本能と衝動(レオイデ) その日。植物園のお気に入りの場所で寝入りかけていたレオナの目が僅かに見開かれた。
目の前を長く青い光がよぎった。イデア・シュラウド——本人の意に反して歩くだけでよく目立つ、あんな髪を持つのは校内で彼だけだ。授業さえ遠隔で受けるほどの引きこもりが、珍しく出歩いている。
とはいえ、別に初めて見たわけでもない。普段ならば圧倒的に眠気の方が勝っていたはずだ。
ただ、その日は違った。
「おい」
「ヒェッ⁉︎」
たった二文字の呼びかけで、イデアは過剰なほど飛び上がって振り向いた。
挙動不審に泳ぐ視線はレオナと一度もかち合わない。
「あ、あー…レオナ氏、お昼寝中でした? 邪魔したんならサーセン……潔く消えますんで、その……」
「黙って後ろ向け」
「えっ……え?」
早口の弁明を遮って命じる。戸惑っているところに、更に低い声でもう一度。
「いいから背中見せろ」
「あ……ハイ」
威圧されたイデアはレオナの意図が分からないなりに、言われるがまま背を向けた。素直な行動とは裏腹に「意味が分からない」「自分で振り向かせといて何なの?」と小声でぶつぶつ言っているのが聞こえてきたが、そこは気に留めないでおく。
イデアが従うのを見届けたレオナが彼の背後で立ち上がると、土を被った植物園の地面がジャリ、と音を立てる。
音が次第に近付くたび、イデアの肩が跳ね上がった。
その動きに追随するように、鮮やかな青色が揺蕩う。
いつもと違うと感じたのは、やはり見間違いではなかった。
飽きるほど見た青い長髪が、珍しく高い位置で一括りにされている。普段は服のシワさえ気にしないほど外見に無頓着なイデアが、自ら髪型をいじっているのは稀だ。
「………」
いつもは気怠げなサマーグリーンの瞳の中で、瞳孔がきゅうと絞られる。
時折重力に逆らうように、不規則にふわりと目の前で舞う青い炎。その奥にある白い首筋。
なるほど、ポニーテールとはよく言ったもので、まるで草食動物の尻尾のように靡いている。
レオナはいつの間にか自身が息を殺していることに気付いた。
『獲物』を前にして本能が揺さぶられる。喉の奥が熱くなり、引き絞られた弓のように背筋が張り詰めていくのが分かった。
今すぐにでも飛びかかりたい衝動を抑えながら、静かに手を伸ばす。ゆっくりと、慎重に。
「———髪」
「はひ⁉」
「髪、どうした?」
イデアの髪に指を通し、すくい上げながら問いかける。従順にレオナの命令に従ったままの男は、相変わらず背を向けたまま振り返ろうとはしない。
「えっ、か、髪?? あ…あぁ、これね…飛行術の補習で……風強かったから邪魔で……」
たどたどしい説明を受けると、いつもよりも揺れる毛先の事情が分かった。ついでに珍しく彼が出歩いている理由も。必要性が無くなってからも面倒がって解いてないのだとすれば、納得のズボラさだ。
「……オキニメシマセンデシタカ?」
レオナが黙っていると、イデアの声がぎこちなくなる。彼の弟の機械音声さながら。
「…いいや」
「そ、そう…じゃあ、僕は部屋に戻っていいですかね…そろそろ離してもろて……」
「———ただ」
一瞬。イデアの気が緩んだのを見逃さなかった。
ぐい、と細い腕を引き掴んで彼の身体を反転させる。そのまま腰を抱き寄せてしまえば、もう逃れられない。
鼻先ほどの距離で初めて視線が合うと、白い首からヒッと短い悲鳴が漏れた。
「な、何———」
「ライオンの獣人の前でそんなもんチラつかせて、案外いい度胸してんじゃねぇか」
低く囁き、わざと長い犬歯が見えるように笑って見せると、イデアは動きを止めたまま瞬きもしなかった。
それでいい。捕えられた獲物そのものだ。タッパの割に華奢な身体が腕の中にあるという事実に、優越感が満たされていく。
「そんな風に誘うんなら、喰われても文句は言えねぇよなぁ?」
「あ……⁉」
片腕で腰を捕まえたまま、後ろに回した手でイデアの背中越しに彼の髪を乱暴に掴む。その毛先が紅色に染まると同時に、血色の悪い頬にも同じ色が差した。
「ちょ…待って…! レオナ、氏……そ、それって……」
戸惑いに満ちた琥珀色の瞳がレオナを見上げる。青い唇が、パクパクと何度か震えて言葉を絞り出した。
「ぼ……僕の髪がクソデカ猫じゃらしに見えた……ってこと……?」
「………は?」
呆然と呟くイデアの言葉に、今度はレオナが固まった。
ちょっと待て、何だって?
「猫…じゃらし、だと……?」
「え、だって…さっきからずっと髪触ってるし……もしかして動いてるのが気になるのかと……」
ゆっくりと、冷静に思い返してみる。
確かにいつもより動くイデアの髪に惹かれたのは間違いない。あの瞬間、空腹でも欲求不満でもないのに、どうしようもなく彼に噛み付きたくなった。身体に刻まれた狩猟本能だ。
しかし、言われてみれば猫が猫じゃらしを追いかけるのも——いや、違う。断じて違う。
こちらはライオンの獣人で、曲がりなりにも王族で、イデアがいつも猫撫で声を上げながら観ている動画の『ねこたん』などと同じなはずがない。のだが。
「フヒッ…いや〜やっぱりライオンと言えどもネコ科ですな〜? 良かったらまた後ろ向くんで、もっと拙者の髪でじゃれてて頂いてもいいんですぞ?」
大人しくしていたイデアが急に饒舌になった。内容こそいつもの煽りのように聞こえるが、本人の顔は歓喜と期待に満ちている。トレインの飼い猫が気まぐれに寄ってきた時と同じ顔だ。
やめろ。そんなキラキラした目で見るんじゃない。
「いや………いい」
急激に高揚感が冷めていくのを感じ、すん…とした面持ちでイデアの身体を解放する。心底残念そうな顔をされるのも耐え難かった。
「え、ほんとに? いいの? もうちょっとくらい」
意外と食い下がってくる相手を唸り声で黙らせる気力すら無い。レオナは何も言わず、最初にしていたように植物園の地面に寝転がった。
背後で何度か「あの」「レオナ氏」と呼ぶ気弱な声が聞こえたが、振り向くこともなく。
しかし、最後に聞こえた
「なんかゴメン」
この言葉は完全にとどめになってしまった。
獅子のプライドは——砕けこそしなかったが、少しだけ傷付いた。今日一日、立ち直れなさそうな程度には。
気まずそうに遠ざかっていく足音を聞きながら、気を持ち直したら絶対に口を封じに行かねばと心に誓った。
その後。
諦めなかったイデアは、懲りずに繰り返し髪を結ってレオナの前に現れる。
それは、そのうち『ポニーテールのイグニハイド寮長のあとを追えばサバナクロー寮長に会える』などという法則となって生徒の間で囁かれるようになった。
お気に入りの寝床で打ちひしがれているライオンには知る由がない、少しだけ未来の話だ。