ワンライお題:嫉妬 高校時代の友人から電話がかかってきた時、聡実は夕飯の食材を切り始めたところだった。料理しながらでいいなら、と断ってからの会話は、これといって内容のない、とりとめのないものだったが、それがかえって懐かしい気持ちを思い起こさせた。
高校を卒業して数年が経ち、お互いに変わった部分と変わらない部分がある。中身のない会話をだらだらといくらでも続けられそうなところは変わらないが、友人は聡実が自炊をしていることを大きな変化と受けとって、ひどく驚いていた。
「大丈夫かぁ? 手ぇ切ってへん?」
「そんな不器用とちゃうわ」
「聡実は不器用やないかもやけど、それを上回って雑やんか」
これについては返す言葉がなかった。聡実の料理に対しての同居人の評価は、最大限の賛辞の場合でも「豪快やけど美味いよ」だ。
それ以上あれこれ言われる気のなかった聡実は、それとなく話の矛先を変えた。相手は特に拘らなかったので、すぐに別の話題へと移り、しばらくしてから通話を切り上げる口調で言った。
「聡実、冬休みはこっち帰ってくるんやろ?」
「うん。バイトのシフト次第やけど、どっかでは帰るで」
「そしたら、またそん時に遊ぼな。みんなにも声かけとく」
「わかった。休み決まったら連絡するわ」
「おっけー! ほな切るわ。またな、聡実」
「うん」
スピーカー通話を切った聡実は、お玉を片手に鍋をかき回していた手を止めた。切って炒めて煮込んでルーをぶち込むだけのカレーなど、失敗しようがないはずだが、一応味見をしておくべきかとちょっと考える。
自分が料理で失敗する原因の何割かは、味見をしないせいだと聡実はわかっている。わかっているが、毎回「まあいけるやろ」の気持ちが勝って、なんとなく出来たものをそのまま出してしまう。聡実は、今日も鍋の中を見おろして、(でも、まあ、いけるんちゃう)と結論を下した。
そうと決まれば、盛り付けの準備だ。聡実は食器棚から器を出そうと身体を返しかけたところで、後ろから回された腕に押しとどめられた。そのままぐっと抱き寄せられて、洗い立ての髪の匂いがふわりと鼻先をくすぐった。狂児が背中から聡実を抱きしめていた。
「どしたん? お腹すいた?」
聡実は肩越しに振り返って尋ねるが、狂児は聡実の肩口に顔をうずめているので、表情はうかがえない。
通話中に狂児がシャワーを終えて出てきたのには気がついていた。同棲するようになってもう随分と経つから、相手の一挙手一投足をいちいち気にしたりしない。狂児は狂児で、聡実は聡実で、お互い好きに過ごす時間があることに慣れている。だから、通話の終わりを待っていたかのように狂児がくっついてきたのは少し意外だった。
「……聡実くんさあ、お友達から、名前で呼ばれてんの」
聡実の肩に顔を伏せたまま言った声は少しくぐもっていた。
「はあ、そうですね。中学とか大学の友達は、苗字呼びが多いけど、高校ん時は同じクラスにもう一人岡がいたから、区別付けるために自然とそうなりましたね」
「ふぅん」
「なに。何か言いたいことあるんですか」
「別に」
「別にて口調とちゃいますけど」
聡実は、コンロの火を切ってから、片手で狂児の頭を撫でてやった。素直じゃない大人に口を割らせるには、甘やかすのが一番手っ取り早い。果たして、狂児は顔をあげてから言った。
「俺かて聡実くんを呼び捨てしたことないのに……」
狂児は、それがものすごく不当な出来事である、という口ぶりで言った。聡実は呆れる気持ち半分、心の柔いところをくすぐられる感覚半分で応えた。
「それで拗ねてるんですか?」
「……拗ねてへんし」
「ほな、なんでそんな顔してんの」
「そんな顔てどんな」
「俺より聡実くんと仲ええなんて許せへん、とか」
狂児はぐわっと目を見開いた。
「俺より聡実くんと仲ええやつなんておらんやろ!?」
「いや、うるさ。この距離でそない大声出さんといてくれます?」
聡実が言うと、狂児は律儀に半分の音量で「俺より聡実くんと仲ええやつなんかおらんやろ」と繰り返した。聡実の恋人には、こういうアホみたいに真面目なところがあって、たまにそれが飛び出してくると、なんとも言えず可愛らしく感じて思わず微笑みたくなる。聡実の声は自然と柔らかいものになった。
「そうですよ。そやから、呼び方ひとつでかっかせんでもええやん」
「言うて、俺かて聡実くんを呼び捨てしてへんのに……」
「ほな狂児さんも僕のこと聡実て呼べばええやないですか」
聡実の言葉に、狂児は過敏に反応した。
「アカンアカンアカン! 聡実くんは『聡実くん』まで含めて名前やんか! 呼び捨てなんて、そない馴れ馴れしいことできひん!」
「はあ……」
付き合って、同棲して、セックスもしていて、これ以上に馴れ馴れしいことが許される関係はないと思うのだが、狂児は大真面目にそう言っていた。
「まあ狂児さんがどう呼ぶかは、狂児さんの自由やし、好きにしたらええんやないですか。僕の友達が僕のことどう呼ぶかを決める権利はないんで、そこはあきらめてもらって」
狂児は何かを飲み込むようにぐっと唇を引き結んだ。本人にも無茶なわがままを言っている自覚はあって、葛藤しているのがわかる。
しばらくして、狂児は聡実を抱きしめていた腕をほどくと、今度は聡実の身体をくるりと回転させて正面から向かい合った。聡実の両肩に手を置いて、まっすぐに目を合わせてくる。そして、何度か口を開け閉めしてからようやく声を発した。
「聡実……」
深い声が鼓膜を震わせ、聡実はぞくりとする。心臓が急に駆け足で走り始め、どくどくと熱い血が身体をめぐるのを感じる。が、それもつかの間だった。
「……さん」
耐え切れなかったように狂児が付け加えた。「聡実さん」だなんて、今まで一度も呼ばれたことがない。「聡実」とだけ呼ぶのにはどうしても抵抗があって、絞り出されたのが「聡実さん」なのだと思うとおかしかった。聡実はあまり声を立てて笑うことはないのだが、これにはさすがに吹き出さずにいられなかった。
「もー、そんな笑わんとって……」
弱り切った調子で言う狂児を見上げて、何とか笑いをおさめた聡実は口を開いた。
「狂児さん」
「ん?」
「狂児」
「なーに」
「狂児くん?」
「ええ?」
最後の呼び名は聡実も初めて口にするもので、少しだけ照れた。でも、そのくすぐったい照れくささはうれしい感覚だった。
「どの呼び方がええですか?」
「そんなん、全部ええよ。聡実くんが呼んでくれるの、何でもうれしいわ」
「僕もです」
困惑した黒い瞳が見おろしてくるのをしっかりと見つめ返して、聡実は言った。
「僕も狂児さんからやったら、聡実くんでも聡実でも……ふふ、聡実さんでも、何でもええ」
「……うん」
「やから、つまらんことでやきもち焼いてんと、機嫌直しや。狂児くん」
「はい」
それからというもの、聡実は狂児を甘やかす時には「狂児くん」と呼ぶようになった。狂児のほうはというと、聡実を「聡実」と呼べるようになるまでは、あと数年ほどの年月が必要だった。それは、二人が結婚した日の夜のことだった。