はじめてをきみにただ、唇を合わせただけだ。
それだけのはずが不自然なほど息が上がる。鼓動が痛いほど早鐘を打つ。
逃げ出したいほど落ち着かないのに、永遠にこのままでいたいくらいの充足感があった。
きっと唇を合わせながら、魂ごと重ねて確かめあったからなのだろう。
そう理解しながらも、ただそれだけと自分に言い聞かせなければ、どうにかなりそうだった。
自分がどんな顔をしているかなどまるでわからなかったし、気にする余裕もなかった。
ただ、彼の姿だけは石になるまで忘れない。金の縁取りから零れそうな涙が宝石より輝いて見えたことも、春の花みたいに染まった頬も、唇が離れてすぐ恥ずかしそうに引き結んだ口元も、繋いだ手の温度まで。
綺麗だな、と口づけの余韻のままシノはヒースクリフを眺めていた。
好きだと気付いて、秘めて、どれだけ経っただろうか。魔法使いの一生に比べれば瞬きの間なのだろうが、未だ人間と同じ速さで外見の成長を迎えている歳のシノにとっては途方がない期間だった。何しろずっとそばに居たい相手だ。守ると約束した相手だ。自覚した瞬間から永遠の苦しみを覚悟した。
だから今この瞬間も現実感がない。こうでもして繋がっていなくては、地に足がついた感覚がしないというものだ。
少し恐怖して、繋いだままの手に思わず力を込めると、そっと握り返される。
「シノ」
目が合う。涙の浮かんでいた青の瞳は、やはり潤んでいた。あの涙の意味をシノは未だ知らない。だが今は知らないままでいいとも思った。心で魔法をつかう魔法使い同士だからこそ、感情の揺れるままを言葉にしなくてもそのままで大切にしたいと感じる。
「ヒース。ヒースクリフ」
出会ってから、幾度名前を呼んだことだろう。互いに数えることなど出来ぬほど口にしてきた愛しい響きを声に出す。
キスをしたから、なのだろうか。それとも思いを確かめあったからなのだろうか。言い慣れたはずの音が祝福の言葉のように特別な響きに聞こえた。
「シノ……その、聞いてもいい?」
「ああ」
繋いだままの手の甲をヒースクリフの爪先が遠慮がちに引っ掻く。その動きはまるでおねだりのようでシノは背筋がゾクリとした。気分が高揚する。
おまえの問いならなんだって答えてやるさ。愛の言葉を囁くことだって、誓いを立てることだってしてやる。彼の唇が何度か開いては閉じ、やっと言葉にする時を、シノは従順な飼い犬のようにただ側に侍って待った。こんなにも言葉を続けることを恥ずかしがって躊躇っているのだ。もしかしたら本当に好きだとか愛しているだとか、そんなことを言われたいのかもしれないと思うと可愛くて愛おしくてたまらなくなった。聞かれる前に口から零れそうになる言葉たちをどうにか堪えて、待つ。
「その」
果たして、ヒースクリフの続けた言葉はシノの予想の外側にあった。そっと自身の唇に触れながら彼はこう続けた。
「シノは、相合傘はしたことあるって言ってたけど……これは、初めてだよね?」
相合傘。確かにいつかそんな話をしたことがある。そして、『これ』とは口づけのことだろう。
なぜそんな話が出てくるのか、とシノは数拍沈黙した。
「あ、違っていても、いいんだけど……」
その無言をどう思ったのか、ヒースクリフは不安そうにまぶたを伏せる。潤んだ瞳からは今度こそ粒が結ばれようとしていて、それを見た途端合点がいった。ヒースクリフを抱き寄せてシノは叫ぶように答えた。
「違わない! おまえが、ヒースがはじめてだ」
「そう……なんだ」
何でもなさそうに答えた割に随分と嬉しそうな声音だった。腕の中でふっと力が抜けた身体が愛おしくて仕方がない。シノはもう一度初めてだった、とヒースクリフの耳元で繰り返した。
熱のある吐息が直に触れて、びくりと彼の身体が跳ねた拍子に目と目が合う。ヒースクリフの青の瞳の上にはもう涙は浮かんでいなかった。泣かさなくてよかったと安堵する。こんな時に、こんな日に、誤解で泣かせたくなんてない。
「……ヒースもだろ?」
「うん、俺も……」
ヒースクリフがふっと微笑んで、そして、目線が宙を泳いだ。
反射的に視線の先を追うが、何もない。もう一度ヒースクリフを見れば、彼は口元を指でなぞっていた。
温和だったはずの笑みは困惑のそれに変わっており、シノの心がざわりと粟立った。嫌な予感がする。
「あ……でも、うーん。どう、かな……」
じっとヒースクリフの顔を見つめ続けていると、彼は観念したようにゆっくり口を開いた。睨んでいるように見えたのかもしれない。申し訳なさそうに彼は続ける。
「えっと、もしかしたら、違うかも……?」
「はあ 聞いてない!」
なんだ、その返答は!
脳内で該当しそうな相手を必死にリストアップする。引っ込み思案なヒースクリフだ。親密な相手など限られている。オレの知らない相手だとすると社交の場か? まさか、承諾していないヒースに無理やり? どこのどいつだ、そんな不敬なやつは。
ぐるぐると思考が廻れば廻るほど腹の底から苛立ちが湧き上がってくる。怒りの向ける先が見つからず、シノはただ自身の拳を強く握りしめた。
「だ、だって」
手の甲に温かいものが触れる。ヒースクリフの指先がシノの指の間を引っ搔いて強請れば、苛立ちが嘘のように霧散して拳が解けていく。滑り込むようにして指先を絡めば、つい先程まで繋がっていた指先の温度は、再び触れた瞬間に溶けあう様に馴染んだ。
「覚えてないくらい小さい頃のことは確かめようがないだろ……」
頬を寄せてヒースクリフは呟いた。彼の髪とシノの黒髪がぐしゃぐしゃと混ざり合う。少しくすぐったくて、気分が良かった。ヒースクリフの声音は、宥めるようにも、言い訳をするようにも、甘えるようにも聞こえたから、自分と同じように思っているのだとすぐに解った。誤解されたくない、悲しませたくない、と乞うように彼はシノに身を寄せている。
わかった、という代わりにシノからも少しだけ、ヒースクリフに身を預けた。本当のところを言えば、すべて納得がいっているわけではない。これは、欲張りすぎているのだろうが、彼の初めてだって自分がいい。今はあまりにも幸せで、夢の中のようだから、これだって望んだ通りだっていいではないかと思ってしまうのだ。
「だから、絶対じゃないけど……」
繋ぎ合った手だけでなく、寄せあった身体まで同じ温度になった頃、ふと、ヒースクリフは身体を離した。しかし二人の間に冷え込んだ空気が入り込む間もなく、再び身体が触れ合う。
唇が触れる。柔らかくて、初めてより長い時間、深く重なった。
「好きな人に俺からするのは、シノが初めてだよ」
それは二度目の余裕なのだろうか。それとも不意打ちに自分から口づけたからだろうか。ヒースクリフは淡く笑ってそう言った。
一度目とはまた違う美しさにシノは瞬きさえ忘れて見惚れた。止まっていた時間の分感情が追い付くと、愛おしさと欲が胸を焼くほど込み上げてくる。
三度目はいつか、など考える余裕も間もなく、衝動のまま身体が動いた。