ハンナメイン回 ある日の夕暮れ。薬剤の調合をしていたアシュタロトは、ふとその手を止めた。同時に廊下の奥からドタドタと足音が近づいてくる。その足音が止まると同時に、研究室のドアが勢いよく開いた。
「アッシュ!ハンナが!!」
そこには青い顔をしたルシエントが、息を切らしながら立っていた。魔力の動きでハンナの異変を感じ取っていたアシュタロトは、ルシエントの言葉を聞くなりすぐに部屋を出た。
「任務から帰ってきて城についた途端、ハンナが急に倒れて…」
ハンナと共に任務に行ったシュナインが説明をする。ハンナは自分の部屋のベッドに寝かされていた。
「ハンナ、だいじょうぶ…?」
メルエアが心配そうに聞いた。アシュタロトは頷いた。
「ああ、問題ない。疲れが出ただけみたいだ」
「ほんとか?!姐さんはちゃんと治るのか!」
レインが声をあげた。アシュタロトは静かに、と唇の前で人差し指を立てる。
「ちょっとストレスが溜まってたんじゃないかな。少し休めば良くなるだろう」
見舞っていたルシエント、メルエア、シュナイン、レインは、ほっと胸をなでおろした。休せてあげよう、とアシュタロトは全員を部屋の外へと促した。
「……」
何かいいたげな視線を残し、アシュタロトもみんなに続いて部屋を出ていった。
その日の夕食。ハンナは少し遅れて食堂へと入ってきた。
「姐さん!!もう平気なのか!?」
レインは真っ先に聞いた。ハンナは頷いて、みんなを安心させるように微笑んだ。
「心配かけてごめん。今はもう平気だから」
「よかったぁー。急に倒れるから心配したよ」
まだ少し心配げな表情でシュナインが言う。うんうんと隣でメルエアが首を縦に振って同意している。
「人間って弱っちいんだなー。ストレスなんかで倒れるなんて」
気にせず食事を食べ続けているフェイリアが言うと、「それな」と小馬鹿にしたように黒霧が鼻を鳴らした。神獣サイズでは食堂に入らないので、体をアシュタロトに縮められて、皿に入った酒を舐めている。
「黒霧、お前がそのストレスの原因だろ、少しは反省しろ」
黒田が嗜めるように言う。いつもより少しキツめの口調だった。
「へぇへぇ、善処しますよ」
黒霧は、全く反省してない様子でへらへらと笑いながら酒をかっくらっている。黒田はため息をついた。
「すまないな、躾の悪い犬で。…それで、体は本当に大丈夫なのか?」
「うん、大丈…」
言いかけてアシュタロトの意味ありげな視線に気づく。少しの間考えて、ハンナは手に持った食器を置いた。どうした、と黒田はいぶかしげにハンナを見る。
「ちょうどいい機会だからみんなに話しておこうと思う。少し時間をもらえる?」
食事を済ませ、立ち上がりかけていたフェイリアが嫌そうな顔をした。
「俺ちゃんこれから外に行こうと思ってたんだけど。その話長い?」
「そんなに大した話じゃないよ。でもみんなには早めに伝えておかないとなって」
フェイリアはしぶしぶ席に座りなおした。
「……で、話って?」
ハンナは少し黙って、何と言ったらいいか言葉を探した。
「ええと、私、みんなとはずっと一緒にいられないの」
一部のメンバーがきょとんとした。ルシエントは未だご飯に夢中だ。
「人間、俺ノ家デテイク?」
エクシーがふわふわの頭を左右に振った。
「人間って寿命短いもんねー、そんなの当たり前じゃん?」
そんな話?と言わんばかりにフェイリアはぼやく。「ええっ、そうなの!?」とメルエアが驚いていた。
「出ていく訳じゃないよ、エクシー。フェイが言ったように寿命の話。…ただ、私は普通の人間よりももっと寿命が短いんだ」
まだ話を飲み込めないメンバーの中で、「やっぱりか」とアシュタロトだけが納得をしていた。
「あとどのくらいだ」
「3年。もっと早いかも」
場の空気が一気に重くなった。シュナインが驚いて声を上げる。
「うそ!ハンナまだ30くらいでしょ?人間界の人間だってあと70年くらいは生きるよ!?」
がつがつと食事をかきこんでいたルシエントが、周囲の変化に気づいたのか手を止める。状況が理解できずにきょろきょろとみんなの顔をうかがった。
「魔力量だ。常人のそれにしては多すぎる。器としての体が耐えきれてない」
アシュタロトは淡々と述べた。ハンナは頷く。
「…そう。私の体は少しずつガタがきてて、本当は今日倒れたのもそれのせい」
「え!だってアッシュはストレスのせいだって…」
メルエアが驚いてアシュタロトを見た。アシュタロトは肩をすくめる。
「私の口から話すことではないと思っただけだ。ハンナ自身のことだから、メンバーに伝えるかどうかは本人に任せる」
レインがガタッと音を立てて立ち上がる。
「嘘だろ姐さん!!姐さんといられるのがあと3年なんて、俺信じねぇからな!!」
「……ハンナ死んじゃうの?」
レインの言葉を聞いて、ルシエントが驚いたように言った。口のはしに肉の欠片がくっついたままだ。
「すぐじゃないけどね。…安心して。私がいついなくなってもいいように、ちゃんと仕事の引き継ぎできる状態にはしてるから」
「そうじゃないだろ!なんか…姐さんが死なねぇ方法とか、治す方法とか、なんかあるだろ!なんでいなくなる前提なんだよ!!」
レインは声を荒らげたが、ハンナは首を振った。
「これは病気じゃないんだよ、レイン。私は身に余る力を持ってしまっただけ。力を手放す方法はないか、ずっと探してきたけどだめだった。…でももういいんだ。ここに来て、みんなとわずかでも楽しい日々を過ごせた。私はそれで満足してる」
ハンナは微笑んだ。ルシエントも机をバンと叩いて席から立つ。
「ハンナは良くても私は嫌だよ!ずっとみんなで一緒にいるんだもん!ねぇアッシュ!何か方法ないの?」
メンバーの視線が一斉にアシュタロトに集まる。アシュタロトはルシエントの顔も見ずに言った。
「調べれば何かわかるかもしれないが、それは本人の意思次第だ」
今度は視線がハンナに移る。ハンナは再び首を振った。
「みんなの気持ちは嬉しいけど、何十年も前から覚悟してることだから」
ハンナの意思は固かった。メルエアがばっと飛んできてハンナに抱きつく。
「ハンナの心ぜんぜんうごかない!それにすごく痛い!どうして?おれがぎゅってしたらなおる?」
メルエアの言葉に一瞬ハンナの表情に陰がかかった。
「あはは、ありがとう、メルエア。」
すぐに気を取り直したハンナは、メルエアの頭を撫でた。次に誰かが口を開く前に、ふぁ、と大きなあくびの音がした。
「ねぇ、その話まだ続く?俺ちゃんもう行っていい?」
ルシエントがフェイリアをきっと睨んだ。フェイリアは肩をすくめる。
「俺ちゃん興味ねぇもん。あ、でも死んだら死体はちょーだい」
「フェイ!」
にやりと笑うフェイリアにルシエントが怒る。フェイリアは気にせず、「んじゃ」と言って席を立った。
「…みんなももう行ってもらって大丈夫だよ。時間取らせてごめんね」
ハンナはそう言って手を振った。メルエアもありがとね、と再度お礼を言って、首に絡まれたメルエアの腕を解く。
「人間、死ヌ、仕方ナイ!」
何を学習したのか、そんなことを言いながらエクシーも食堂を出ていった。
「俺もパス。ここにいると酒が不味くなる」
黒霧も体を起こして伸びをし、すたすたと歩いていった。
残ったメンバーにしばらく沈黙が流れた。ハンナは気まずそうに口を開いた。
「あー…、食事中にする話じゃなかったね。ごめん、暗い雰囲気にしちゃって───…」
「……だ」
ハンナの言葉を遮り、ぼそりとルシエントが呟いた。
「やだ…いやだいやだいやだ!なんでみんなそんな平気なの!?みんな一緒に住んでる仲間じゃん!わたしはハンナにずっとずっと生きててほしいよ!」
ルシエントの目からぽろぽろと涙がこぼれた。
「そりゃ、ハンナすぐ怒るし怖いし、怒られたらハンナなんかどっか行っちゃえって思うこともあるけど…、でもハンナと一緒にいるの楽しいし大好きだもん!」
「ルシィ…」
ハンナは言葉をなくしてルシエントを見た。ルシエントは次から次へと溢れる涙を両手でぬぐう。アシュタロトが目配せをすると、眷属がハンカチを取り出してルシエントに渡した。ハンカチを受け取ると、それを握りしめて声を上げて泣き出してしまった。
「アッシュのばか!なんでハンナを止めてくれないの!アッシュは何でもできるのに、なんでハンナを助けてあげないの!」
泣き出したルシエントにつられたのか、メルエアの目にも涙がたまり始めた。
「おれ…おれもハンナのこと大好き…」
抑えきれずに溢れた涙が滝のように流れ始めた。
「おれもっといいこになる!いっぱいしかられてもいいから、ハンナ死なないでよぅ!」
わんわんと泣き出した二人にハンナは困惑した。レインがつかつかと歩み寄ってハンナの肩を掴んだ。
「なんでそんな簡単に生きることを諦められるんだよ…。俺たちもっと姐さんと笑ったり泣いたりしてぇよ!」
そのままズルズルと崩れ落ちる。
「なぁ…頼むから諦めないでくれよ…。俺はもっと姐さんと生きていたいんだよ…」
そんな仲間たちの様子に、ハンナの表情がわずかに揺らいだ。
「こんな私のために、みんなそこまで言ってくれるんだね」
「ハンナ…?」
みんなの説得が効いたのかと、ルシエントが少し期待のこもった眼差しで見つめる。
「…気持ちは嬉しいんだけど、これは変わらない事実なんだ。分かってくれると嬉しいな」
ルシエントは絶望のどん底に落とされたような顔になった。彼女は自分の一番頼れる人物に、最後の期待をかけた。
「アッシュ!アッシュもずっと黙ってないでなんか言ってよ!!」
メルエアも潤んだ瞳をアシュタロトに向ける。アシュタロトははぁ、とため息をついた。「私は本人に任せると言ったはずだが…」と前置きして言葉を続ける。
「…ハンナ、君が一番ルシエントたちの気持ちを理解できるんじゃないか?君にも生きていて欲しかったと切実に願った人たちがいただろう?」
ハンナははっと目を見開いた。何かを言おうと口を開きかけて、何も言えずに口をつぐんだ。
「自分が生きるのは許されないとでも思っているのか?自分のエゴに囚われすぎるな。もう一度周りをよく見ろ」
顔を伏せて押し黙ったハンナを一瞥し、アシュタロトは席を立った。もう言うことは何もないとばかりに、部屋の出口へと向かう。
「わかってる…」
しんと静まり返った空間に、ハンナの震える声が響いた。アシュタロトがぴたりと足を止める。
「そんなの自分が一番わかってる!あんたに私の何がわかるの!?」
悲痛な叫びのような声を上げて、ハンナが立ち上がった。
「ハンナ!?」
みんなの呼び止める声も聞かずに、ハンナはアシュタロトを押しのけ、部屋を飛び出していった。
食堂を飛び出したハンナは自室にいた。ベットの上で膝を抱えて顔をうずめている。
(私、最低だ)
みんなは心配して自分のために言葉をかけてくれたのに、その気持ちを無下にした。
(アッシュにもあんな暴言吐いて…)
アシュタロトが自分を追い詰めたくて言った言葉ではないことは、理解していたはずだ。───それなのに。
『あんたに何がわかるの!?』
あの時、アシュタロトはどんな顔をしていただろうか…。ハンナは深いため息をついた。
アシュタロトの言ったことは正論だった。過去に囚われているのは自分で、過去の罪を許せないのもハンナ自身だ。
(……それでも)
大好きだった叔父叔母、何の罪もない街の人々。私があの時あの場所にいなければ。ちゃんと魔力を扱えていれば。そもそも私が生まれてなんかいなければ───。
そう思ってしまうのは仕方のないことではないか?
自分の頭を撫でてくれた叔父の大きな温かい手。優しく抱きしめてくれた叔母の笑顔。街の人々の元気な声。今まで生きてきて、片時も忘れたことはなかった。
なぜ私が生き、彼らが死なねばならなかったのか。あのまま誘拐されていた方が良かった。誘拐された挙げ句に殺されてしまったとしても、自分の生命と引き換えに、誰かの生命を奪ってしまうよりは何倍も良かった。そんなことをしていい理由など、どこにもないのだから。
死にたいと思った。いっそ自分も殺してくれと思った。叔父叔母の元へ行って謝りたかった。
それでも生きてきたのは、両親の存在と、この寿命があったからだ。
ハンナが死にたいと繰り返す度に、両親はひどく心痛めた。ハンナ以上に涙を流してハンナを慰めた。名誉も地位も、血縁も、全てを捨ててハンナのためだけに生きてくれた。ハンナが自分の生命を捨てるようなことをしたら、両親は自分を追って死んでしまうかもしれない。ハンナはこれ以上、自分の愛する人を苦しめたくはなかった。
そしてのちに、自分の寿命が、普通の人間の半分以下だと知った。ハンナはこれが、自分が地獄に行くまでの贖罪の期間だと思った。生きてこの罪の苦しみを背負うこと。これが神が与えた自分への罰なのだ。
そう思ってきたからここまで生きられた。自分に課せられた贖罪も、もうすぐ終わる。
(やっと楽になれると思ったのに…)
この城にたどり着いてからの日々は、本当に楽しかった。賑やかで個性的な仲間に囲まれて、過去の罪の苦しみを忘れさせてくれた。こんな自分が、こんなに幸せでいいのかと、心が痛むくらいに。
ルシエント、メルエア、レインの泣き顔を思い出す。大好きだと言ってくれた。死なないでと言ってくれた。一緒に生きようと言ってくれた。
ハンナの頬に一筋の涙が通った。そんなこといわれたのは両親以外初めてだった。
『君が一番ルシエントたちの気持ちを理解できるんじゃないか?』
アシュタロトの言葉に、何も言えなかった。今までどれほど、叔父叔母たちに生きててほしかったと願ったことか。
(私がいなくなったら、みんな同じように思うのかな…)
考えて、全員が全員そうじゃないだろうなと思いあたり、少し笑った。
もう自分を許してもいいんじゃないか、という思いは今までも全くなかったわけではない。
『自分のエゴに囚われすぎるな。もう一度周りをよく見ろ』
アシュタロトの言う通りだ。自分を許さないのはハンナ自身のエゴだった。自分が生きることを望んでしまったら、自分のせいで生きたくても生きられなかった人たちはどうなる?ハンナは自分が自分を許していい理由を見つけられなかった。
この忌々しい自分の力を放棄すること、許される道があるとすればそこだと思った。魔力を消す方法をハンナは探した。封印を施して延命をすることは可能だと聞いた。しかしハンナが望むのはそれではなかった。意地汚く長生きしたいのではない、捨て去ってしまいたかった。両親は、魔力の器、身体の方を魔力に耐えられるものに変える方法を提案した。ハンナはそれも頑として首を縦に振らなかった。魔力を捨てるか、短命のまま人生を終えるか、二つに一つしかなかった。
だからハンナは、死を避けられる方法を知らない訳ではない。その方法を取るのを許していないだけだった。
────コンコン。
ノックの音が聞こえ、不意に現実に意識を戻された。慌てて涙を拭い、「誰?」とドアの向こうに呼びかけた。
「………俺だ」
ドア越しにくぐもった低い声が聞こえる。
「黒田さん…?ちょっと待って」
ドアを開けると居心地が悪そうに黒田が佇んでいた。
「あー、その、なんだ。ちょっといいか…?」
目を合わせずにそういうと、緊張した様子でハンナの反応を待った。ハンナも予想外のことに驚いて、思わず
「あ、はい、どうぞ…」
と、部屋の中に黒田を招き入れていた。
「あの…良かったら、そこの椅子使ってください」
入ったはいいが、どうしたらいいかわからない様子の黒田に、ハンナはとりあえず近くの椅子をすすめた。自身も手近な椅子に腰掛ける。気まずい沈黙が流れた。ハンナがしびれを切らして何か言おうと口を開いた時、黒田が言った。
「…泣いてたのか?」
「えっ?あ、これは…泣いてたというか、思い出に浸ってたというか…別にみんなのせいって訳ではなくて…」
急な言葉にハンナは焦って言語を紡ぐ。
「ああ、すまん、そういう意味じゃないんだ。ただ、大丈夫かと思ってな」
わたわたするハンナを片手をあげて静止し、黒田は申し訳なさそうに言った。
「……うん、私は平気。みんなには悪いことしちゃったかも」
「…特にアッシュ」と小声で付け加え、ハンナは罰の悪そうな表情を浮かべる。
「みんなもお前を心配して言ったことだ、別に何かされたとも思ってないだろうよ。…アッシュもな」
黒田はポケットからロリポップを取り出し、包みを開けはじめた。
「……過去に何があったかは知らねぇが、力を持つことは悪いことじゃねぇ」
ハンナは黒田をはたと見つめた。黒田は包みを開けたロリポップを食べもせず見つめている。
「俺は戦場でいくらでも強えやつを見てきた。そこには悪いやつもいたし、良いやつもいた」
ここで黒田は言葉を止め、少し考える。
「俺は、力ってのは、要は使い方なんだと思う。そんで、力を持って生まれたやつは、きちんとその力を正しいことに使う責任があるんだ」
そこまで言って、黒田はハンナの方に目を向ける。
「アッシュの言い方を聞くに、何かしらあるんだろ?死なずに済む方法」
えっ、とハンナは思わず聞き返す。ハンナは何も言わなかったが、その反応で十分だ、と黒田は続けた。
「選択があるならな、お前の現状維持ってのは、俺から言わせりゃただの"逃げ"だ。力と向き合え。逃げてるだけじゃ、人生後悔で終わるぞ」
黒田はそれだけ言うと、ロリポップを口に入れ、ハンナの肩をぽんと叩いた。厳しい言葉とは裏腹に、優しく温かい手だった。何も言えずにハンナが俯き、黒田は黙って部屋を出ていった。
「う…まぶし…」
朝日が部屋に差し込み、ハンナは目を覚ました。あの後色々考えるうちに寝てしまったらしい。ハンナは寝ぼけまなこをこすり、着替えて部屋を出た。
いつもより遅めに起きたハンナは、みんなとは少し遅れて食堂に入った。ちょうど全員が朝食を食べ始めている頃だった。昨日の夕食時を思い出して、気まずい空気が流れる。
「お、おはよう…ございます」
もごもごとハンナが挨拶をした。
「おはよう!」
口に入っていたパンをごくんと飲み込んで、元気よくルシエントが挨拶した。他のメンバーもあとに続いて挨拶を返してくれた。
(意外と普段どおり…?)
ハンナの心の声に答えるように、ルシエントがはいはいと手を挙げた。
「あのね、わたしね、ハンナを頑張って説得することにしたの!あと3年あるから、絶対それまでにハンナに『ずっと一緒にいる』って約束してもらうんだ!」
ねっ!とメルエアと顔を見合わせてにこにこしている。
「そ、そっかー。頑張ってねー」
面倒なことになりそうだ、と思いながらハンナは棒読みで言う。
「姐さん俺も!俺も頑張るぜ!」
何故か張り合ってきたレインにも「はいはい、頑張れ頑張れ」と適当に返事をしながら朝食を食べ始めた。
全員が食べ始めたのを見て、アシュタロトが口を開いた。
「前にも言っていた通り、今日はハンナと黒霧とメルエアに任務に行ってもらう。頼んだよ」
3人は司令塔の言葉に頷く。ハンナは今日任務が入っていたことにほっとした。仕事中は何も考えなくて済む。
「…ハンナ」
アシュタロトに呼ばれ、ハンナはびくっと身体を震わせた。
「体調はもう平気かい?」
存外に優しい声音で、ハンナはかえって罪悪感を感じた。ぎこちなく笑って答える。
「うん、昨日も休ませてもらったし、元気になったよ」
「良かった。くれぐれも無理はしないように」
言ってアシュタロトは席を立った。食事を終えた面々も、次々に自分の仕事ややるべきことのために部屋を出ていった。最後に朝食を食べ始めたハンナは、食べ終えるのも一番遅かった。食堂から誰もいなくなって、ほっと胸を撫で下ろす。昨日の今日でみんなと話しづらくなると思ったが、周りが気を遣ってか、普段とほぼ変わらない朝だった。
その日の任務も特に問題はなく終わった。むしろ驚くほどスムーズだった。何故か異様に張り切っていたメルエアが珍しく活躍したからかもしれないし、黒霧がいつもよりは少し大人しかったからかもしれない。メルエアが張り切っていたのは、朝ルシエントが言っていたことと関係があるのだろうと思ったが、黒霧が大人しいのは何だか不気味だった。
多少の違和感は感じつつも、任務を終えた3人は無事に城まで帰ってきた。中に入ろうと門に手をかけた時、ハンナは不意に背後から殺気を感じた。
咄嗟に杖を構えて振り返りざまに魔法を放つ。それでも衝撃を消しきれずに吹き飛ばされ、仰向けに地面に叩きつけられた。
「おー、よく防いだな」
黒霧がにやにや笑って言った。
「な……んの、真似…?」
呼吸が止まりそうな衝撃を受けたハンナは、絞り出すように声を発した。メルエアは突然の状況にひどく混乱している。黒霧は問いには答えずにハンナの身体に前足を置いた。メルエアはハンナを助けるか、黒霧を止めるか右往左往していたが、やがて思いついたように城の中へと飛んでいった。
「離…してっ!」
ハンナはもがいたが大きさでとても敵うはずはなかった。杖は遠くに転がっていて手が届かない。
「どういう…つもり!?ふざけてないで、手を…離して!」
黒霧が前足を動かす様子はなかった。普段の悪ふざけにしては度が過ぎる。ハンナは何がなんだか分からなかった。
「何をやってるんだ、黒霧!」
黒田の声が遠くから聞こえた。目を向けると、城から複数人の仲間がこちらへ向かってきている。メルエアが慌てて呼んできたらしい。
黒田が近づくと、黒霧はハンナに置いた前足に少しだけ力を込めた。
「……っ!」
黒霧の爪が肩に食い込む。ハンナは痛みに顔をしかめた。他の仲間は何が何だか分からず、近づけないでいた。
「おねがい、やめて!ハンナが死んじゃう!!」
メルエアが泣きながら飛び出して、必死に黒霧の前足にしがみついた。ふん、と黒霧は鼻で笑った。
「どうせ寿命で死ぬんだろ?じゃあここで今死んでも構わねぇよなぁ?」
黒霧が再び前足に力を込めた。
「が…っ!」
全身の骨がミシミシと軋む。飛び出そうとしたルシエントとシュナインを、アシュタロトが手を出して制止する。気が遠くなりかけながら、ハンナは黒霧を睨みつけた。
「な…に、それ…」
「早く死にたいみたいだから手伝ってやってんだよ。なぁ?もう生きたくねぇんだろ?人間さんよぉ?」
ハンナは黒霧の言いたいことを悟った。ぷつん、と自分の中で何かが切れた音がした。
「うる…っさいなぁ……」
ハンナは黒霧の前足の毛を握りしめた。
「どいつも……、こいつ、も……エゴだの、逃げだの………」
苦しい呼吸の中で必死に言葉を繋ぐ。ハンナはすぅ、と息を吸い込んだ。
「───私だって生きたいよ!!」
ハンナは思い切り叫んだ。人生で押し殺し続けた、ハンナの心からの叫びだった。一度吐き出したら堰を切ったように思いが溢れ出した。ずっと許されたかった。何の枷もない人生を生きたかった。
「大人しく死なせてくれれば良かったのに!やっとこの罪からも解放されると思ったのに!!生きたいって思っちゃったじゃん!!!」
悲痛な叫び声と一緒になって涙も溢れた。溢れて止まらなかった。今まで流し続けた後悔と懺悔の涙とは全く違った、自分のためだけに流した涙だった。
「今だって死にたくないって思ってる!!……わかったよ!生きればいいんでしょ!生きれば!!!」
ハンナはその小さな手で黒霧の前足を叩いた。
「…だからこの手をどけて!さっさと離して!!」
黒霧はしばらく黙って、やがて前足をハンナの身体からどけた。
「ちゃんと言えんじゃねぇの」
ぶっきらぼうにそう言って、のしのしと城へ入っていった。はっとしたメルエアがハンナの側にかけ寄った。仰向けのまま片腕で目を覆い、嗚咽しているハンナを、そっとメルエアが抱きしめる。
「だいじょうぶ。生きてていいんだよ、ハンナ」
「ハンナぁぁ!よかったぁぁ!」
ルシエントもハンナを抱きしめ、わんわん泣いた。
「心配かけてごめんね…。ありがとう…、私、ずっとみんなと一緒にいるからね…」
ハンナは二人の頭を撫でた。ハンナ、メルエア、ルシエントのすすり泣く声だけがその場に響いていた。