今はまだ馬槽の中 きっと世界の終末には君のオイルを海に撒いて私はそれに魂を浸してみせる。
静かな夜に、Lancet-2はドクターの祈りを捧げられていました。まるで世界が終わってしまうような、張り裂けそうな、魂からほんの一滴絞り出されたような、そんな祈り。
ああ、ドクターは魂などもちろん信じてはいないのに。魂、などと言うのはその肉体に自由を付することが不可能であるからです。あげたいと思ってあげられる肉体ではないのですから。それはあの石棺から起き上がる前からもそうだったかもしれませんが、石棺はドクターの肉体を完全にロドスへと固着させる磔であり、その肉体にはもはや数多の釘が打ち付けられ、ドクターの肉体がドクターの意志で自由になってしまえば、それはドクターとロドスの崩壊を意味することになります。肉も、磔台も、深く穿った釘でもうボロボロでした。肉片と木片が混ざり合って固まった、それだけで保たれた現状は危うくも世界にとっては強固な楔であり、崩落は許されませんでした。
では、そんな宿命を課された者が何かに思慕を寄せてしまったら、どうしたらいいのでしょう。
ドクターは、選びました。
些細な幸福のレンガ積みと、不確定な誓いのおもちゃの積み木を。
Lancet-2は医療用ロボットです。
「かわいいクロージャお姉様」によってすこし特別な医療用ロボットに改造された製品名「レイジアンイグジスターシリーズS-Typer62六輪作業プラットフォーム」です。
マスコットのように愛らしい彼女はおおよそに対して好意的に受け取られるよう人格設計をされています。だから、皆Lancet-2のことが大好きなのです。このオリパシーと戦火が蔓延する世界で害を為さない存在というのは存在しているだけで好意的にされるものですが、彼女の誠実なメンタルケア機能はそれを助長します。
そうして、記憶喪失の戦場指揮官が一日のはじまりに日が昇るのが当然であるように、彼女に心を委ねるようになりました。
ある日、外殻の摩耗を確かめるように撫で、ドクターは得心したとき特有の仕草をしてこう言いました。
「君の替わりというのは、ないんだろうな」
「いいえ、ドクター様。私は一介の医療用ロボットでしかありませんから。いずれ替わってしまうこともあるでしょう。……この外殻の傷を愛おしく思う方がいるように、疎ましく思われる方もいらっしゃいます。綺麗にしてあげるから、というように」
ドクターはやわらかに、山水のように淋漓として息を吐き、手を平かにしてLancet-2に触れます。それは、ドクターがあらゆる子どもや負傷者、守り慈しむものたちへの触れ方と同じだとLancet-2は知っています。恐れるように強張って歪む手を、ドクターはそのようなものたちの前では決して表層へと持ち出しません。
「君が私の舟であれば、きっと同一性は保たれたままだ」
「いいえ、ドクター様。ロドス・アイランドこそがドクター様の舟です。私では足り得ることはないでしょう。ただ、ロドス・アイランドのオペレーターとして役目を果たすだけです。ふふ、こんなふうだと、またネガティブだとからかわれてしまうかもしれませんね」
ドクターから零れた呼気と同じようにやわらかに出力された音声に、ドクターは張り詰めた背を弛めました。これが小さな子ども相手であれば、その背の硬さを悟られないようドクターはそう振る舞ったでしょう。けれど、Lancet-2は医療用ロボットなので、そう振る舞ったところで意味はありません。だから、これはほとんど無意識のうちに起こったことでした。つとめてLancet-2と温柔な時を過ごそうとしていたドクターは羞恥しました。
「……わかっている。けれどロドスの最高責任者はアーミヤだ。ロドス・アイランドはアーミヤの舟だ。私は行く先を決めるための羅針盤でしかない。生命活動の続く限り、それだけの間しか使用できない羅針盤だ。それなら、その使用期間が終了してしまったら、その時は」
そこまで言って、ドクターは眩んでしまったように目蓋をきつく閉じ、ぎちぎちと手袋が音を立てるほど指を強く内に折り曲げました。詰められた息の中で、か細い呼吸を繰り返します。
「ドクター様?」
バイタルが不安定になったことを検知したLancet-2が呼びかけます。
ああ、祈るように項垂れていた肉体は今やまるで羸弱そうな格好で、しかし縋るでもないふうなのでどこか強さのようなものもきらきらと身の内から輝いているようで。まるで、いのちのような。生きているみたいでした。
照明の落ちきった室内で、ぼんやりとした燐光のみがかすかな駆動音と共にゆらめいていました。
あれから、意識を失ったドクターは医療部によって適切な処置をなされ、自室に運ばれました。意識を打ち上げられたドクターは、ケルシーに叱られることを思って深く溜息を吐きました。またこれは、うず高く積み上げられた書類の高さが更新されていることや自らの至らなさなど様々なことを思っての溜息でもありました。目蓋に手の甲を置き、深くゆっくりと呼吸をします。
「ドクター様」
駆動音の主であるLancet-2がドクターへとささやかに、そして小さな子どもを咎めるような調子を末尾に織り交ぜて呼びかけます。その声にドクターはなんだか、パンケーキに盛り付けられたホイップクリームに散らされた、ナッツやドライフルーツの中にペッパーが混じっていたことを思い浮かべました。
ふ、と溢れたような笑い声を呼気に交ぜ、体を起こしLancet-2から延びる医療機器管を両手で包み込みます。彼女へ、砕いた心を降らすようにして。
「すまない。君には心配をかけた。それから、大勢の職員にも」
ドクターは、いつかこんなことに慣れきってしまったら、と苦しそうにしていた少女がドクターの体を支えるあの腕の硬さを知っています。ドクターに心を砕く者たちを安心させたいのなら、ドクターは自らをまず大切にしなければならないのでしょう。
生き急いでいるように見えるのだろうな。
けれど、ドクターはちっともそういうつもりはありませんでした。だって、そうしなくていいという選択肢があれば選べたのですから。ドクターは知っていました。選べないことがある、ということを。だから、妥当だったのです。急流も緩流もあることが自然であるように、ドクターにとって、この命を尽いていかせることこそが。
「……確かに皆様も心配していらっしゃいました。ですが、ドクター様。私がいながらこうしてお体に不調をきたさせてしまったことは私にも責任があります。なので、ドクター様の健康管理に関するいくつかの項目をクロージャ様とケルシー様に頼んで再設定していただきました。ドクター様、なにか。不都合があることがあれば……」
ああ、どうしたことでしょう。「作業プラットフォーム」が言葉に空白を作るだなんて。まるでほんとうにこころがあるみたいに!
一時堰き止められた言葉は、決意などしたみたいにふたたびその発声器官から流れはじめます。
「いえ。あなたに願いがあるのならば、教えてください……。どうか、」
「ああ。Lancet-2願いなど、私が持っているには烏滸がましいものだ」
その言葉に淀みはありませんでした。あまりに穏やかな拍動を持つその人は、額に握られたままの両手を近付けます。
それこそが、ほんとうの祈りでした。