境界 夜、もうじき日付が変わろうかという頃。亮は自主的な鍛錬を終え、共同シャワールームの使用時間ギリギリに滑り込んだ。
誰に命じられた訳でもなく余分なトレーニングに励む姿を、他の訓練生からは稀有な目で見られてはいたが、寮長には評価が悪くないだけに多少遅くなっても小言を言われずに済む。
とはいえ、そう遅くまでは使えない。手早く汗を流し、まだ乾ききらない髪もそのままに自室に戻った。
亮が部屋の前に立った時、ふと中に人の気配を感じた。相部屋なのだから、そのこと自体は不思議ではない。
しかし、人一倍鋭敏な感覚が、日頃感じているものとは別種のものが混じっていることを察知していた。
(またか———)
無意識のうちに顔が険しくなるが、このまま廊下に立ち続けている訳にもいかない。誰かに見つかった時、何をしているか問われると面倒だ。
亮は意を決してドアノブに手をかけた。
開いたドアの向こう、ソファとテーブルだけの簡素な空間には人影は見当たらない。
いきなりの鉢合わせを避けられたのは幸いだったが、問題は薄い仕切り状の壁を挟んだベッドルーム側だ。
背後でドアが閉まると、静まり返った空間に自分ではない息遣いが目立つ——それが次第に荒くなっていくことも。
(鍵もかけないで……)
仕切りの向こうで何が行われているか、察しがつく。予想通りの展開に溜息が漏れた。
「……今晩もソファだな」
諦めて覚悟を決めたは良いものの、枕と毛布はベッドの上だ。こんなことならば、最初からこちらに用意しておけば良かった。
亮は仕方なく、仕切りの開いた箇所を覗いた。
ベッドの上には男二人、裸のまま重なっている。下に組み敷かれている方の男が、このベッドの本来の使用者であり、亮のルームメイト——シャピロ・キーツ。
亮の存在には気付いているはずだが、構わず自分を抱く男の首筋に顔を埋めていた。
「…お楽しみのところ邪魔して悪いな」
呆れたように呟くと、シャピロの相手をしている男だけはようやく顔を上げた。
ほとんど面識は無かったが見覚えはある、上級士官の息子で鼻につく言動の多い奴だ。彼が抱いている男の比ではないが。
「おい、お友達が帰ってきたぞ。誘わなくていいのか?」
「ん……そいつのことは気にしなくていい。どうせ退屈な男だ」
それより、とシャピロが男にねだって唇を重ねる。隙間から濡れた音が溢れ、亮は露骨に眉を顰めた。
見ていられない——絡み合う二人を視界の外に追いやり、向かいにある自分のベッドから枕と毛布を拾い上げた。
「生憎、俺は誰でもいいほど飢えてない。相手は選ばせてもらう」
さして効果など無いだろうと分かっていても、去り際に皮肉混じりの言葉を発せずにはいられない。
「確かに退屈な奴だ」と、嘲笑を含んだ台詞を背に受けながら亮はベッドルームを出た。
***
ソファに寝転がって数分。お世辞にも寝心地が良いとは言えない環境に、防音性など皆無の仕切りをあちら側の音が貫通してくる。ただでさえベッドの軋む音や喘ぎ声など耳を塞ぎたくなるというのに、お構い無しに続けているのだから堪らなかった。
やはり早急に耳栓も用意しなければ——と考えていると、漏れ聞こえる声の様子が次第に不穏な方向に向かっていることに気付く。
「んっ……な、何……」
「なぁ、良いものが入ったんだ。試して見ないか?」
「……薬は趣味じゃない」
「そう言うなよ、もっと良くなりたいだろ?」
何やらシャピロが男と揉めているらしい。奴の誘いに軽く乗ってくるような男だから、自業自得だ。そうは思っても、気付いてしまえば意図せず意識してしまう。
亮は思わず耳を澄ませて動向を伺った。そして——
「離せ」
シャピロの声が一段と低く、語気が強まるのを聞き仕方なく毛布を跳ね除けた。
***
「何だよ、今更良い子ぶって。お前だって——」
力ずくでシャピロを押さえつけようとしていた男の身体が宙に浮く。
シャピロ自身も何が起こったのか把握できない様子だったが、すぐにルームメイトが男の首根っこを掴んで投げ飛ばしたのだと分かった。
「…俺に関係ねぇことなら勝手にしろと言いたいところだが、ドラッグパーティなら他所でやれ」
迷惑だ、と亮に凄まれた男は下着姿のまま尻餅をついた間抜けな状態で、最初こそ反抗しようと睨みつけてきた。しかし、下から見上げる形になれば長身で筋肉質な亮の威圧感はかなりのものだ。
「……ちっ」
男は舌打ちだけして、向かっては来ない。親のコネで士官を目指す奴でもさすがに力の差が分かるのか。しまいには何か一言二言捨て台詞を吐きながら、自身の服を拾い上げるとさっさと部屋を出て行ってしまった。
相手がそこまで馬鹿でなくて良かった、せっかくシャワーを浴びた後だというのに寝る前に一戦なんて冗談じゃない。亮は溜息を吐いた。
「……どうした、追いかけなくて良いのか? 俺じゃ満足できないんだろ?」
嫌味っぽく訊いてみると、ベッドにひとり残されたシャピロは怒るでもなく呆れたようにふんと鼻を鳴らした。
「興が醒めた」
それだけ言うと、もう寝ると言わんばかりに毛布を被る。
亮もそれ以上追撃はせず、寝直そうと再びリビングに足を向けた。
「司馬」
仕切りを越えようとした時、不意にシャピロが亮を呼んだ。滅多に興味を示さない奴が珍しいと、思わず歩みを止めてしまう。
「……一応、礼を言っておく」
低い声が、静かにそう囁く。黙って振り返ると、穏やかな錫色の視線とかち合った。
背中の辺りを撫でられるような、ざわりとした感覚が湧き上がる。
これは——怒りに似た嫌悪感だ。
「…俺が助けたのはさっき逃げた奴の方だろ」
確信を持った亮の言葉を、相手は否定しなかった。代わりに形の良い唇が微笑むように歪む。
暴漢から助けられて礼を言うような殊勝な男ではない。そもそも、あんな男一人に抵抗できないような奴でもない。それが亮が入学から今までシャピロを見てきた印象だ。
だから、理解できる。
もしも亮が止めに入らなければ、あの男は無事では済んでいなかっただろう。少なくとも骨の一本二本は折れていたし、下手をすれば内臓まで傷ついたかも知れない。
無論その場合、シャピロも不問とはいかない。それを理解していて代わりに手を出させたのか、ただ単に面倒だっただけなのか、どちらも有り得る話だ。
「あぁ——だから礼を言っている」
結果的には自分も助かった、と。相変わらず声だけは嫌味なほど柔らかく、誘うように甘い。亮の冷めた視線にもどこ吹く風だ。
「……次は無いぜ」
亮の声が無意識に低くなる。窮鳥入懐、力は他者を救うためという師の教えを踏み躙られたようで、酷く気分が悪い。
「どうかな? お前は傷つく他人に目を瞑って、昏々と眠れる人間には見えんが」
よくもまぁ口が回る男だ。亮が自分ほど冷酷になれないことを知っていながら。
これ以上言っても無駄だと判断した亮は、結局シャピロに背を向けた。言い負かされたような形にはなったが、今は睡眠時間の方が惜しい。
「静かになったのだから、ここで寝れば良いだろう?」
「欲求不満の男に襲われたくないんでな」
最後に言い捨てると、背後で小さく笑う声が聞こえた。シャピロもそれ以上は何も言わず、亮が仕切りの向こうへ行くのを今度こそ呼び止めることも無かった。
***
改めて、ソファに身体を横たえる。結局、最初に寝ようとした瞬間から一時間近く経過していた。
仕切りの向こうからはもう物音はしないが、すっかり目が冴えてしまった。
ぼんやりと天井を見上げ、本来の静けさを取り戻した部屋は、離れた場所で眠るシャピロの寝息さえ聞こえそうな気がした。
それほど近くに居ながら、表情さえ窺えない壁がある。その壁には簡単に通り抜ける隙間が空いているのに、自分が向こう側へ行くことも、彼がこちらへ来ることも無い。よく似た場所に居ながら、まるで決定的な境界線が彼との間にあるようで——
「……いつから詩を詠むようになったんだ、俺は」
巡る思考を振り切るように溜息をついた。自覚しても何にもならない。次は無いとは言ったが、こんなことは初めてではなく、おそらく今日が最後でもないのだ。
(お前は傷つく他人に目を瞑って、昏々と眠れる人間には見えんが)
シャピロの言葉が頭をよぎる。実際、否定はできない。きっと例の男が病院送りになるのを見届けていたら、酷く夢見が悪かっただろうから。
しかし、今夜に限っては——あの妖しげな微笑が瞼に焼き付いた、今この瞬間の方が余程寝付きが悪いと思えて仕方がなかった。