お題:学パロ「聡実くん、おはよお」
横合いからかけられた声を綺麗に黙殺して、聡実は上靴に履き替えた。声の主には一瞥もくれず、まっすぐに前だけを見て教室へと向かう。聡実が決して返事をしないのがわかっているだろうに、相手はしつこく「なあなあ聡実くん、聡実くん」と話しかけてくる。こんな状態がここ一ヶ月ほど続いていて、さすがに聡実もうんざりとしてきていた。
やたらに存在感のある男を無視するのは骨が折れる。教室の手前で友人の姿を見つけた時には、これで意識をよそに向けられるとほっとした。
「おはよ、丸山」
「おー、おはよー! 岡!」
丸山の屈託ない笑顔を見ると、とげとげしい気分が少しばかり和らいだ。だが、彼の屈託のなさは聡実に対してだけ発揮されるわけではない。丸山は当然のように、聡実の背後にいるでかい図体の持ち主にも拘りなく笑いかけた。
「成田もおはよ」
「うん」
(うん、てなんやねん。おはよう言われたんやからおはようてちゃんと返せや)
そう口にしかけて、聡実は唇をぴっと引き結ぶ。そもそも自分から話しかけるつもりはないのだし、その上にその言葉は藪蛇になってしまう。先に挨拶を無視したのは聡実のほうなのだから。
予鈴の音を聞きながら聡実が教室に入っていくと、そこから先へは彼は追っては来なかった。入り口のところで「……また来るな」と言い置いて、自分の教室へと去っていく。
聡実は相手がこちらを見ていないだろうと確信できるタイミングまで待ってから、ちらりと廊下へ視線をやった。ガラス窓越しに一瞬だけ狂児の横顔が見えた。その顔は、いかにも……。
「しょんぼりしてんねえ」
「わっ」
考えていたのとちょうど同じことを言われて、聡実は驚いて小さく飛び上がった。隣の席にいたマナは紙パックのミルクティーをずずっとすすってから口を開いた。
「岡ピ、まだナリキョーと絶交中なの?」
「……マナも早く許してやれとか、そういうこと言うん?」
少しふてくされた声になってしまったのには訳がある。狂児と絶交してからというもの、聡実は彼のことを全力で無視しているのだが、そのつれない態度にめげずに話しかけ続ける狂児の姿が、どうにも女子生徒たちの琴線に触れるらしいのだ。『健気で可哀想な成田君』を見ていると応援したくなってしまうらしい。そんな彼女たちから「もう許してあげて」「仲直りして」と言われたことは一度や二度ではない。
(人の気持ちも知らんと、勝手なこと言うて)
聡実は静かに憤慨していた。何が理由で絶交に至ったかを知れば、そんなに簡単に許せとは言えないはずだ。だが、誰かれ構わず事情を説明することはできないし、したくもなかった。
「え、言わないけど。あの暑っ苦しいくらい存在感がギラギラしてたナリキョーがしょぼくれてんの、ウケるし」
「あ、そうなんや」
「うん、でも岡ピ。もしも岡ピが仲直りしたいなって気持ちになることがあったら、その時は意地張らずに素直になったほうがいいよ。今更~とか考えずにね」
マナの口調はあくまでさらりとしたものだったので、無駄に反発する気が起きなかった。彼女の言葉を噛みしめながら聡実はひとつ頷いて、それから言った。
「まあ今のところ……その予定はないけど」
「そしたら、まだしょぼしょぼナリキョーが楽しめんね!」
ニカリと笑みを向けてくるマナに、聡実は苦笑いを返した。
こんな風になる前、聡実と狂児は昼休みになると待ち合わせて昼食を共にしていた。どちらかの教室で食べることもあったが、大抵は南校舎の三階から屋上へ続く階段で食べていた。その方が二人とも落ち着くからだ。狂児とは雑談をすることもあったし、ほとんどしゃべらずにぼうっとすることもあった。二人だけで過ごす昼休みは心地よくて、聡実はこの時間が大好きだった。
だが、狂児に絶交を突きつける羽目になった出来事も、この時間に起きた。会話が途切れて、ふと狂児と目が合った次の瞬間に、唇と唇がくっついていた。だしぬけすぎて初めはそれがキスだということも聡実にはわからなかった。なんや、狂児の顔がえらい近いな、と思っているうちに、唇に何かが触れた感触がして、また離れていった。
「……え」
聡実は呆然と自分の唇に触れた。少し湿っている。目の前の狂児の顔を見、それから唇を見、ようやく先ほどのがキスだったということを理解する。理解したとたん、今度は別のことがわからなくなった。どうして狂児がそんなことをしたのか。
「なんで……?」
問いかけた声は少し震えてしまっていた。狂児は、あー、と短く唸ってから言った。
「いや、なんかノリで……」
その瞬間、聡実は指先が冷たくなるのを感じた。そうだった。彼はそういう男だったのだ。一年C組の成田狂児といえば、来るもの拒まずで爛れた学生生活を送っていると評判だったのだ。聡実と親しくなってからはそういう面を見たことがなかったので、すっかり忘れていた。悔しいとか、裏切られたとか、そんな気持ちがわっと湧きあがって心がぐちゃぐちゃになる。とんでもない思い違いをしていた。僕のことはいい加減に扱ったりしないと考えるだなんて。
目に涙がせり上がってくるのを感じながら、聡実は狂児をにらみつけた。
「僕はノリでキスとかせえへん」
「さと、」
「狂児のアホ。絶交や。もう話しかけんとって!」
弁当箱と水筒を引っ掴み、聡実はばたばたと階段を駆け下りた。後ろで狂児が何か言っているようだったが、心の耳を閉じ、強いて聞かないようにした。
その曲のイントロが流れた時、聡実は教室で弁当箱の中身をつついているところだった。今日は放送部が週に一度の昼の放送をする日で、先ほどから校舎内では流行歌がいくつも流れていた。だが、そのどれも考え事にふけっている聡実の意識を捉えはしなかった。
「次は、匿名希望さんからのリクエストです」
放送部の部員がそうアナウンスした時も、まだ聡実はぼんやりしていた。そして前奏のピアノの音が聞こえた次の瞬間、ハッとなって顔を上げた。
「これ何?」
「懐メロ?」
「あ、知ってる! 高校野球の応援歌でしょ!」
周りの生徒たちがそんな風に話す中で、聡実だけがこの曲の意味を知っていた。狂児の好きな曲なのだ。
一度だけ狂児の家へ行った時に、彼が古いCDを取り出して「この曲好きやねん」と教えてくれたことがある。
「元々は兄ちゃんがこのバンドのめっちゃファンでいっつも聞いててん。そしたらそれを横で聞いてた姉ちゃんも自然とファンになってな、そうなると俺もちびの頃から聞かされることになるやろ。もう飽きたわ~ってなるくらい聞いてんのに、やっぱええんよなぁ」
狂児は続けて、この曲が成田家では停戦と仲直りの曲になっているのだと言った。
「きょうだいで喧嘩してむしゃくしゃしてる時な、誰かがこの曲流すねん。ほしたら、どんだけムカついてても絶対思いっきり歌ってヘドバンして踊らなあかん。アホみたいやと思うやろうけど、そういうルールやねん。ほんで曲が終わったら喧嘩は終わり」
「狂児がヘドバンすんの?」
「するで~、本物のバンギャの姉ちゃん仕込みやから、上手いもんやで」
見せたるわ、と実演してくれるので、聡実はその動きの激しさに大いに笑った。
「喧嘩言うても、俺と姉ちゃんばっかりやったけどな。兄ちゃんは歳が離れてるから、怒られることはあってもめったに喧嘩にはならへんかったなぁ。そやけど、曲がかかったら家のどこにおっても飛んできてな、熱唱すんねん。それがまた下手くそで……俺と姉ちゃんとで、このへったくそをかきけしたらんとって大声上げて、おかんに怒られるとこまでがセットや」
狂児のはっきりとした顔立ちに繊細な感情が浮かび上がる。彼の本質は見た目ほど派手ではないのだ、ということを聡実が芯から理解したのはその時だった。
「うちはそない仲良しきょうだい言うわけやなかったけど、あれはなんか、よかったなぁて思うよ」
落ち着いた声音でぽそぽそと語る狂児に、聡実は頬を緩めた。
「うん。ええ思い出やな」
聡実がそう相づちを打つと、狂児はひどく無防備な笑顔を浮かべた。きっと、聡実が恋に落ちたのはあの瞬間だったのだ。
曲が終わる前に聡実は席を立っていた。速足でぐんぐんと廊下を進んでいる間にも校内放送は続いている。
「匿名希望さんからのリクエストで『紅』でした。えー、この匿名希望さんからはメッセージも届いてます。……いや、これ読むん緊張するやん。あー、あー。行きます。『ごめん、嘘ついた。ほんまは君がめっちゃ好きやからやねん』だそうです。どなた宛かわかりませんけど、届くとええですねぇ。それでは、次の曲は……」
渡り廊下を通って南校舎まで来た時には、聡実はもうほとんど走っていた。行きかう生徒たちにぶつからないように注意しながら、(狂児のアホ。狂児のアホ)と心の中でつぶやく。身体がかっかと熱いのは、走っているせいだけではないとわかっていた。
南校舎の三階から先への階段を駆け上った先に、狂児はいた。足音で聡実が来たことを察していたのだろう。驚いた様子もなく階段の中腹に立って、聡実を見おろしている。聡実が口を開くには、息を整える必要があった。そのまま二人はしばらく見つめあいながら、ただ呼吸だけを繰り返した。
「恥ずかしすぎるわ。なんやねん、匿名希望のメッセージて」
聡実がようやくそれだけ言うと、狂児はにこりとした。
「聞いてくれたんや」
「そら聞こえるやろ……無茶苦茶や」
「そやかて、聡実くんずーっと俺の言うこと聞いてくれへんかったやん。もしかして聡実くんと卒業までこのまんまなんかもしれへん思たら、悲しくなってしもて。なりふり構ってられへんかってん」
太く濃い眉をへにゃりと曲げてそんなことを言う。こんな顔を向けられると、まるで自分がとびきりの悪人になったような気持ちにさせられるのが厄介だった。けれどもここで流されてうやむやにするわけにはいかない。
「それだけのことを狂児がしたんや」
「うん。ほんまにごめん」
狂児はすんなりと謝った。
「ずっと謝りたかってん。勝手にキスしたことも、そのあとビビッて適当こいて聡実くん傷つけてしもたことも」
「……めっちゃびっくりしたし、ノリでやったとか言われたんも、最悪な気分やったんやからな」
「そやんな。俺、最低やったわ。聡実くんの小ちゃいお口かわええなぁて見てたら、気づいたらちゅーしてもうてて、自分のしたことに自分でびっくりして、聡実くんに嫌われる!て頭が真っ白になって、はあ……、ダサ……」
狂児が率直に語っていることがわかって、聡実はトゲを引っ込めようという気になった。彼はかっこつけようとか、自分をよく見せようとか、そういう小細工を一切していなかった。開け広げに自分を見せてくれているのなら、それでよかった。
「わかった。もうええよ」
許しの言葉を聞いて、狂児はなぜだか顔に緊張を走らせた。そして今まで以上の真剣さを視線に乗せてから言った。
「さっきの放送で聞いたやろうけど、ちゃんと俺の口からも言わせて。俺、聡実くんのことが好きやねん。その、ちゅーとか色々したなるって意味の、好き」
「……うん」
「そやから……そやけど…、絶交、解いてくれへん……?」
おずおずと尋ねられて、聡実は笑い出しそうになった。実際、口元が少し緩んでしまっていたらしい。聡実の表情を見て、狂児がきょとんとした顔になっている。
「それだけでええの?」
「え」
「僕のこと好きやー言うて、狂児が望むんは絶交解除だけ?」
「え」
「『え』ばっかりやな」
ついに吹きだした聡実の様子を呆然と見つめていた狂児は、やがて聡実の意図を理解したらしかった。大きく目を見開くと、声を張り上げて言った。
「つ、付きおうて欲しい!」
この一ヶ月、それなりに苦しい思いをしてきたことを思えば、ここでお返しに多少焦らしてやってもいいはずだ。だが、聡実にはそんなつもりはなかった。聡実だって、とっとと両想いを満喫したいのだ。
「ええよ」
「ほんま?」
「うん。今日から僕は狂児の彼氏や」
聡実は、恋の成就にはしゃいだ狂児が飛びついてくるのではないかと予想していた。けれども案に相違して狂児は階段の中ごろで立ち尽くしていた。顔を真っ赤にして。
「うれし……。これ現実やろか。聡実くんと俺が両想いで、恋人やって」
ぶつぶつとそんなことを呟いている。仕方がないので、聡実は狂児の彼氏として思い知らせてやることにした。
トントンと階段をいくつか登って、目線の高さがちょうどぴったり狂児と同じになるところまでくると、ちょんちょんと肩をつつく。まだ頬を紅潮させたままの狂児が顔を横向けて聡実を見る。ちょっと驚いて開いている唇の上に、聡実は自分の唇をくっつけた。これから数えきれないほど重ねていく二人のキスの、二回目がこの時だった。