呼び方の話【佐久春】「なあ、…音無」
「は!?………はい、どうしましたか?佐久間さん」
普段は呼ばれ慣れているはずなのに彼の口からだと違和感のある少しだけぎこちない呼び方に私は思わず驚いてしまい、間抜けな声を上げてしまった。
おかげで周囲からの「なんだ?」というような視線を感じてじわりと恥ずかしくなってきて仕方がない。
とりあえず私は一旦、何事もなかったように落ち着いている風を装って返事をした。
「次の対戦相手の情報を確認させて欲しいんだ」
「あ、あー!そうだったんですね!わかりました、ちょっと待っててくださいね!」
「ああ」
さっきの呼び方の衝撃に引っ張られて胸がざわざわするというか、気持ちが落ち着かない。
今すぐにでもその用件を「そんなことより」なんて言ってそれはもう大きな声で問い詰めてやりたいくらいだ。
『どうしていきなり苗字で呼ぶんですか!!』
なんて、けど今は練習が終わったばかりでまだみんな残っているし、佐久間さんの用件が全然「そんなこと」じゃないこともわかっている。
私だって日本代表のマネージャーなのだ。
だから、がまん、がまん!
開いたメモ帳の内容が彼にもよく見えるように近寄って、相手チームの特徴と注意すべき選手の説明をしていく。
メモを覗き込む佐久間さんの顔が近いのも、そのせいで彼の息や声で耳元がくすぐったいのも意識してしまい内心落ち着かない。
顔が熱いのバレないかな、佐久間さん下睫毛長いなぁ、もし喋ってる途中で噛んじゃったら恥ずかしいな〜…!なんて余計なことをいっぱい考えずにはいられなかったけど、気がつけば喋ってるうちに用件は済んでいた。
頭の中がパンクしちゃうんじゃないかってくらい色々考えてしまった上に求められた情報をだーっと話し終えて少しだけ疲れてしまい、一息吐く私に、佐久間さんは優しく目を細めて言った。
その一言に私の先ほどまでの落ち着いた風はどこへやら?
抑えていた感情が爆発したようだった。
「さんきゅ、…音無」
「〜っ、あの!!さっきからそれなんですか!!」
「え、」
再び慣れない彼からの苗字呼びに私は我慢できなくなってしまった。
さよなら、私の数分しか持たなかった我慢。
突然声を張り上げた私に、ついさっきまで楽しそうに雑談に花を咲かせていたり個人練習に取り掛かったり、部屋に戻ろうとしていたりと各々自由にしていたメンバー達の注目がまた集まり、目の前の佐久間さんはというと、いつもならキリッとさせている目を丸くしてぽかん…としていた表情で呆然と私を見ていた。
「今までずっと名前で呼んでくれてたのになんでいきなり苗字で呼ぶんですか!」
「ちょ、音無…!」
「また、また音無って…!確かにみんなにそう呼ばれてますけど、佐久間さんが呼ぶと違和感がすごいです!もやもやします!」
「なっ…!?」
「わかってますよ?苗字は違えどお兄ちゃんの妹だから、下の名前で呼んでくれていたことくらい、でも…!私は、その呼び方で私は、他の女の子よりも佐久間さんに近い距離にいられている気がして、…佐久間さんに名前で呼ばれるの好きだったのに!」
「………はぁ…!?」
「佐久間さんのばかぁ!!!」
「〜っ、春奈ちゃん!!!」
止まることを知らずにどんどんまわる口が彼に名前を呼ばれてようやく止まった。
よっぽどいきなり彼に苗字で呼ばれたのが寂しかったのか、今の私は自分でもびっくりするくらい余裕がなくて、何なら恥ずかしいことだって口にしてしまった気がする。
現に周囲からの視線がどこか生温かいし、目線をそーっと動かしてみると顔を赤くしながら顔を見合わせている木野先輩と冬花さん、こほん、と気まずそうに咳払いをしているお兄ちゃん、そして俯いていて表情は見えないけどきっと思うことがあるのだろう佐久間さんが映ってしまい、やっぱり私恥ずかしいことを言っちゃったんだ!って気づいた瞬間私の顔はぼん!と音を立てて赤くなった。
「あ、あの、佐久間さん。さっきのは」
「…あのさ、春奈ちゃん」
「…はい」
「流石にここじゃ恥ずかしいからちょっと来てくれ」
そう言うと佐久間さんは返事を待つ前に私の手を引いて走り出して、その手を振り払えない私はそのまま引っ張られるしかなかった。
ある程度サッカーコートから離れたところで佐久間さんは止まると私の手を解放した。
佐久間さんに掴まれていた感触がずっと残って、じんじんと熱い。
私がそんな感覚を抱いているのをきっと知らないだろう佐久間さんは、はぁ…と息を吐いてから私の方を見て、口を開いた。
「悪かった」
「え、…どうして、佐久間さんが謝るんですか?」
「…そりゃ…オレが勝手に周囲を気にして、なんか、恥ずかしいだとか思って呼び方を変えたのに、…まさかお前にあんなことを言わせるなんて」
「ちょっと、もしかしてからかってます?」
「いや、ほんとに違くて。なんか、…なんか、オレって情けないなって思ったんだよ。」
「……佐久間さん?」
「…オレもさ、お前の名前を呼ぶの好きだよ。」
「…!」
髪をぐしゃりと乱して珍しく言いたいことが纏まらない様子。
と思いきや、一つの迷いのないまっすぐな言葉と視線に私はどきりとした。
佐久間さんの顔が赤いのは練習後にまた走ったからだろうか、それとも…
そんな佐久間さんにつられて私もまた顔が熱くなった。
熱が引いたと思いきや、また熱が上がってそのまま浮かされてしまう。
佐久間さんといるといつもそうだ。
「…ー、だめだ。はっずい…春奈ちゃんさ、よくみんなの前であんなこと言えたよな。」
「なっ…!あれは勢いで、ていうか!やっぱり佐久間さんからかってますよね!?」
「そんなことないって、間違ってないし…けど、もういいかなって気にはなったな。」
「…え、もういいんですか?」
「なんだよ、…好きって言ってたろ。オレにそう呼ばれるの」
「そりゃ、言いましたけど…!もぉ〜!どこがそんなことない、なんですか!!」
「ほら…早く戻るぞ、春奈ちゃん」
「ちょっと…!待ってくださーい!」
足早にその場を離れようとする佐久間さんを追いかけて、そのまま彼の隣を歩いて、あーだこーだ軽く言い合い時々笑い合いながら寮に戻った。
寮に戻ったら佐久間さんはいつも通りお兄ちゃんのところに、そして私は…すっかり興奮した様子の女性陣達にあの後どうなったのかを眩しいくらいに輝いた目で問い詰められ、しばらく解放してもらえそうになくなったのだった。