紫煙、朝靄に紛れ。 早朝、その日はうっすらと 朝霧が川面を覆っていた。ライカンが右手にコーヒー、左にシティ速報を手にしてCOFF CAFE ルミナスクエア店の二階テラスに上がると、アキラがいた。彼は席につくわけでもなく、柵の上に腕を乗せて、ゆったりと体を預け川を眺めていた。その指先には紙タバコが挟まっており、赤く火の灯った先端から細くゆるりとした紫煙が立ち上る。煙は川のほうへと流れ、朝霧の中に混ざっていくようだった。
「や、ライカンさん。偶然」ライカンに気付き挨拶するやアキラは紫煙をくゆらせた。
「……これはプロキシ様。本当に偶然でございますね」
アキラがふっと吐いた息に、ライカンの鼻がひくつく。キツさや重だるさはない。軽めのタバコを彼は吸っていた。ライカンはふと周囲を見回してみたが、どこにも禁煙の張り紙はなかった。
「こちらの店舗は、喫煙可能でございましたか」
「さぁ、どうだったかな」ライカンの問いに曖昧な返事をしたアキラは、指先に挟んだそれを揺らした。「禁煙とも書いていないけれど……そういえばライカンさんには初めて見せる姿だったね」
「はい。正直に申し上げますと、少々驚きました」
「滅多に吸わないからね。まぁ吸いたくなっても、最近は吸える場所がめっきり減ったから結構困ってるんだ。うちの店では、というか、リンの前では吸わないようにしていてね。ここには防犯カメラはないからライカンさん以外には……まだお店の人にはバレてないと思うけど」
アキラはポケットから携帯灰皿を取り出すと、まだ長いタバコの火を灰皿の底に押し潰しながら中へと入れた。アキラ自ら「まだ」というくらいだ。ここでの喫煙の是非については、誰かが来ればやめたほうがいい程度には、黒に近いグレーなのだろう。それ知った上でバレなければやってよいとしているのは、ある意味でプロキシらしい。しかし本来はいたって真面目であるはずの彼らしいか、という質問がきたらライカンとしては否定したくなるような行為だった。
「それで、ライカンさんはどうしてここに?」アキラは灰皿をポケットに仕舞いながら訊いた。
「本日は此方でモーニングコーヒーをと思い参りました。通常ですと、一階でいただくのですが……その、煙の香りがしましたので」
「なるほど、普段はしないはずの煙の香りに何事かと思って来たわけだ。つまり、ライカンさんは禁煙だと思っていて、あえて僕に『ここは喫煙可能でございましたか』ってわざわざ吸ってる僕に訊いたんだね」
「申し訳ございません。あなた様を試すような真似をするつもりはなかったのですが、あまりにも自然なお姿で立っておられたので、私の記憶違いだったかと思った次第でございます」
ライカンが恭しく頭を下げるとアキラは、はは、と乾いた笑い声を上げた。
「顔を上げてくれないかい? こんなことで不機嫌になったりしないさ。そうだ、せっかく上がって来たんだから座って話でもしよう。僕もコーヒーを買っているんだ。まだ熱くて冷ましていたところなんだ」
アキラの椅子に座ると、テーブルに置かれていたカップを手に取った。まだ湯気が立つそれをふっと冷まし、少しずつ啜る。
ライカンも彼の向かいに座った。先ほどまではタバコに気を取られ手元ばかりに視線がいっていたが、改めて向かい合うとアキラの顔がやつれていることに気がついた。コーヒーを飲む彼の頬はこけ、細めた目の下には薄黒い隈が浮かび上がっていた。
「お疲れでございますか」
「まぁ、少しね。でももう大丈夫だよ。それより、楽しかったかい? リンとの旅行は」
アキラはコーヒーを置くとテーブルの上で手を組んで目尻を下げた。彼の隈がよりいっそう暗い影を目の下に落とす。
「旅行と申しましても、ヴィクトリア家政との任務も兼ねておりましたので、些か限られた余暇であったかと。ですが、リン様にご満足いただいたのであれば、このライカンに不満などあるはずもございません」
「リンは、すごく満足そうだったよ。僕にお土産話をたくさん聞かせてくれてね。さすがライカンさん──いや、リンが選んだ恋人というべきなのかな」
「勿体なきお言葉にございます」
「隙がないなぁ」そう呟くとアキラは、テーブルに肘をついた。「ライカンさん相手だと文句のつけようがなくて、少し困るな」
再び目を細めたアキラだったがそれは微笑みではなく、どこか羨むような眼差しだった。彼が安直に褒めているわけではないことだけが明かくに伝わる。少しヒヤリとした風が二人の足元を抜けていった。
「何かございましたら、どのようなことでもお受け致します」
「そんなこと言っていいのかい? それならリンと別れてくれ、なんて言うかもしれないよ?」
「それは……一度理由を伺わねばなりません」
ライカンの返答にアキラはコンマ数秒じっと見つめたあと、ふ、と堪えきれないといったように笑った。
「そんなに真面目な話として受け取らないで欲しいかな。一度言ってみたかったんだ。『妹はやらないぞ!』とかね」
「もし、お望みとあらば、御要望の状況を再現することも可能でございますが」
「真面目な話じゃないって言ったばかりだろう? それに、僕が言ってるのは茶番なんかじゃないんだ──本気のやつさ」
そう言うとアキラはポケットに手を突っ込んで、真新しい包装のタバコを取りだした。
「さっきので最後だったんだ」そう言って慣れた手つきで包みから一本取り出して口に銜える。ライターに火をつける直前、チラリとこちらを見た。「ごめん、吸ってもいいかい?」
「もちろん。構いません」
「一度バレると、気が大きくなるの、何でだろうね」
ライカンからの答えを待つわけでもなく、パチッとライターから軽い音がして、間もなく銜えられたタバコからまた紫煙が立ち上った。
アキラが一つ息を吸い込んで、ふっと、吐いた。まるでライカンが目の前にいることなど忘れて物思いに耽るかのように、彼は吐き出された煙が霧散していくのをボンヤリと眺めた。
「本当は、リンをよろしくって言うのが、良いお兄ちゃん、なんだろうね」
本当は二人の交際を認めたくない。アキラが暗にそう言ってることはライカンにはすぐに分かった。リンと正式に恋人となる前。パエトーンとして二人と交流を重ね、そこからリン個人へと感情の比重が傾いていくうちに、アキラが浅からぬ感情を抱いた眼差しを彼女に向けていることにライカンは気が付いた。それが、兄として、家族としてのそれとは異質なものであることも。
彼としては、喫煙者であることも、妹への感情も、本人はおろか、誰にも気づかれたくない事実だろう。いや、一度バレると気が大きくなる、とは、まさかリンへの感情もバレても構わないと思っているのだろうか。
彼のような聡い人物がまさかそんなはず、と思いつつも疑いを拭い去ることができず、ライカンはただ無言で紫煙をくゆらせるアキラをじっと見つめた。
「旧都陥落から、僕とリンはずっと一緒でね。だからリンがライカンさんと旅行に行きたいと言い出したときは本当に驚いたんだ。店が妙に静かで落ち着かなくて、リンがいないだけで、なかなか眠れなかったのは、流石に僕も自分を笑ったよ」
「ご心配をおかけした事は謝らねばなりません」
「いや、そうじゃないんだ。謝罪が欲しいわけじゃない。なんだろうね」
アキラのボンヤリとした視線の先に紫煙は浮かんでいない。ただ。朝靄が覆った川面が広がるだけだ。しかしライカンには、その朝靄こそが彼の心情そのものを表しているように思えた。
都合が良い妄想であるとしながらも、もしかしたら、彼は他人からの決定的な言葉を待っているのかもしれない。ライカンはそう思った。紫煙が見えなくなってもそれを探して遠くを見つめるのと同じ。リンへの感情を割り切れず、いつまでも燻り続ける自身の不甲斐なさを彼は自覚している。それでいて、目の前にいる敵ともいえるリンの恋人に当たり散らすこともない。ただ口惜しげに彼女のことを話す。
それならば、いっそ理解してもらった方が彼のためになるだろうか。
「僭越ながら」決意した直後にはもう、口に出していた。「あなた様の──いえ、リンは、あなた様がどのように思おうと、自らの意思で私の恋人になったのでございます」
ライカンがそう言うと、アキラはきょとんとした顔をしたのち、持っていたタバコをまた携帯灰皿に押し込んだ。
「そうだね。リンの意思だ。……うん、今ので吹っ切れたよ。正直に言うよ。悔しいんだ。相手が僕じゃないことがね」
「あなた様は、やはり」
「やはりって勘付いてたのかい? 怖いな、ライカンさんは。これでタバコだけじゃなくて、リンへの気持ちもバレちゃったね。いや、僕が自分でバラしたのか。まぁ、どっちにしろライカンさんが知ったという事実は変わらないか」
一人納得という風情で頷いたアキラは、おもむろに立ち上がった。
「朝靄。だいぶ薄くなってきたね。あれが消えたら帰ろうと思ってたんだ」
「左様でございますか。……一つ、お伝え致しますと、このライカン、今この時に見聞きしたことは、誰にも口外致しません」
「ライカンさんに言われると信頼できるな。そうしてくれると、助かるよ。まだ、良いお兄ちゃんでいたいからね」
「……御意に」
それじゃあ、リンが目を覚ます前に匂いを消さないと、と言ってアキラは階段を降りて行った。
ライカンは朝靄が川面から消えるまで、アキラの代わりに眺め続けた。
了