ビーストバース2 シャピロが休暇を取った日。基地内の自室で休んでいた彼の元を訪ねる者がいた。
「シャピロ、俺だ。開けてくれ」
聞き馴染みのある落ち着いた声に、シャピロは電子ロックに手を伸ばす。横にあるのは、個人の部屋としては過度に頑丈な金属扉だ。その堅牢さとは裏腹に、この男としては珍しく無警戒にキーを解錠した。
稼働音を立てて開いた扉の向こうには、髪の金糸を靡かせた青年が呆れ顔で立っている。
「…開ける前に少しは考えろ」
「アランか。来るのが貴様なのは足音で分かった」
そういう問題ではない。シャピロは素肌にバスローブを羽織っただけの姿で、到底客人を出迎える格好とは言いがたかった。わざとらしく溜め息を吐いて見せても、シャピロは一向に気にしないのか涼しい顔をしている。
「いくら俺だからとは言え……」
「説教をしに来たのか? 早く入れ」
言葉を遮って促され、仕方なく部屋へ歩み入る。後ろで頑丈な扉が閉まり、再びロックされる音がした。
アラン・イゴール。獣戦基地の長官を務めるイゴール将軍の息子で、時折ここへ出入りしている。彼は《ビースト》ではなく、シャピロとも普通に接することが出来た。
科学者でもある彼は、ビースト以外が操縦可能な戦闘用ユニットを作る研究をしている。その経緯からか、ビースト達の餌であるシャピロのことも何かと気にかけていた。
「…調子はどうなんだ。新入りが入ったと聞いたが」
「あぁ。まだビーストとしての自覚は無い。だが、俺の側に居れば時間の問題だろう」
シャピロの答えに、アランは複雑そうな顔をする。
「見せてみろ」
言葉短に告げられる要求に、今度はシャピロが小さな溜め息を吐いた。そして、ベッドに腰掛けながらバスローブの帯を解き、白い肌を照明の下に晒す。
「物好きめ」
「好きで見ている訳じゃない」
「は、どうだかな」
目の前に顕になったシャピロの身体。首筋から胸元まで、小さな咬傷や口付けの痕、引っ掻いたような細い瘡蓋が無数に散らばっている。アランは近づいて傷口を一つ一つ確かめた。
「化膿している物は無いな。薬はあるか?」
「ベッドサイドに」
言われるがままベッド脇のチェストに手を伸ばす。引き出しから取り出した瓶入りの軟膏を指に取ると、丁寧にシャピロの傷に滑らせる。
「……っ」
「我慢しろ。このままにしている方が痛むぞ」
シャピロの身体の強張りを和らげようと、なるべく低く囁くように言い聞かせる。
こういうことは初めてでは無い。むしろ、アランはここへ来る度に頻繁にシャピロの様子を見ては、彼の傷を眺めていた。
最初はビーストの研究の一環として接するつもりだった。それが、毎回傷ついた身体を見る内に、彼の置かれた境遇について考えるようになった。
ビーストの〝餌〟としての運命は、シャピロを幼い頃から蝕んでいた。
ビーストは食事を摂ることは出来るが、餌となる人間の体液や肉体そのものでしか味覚や香りを感じることが出来ない。代わりに、彼らにとって餌は酷く甘美で中毒性があり、それだけで五感の全てを満たす存在となり得る。
唯一の糧でありドラッグ以上の快楽を与える存在を、理性を捨てた獣達が逃すはずもなく大半の餌は拉致誘拐・性犯罪・殺人に至るまで様々な犯罪に巻き込まれてきた。
シャピロも例外ではなく、アランと同じ年頃の彼がここまで生き延びるのは並大抵のことでは無い。
軍人には不向きな華奢な肢体を持つ男が軍に身を寄せ、ありとあらゆる武術や武器に精通している理由も理解できる。
「…下は自分でやるか?」
「当たり前だ」
上半身に薬を塗り終えたところで、薬瓶を手渡す。
下腹部や内腿に薬を塗り広げ始めると、アランが視線を僅かに外したことに気付いたシャピロが鼻で笑った。
「男同士で気にするのか」
「礼儀だ。あんたには無縁の物かも知れんが」
シャピロに負けず劣らず、アランも皮肉屋である自覚はある。後にはくつくつといった低い嗤いが残っただけだ。
「……塗り終えた、もういいぞ」
シャピロの声を合図に彼の方を向き直る。広げていたバスローブを着直し、薬を元の場所へ戻しているところだった。
「他は平気か?」
「あぁ、問題は無い」
「眠れていないだろう?」
アランの質問に返ってきたのは沈黙。つまり、肯定だ。
知略に長け、戦略的にはいくらでも相手を出し抜いてきた参謀士官ともあろうものが、随分と雑なごまかし方をする。あるいは、ごまかそうともしていないだけかも知れないが、いずれにしてもアランは苦笑するほか無かった。
「…分かった、付き合おう。対ビースト用の銃はどこだ?」
「枕の下にある」
スミス&ウェッソン M500——そんな物騒な物を置いているから、寝心地が悪いのではないか。その言葉を飲み込みながら、枕の下から引き抜いた。
シャピロが横たわる布擦れの音を聞きながら、念のため自分の携行するHK45も手元に取り出しておく。シャピロの銃の方が高火力だが、やはり馴染んだ物の方が扱いが容易い。
「何かあれば守ってやる」
「随分と傲慢な騎士だな」
「あんたよりはマシだ」
短く笑い合った後、部屋に静けさが戻る。
ベッド脇の椅子に移り、銃を膝に置きながらアランはシャピロの横顔を視線でなぞった。照明が落とされ、カーテンから差し込む僅かな光に照らされて、その肌は白磁のように浮かんでいた。
「おやすみ、シャピロ」
返事もなく瞼が閉じられていく。呼吸は浅く、緊張を残したままの身体。時折小さく揺れる睫毛の先に、確かに疲労の色が滲んでいた。
彼が目を覚ますまで、自分はここに居よう。その間、その身に何かあれば命を賭けても良いとさえ思う。彼がそうしているように。
残酷な運命に縛られた男に、今だけは穏やかな眠りを——アランはそう願いながら、シャピロを見守っていた。静かに、いつまでも。