、スグリとは働いている部署が違っている。
情報システム部門の仕事部屋を覗き込んで見回すと、探していたボタンの姿はすぐに見つかった。
スグリが声をかけるまでもなく、今この瞬間にスグリが顔を出すことを分かっていたかのように、ボタンはスマホを片手に部屋の出入り口のほうを向いて、おーい、と手を振って待ちかまえている。
部屋のいちばん隅っこのデスクに陣取り、リーグが仕事用に貸し出している機材よりもずっと大きなPCやモニターや椅子、それにヒーローポケモンのポスターまで、数々の私物を持ち込んで巣を作っているボタンはもはや、この部屋のヌシと化していた。それでも普段は、この部屋へは足を運ばずに、自宅からリモートワークしていることも多いのだが。
「はい、これ。頼まれてたやつ。ボタンたちのぶんは、カレー味でよかったんだよな?」
「そそ、ありがと。おーこれこれ」
ふたつある紙袋のうちひとつを手渡すと、ボタンは紙袋の中を覗き込んで、漂ってくるスパイスの香りに喜んでいる。
「報酬、送ってあるよ。手間賃上乗せしといたから、お菓子でも買って食べて」
スグリの横でふわふわ浮いているスマホロトムを、ボタンは人差し指で示して言う。スグリが画面を見てみると、いつの間にか、いくらかの額のLPがチャージされているようだった。
スグリが念願のスマホを入手してからもう何年も経つが、いまだに、このリーグペイという電子の通貨の使い方はよくわからない。
ボタンに直接訊ねるのはなんとなく憚られたので、あとでハルトに聞こうと決めて、スグリはひとまず、ボタンに感謝の言葉を述べておいた。
スマホひとつあれば大抵なんでもこなしてしまうボタンは凄いと、スグリは素直に思う。
実はさっきも、スグリがペパーの店に行くことを一言も言っていない……というか今日はまだボタンに会ってすらいないのに、スグリが店の前に到着したタイミングで急にボタンから電話がかかってきて、昼食の購入代行を頼まれたのだった。位置情報が筒抜けだ。ボタンなら悪用はしないと信用しているから、良いのだけれども。
まあその辺適当に座ってー、というボタンの言葉に甘えて、せっかくなので、スグリはボタンとあれこれ雑談をしながら、一緒に昼食をとることにする。
お互い人見知りな性格同士で昔はぎこちなかった会話も、共通の友人であるネモやペパーたちを交えながら友達として数年接していればさすがに慣れて、今ではふたりだけでも、かなり肩の力を抜いて話せるようになってきた。
おもにボタンのほうが自分の興味のある話題や趣味の話を語って、スグリはたまに相槌を打つだけだが、人の話を一方的に聞くことには姉で慣れているので、スグリは別に苦ではない。ボタンは自分の好きな話題をとても楽しそうに話すし、スグリにとっては新鮮だったり面白いと感じたりする話も多くて、聞いていて退屈に思ったこともなかった。
ボタンも一応、専門的すぎる話は避けて、スグリが興味を示しそうな話題を選ぼうと努力はしているようだ。
「そういえば、小耳に挟んだんだけど」
ペパーの店でもらった特製クッキーをニンフィアたちと一緒につまみながら、ボタンが丸眼鏡のブリッジを押し上げた。可愛らしいイーブイ型のカバーを着けたスマホの画面に、眼鏡越しにちらりと目をやる。
「ネモが、パルデアに戻ってくるって。今日、午後からリーグ本部に顔出す予定だとか……ていうか、もう近くに来てるっぽい」
「ネモが? わや久しぶりだなー」
スグリは目を丸くしつつ、少しだけ、心をわくわくと弾ませる。
たいていリーグ本部で仕事をしているスグリやボタンと違って、ネモはポケモンバトルのプロとして学生時代から引き続き活躍を続け、最近ではパルデアだけでなく、今回のように、世界各地を舞台に戦うことも増えた。もし今日会えるとしたら、直接顔を合わせるのは数週間ぶりだ。
ネモ本人の話によると、海外へはただ楽しくバトルをしに行くだけではなく、赴いた各地で有望なトレーナーを見つけたらパルデアリーグへ勧誘してきてほしいと、オモダカから頼まれているらしい。適任の仕事だと、スグリは常々思っている。
「――おーいボタン! いるかねー!? あっ、スグリもいる!」
噂をすればというやつで、部屋の出入り口の方から、聞き覚えのある快活な声が響いてきた。
そのひと声だけで、真昼の仕事部屋の中がさらに一段階、明るくなったような気がする。ネモもハルトとはちょっと違う種類の太陽だなと、スグリはネモに会うたびに思う。
まさしく夏の太陽のような、学生時代からちっとも変わらない健康的な笑顔を浮かべて、ネモは大きく手を振りながら、デスクの合間を縫ってボタンとスグリのほうへ駆け寄ってきた。その後ろから、ネモと付き合いの長いパーモットが大きな耳と尻尾を揺らして、とてとてと続く。
「久しぶり! ふたりとも、お昼ご飯ここで食べてたの?」
「うん。でも、そろそろ食べ終わるとこ。ちょうどスグリと、ネモのウワサ話してたとこだし」
「えー! わたしのウワサ!? なになに? バトルしたいっていう話!?」
「いや、そういう話じゃなくて……」
ボタンが横目でスグリに助けを求めてくる。スグリは困って、曖昧に苦笑いした。
「あ! ふたりが食べてるのって、ペパーのお店のサンドウィッチだよね? いいなーおいしそう! わたしも寄って食べてくればよかった」
「俺、また夕飯に買って帰ろうと思ってんだ。ネモも一緒に行く?」
「うん、行こう! でもその前に……」
「戦ろう、でしょ」
瞳を輝かせるネモに、ボタンが丸眼鏡を押し上げつつ先手を打った。
「うちはパス。スグリ、がんばれ」
「仕事さ終わったあとでなら、いいよ」
「やったー!! 絶対! 約束だよっ!」
「う、うん……」
拳を突き上げて喜ぶネモの圧につい押され気味になりながら、スグリは頷いた。今ではスグリのほうがネモよりも背が高いのに、こういうやりとりも、昔から変わらない。
「ハルトは出張でいないんだっけ? 入れ違いになっちゃったかー。ハルトとも、久しぶりにバトルしたかったなー」
「ネモは相変わらずだなあ」
「スグリもでしょ?」
ネモはニッと目を細めて笑う。
「バトル、楽しみだね!」
「……にへへ。んだな!」
実のところ、ネモの言うとおりだった。スグリとて、今も研鑽を重ね続けるひとりのポケモントレーナーとして、強敵とのバトルの機会はやはり、いつだって心が躍る。
バトルバカが二人……と、ボタンが溜め息をつきながらぼやいた。けれども、丸眼鏡のレンズ越しに友人ふたりを見やるその目線は、言葉とは裏腹に、あたたかく穏やかだった。
〈5〉
「――パーモット戦闘不能。スグリの勝ち」
バトルコートの端で審判をしていたボタンが、まっすぐに上げた片手を勢いよく振り下ろす。
勝負の決着とともに、スグリは無意識に止めていた息を、努めてゆっくりと吐き出した。一瞬たりとも気を抜けば戦況をひっくり返される、ひりつくような試合。心臓がまだドキドキと胸の中で跳ね回っている。
昼休憩のあとでいったん解散し、それぞれの午後のぶんの仕事を終わらせてから、スグリとネモはリーグのバトルコートを借りて、ポケモンバトルをして一時間ほど過ごした。ずっと集中していたスグリの感覚ではあっという間だったが、気付けば空はすっかり茜色に染まっている。
お疲れさま!とネモはポケモンたちに声をかけながら、目を回してへたり込んでいる彼らをボールの中へ戻す。そして、つい顔がニヤニヤと緩んできてしまうのを抑えきれないというように、両の拳を顔の前で握り締めて、ぷるぷると震わせはじめた。
「くぅぅ~っ……! スグリ、強い! 最後の二匹の連携、すごかった! やっぱりダブルバトルもすっごくすっごく楽しいねっ!」
バトルの興奮さめやらぬネモの表情がきらきらと輝いている。
ここパルデアや、海外の多くの地方ではシングルバトルが主流という事情もあってか、ネモはどうやら、ダブルバトルができる相手に飢えているらしかった。シングルバトルも好きだけど、ダブルバトルはシングルとはひと味違った戦略が必要で、こっちもスリリングですっごく楽しい! ……というネモの言葉には、スグリも強く共感できる。
「ネモのポケモンっこも、相変わらずわや強いなー! ジャラランガもパーモットも一撃がでっかいから、冷や冷やした!」
スグリも手持ちのポケモンを半分以上倒される接戦だった。スグリがからくも勝てたのは、スグリが普段からダブルバトルをほぼ専門としていて、手持ちのポケモンたちもそちらに重きを置いて調整しているから、という理由も大きいのだろう。
シングルバトルとダブルバトルを一回ずつで、今日のネモとの戦績は、現在のところ一勝一敗。初戦のシングルバトルはネモの切り札であるウェーニバルがいたほか、ネモが別の地方で捕まえてきたという見知らぬポケモンもいて、序盤から苦戦を強いられた。パルデアリーグで戦っていくぶんには見たことのないポケモンと戦う機会はあまりないけれど、強くなるためには、初見のポケモンへの対策は今後の課題だなと、スグリは内省する。
……でも。勝っても負けても、やっぱり、ポケモンバトルは楽しい。
一度は忘れていた大切なその気持ちを、改めてスグリに思い出させてくれたのがネモだった。
ネモにとってはなんでもないことだったかもしれないが、スグリにとってネモは今でも恩人で、一緒に努力し合って強くなることができる、代え難いライバルのひとりだ。
一勝一敗じゃ中途半端だから決着をつけよう、なんてもっともらしい理由をつけて三戦目へ突入しようとしたところで、ずっとコートの横で座って見ていたボタンが、「ストップ、ストーップ!」と割って入って、待ったをかけた。
「うちお腹すいたし。今日はここまで。ペパーのお店、行くんでしょ?」
「あっ」
「そうだった!」
「……やっぱり、バトルバカ……」
「ていうかボタン、ずっと見ててくれたけど、お家に帰らなくていいの? やっぱり、ボタンもわたしとバトルしたくなった!?」
「違うし……」
ボタンががっくりと肩を落とす。
「ネモもスグリも、夢中になると他のこと留守になるタイプだから、見張っててやんなきゃって思っただけ。当たってたでしょ?」
「あ、アハハ……」
「うぅ……ごめん、ボタン。ありがと」
「ドリンクとデザート、ふたりのおごりね。ブイブイたちのぶんも」
にやりと口角を上げてみせるボタンに、ネモもスグリも、揃って苦笑いをしながら、このときばかりは首を縦に振るほかなかった。
〈6〉
「ネモはしばらくこっちにいるの?」
「うん! 大会も終わったし、次のシーズンまで、ポケモンたち鍛えながらパルデアで羽を伸ばそうかなって。だからしばらく、スグリたちともバトルやり放題!」
「ほんとにネモは相変わらずだなぁ」
並んで歩きながら雑談をしつつ、バトルでヘトヘトになってしまったポケモンたちをリーグ本部前のポケモンセンターへ連れて行って、回復してもらう。それから三人で、そらとぶタクシーに乗って、ペパーの店へ向かった。
予定より増えた客にペパーは驚いた顔をしたものの、しょうがねえなー、などとぼやくふりをしながら嬉しそうに、腕によりをかけて、親友たちのためのおいしい晩ご飯をたくさん作ってくれた。
せっかくみんないるし、ということで、スグリたち三人――ペパーを入れて四人と各自のポケモンたち、みんなで、店内で夕食をとることになった。先ほどバトルで思いっきり動き回ったばかりのネモとスグリのポケモンたちも、テーブルいっぱいのごちそうに喜んでいる。
「なんだか貸し切りみたいになっちゃったねー」
「夕飯時のピークはもうとっくに過ぎてるし、問題ねえよ。たんまり食って、稼がせてくれ」
「おおー……あのペパーが、商売人みたいなこと言ってる……」
「みたい、じゃなくて一応商売人だっつうの! 店の経営のことは、ハイダイ師匠のとこでみっちり叩き込まれたからな」
「そういえば、スグリ。ゼイユは元気にしてる?」
自分の取り皿に熱々のパエジャを取り分けながら、ネモが訊ねてくる。ふわりと皿から立ちのぼる湯気といっしょに、新鮮なオリーブと香草と焼けたトマトの香りが広がって、スグリのところにまで漂ってきた。
「先月会ったときは、元気そうにしてたよ。新作のショーが近い、とか言ってたっけな……忙しいみたいで、最近、あんまり連絡さ取れてねっけど」
ゼイユは、まだブルーベリー学園に在学していたころに、特別講師としてリーグ部を訪れていたジムリーダーのリップにスカウトされて、現在、リップの会社でモデルをやり始めている。モデルの仕事についてはスグリは門外漢なのでよく分からないが、美容の維持やエクササイズ等、毎日やることが多くて、とにかく大変らしい。
「モデルさんの仕事も忙しそうだけど、スグリたちに気を遣って、連絡するのを控えてるんじゃないかなー? 新婚さんなんだし」
「あのゼイユもついに弟離れしたかー」
ボタンは切り分けたトルティージャをもぐもぐと頬張りつつ、なにやら感慨深い顔で天を仰いでいる。ちゃんと野菜も食え、と先ほどペパーから注意を受けていたが、聞き入れる気はあんまりないようだ。
「気遣い……そう……なのかなあ……?」
月に一度は自分を呼び出して買い物の荷物持ちをさせるあのねーちゃんが? ……と、微妙な顔でストローをくわえたまま、スグリはグラスの中のフルーツジュースを吸い上げる。みずみずしい果物の爽やかな香りと甘みが口いっぱいに広がって、とてもおいしい。疲れた体の隅々にまで、元気が行き渡ってゆくようだ。
「まあ、なんだ。連絡ねーなら、たまにはスグリからも電話してやれよ。……ああ見えて案外、寂しいとか思ってたりすんのかもしれねーし」
「……んだな。そうする」
不器用に言葉を選んでいるペパーの、言外に含まれている複雑な感情を察して、スグリもあえて、ペパーににっこり笑ってみせながら頷いた。
そのとき。ロトロトロト、とスマホロトムが着信を知らせる音が、突然その場に鳴り響いた。その場にいる四人が全員、思わず、自分のスマホに目を向ける。
「あ、俺だ。ハルトからだ」
その一言で、さらに全員の注目がスグリに集まった。
スグリは少し迷ったが、この顔ぶれなら問題ないだろうと、スマホをタップして通話を繋ぐ。画面はビデオ通話モードに切り替わり、ハルトの顔が、スマホロトムの小さな画面の中に映し出された。ハルトの後ろに夜空と月が映っている。詳細までは分からないが、ハルトが今いる場所もすでに、夜の帳が降りているようだった。
『もしもし、スグリ? ……あれ? みんないる!』
スグリがスマホロトムを移動させて、テーブルを囲んでいる友人たちの顔を映したので、ハルトは画面の向こうで目を丸くしている。
「いま、ペパーの店で晩ご飯食べてんだ。ボタンとネモは、リーグ本部で一緒になった」
「ペパー飯うまー。うらやましいでしょー」
「でしょー!」
ボタンとネモが、スグリの後ろで料理の皿を持ち上げてみせている。いいなぁおいしそう、僕もみんなとご飯食べたい!と、ハルトが本気でうらやましがる声を出した。
「ハルトは今どこにいんだ?」
テーブルの向こうで、今度はペパーが身を乗り出してきた。
『シンオウ地方のキッサキシティだよ。さっき着いたばかりなんだけど、ちょうど、お花見の時期らしくて……』
見て見て、とハルトもスマホを動かして、自分の背後の景色を、スグリたちによく見せてくれた。
「わ……!」
ハルトは現在、広い公園のような場所にいるようだ。丈の低い芝生の上に、ちょっとした林のように立ち並んでいる木々が、葉っぱの代わりに、薄紅色の花を枝いっぱいに纏っていて――幻想的なその姿が、宵闇のなかで提灯の明かりに照らされ、ぼんやりと淡く浮かび上がっている。
スグリの故郷にもある、春に咲く花だ。
「わー! きれい!」
「おおー」
揃って身を乗り出すネモたちの反応を見て、ポケモンたちも興味ありげに、上下からスマホの画面を覗き込んでくる。
花はハルトが言うとおりちょうど見頃のようで、時おり、小さな花弁が提灯の光を照り返しながらひらりひらりと舞い落ちていくさまが美しい。
提灯は公園内に点在する街灯同士を繋ぐように飾られていて、その明かりの下で、シートを広げて座りながら花見を楽しんでいる地元の人々の姿も、画面の端に映って見えた。
「なんか、キタカミの祭りみてーだな」
提灯を見て連想したのか、ペパーが懐かしい記憶に表情を柔らかくしながら、ぽつりと言う。
『雰囲気似てるよね。さっき、焼きそばを売ってる屋台を見かけたよ』
「キタカミそば! 前にお祭りで食べたやつ、おいしかったよねー!」
そこまで言って、ネモがぴんと閃いた様子で、人差し指を立てて言葉を続ける。
「ねえねえ、オモテ祭りって確か、毎年やってるんだよね。 また、みんなで行かない? ゼイユも誘って!」
「いいね。ブイブイお面も追加で買いたかったとこだし」
「キタカミの飯、うまかったよなー! 今度は研究しに行くか。な、マフィティフ!」
「ばう!」
「んだば、公民館の管理人さんには俺から連絡しとく。みんなが来てくれたら、俺んちのじーちゃんたちも喜ぶよ」
話を聞いていたポケモンたちも行く気満々のようで、自分も自分もと、各々のトレーナーに同行をおねだりしている。
そんな光景を画面の向こうでにこにこと見守っているハルトも、『楽しみだね!』と、もちろん乗り気だ。
――この場でハルト一人だけが実際はとても遠い場所にいるのに、いつも通りのみんなとのやりとりの中では、そんな距離を感じさせない。
なんだか不思議な気持ちになりながら、スグリはなんとなく、うれしくなった。
いま、みんなと、ハルトと一緒にお花見をしてるみたいだ。
もしかしたらハルトは、スグリとまったく同じことを考えて――だからわざわざ、この花がよく見える場所で、スグリに電話をかけてきてくれたのかもしれない。
なんとなく、スグリには、そんな風に思えてしかたなかったのだ。
〈7〉
ネモもボタンもスグリもペパーも、ポケモンたちも。全員がお腹いっぱいになるまで食べて、夜もいよいよ更けてくる頃になって、楽しい時間の名残をそれぞれが惜しみながら、臨時の夕食会はお開きとなった。
ペパーの店の前で解散したあと、スグリはまたそらとぶタクシーに乗って、自宅へと帰ってきた。
今日はいつもよりだいぶ遅い帰宅になってしまったので、鍵を開けて入った家の中は真っ暗だ。ほぼ手探りで照明のスイッチを探し当てて、明かりをつける。
いつもなら帰宅後すぐにポケモンたちの夕食を作りはじめるのだが、今日に限っては、その必要もない。朝と同じようにポケモンたちを順にボールから出し、一匹一匹の体調確認も兼ねて、みんな今日もお疲れさま、と声掛けだけをしていく。何匹かは、もう夢うつつの顔だ。
「ペパーのご飯、わやおいしかったなー! ……にへへ。お腹いっぱいでもう眠い? ボールさ戻って、ゆっくり休んでな」
みんな一様に満足そうな顔で、それぞれのボールの中へ戻っていく。特に、ネモとのバトルに参加したメンバーは、このまま明日の朝までぐっすりだろう。
手持ちに入れておく六匹以外のポケモンたちをスマホ経由で預かりボックスへ転送してから、スグリは大きく伸びをして、洗面所へ向かった。
朝とは違って、今度はひとりで歯を磨く。
なんとなく、横目で、コップに一本だけ入ったままのハルトの歯ブラシを見つめた。隣にハルトがいないと、なんだか、ハルトとそっくり同じ形をした穴が隣にぽっかりと開いてしまったような気分になってくる。
寂しい、という気持ちをあまり意識しないように胸の奥へ押し込めて、軽くシャワーを浴びて、眠る支度をしていたとき。『ロトロトロト……』と、スマホロトムが、また着信を知らせてきた。
こんな時間に? と訝りながら画面を見ると、表示されているのはハルトの名前だ。急いで通話を繋ぐ。
「――ハルト?」
『えへへ、さっきぶり。そろそろ寝る頃かなと思って。寝る前に、ちょっとお話しない?』
スグリは迷わず頷いた。多少食い気味の返事になってしまったものの、構わず開き直る。夕飯のときの通話で今日のぶんは終わりだと思っていたから、思いがけない会話の機会がうれしい。
スマホロトムを通してハルトの声を聞きながら、スグリはいそいそと寝室の明かりを消して、ベッドに寝転がった。部屋が暗くなると、比較的明るいスマホの画面に視界を占められて、顔を近づければ本当にハルトが目の前にいるみたいだ。
時差を考えれば、向こうはもうとっくに日付が変わっているころだろうか。ハルトはスマホロトムと一緒に深夜の街を歩きながら通話しているようで、スグリが知っているようで知らない、遙か海の向こうの街並みが、ハルトの後ろを右から左へ流れていく。まるで、ハルトの隣を一緒に歩いているような感覚になってくる。
「ハルト、また外さいんの?」
『うん。荷物はホテルに置いてきたんだけど、まだあんまり眠くないから、少し散歩。もう一回、あの花を見に行こうかなって』
ハルトは夕食のときと同じ公園に来ているようだ。もう夜も遅いので、さすがに花見をしている人々の姿はなくなっているが、観光客のための配慮なのか、街灯や提灯の明かりは灯ったままになっている。
『この花、さくらっていうんだよね。今、キタカミでも咲いてるのかな?』
一本の桜の木を見上げる位置で、ハルトが歩道のなかで立ち止まる。スグリの生まれ故郷にも咲くこの花の名前を、以前、スグリがハルトに教えてあげたことがあった。
「うーん、どうだろな……シンオウで満開なら、キタカミじゃ、見ごろ過ぎちまってるかも」
『そっかあ。じゃあ来年は早めにお休みとって、一緒にお花見に行こうよ』
すごく綺麗だよ、と笑うハルトには桜の花の色がよく似合う。
その姿を、通話画面越しではなく手の届く距離で見てみたくて、スグリは、画面には映らない右手の指でこっそりとハルトの枕を撫でながら、「うん」と頷いた。まだ届かない今は、これで我慢する。
「ハルト。魔除け、効いてる?」
『どうだろう? 心配しなくても、あんまり声かけられたりしてないよ。ちょっと変装もしてるし』
スグリが左手の指輪を指し示してみせると、ハルトも同じように、薬指につけた指輪を画面に映して見せてくれる。
心配しなくてもとは言うが、どうだか、とスグリは思う。ハルトはリーグやアカデミーの公式動画に加えて配信者の動画にも出ている有名人だし、変に鈍いところがあるから、油断はできない。
俺も一緒に行けたら。
画面の中のハルトへ、はやる気持ちを募らせて少しだけモヤモヤしていると、ハルトの体を押しのけるようにして、ハルトの相棒のマスカーニャが、画面のなかに顔を出した。
「わっ」
驚いたハルトとスグリの声が重なる。
他のマスカーニャと比べても穏やかでおとなしい気質の彼が、こうして通話中に割り込んでくるのは珍しい。マスカーニャはスマホロトムの画面越しにスグリの顔を覗き込んで、にゃあ、とひと声鳴いてみせる。
「……うん。ハルトのこと、マスカーニャに任せた。俺がそばにいらんないあいだ、守ってやって」
『にゃおう』
『信用ないなぁ』
「信じててもやきもち妬いちまう気持ち、ハルトもよーく分かるべ? はやく……元気に帰ってきて、俺んこと安心させて」
『うん』
「待ってるから」
ぽつぽつと胸に浮かんでくる言葉を交わし続けていたら、キリがなくなる。
後ろ髪を引かれるような思いを押さえつけて――きっと、ハルトも同じ気持ちで、おやすみ、と囁きあって、通話を終えた。
「……いま、追いつくから……待っててな」
ひとり、今は届かない言葉をつぶやきながら、スグリは布団の中で体を丸める。
たった数日だ。何年も遠く離れて、送り合う手紙を頼りにお互いを恋しがっていた頃に比べたら、なんでもない。毎日、一日の終わりにハルトの顔を見て、声を聞いて眠れる日がくるなんて、スマホさえ持っていなかった数年前の自分が聞いたら、夢みたいだと、さぞかし羨ましがることだろう。
すっかり体温が移って、もうスグリの体の一部のようになっている薬指の指輪に、そっと唇を押し当てる。ハルトがスグリの体にしるしを残してくれた箇所へ服越しに触れて、目を閉じて、あのとき肌に感じたハルトの体温を思い出す。
夢なんかじゃない。
さっきまで画面越しに見ていたハルトの笑顔が、瞼の裏に浮かんだ。枕に鼻先を埋めれば、そこにはハルトの匂いがほんのり染みついている。マスカーニャの花の香りが混じった、甘くて、落ち着く匂い。
『――愛してるよ。スグリ』
耳の奥でもう一度こだまする大好きな声にあやされながら、スグリはゆっくりと、眠りの中へ落ちていった。